市民」 

  教育を語る ひとりひとり 政治を社会語る そんな世の中になろう

  第45弾    RE part5
       
                      2001.10.24(日曜日) アップロード      

 

   
       政治に積極的に物申そう ・・・・・・・ 

      ≪民主党バックアップ会議室/掲示板≫

    http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6557/@geoboard/

    

 

小泉首相が中国訪問で見せたご機嫌取りの演出
果たして罪のない市民なるものは存在するの
筑紫哲也って、バカだね

 

 

 

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 小泉首相が中国訪問で見せたご機嫌取りの演出
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 「歴史が好き」だからと言って、その人間が正常な歴史感覚・正常な歴史認識を自己のものとしているとは限らない。小泉首相は自身の靖国神社参拝によって生じた中国の反撥をかわすために10月8日の中国訪問の際、日中全面戦争拡大の発端となった蘆溝橋人民抗日戦争記念館を訪れるご機嫌取りに限りなく近い演出を行なった。なぜそうなのかは、次の理由からである。
 
小泉首相蘆溝橋人民抗日戦争記念館訪問後、記者団に次のように語っている。「歴史が好きで、前から行きたいと思っていた。人民抗日戦争記念館も拝見し、改めて戦争の悲惨さを痛感した。侵略によって犠牲になった中国の人々に対し、心からのおわびと哀悼の気持を持った。二度と戦争を起こさないことこそが、戦争の惨禍によって倒れた人の気持にこたえることだ」
 
その侵略(中国のみならず、他のアジアの国々への侵略)を主導し、あるいは命令されるままに盲目的・積極的に担ったのは、小泉首相が8月13日に前倒し参拝した靖国神社に祀られているA級戦犯・B級戦犯でもあり、あるいは一般戦没者でもある。しかし小泉首相はその際、一言も侵略には触れていない。それどころか、「尊い命を犠牲に日本のために戦った戦没者たちに敬意と感謝の誠を捧げるのは政治家として当然」だと侵略当事者を称賛さえしている。
 
小泉首相靖国神社参拝の意図、及び心情と中国の記者会見での侵略発言とに整合性を持たせるとしたなら、「日本のために」とは、「日本の侵略のために」と言い直さなければならない。だが、言い直したなら、前後の文脈に矛盾が生じる。その言葉を省いたのは、「侵略」という事実が小泉首相と、それに連なる国家観の所有者にとって都合が悪いからだろう。「敬意と感謝の誠を捧げる」ことができる戦争行為だった、あるいはそのような性格の戦争だったとすることこそが真の意図なのである。
 その意図を隠して、本心では認めてはいない
「侵略」の事実を見せ掛け上認めるためには、相手を納得させるためのご機嫌取りの演出にならざるを得なかったのであり、そのための蘆溝橋人民抗日戦争記念館の訪問だったのである。
 この手の演出は隠すことによってなし得る。いわば、演出は演出でしかない。問題は、
蘆溝橋人民抗日戦争記念館を訪問することよりも、なぜ戦前の日本で国家主義・全体主義がはびこったのかといったことを検証することではないだろうか。軍部・国家権力の意志のままに言いなりの行動を取る日本人全体の行動様式はどこから来たのか。戦後、自分一人一人の考えと責任で行動できる主体性と個の確立を果たし、それを自らの行動様式とするに至っただろうか、といったことをである。
 日本人一人一人がそのような日本人となったとき、どのような戦争なのか、戦争の正体を見極めぬままに国家権力の言いなりに暴走する行動様式から訣別可能となる。そういったことを検証して初めて、
「二度と戦争を起こさない」との保証が可能となるはずである。
 逆説するなら、そのような検証を省いた
小泉首相「二度と戦争を起こさない」発言は、言葉のための言葉に過ぎない見せ掛けを常に付き纏わせることとなり、そのことが東南アジアの国々から時に応じて軍国主義化を疑われる原因となっているのではないのか。
 自民党官・財と一体となって既得権擁護集団・族利益追求集団状態で動脈硬化を起こしたまま袋小路に立ち往生している政治集団となっていることに考慮を払ったなら、内閣、もしくは誰がなろうと首相との力関係を何らか疑ってしかるべきを、何ら疑わず、改革を叫ぶ姿が期待感をそそるというだけの理由で、90%もの有権者が小泉支持に雪崩を打つ全体行動・付和雷同性は、検証能力の未熟性――自分の考えと責任で行動する能力の未熟性を物語ってやまない。いわば小泉首相自身に寄せられた高支持現象が、「二度と戦争を起こさない」という首相自身の言葉を信用できないものとしている逆説を皮肉にももたらしていると言える。言い換えるなら、本人がいくら本心からの言葉だと思っていても、実態としては常に演出した言葉でしかない宿命を自ら背負わせていると言うことである。

