市民」 

       教育を語る ひとりひとり 政治を社会語る そんな世の中になろう

 第49弾   part9
       
                      

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Menue

平成天皇、単一民族説を自ら否定する
有田芳生氏『テレビ、乳児から見せて大丈夫か』を批判する
日本の製造業の生き残る道
政治家秘書の脱税・収賄事件に連座制を


◆平成天皇、単一民族説を自ら否定する

 平成天皇は2001年12月23日、68歳の誕生日を迎えるに先立っての記者会見の中で、次のように述べている。

 「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」

 日本民族を優越的民族だとするためには、純粋民族(=単一民族)を条件としなければならない。混血民族とした場合、その優越性の根拠は薄れる。最悪の場合、優越性の勲章は混血部分の民族に奪われかねない。だからこその、跡を絶たない単一民族発言なのである。あるいは、中国・朝鮮半島からの文化や技術の伝播は認めても、人間の移動を黙殺してきた、一般性としてある歴史態度の表れなのである。

 天皇自身、気づいているかどうか知らないが、自身の発言は純粋民族(=単一民族)を否定する内容のものであり、同じ記者会見での、「韓国から移住した人や招聘された人々によって様々な文化や技術が伝えられた」という発言も、人間の移動に関わる日本人の意図的な隠蔽に事実訂正を迫るもので、純粋民族(=単一民族)否定を補強する発言趣旨となっている。

 このことは、国民の中にある、日本民族優越性の証明として優越的存在だとしている天皇自らの権威性を天皇自身が否定していることを意味している。

 大陸・朝鮮半島からの人間の移動に関する学説が、

「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

と題したHP(http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/jyo2.htm)の中に紹介されている。


   「第1章:原始と古代の日本」批判B

 3.大陸からの大量の人の渡来を無視した「弥生文化」論

  稲作と弥生文化の始まりについては、この教科書はやや詳しく説明をしている。

 
 縄文時代の食料は、おもに狩りや漁や採集によっていたが、簡単な畑作も行われていた。今から約6000年前には、米づくりも部分的な がらも始まっていたと考えられている。稲は、日本にもともと自生していた植物ではない。大陸からはるか遠いむかしにもち込まれていたのである。

 ただし、約2400年前の縄文時代の末ごろになると、灌漑用の水路をともなう水田による稲作が、九州北部にあらわれ、その後、西日本から東日本へとだんだん広がっていった。

 長江(揚子江)流域の江南を源流として、水田稲作は伝えられたと考えられている。渡来のルートは、長江下流から北九州へ直接渡ってきたか、または山東半島から朝鮮をへて南下して渡って来たか、そのいずれか、あるいは両方の可能性が高い。

 この教科書は、陸稲の栽培が縄文時代から行われていたことや、それも大陸からの渡来によること、そして弥生時代の文化として知られる稲作は、灌漑用の水路をともなう水田稲作として最初から伝えられていたこと。さらにその源流は揚子江下流域にあることと、その渡来のルートが朝鮮を経由したものと、揚子江下流から直接のものと、2系統あることが詳細に記述されている。

   ここまでの記述はとても正しい。

 だがこの記述は、弥生時代・水田稲作の普及の歴史に関する重大な事実を、完全に捨象しているのである。

 それは何か。それは大陸からの(揚子江下流から直接・もしくは朝鮮からまたはその北東のアジアからの)水田稲作文化をもった人が、大量に渡来して、日本における水田稲作は広がっていったという、事実である。

 弥生文化の開始に、数の多寡についてはまだ諸説あるものの、多くの人が、朝鮮からまたは中国から渡来していると言う事は、学会の共通した認識である。例えば小学館の日本大百科全書は、「新来的、伝統的両要素が、最古の弥生文化以来、ともに存在する事実は、大陸の某文化を担った人々が日本に渡来して弥生文化を形成したものではけっしてなく、外来文化を担って到来した人々が、在地の縄紋人と合体して形成した新文化が弥生文化であることを雄弁に物語っている。」と述べ、弥生人についての説明では「弥生人には、渡来系の人々、彼らと縄紋人が混血した人々、その子孫たちなどの弥生人(渡来系)と、縄紋人が弥生文化を受け入れることによって弥生人となった人々(縄紋系)とが区別できる。」と説明している。そして渡来系の弥生人は「北部九州から山口県、鳥取県の海岸部、瀬戸内海沿岸から近畿地方にまで及んだらしい。弥生時代I期の土器(遠賀川(おんががわ)式土器)の分布する名古屋にまで達した可能性がある。それどころか、彼らの少数が一部、日本海沿いに青森県下まで達した可能性もいまや考えねばならない。」と説明し、大陸からの渡来人とその子孫が北部九州を中心に、北は青森県まで広がっていたとしているのである。そして渡来系の人々の故郷は朝鮮半島南部であると考えられているが、さらに北東アジアの人々も含まれるととなえる人類学者がいることも紹介されている。