             2001.10.11.

 

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 【果たして罪のない市民なるものは存在するの
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 今回のアメリカでの同時多発テロ(9月11日)に対して、ブッシュ政権はアフガニスタンを実効支配するタリバン政権に、その保護下にあるテロ首謀者と見なしたオサマ・ビンラディンの身柄引渡しを求め、要求が受入れられない場合は軍事行動に訴える旨を通告した。世界の世論の圧倒的多数がブッシュ大統領の対テロ姿勢を支持する状況下で、軍事攻撃を単なる報復行動と捉えた反対の声は、ただ単にごくごく少数派に過ぎなかったからなのか、マスコミ自体の扱い方からなのか、その場限りの泡のように当初からかき消される宿命を担わされていたようだ。反対者はアメリカ国民の中にもいたのだから、正確な情報の掘り起こしが行なわれたなら、支持者を殆ど上回ることはないにしても、無視できない数を形成したに違いない。
 反対の理由の大部分は、多くの一般市民の命を奪った同時多発テロを嫌悪しながらも、戦争が新たに
罪のない市民の生命を犠牲にする悪だと見ている点で一致している。テレビや新聞が報じたいくつかの声を拾ってみよう。
「戦争ともなれば、
無実の市民も巻き添えにする」
「たった一人の人間の命を奪うために、
多くの人間の命を犠牲にすることに疑問を感じる」
「これ以上の
犠牲者を出すべきではない」
無実の人を殺せば、それは新しいテロとなる」
 国家レベルでも、
中国が軍事攻撃に反対しないものの、「罪のない一般市民を傷つけないようにすべきだ」と共通するキーワードを用いて、軍事行動の正当性を損なう要因の一つに挙げている。勿論同じ文脈で注文を付けているのは中国だけではない。中東諸国のいくつかの国、その他の国が右へならへしている。
 厳密な批判を加えるなら、二つの点で
中国の主張は矛盾している。一つ目は、「罪のない一般市民を傷つけない」戦争など存在しないからだ。いくら最先端のハイテクを駆使して攻撃を軍事施設に限定したとしても、誤爆を一つもなく遂行させることは不可能である。誤爆は常に戦争における付随事項であって、誤爆のない戦争なるものは存在しない。それはアメリカの一方的なハイテク戦だった湾岸戦争で実証済みである。
 二番目に政治体制に批判的な自国民を政治犯として身柄を収容する、思想・信条の自由を認めない中国の国家レベルの反人権行為は、政治犯とされた者に対してのみならず、下手な口を利けないということで、
一般市民全体をも縛る精神的な、ときには肉体にも及ぶ場合もある、障害行為とも言えるもので、そういった国家集団が「罪のない一般市民」を口にする資格はない。
 中東諸国の批判的姿勢にしても、その殆どは国内に政治体制に批判的な、あるいは不満な、その動向が国家体制を左右しかねないイスラム原理主義者、あるいはイスラム過激派を抱えていて、刺激した場合の危機を前以て回避する目的の自国利害を優先した政策調整に過ぎない。
 アメリカのアフガン軍事攻撃を、
≪不正義同士の戦争≫と位置づける批判者もいる。同時多発テロ不正義であるが、それを誘発したのはアメリカの超大国エゴがつくり出した過去に遡っての数々の不正義と把えてのことである。そして広島・長崎への原子爆弾投下による一般市民に対する大量殺戮、ベトナム戦争時のB52の無差別爆撃や枯れ葉剤投下による森林破壊と無脳症・二重胎児等の先天性異常児の発生その他を不正義の代表例に挙げている。ビンラディン自身、これらを「アメリカの犯罪」だと言っている。
 だがである。滑稽なことにと言おうか、歴史の皮肉と言おうか、戦後日本の復興と経済発展は主として
不正義なはずのアメリカの復興援助と貿易取引、アメリカの朝鮮戦争及びベトナム戦争介入がもたらした戦争特需、様々な技術援助、さらにアメリカの軍事力を借りた安全保障等によって成し遂げられている。
 ベトナムについて言えば、経済再建を主眼としたドイ・モイ政策推進のために
不正義なはずのアメリカとの国交を求め、ベトナム戦争終了20年目に樹立、25年目には低迷する経済回復を目的に通商協定を締結している。対米輸出品が似通った中国経済の台頭がベトナムに調印を促す要因となったということである。いわば日本もベトナムも、自国発展に不正義の国に頼ったことになる。もしアメリカが不正義だとするのが全面的に正しければ、日本もベトナムも自ら進んで自らを不正義に貶めたことを意味するが、正義・不正義よりも、自国利害を優先させた結果であり、成果なのだろう。
 これらのことに納得する解答を与えるとしたなら、国家においても、個人の場合にも(国家の決定においても政治権力者の地位にいる単独か複数の個人によって決定される場合がある)、絶対的な正義など存在しないということである。揺るぎのない姿勢で正義を常に体現した国家・個人が存在したとでも言うのだろうか。
 中国が「
罪のない一般市民」を持ち出したのも、多くの中東諸国と同様の構図で、新疆ウイグル自治区にトルコ系のイスラム教徒(ウイグル族)を抱えているからであり、中国からの独立を図って反政府暴動を発生させているという事情によるものだろう。ウイグル族の独立を認めたなら、チベットや内蒙古の独立機運を刺激することになり、その逆もまた同じ局面を招くことになる。いわば、自国の利害が言わせた「罪のない一般市民」でしかない。
 
ブッシュ大統領にしても、アフガン攻撃を正義対悪の戦いと位置づけているが、それを成功させるために自らの外交原則として推し進めてきた単独行動主義と言われる孤立主義的な外交姿勢をなりふり構わずに変節せしめ、クリントンが核実験を行なったインド・パキスタンに課した経済制裁を両国の協力を得るために早々に解除し、結果的に核拡散を認知するといった対アフガン攻撃のみを優先させた自己利害からの政策変更を臆面もなく推進している。
 ブッシュがもしテロの首謀者と見なしたオサマ・ビンラディンを逮捕、もしくは殺害し、テロ集団アルカイダを壊滅できなければ、そのことが原因となって再びアメリカがビンラディンアルカイダ側からの報復としての前回同様の多数の死傷者を出す同時多発テロに見舞われたなら、確実なまでに政治的に大きな失点となるに違いない本人自身の政治生命に関する利害も、強硬姿勢を取らせた無視できない要因の一つでもあるだろう。
 このような経緯から炙り出されるのは、
正義なるものは国家、あるいは個人が置かれている立場、あるいは状況によって決定される単なる利害でしかないと言うことである。当然、常に絶対性を持たず、相対的であることから免れ得ない宿命を担うことになる。だからこそ、お互いに正義を叫び、主張することになる。それが正義と言われるものの正体であり、正面切って正体を明かしたなら、あざとくなるから、国益とか正義とかの言葉をまぶして正当性の訴えとしているのである。
 