 そして縄文系弥生人については、「しかし、北西九州、南九州、四国の一部、東日本の大部分においては、蒙古人種としては古い形質を備え、顔の彫り深くやや背の低い縄紋人たちが、新文化を摂取して弥生人に衣替えした。」と説明している。

 つまり弥生人は地域によってその人類学的形質が違い、渡来系の人々と、在来の縄文系の人々と、そしてその混血の人々とが、地域ごとに異なる組み合せて成り立っている事が、今日の学会の常識であろう。

 しかるにこの「新しい歴史教科書」は、この大量の人の移動・渡来の事実にはまったく触れていないのである。

 それはなぜであろうか。その疑問は、この項の最後の、以下の記述によって氷解する。


 しかし、縄文の文化が突然変化し、弥生の文化に切りかわったのではない。ちょうど明治時代の日本人が和服から洋服にだんだん変わっ たように、外から入ってきた人々の伝えた新しい技術や知識が、西日本から東日本へとしだいに伝わり、もともと日本列島に住んでいた人々の生活を変えていったのである。

   ここで始めて渡来した人があったことが語られる。

 しかし、そのあとの例として明治時代の西洋文化の普及を例にあげていることからもわかるように、この本の著者たちは、この大陸からの渡来の人々の数は少なく、全体としてみれば、在来の日本人(おそらく縄文人)が渡来文化である水田稲作などを学んでいった結果として、日本列島各地で徐々に縄文文化から弥生文化への転換が行われたと考えているのであろう。

 しかし水田稲作をもって渡来した人々は、ほんとうにほんの少数だったのであろうか。

 さきほどの日本大百科全書の記述を思い出して欲しい。渡来系の弥生人が分布してる地域は、「北部九州・中国・北四国・近畿地方」のほとんどを占め、さらに近年の水田遺構の発掘により、彼らの一部は日本海沿いに北上し、秋田県や青森県にまで到達し、さらに太平洋側の青森県や岩手県にまで広がっているのである。

 これがほんの一部であろうか。日本列島の半分近くの地域を占めているのである。けして極少数者の渡来ときめつけることは出来ないのである。

 さらに弥生文化の内容を考えてみよう。

 灌漑用の水路をともなう水田稲作ということは、自然の湿地帯などを利用した原始的農耕ではないということである。小河川や湧水を利用し、場合によっては川に小規模なダムを築いて水を堰きとめ、それを水路を使って水田に導くという形が初期のころから普及していた。

 ということは、この水田稲作の形式は、それが成立するためには大規模な労働力の組織化が必要であり、そのためには小規模ながら国家というべき組織の存在を前提としているということである。そのことは弥生文化の初期のころから青銅製の武器や鏡が存在し、王墓と目される比較的大きな墓が存在する事もその現れであろう。

 そうであるならばこの渡来は国をあげた渡来、数百人から数千人におよぶ、しかも何次にもわたって行われた渡来に違いない。

 今から2400年前のころと言えば、中国で言えば戦国時代の末期であり、朝鮮半島では三韓とよばれる、辰韓・馬韓・弁韓の諸国が分立していた時代である。どちらも戦乱が続いた時代であり、その中で戦火を避けてより安全で豊かな土地を求めて移民を大量に送った国があったとしてもおかしくはないであろう。

 では、渡来人の数はどれくらいであったのであろうか。

 埴原和郎氏は、岩波日本通史の第1巻の「日本人の形成」という論文で、人骨の研究から渡来人と在来の縄文人との混血はほとんどなく、両者は各地で住み分けていたのではないかとの仮説を提示したあとで、次のように述べている。

 「紀元前3世紀から7世紀までの1000年間にやってきた渡来人の数を、縄文時代から初期歴史時代までの人口増加率と縄文末期から古墳末期にいたる頭骨の時代的変化を指標として推定してみた。(その結果は)7世紀までに渡来人の人口は日本人全体の70%から90%にたっし、とくにその割合は近畿を中心とする西日本に高かったと思われる。そうするとこの1000年間に数十万人から100万人以上が渡来したことになり、渡来人の総数は想像以上に多かったということになる。」と。

 1000年間という長い時代をとっていて、600年以上続いた弥生時代とそのあとの古墳時代・飛鳥時代を含めた数字だが、人口の90%とはすごい数である。著者の埴原和郎氏は、100万という数字に意味があるのではなく、渡来人の数は無視できないほど多数にわたるということを言いたかったと述べているが、この指摘は大事である。

 つまり古代における日本人の形成は、中国や朝鮮半島、そして北東アジアからの大量の人々の渡来によってなされたということであり、日本人という民族は、中国・朝鮮・北東アジアの国々の人々と在来の縄文系の人々の混合によってできたが、前者の渡来系の人々が圧倒的多数を占めていたということである。