ビンラディンは次のような声明を出している。「パレスチナに平和が訪れない限り、異教徒の軍隊がムハンマド(マホメッドのアラビア語名)の地を出て行かない限り、米国に平和は訪れない」
 パレスチナ和平の障害は、主としてアメリカがイスラエル寄りの姿勢を取ってきたことが原因であり、迫害されているパレスチナのイスラム教徒に対する世界のイスラム教徒の怒りの共感が同時多発テロにつながったとする主張は、イスラム過激派を越えてイスラム穏健派のみならず、欧米先進国からも聞かれたことから、無視できない説得性を示すことになった。
ブッシュ大統領がイスラエルの生存権の尊重を条件に、「パレスチナ国家の構想は常に視野に入っている」とパレスチナ国家容認の発言をせざるを得なかったのも、国内にイスラム原理主義者やイスラム過激派を抱える親米アラブ穏健派国家から対アフガン攻撃の支持を取付けるための自国の利害、あるいはブッシュ個人の利害からの発言であって、厳格な意味での正義に則った発言では決してない。
 確かにアメリカは自国内の政治的に無視できない大きな発言力を持っているユダヤ系アメリカ人の意向を受けてイスラエル寄りではあった。だが、4回にわたる中東戦争を経験後、30年近くも経過していながら、テロとその報復の応酬に明け暮れているイスラエル・パレスチナ双方の融和と共存を創造し得ない
不毛な敵対的民族意識を第一に問題にすべきだはないだろうか。どのように問題解決するかは当事者たるイスラエルとパレスチナそれぞれにかかっているのである。そして現在の状況(イスラエル閣僚に対するパレスチナ過激派の暗殺テロに端を発したパレスチナ自治区での不毛な銃撃戦、あるいは砲撃戦)は、イスラエルとパレスチナ双方の政治権力機関と一般市民が意図的、あるいは無意図的に選択した問題解決の一場面なのである。国の姿勢に対して積極的反対者だったとしても、それが反対としての力を獲得できない以上、非力、もしくは無力であることに責任を待たなければならない。例え強硬派シャロン政権の誕生に一票を投じなかったイスラエル国民であっても、例え政治に一切無関心であっても、すべての局面に対して常に国民の一人として立たされているということである。いわばどのような立場にいる人間であっても、国家と国民の間には好むと好まざるとに関わらず、国の政策・行動に否応もなしに巻き込まれる運命共同体の力学が常に働き、結果的に誰であろうと国民は国の姿の演出者の一人であることから免れることはできない。当然国家のありようの一つ一つに国民は責任を負わねばならず、罪のない市民なるものは存在しないことになる。
 アフガニスタンにしても、かつての米ソ二大国の自由主義か共産主義かの愚かしい陣取り合戦が招いた代理戦争・影響力拡大政策の生け贄にされたと言うが、融和と共存に正反対の部族間の対立・部族単位の支配欲・権力闘争を実態とした内乱が大国介入の素地となったことは否めまい。いわばアフガニスタンという国家を構成する人間たちの愚かしいセクショナリズム(相互に自分たちの部族だけ≠絶対とする価値観=自己部族絶対主義)が招いた対立の決着意志が武器を必要とし、資金を必要として、結果的に周辺諸国や米ソの干渉を誘発する動機となったはずである。そしてそのような自らの愚かしさに気づかない非寛容性が貧困、あるいは貧富の格差・難民・飢餓・餓死・国土荒廃といった混乱を否応もなしにつくり出したのである。軽い言い方をするなら、自分たちがしっかりしていなかっただけの話でしかない。しっかりしていなかったから、自分たちから招いた難民・貧困・飢餓・餓死・荒廃なのである。
 イスラム教では、
「神が人類をそれぞれ違う種族と部族に分けたのは、互いに知り合って、幸せな人生を築き上げ、協力し合うためだ」とコーランに記してあるということだが、アフガニスタンの内乱・部族対立、それらがつくり出した飢餓・難民といった現実はコーランの教えからあまりにも遠く、教えを単なる綺麗事で終わらせている以上、タリバンたちに、イスラムとか神、アラーといった言葉を口にする資格はない。
 