 このように渡来系の人々のことを考察して行くと、なぜ新しい歴史教科書の著者たちが、弥生文化形成期における、中国や朝鮮からの大量の人の渡来という事実を過小評価しほとんど記述しなかったかが、わかってくる。この教科書は、後の近代の部分で顕著になってくるが、隣国である中国・朝鮮の人々を馬鹿にする傾向がとても強い。その人々と日本人が同祖であり、日本人は、中国・朝鮮からの渡来系の人々が多数を占める中で形成されたということを認めるのは、この本の著者たちの偏狭な民族主義、『誇り高き日本人』としてのプライドが許さなかったのであろう。

 しかし歴史的事実を捏造しての『民族の誇り』とは何であろうか。彼らの民族主義の危うい側面が、ここ日本人の形成に関わる部分でも如実に現れている。(以上)


 民族とは、血の言い換えであろう。例え天皇であろうとなかろうと、民族性としてある共通の血で、あるいは血を表す家系の長さや家柄の優秀さで人間を評価するのではなく、あるいはそれらをアイデンティティとするのでもなく、それぞれの人間の理性や創造性(想像性)・哲学性のトータルで日本人とは何者であるかを判断し、それらをアイデンティティとすべきだろう。単一民族であろうと混血民族であろうと、人間の存立には無関係なのである。

 逆説するなら、理性や創造性(想像性)・哲学性が貧困な人間集団程、ヤマト民族だ、単一民族だと、民族(=血)を持ち出さなければならないのである。人間の存立を抽象概念でしかない民族への帰属性や忠実性に頼らなければならないのである。

                       2001.12.31.


有田芳生氏『テレビ、乳児から見せて大丈夫か』を批判する

 2001年12月25日「朝日」朝刊の『私の視点』欄に、『テレビ 乳児から見せて大丈夫か』と問題提起する、ジャーナリスト・TVコメンテーター有田芳生氏の記事が掲載されている。多くの問題を含んでいると思えるから、ここに全文を引用してみる。もっともこのことが最近頭の衰えが顕著に現われ、文章を長文にわたって紡ぎ出すことが困難になってきたための姑息的な水増しでもあるのを既に見抜いている向きもあると思うが、ご容赦願いたい。

 「アメリカで起きた同時テロと炭疽菌事件。その影響は日本でも幼児世界までに浸透した。
 最近若い母親たちからこんな話を聞いた。
 9歳になったA子ちゃん。お気に入りの人形の額にばん創こうを張って寝かしていた。お母さんが『どうしたの』と聞くと、こう答えた。『炭疽菌でお熱が出たの』
 デパートの上階のレストラン。注文を取りに来たウエイトレスにやはり3歳のB子ちゃんが聞いた。『ここに飛行機がぶっつかってこないよね』
 幼児にとっての情報源。それは圧倒的にテレビだ。日本でテレビ放映されたのは53年。皇太子御成婚(59年)、東京オリンピック(64年)をバネに一般家庭に普及していった。
 後に『おたく世代』などと呼ばれるようになった62年生まれ。彼らが小学校に入学したころの普及率は88%。生まれたときからテレビのある世代が登場する。
 人間は誕生して1歳半くらいで40語程度の言葉を獲得する。『ウマウマ』『ママ』といった生活の中で身につけた言葉だ。
 この『初語』に異変が起きていると分かったのは80年代後半。筑波大学の杉原一昭教授(当時)などが東京都文京区の保育園児約6千人を調査したところ、テレビのアニメやCM言葉が目立つことに気づいた。ある幼児が初めて発した言葉。それは『モンモン』だった。ドラえもんの『モン』である。
 いまや零歳児からテレビを「見る」のが常態化した時代。神奈川県の1歳から4歳までの未就園児177人の調査では、視聴開始年齢が、生後6ヶ月以前で20%、11ヶ月までが48%だった(日立家庭教育研究所実施、92年)。
 体験を伴わない「虚現実」の言葉が増えていくだけではない。テレビは相手を選ぶことなく情報を提供する。その結果として、『大人』と『子ども』の境界線が突き崩れ、『子供時代が消滅しつつある』(ニール・ポストマン)。『大人―子ども』の誕生だ。
 たとえば私がテレビの現場に日常的に関わるきっかけとなった地下鉄サリン事件。酒場でも保育園でも「ホーリーネーム」などが話題となった。それから2年が経過した97年。神戸児童殺傷事件で後に逮捕される少年は、自分だけの『神』=『バモイドオキ神』に『聖名をいただくための聖なる儀式アングリを行なう』と約束し、実行した。
 精神鑑定を担当した医師によれば、少年はこの「神」は自分のオリジナルだと説明している。しかし『聖名』とは『ホーリーネーム』のこと。少年の精神にオウム報道を通じて浸透した象徴としての『暴力性』は沈殿していなかったか。担当医は一般論としてこう見る。「オウム幹部がテレビ出演して話題になった。これぐらいは許されるのではないか、『ヒーロー』になるかもしれないという誤解が子ども文化の中に入ってしまった可能性はある」
 その後、全国で問題となった『17歳の犯罪』。神戸事件で逮捕された少年と同世代であることに注目したい。警察庁が強盗、恐喝などで検挙された少年371人からアンケートを取ったところ、犯行に影響を与えた環境を暴走族や不良グループとしたのが150人。ついでメディアが40人。中でもテレビは31人と最も多かった。
 テレビが発信する情報は子どもたちの自己形成と行動にどう関わっているのか。いまだ未解明の課題だ。生活の場に根差した議論よ、いまこそ起これ!」