タリバンは、「ブッシュ政権はアフガンの女・子どもを含めた罪のない民衆を虐殺している。これは超大国によるテロだ」と非難しているが、女性の就労・教育を禁止しているために、夫を亡くして生活の糧を得る道を失った女性に、その生活費を国費で保障する政策を用意もせず、唯一の収入源として物乞いに追いやる罪≠犯しているタリバーン(タリバーン政権で一番増えたのは物乞いの女性たちだそうだ)に、「女・子どもを含めた罪のない民衆」を持ち出す資格はない。
 政治権力者層の犯しがちな愚かしいセクショナリズム(自己部族絶対主義)は、一般国民・一般市民に公約数としてある愚かしいセクショナリズム(自己部族絶対主義)と相互関連し合った意識・姿なのは言うまでもない。
 そのことに対して、一般国民・一般市民の無関心・諦め・無知・怠惰・事勿れ・沈黙は許されない。それらを理由に責任を逃れることも許されない。一般国民・一般市民の無関心・諦め・無知・怠惰・事勿れが、政治権力者の愚かしいセクショナリズム(自己部族絶対主義)を生み出す大きな要因ともなるからである。要するに国と国民(市民)の姿がいずれの構図を取ったものであっても、やはり相互関連し合うことに変りはない。
 いわば国家の姿をつくり出しているのは国民であり、積極的意志によるものなのか消極的意志によるものなのかの違いしかない。どちらにしても、国家と国民は運命共同体にあり、国民・一般市民は亡命、その他の形で国を出る以外に運命共同体であることから逃れることはできない。内乱・部族対立・権力闘争・貧困・飢餓・餓死・憎悪・諦め――等々にアフガニスタンに住むすべての部族民は何らかの形で関わっているのであり、そうである以上、何らかの責任を負わなければならず、
罪のない市民などと言うものは存在しない。
 「30年に一度と言われる」3年続きの干ばつがアフガニスタン国民の飢餓を拡大させたと言うが、「30年に一度」と分かっているなら、政治権力者たちはそのことに備えるのが国民の生命財産を守る危機管理と言うもので、それを怠って内乱・対立・権力闘争に明け暮れる愚かさが招いた飢餓拡大でもあるのである。それを、貧困がテロ集団発生の大きな要因だとか、「テロは少数派の多数圧制への暴力的な異議申立ての側面を多分に持っている」とかの正当的認知のもと、アメリカに同時多発テロを行なうのは、自己人生がうまくいかないからとムシャクシャして、他人の家に放火して気分をスッキリさせる愉快犯行為と何ら変りはない同次元の低劣な犯罪でしかない。
 それともテロが国家の平和や人種共存・部族共存に、飢餓や難民の解消に建設的な何か、プラスアルファとなる創造的な発展や展望を生み出した試しがあるとでも言うのだろうか。もしパレスチナがアメリカの力添えのもと、国家の樹立を成し遂げたとしても、最終的にはイスラエルとパレスチナの姿勢がつくり出した成果であって、
ビンラディンの同時多発テロがキッカケの役目を決して果たしたわけではない。和平のキッカケは何度となくお膳立てされてきたのである。クリントン前アメリカ大統領がお膳立てしたパレスチナのアラファト議長とイスラエル首相ラビンとの首脳会談は和平のキッカケとなり得るものだったが、和平反対の極右ユダヤ人のラビン首相を暗殺する愚行によって、すべてが潰えてしまった。
 もし和平のキッカケと言うなら、イスラエル閣僚に対する暗殺テロが導き出したものでもなく、直接的には
ビンラディンアルカイダ組織の壊滅のためにアフガニスタン攻撃の支持をアラブ諸国から取付けるためのアメリカの自己利害上の取引が情けなくもそれに当てるだろう。
 日米欧の経済先進国の国民が、発展途上国・後進国の安い人件費・安い原料・安い資源・安い製品を利用して得た利益を、それらの国民の貧困や貧富の格差を無視して飽食・飽衣をホシイママニしている構図は、一種の搾取の形を成していることから可能であって、その点だけを取っても、経済先進国の国民は発展途上国・後進国の国民に罪を背負っていると言える。
 だからと言って、テロという方法で報復してもいいという理由は成り立たない。
 ここで問題なのは、子どもたちにも罪はあるのかということである。親(一般市民)がつくり出した国家の姿は親(一般市民)にそっくり撥ね返り、その影響は無力であるゆえに親(一般市民)に対する以上に増幅した形で子どもに降りかかる。親(一般市民)が子どもの命運を握っているのである。いわば子どもは親(一般市民)の罪を好むと好まざるとに関係なく引受けなければならない支配された関係にある。当然、直接的には罪はなくても、親(一般市民)の罪に共同歩調を取らされることから、罪の部外者でいることは許されない。親(一般市民)の罪を背負うということであり、罪のない立場にとどまることは許されない。そういった脈絡において
罪のない市民であることの権利を剥奪された存在と言える。親(一般市民)と子どもは国家と国民の関係に類似・対応した運命共同体の関係であることか免れることは不可能なのである。 あるいはもっと厳しい言い方をするなら、子どもは現在の親(=大人)の影響を受けて、その延長として成長する。そして社会はその繰返しによって成り立っている。今は子どもでも、武装過激派に成長する者もいれば、テロに身を通ずる者もいる。ファシスト、狂信者、カネ儲け主義者、権力欲に取り付かれる者、資本主義型搾取者、様々だろう。いわば罪を芽生えさせ、育む者の位置にいると言えないことはなく、そうであるなら、子どもだからと言って、罪のない市民にして置くことはできない。
 だからである。親(一般市民)はゆめゆめ自らの姿勢に疎かではいられない。それは国家権力者が自らの姿勢を疎かにできないのと根本的に同じである。親(一般市民)と国家は自らの姿勢に疎かであってはならない相互性を築かなければならない。
 最善の方法は、政治権力者は国民に基本的人権を保障することと国民の生活を満ち足りたものとすることを自らの使命とすべきで、国民はそのような使命を基準として国の指導者を選択する――そういったことを、世界が共通の認識とすることだろう。決して民族(部族)とか宗教とかを基準とすべきではない。基準とすることは、自己民族(部族)優越・自己宗教優越を基準とし、それを絶対化することに変りはなく、必然的に他民族(部族)・他宗教との対立を誘発する。対立は戦争・内乱・権力闘争の土壌となり得るものである。貧困・難民・飢餓・餓死等々はそれらが泥沼化したときに生み出される。すべてが国家・国民の罪≠フ成果としてあるものである。

             2001・10.23(火曜日)

 

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★   筑紫哲也って、バカだね 
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 確か10月12日(金曜日)の<NEWS23>だったと思うが、番組の中の「小泉首相に一言」筑紫哲也は出演依頼した小泉首相に次のような趣旨の質問をしている。「国民に痛みを求めるには、痛みの先に希望が持てるという政策を示す必要があるのではないか」
 その質問に対して
小泉首相は、「何も心配することはない、悲観することはない」といった文脈で、国民の世界一高い貯蓄率を日本経済の楽観材料の一つに挙げた。
 貯蓄率が世界一というのは国民の気持をくすぐるだろうが、
筑紫哲也は何も反論せず、ただ承るだけで終わった。
 確かに日本国民の貯蓄率は世界一である。しかし
GDPの6割を占める個人消費が冷え込んでいることと、金融機関が自己の不良債権の処理で手一杯なため、大胆な融資を怖れる貸し渋り現象が経済低迷の無視できない大きな要因となっている現実――いわば貯蓄が貯蓄の形のままに推移している現状は、現在の日本の経済の活性化に貯蓄資産が有効、且つ機能的に活用され得ていないお粗末な状況を示すものである。活用できていない原因は勿論、日本の政治家と官僚の無為無策=貧困な政策(貧困な政治的想像力)なのは言うまでもない。
 具体的に言い換えるなら、現時点においては貯蓄率(あるいは貯蓄高)だけを取り上げて(日本の製造産業の潜在能力を付け加える場合もあるが)日本経済の生来的な希望の指標とすることは見当違いもはなはだしいと言うことである。
小泉首相がそのことに全然気づいていないことも問題だが、ジャーナリストでありながら、ただ承るだけの姿勢に終始するのみで何も反論できない姿勢も問題にしなければならない。
 もっともそのような姿勢は一人
筑紫哲也だけのものではなく、日本のジャーナリスト全般に見られる傾向ではある。

                2001.10.16

 

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