 社会的な問題を簡潔に切り取って解説する手際は、さすがにジャーナリストとして働いているだけではなく、併せてTVコメンテーターをも職業としている人間だけのことはある。しかし、他人の調査結果を適度につなぎ合わせて、単に表示して終わらせた情報でしかない。いわば手際よく要約しているが、関連するいくつかの情報を表面的に羅列する形で問題提起しているだけのことで、ジャーナリストとTVコメンテーターを併せた才能にふさわしい、例えば、こういったことではないかといった推測でも構わない、自らの解答≠ヘ何も示していない。

 テレビの有害性は20年以上も前から言われていて、今に始まった問題ではない。しかし、幼児期からテレビに毒されたすべての少年が「神戸児童殺傷事件」に類した事件を起こすわけではない。「神戸児童殺傷事件」はあくまでも一般性から隔絶した特異な事件であって、テレビの報道をその影響の主原因とすることは妥当ではない。例え「少年」「聖名」を用いたのが「オウム報道」からの影響だったしても、さらに彼のいわゆる「暴力性」「オウム報道を通じて浸透し」「沈殿してい」ったものだったとしても、それは彼の精神の奥底に素地としての攻撃性を抱えていたからこその影響だったことも考えられる。テレビの報道や暴力シーンによって少年の殆どが「暴力性」を育まれる人格形成を受けるとするなら、少年犯罪の最大公約数は「神戸児童殺傷事件」と規模を同じくすることになるだろうが、現実はあくまでも特異な事件としてとどまっている。

 そのことは有田芳生氏が自ら掲げた「警察庁が強盗、恐喝などで検挙された少年371人から」「取った」「アンケート」自体が証明している。確かに「犯行に影響を与えた環境」のうち、「メディア」と挙げた「40人」の少年の中で「テレビは31人と最も多かった」としても、統計を取った「371人」中、その「31人」はたったの8%にしか当たらない。「生まれたときからテレビのある世代」であるにも関わらず、その事実に反して、40%に当たる最も多い「150人」「暴走族や不良グループ」を挙げているのである。その刺激性・リアリティからして、「メディア」のうち「テレビ」「影響」「最も多」いのは言わずもがなのことで、そのことと併せて、氏自身のテレビの有害性という問題提起のために、統計を自分の都合のよいように操作する誤魔化しがそこにはある。

 「少年」「暴力性」は、幼少期に母親から日常的に受けていた暴力を伴った折檻を無視して語ることはできないだろう。少年院に会いにきた母親を、「会いたくない」と拒絶したほどにも母親に対する反撥・憎悪は彼の心に深く「浸透し」「沈殿して」いたのである。母親の暴力を手段とした絶対性に対して、絶対的でない彼の第三者に対する絶対性の表現は、母親から刷込まれたより弱い人間を対象とした暴力を条件とするのは、その可能性からして必然であろう。

 テレビの有害性≠フ訴えは延々と続く蒸返しとなっている。裏返すなら、問題解決の方策を見い出し得ないまま、問題提起だけが繰返されて年月を無為に経過させてきたことを示している。そして有田芳生氏『テレビ 乳児から見せて大丈夫か』も、単なる新手の蒸返しに過ぎない。

 幼児期、母親あるいは父親の本の読み聞かせで育って、読書を習慣として小学校に入学した子どもは、授業中教師の話をよく聞き、落着いた行動を取るが、テレビを子守り代わりにさせられた子どもは落着きがなく、多行動の傾向があるという調査結果が報告されたのは、もう大分昔のことである。その原因として、確か、幼児の未発達な脳・視覚がテレビの内容に理解不可能なまま、人物や場面、色彩の目まぐるしい変化といった表面的な激しい動きだけを受けつけて、そういった動きに感覚的に自らも対応することになってしまった結果の情緒不安定的な多行動傾向だとしていたと思う。

 だがらと言って、読書が人格形成にテレビを上回るとするのは必ずしも正しいとは言えない。昔の人間はよく本を読んだと言う。今の若者は読書しないと。だが、本をよく読んだ世代であるはずだけではなく、その殆どが大学教育を受けているはずの幹部クラスから上の政治家・官僚の絶えることのない収賄や接待強要・公金乱用といった不正行為の、あるべき人格に反する現象はどう説明がつくのだろうか。

 答を見つけるとしたなら、テレビがなかった時代に幼児期を迎えたことが影響して、読書が数少ない娯楽の一つだったために、読書を娯楽の一つとしたものの、人格形成に役立てるまでに利用できなかったということだろう。本をたくさん読んだからと言って、立派だとは必ずしも言えないのである。

 私は1999.12.23.(水)に、自分が開設しているHP「市民ひとりひとり」<第6弾! 2000年時代の小学校授業改革>なるページを更新している。「ポルノ雑誌やポルノビデオ、テレビの低俗番組から子どもたちを守ろう」という親たちの運動に対して、その有害性を、子どもたちの世界を多様・豊かに広げる優れたビデオやテレビ番組を頻繁に鑑賞・理解させて選別能力を身につけさせる逆療法で中和してしまうことの方が効果があるのではないかと提案している部分があるが、参考までに(水増しのためにも)引用しておく。

 ━━「どこからでも手に入る有り余る種類のポルノ雑誌やポルノビデオ、まだ子どもが眠りに就かない時間帯にテレビで流す裸の女やセックスシーンの氾濫はどう足掻いても阻止できようはずもないのに、子どもの教育によくないと悪書追放キャンペーンやテレビ番組からの性シーンの追放運動に意味もない抵抗だと気づかずに努力している親や教育者がいる。そのような無駄な抵抗が結果的に猥雑な性や大人のインチキを証明するうんざりするほど大量の情報が理解力が十分に養われていない子どもに伝わらないようにするのはもはや不可能なのに、選別能力が未発達で無防備な状態のまま無差別な情報の氾濫に子どもさらす愚かしさにつながっているのである。

 悪書追放は密造酒をはびこらせた禁酒法と同じで、例え成功したとしても、隠れて手に入れる状況を作り出すだけである。となれば、子どもたちを露骨な性情報から遠ざけるのではなく、例えセックスシーンが含まれていても、優れたストーリーと豊かな情感をたたえた男と女のストーリーをビデオやテレビで親しませることで、セックスを単に性欲の面から把えるのではなく、人間的な感情(誠実さや愛情)や人間関係からも把える訓練とし、そのような価値意識を養わせることでただ単に女の肉体や性を売り物にした猥雑な情報からの影響を中和させ、性に関するバランスのとれた感性・想像力を形成させることの方が、間接的ではあるが子どもを守る近道となるはずである。━━

 テレビの発する情報の多様性・刺激性・視覚性・色彩性に親・教師の言葉が追いつかないことが問題ではないのか。特に学校教育がコマ切れ知識を機械的に暗記させるだけの言葉(暗記教育用の言葉)に支配されたままでは、子ども・生徒の情報選別能力は育つはずはない。情報選別能力は情報理解能力と一体の働きをする。いわば言うまでもないことだが、情報選別能力の優劣が情報理解能力の優劣を決定する。親はまだしも、子どもを教育する機関である学校がコマ切れ知識の暗記にのみ没頭して、歌を忘れたカナリアのように子どもに情報選別能力・情報理解能力を育むことをなおざりにしていながら、テレビだけを悪者にするのは不公平というものである。テストの成績が人間の価値と将来を決定づけるから我慢もするが、暗記知識の平板さ、ただ詰め込むだけの味気なさ――そういったつまらなさに対する非生産的な忍耐への反動が、子どもたちをテレビのバラエティ番組やホラー番組といった手軽に刺激や変化、面白さ・楽しさを味わえる安易さに向かわせているのではないだろうか。

 「テレビが発信する情報は子どもたちの自己形成と行動にどう関わっているのか」などと心配する前に、子どもが幼児期にテレビにどのような影響を受けようとも、学校教師がテレビに負けない多様性・刺激性・視覚性・色彩性に富んだ言葉を獲得して、そのような言葉で情報を取捨選択させる能力を養わせてテレビの毒を上回って中和させ、さらに豊かな情緒性を育む方向に持っていくことの方が重要なことではないだろうか。暗記教育に機械的に妥協し、あるいは何ら疑問も感じずに機械的に授けるだけの姿勢に甘んじている間は、テレビの有害性を訴える蒸返しは延々と繰返されることになるだろう。

 学校教師がテレビに負けない言葉を獲得するための具体的な方法は、学校教師になるために大学で児童心理学などを、幼稚園(保育園)・小中高校と習慣としてきた暗記教育による暗記で頭に叩き込むだけの、生きた知識として活用できない知識のための知識として学ぶよりも、例えばシェークスピアの全作品を、人間の現実・人間の姿を学ばさせる方向で徹底的な洞察と追究を行なわさせること、その成果の一つとして、少なくともそれら作品のうち、『ロミオとジュリエット』『ハムレット』『リチャード三世』ぐらいは、登場人物のすべてのセリフを現実の人間が直接口から発し、言葉をやり取りするように諳んずることを可能とすることを教師免許獲得の絶対条件とすべきだろう。第三者が聞いた場合、一編の優れた朗読劇が味わえるようにである。

 そのような資格をクリアして学校教師となった人間は、それだけで従来の教師の暗記で得たコマ切れ知識の周りをうろつくだけの言葉から解放され、「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ学ばなければならないのか」といった、暗記知識のキャッチボールから離れた生徒の大方の言葉に柔軟に対応できる創造的言葉を可能とするだろう。あるいは、「いじめはいけません、いじめは相手の心を傷つける行為です」いった、いじめのような当たり前ではない行為に対してごく当り前な、単に綺麗事にしかならない言葉を発するだけで終わる刺激もない、衝撃も与えない、勿論、何ら役に立たない通り一遍のワンパターンなセリフは口にしたくても口にすることはできなくなるだろう。人間の現実・人間の姿を学んだ人間は、対人関係の基礎(=信頼のモノサシ)をテストの成績や学歴・親の社会的な地位などを基準にするのではなく、人間に置くようになるだろうからである。いわばテストの成績はたくさんあるうちの単なる一つの才能・一つの可能性に過ぎなくなる。 

 人間の現実・人間の姿を学んだ教師の言葉に子どもたち(生徒たち)の感受性をより効果的に反応させ、その質を高めるためには、教師が自らの言葉をシェークスピアの作品から学んだなら、子どもたち(生徒たち)にも同じようにシェークスピア作品を学ばせるのがより効果的だろう。但し勉強に好き嫌いがあるように、あるいは教科の違いによって得手不得手があるように、言葉の学習や意味の解釈から入るのではなく、楽しみながら学び、覚えるために台本を見ながら読み上げる朗読劇から取り掛かるのが最善かと思う。特に最近の子どもたちはテレビタレントやタレント活動に興味を持っているのである。その興味を利用しない手はない。朗読劇を進める過程で必要に応じて意味の解釈や言葉の学習を行なうだけでいいだろう。

 朗読劇は成績の良い子を特定して演じさせるものであったなら、人間に関わる感受性の育みは限られた生徒にのみ片寄ることになる。クラスのすべての生徒に平等な資格と平等な機会を与える形での参加としなければならない。平等な資格と平等な機会を与えるとは、劇中のヒーロー・ヒロインを特定の生徒に振り分け、いいとこ取りをさせるのではなく、すべての生徒がヒーロー・ヒロインを演じ、同時に端役・脇役を演じるということである。

 その方法は、例えば『ロミオとジュリエット』なら、登場人物のすべてのセリフをほぼ格差のない言葉数に振り分け、誰が主役でもなく、端役・脇役でもなく、振り分けられたセリフを無作為に決めた順番で演じる。いわば何人もの生徒がロミオやジュリエットを演じ、同時にマキューショや乳母・従僕、その他を演じるのである。セリフの量を格差のないものにするためには、ロミオやジュリエットの長いセリフは途中で別の生徒に引き継がせるといったこともしなければならない。

 生徒は登場人物が違えば、当然、セリフのイントネーションを微妙に違えなければならない。順番によっては、ジュリエットを男子生徒が演じ、ロミオを女子生徒が演じるといったことも起こるだろう。配役に関わる資格と機会により平等性を期すためには、順番もいつも同じ順番ではなく、頻繁に変える必要がある。

 そのような朗読劇は小学校の3・4年生から開始し、1・2年生は何か適当な児童劇の朗読劇から入ることとする。最初は棒読みであったり、セリフをつかえたりの連続だろう。散々の出来映えにショックを受ける者もいるだろう。それも愉しい経験と思い出としなければならないが、繰返し、慣れることによって、それなりにサマになってきて、とにかくも一編のドラマに仕上がっていくはずである。

 慣れれば、手振り身振りも加わるだろう。顔の表情も、登場人物もどきに変化するに違いない。台本を見なくても、諳んじて朗読できる生徒も出てくるに違いない。ライバル意識を燃やして暗誦に挑戦する生徒といったふうに、様々だろう。何かを表現することは人間の本質的な欲求であり、誰もが本能の一部としているはずである。その愉しさにハマらない人間は希少動物並みに扱われるに違いない。

 時折、発表会を開いて、違うクラスの前で朗読劇を演じ、お互いを参考にすることも、感受性獲得の一つの習練となるだろう。

 まっとうな自己表現を見い出せない人間ほど、いじめや暴力・万引きといった倒錯した方法で自己を表現する。それらを手段とした自己優越性。あるいは万能感。そういった倒錯した自己表現、あるいは自己実現を生徒に許しているものは、学校社会がテストの成績を唯一絶対の価値観としていて、それから外れた生徒を学校社会の不適格者として排除していることを一つの原因とした、学校・教師に向けることが不可能なためにより弱い生徒に向けた一種の報復としてあるものだろう。万引きにしても、学校の生徒がするからこそ、その逆説が報復として生きてくる。

 問題は家庭や学校といったそれぞれの社会で、必要な存在として受入れられているかどうか――排除された存在となっていないかどうかであり、子ども・生徒・少年が犯した犯罪の方法がテレビから得た情報を真似たものだったとしても、彼らを本質的なところで衝き動かし、犯罪に駆り立てたものは情報そのものではなく、自分という存在が置かれた状況に関係して生じた何かだろう。テレビで幼い女児を姦すシーンに影響を受けて、現実に女児を犯した人間がいたとしても、本質的な誘因は、その人間がそれまでに背負っていた、あるいは背負わされた正当な理性に反する何らかの人格障害と考えた方が妥当ではないだろうか。

 「炭疽菌でお熱が出たの」とか、「ここに飛行機がぶっつかってこないよね」とか、それがテレビの情報が与えた影響だと、さも重大視するのは、所詮、もっともらしいことをもっともらしげに仕立てて撒き散らすだけのことで、そういった情報の虚飾をこそ、問題視しなければならない。ジャーナリスト・TVコメンテーターたちの「自己形成と行動」に何が「どう関わって」、そのようなもっともらしい見せかけの情報を撒き散らせるのか、解明する「議論よ、いまこそ起これ!」である。

 話を元に戻そう。

 生徒が朗読劇を通じて、言葉の綾や言葉の妙、あるいは言葉のエッセンス獲得の端緒を、さらに進んで人間の姿・人間の現実を理解する端緒をほんのわずかでも学び得たなら、そのような経験を中学・高校といくつもの朗読劇の積み重ねによって豊かなものとしていったなら、どのような情報に対しても、例え「テレビは相手を選ぶことなく情報を提供」したとしても、上質かどうか取捨選択する力が自然と働き、中にはあるバラエティ番組の決して上質とは言えない、ときには低劣でさえある程度の低いセリフ・発言には、ただ耳にしても、高度に感受性を刺激されるといった滑稽な矛盾を作動させるといったことはごくまれな例でしかないだろう。

 さらに言えば、ロミオとジュリエットの恋愛に感銘を受けた者には、例え現実世界にはない恋愛だと分かっていても、ただ女性の裸を見せる映像や、性欲だけを刺激するセックスシーンには、興味を持っても、下劣な刺激となって受止め、受止めたままに程度の低い浅ましい行動に移すといったことはなかなか起こりようもないはずである。

 再び言う。「テレビが発信する情報は子どもたちの自己形成と行動にどう関わっているのか」心配する前に、テレビの情報に無定見に流されない、情報の質の取捨選択を可能とする感受性を子どもたちに如何に育むかをまずは考えるべきである。

 多くの人間が情報選別能力を身につけることでミーハー的感性から解放されたとき、テレビを舞台に活躍する少なくないジャーナリスト・TVコメンテーターがその魅力を失って、テレビの世界から姿を消すことになるのではないだろうか。

                 2002.1.12.


◆日本の製造業の生き残る道

 2001年12月25日の「朝日」朝刊に、日本の製造業の生き残る道は「最先端開発」だとする、NEC社長西垣浩司氏に対するインタビュー記事が掲載されている。その内容を要約すると、「日本の30分の1から40分の1の賃金」の中国に「WTO体制でビジネス環境が整うなら、モノづくりはどんどん任せ」て、これまでは「米国発の技術に『追いつき、追い越せ』」だったものから「日本発」の技術への転換が急務だというものである。「日本発の成功例」として、「ゲーム機や次世代携帯電話」を挙げているが、それが多くの製品に反映されるのだろうか。

 人口が約2倍、国土が25倍近くもあり、資源大国でもあるアメリカについで資源小国の日本が世界第二位の経済大国の地位を獲得していながら、戦後50年も年月を経ているにも関わらず、その間ずっと「米国発の技術に『追いつき、追い越せ』」のモノマネから出発した技術発展を構造とする「モノづくり」の地位にとどまるのみで、「日本発」の技術開発への転換を実践できなかったばかりか、90年代のいわゆる失われた10年♀ヤを政治的にも経済的にもなす術もなく浪費しておきながら、今さらながらに「日本発」を言い立てたとしても、俄かには転換可能だとは信じがたい。

 時間とカネはたっぷりとあったのに、なぜ「米国発の技術」あるいは欧州発の技術の先行を許すばかりで、世界的な経済的地位に反して、「日本発」が世界的に大勢とまでいかなくても、優勢を占めるまでに至らなかったのだろう。

 日本人の頭脳が既にあるモノから出発して改良を重ねる「モノづくり」には適していても、 「日本発」の独創性発揮には向かなかったとしたら、「日本発」に転換できなかった事態に簡単に整合性を与えることができる。日本の政治家が、今さらながらに学校教育で子どもたちに考える力≠フ育成を図るべく学習要領に新たに盛り込まなければならなくなったのも、独創性に関与しない「モノづくり」を支配的とすることへの限界に気づいたことと併行して考慮されたことに違いない。そのことはそのまま暗記教育の限界に気づいたことを意味する。

 NEC社長西垣浩司氏が挙げた「日本発の成功例」「ゲーム機や次世代携帯電話」だというのも、何となく侘びしい。数が少ないからではない。ゲーム機は勿論、携帯電話の所持の低年齢化は小学生にまで及び、特にメールのやり取りやインターネットアクセスの端末機として携帯電話で満足する若者が現在でも大勢を占めているように、続く世代がその傾向に倣うことは十分に予想されることで、パソコンと比較して情報収集能力・情報親和力がはるかに劣る携帯電話の機能的限界が軽小短薄の知識獲得で満足することを余儀なくするのではないだろうか。ただでさえコマ切れ知識の暗記教育で軽小短薄な知識に馴染んでいるのである、携帯電話の多機能化・精密化が知識の軽小短薄化に拍車を掛けることになったなら、「日本発」の独創性はなおのこと覚束なくなる。いわば、日本の携帯電話技術の高度化は日本人の独創性獲得の障害となる危険性を併せ持つ逆説を皮肉にも孕んでいるということではないだろうか。

 私のHP「市民ひとりひとり」の「46弾  part6(2001.11.16(金曜日) アップロード)」(http://www2.wbs.ne.jp/~shiminno/b13.htm)の中の、既にお読みの方もあるかも知れないが、「天皇と日本人の自律性」と題した一文に、関する佐々木正・元シャープ副社長の「独創的原理はしばしば欧米発で、明治以来の模倣ぐせが身についた日本の限界を感じる」(2001.3.24.「朝日」朝刊)という言葉に要約される日本人のモノ作りに典型的に表れている日本人の創造性(想像性)の欠如の原因を紹介したところ、優れたものの真似は、有益だと日本人は、思っているから、ここまで来たのかも」と、モノマネを構造とした日本人のモノ作りを肯定する意見が寄せられたのに対して、私の反論を次のように載せている。

手代木日本人が真似できることは他の国の人間も真似できると言うことです。2001/11/17『朝日』朝刊に出ていますが、韓国は今ではDRAMのシェア世界一となっています。その韓国も、『いずれ中国がDRAM大国になる』と警戒感を強めているとのこと。99年には韓国は日本を抜いて建造量で『造船世界一』となっています。中国は日本の農業技術で日本に劣らない農産物をつくるようになり、人件費の安さも手伝って対日輸出攻勢を掛けています。工業分野においても、いずれは同じ展開を見せるでしょう。
 単なる真似で受継ぐことのできる技術はカネで解決できます。中国が豊かになり、さらに高度な技術を買う資金に回す、あるいは自前の技術開発に投資する。今まで日本がしてきたことを、韓国、台湾と続き、現在では中国です。日本であろうと韓国、中国であろうと、技術はカネ(資金)さえ続けば積み重ねができますが、カネ(資金)があっても、発明は保証されません。発明は<真似>とは別次元のものですから。世界第二位の経済大国とは言え、アメリカと比べた自然科学分野でのノーベル賞受賞者の極端な少なさが、そのことを証明しています。『優れたものの真似は、有益だと』ばかりに済ませてはいられないでしょう。」

 「毎日新聞」のHP(http://www.mainichi.co.jp/)に掲載されている1月4日の「クローン:拒絶反応抑えた豚誕生 米韓グループ、英企業が成功」という記事は非常に象徴的である。内容は、「豚の臓器を人間に移植した時に起きる拒絶反応の原因となる遺伝子の働きを抑えたクローン豚づくりに、米韓両国の共同研究グループと、英国の企業PPLセラピューティクス社が相次いで成功した。人間の臓器に大きさが似た豚の臓器は、慢性的な臓器不足解消の決め手になると期待されており、両グループとも『移植医療に使う豚の臓器生産に向け大きく前進した』としている。米韓グループは、成果を4日付の米科学誌サイエンスに発表。PPL社もこれに先立ち2日発表した」というものである。

 記事は次のような「人間にほかの動物の臓器を移植する異種移植をめぐっては、強い拒絶反応が大きな壁になっていた。ただ、今回の成果により急性拒絶反応が抑えられたとしても、なお、豚の染色体に組み込まれたウイルスが移植先で有害なものになる恐れなども指摘されている。(ワシントン共同)」といった解説も併せて行なっているが、何が象徴的かと言うと、「異種移植に詳しい白倉良太・大阪大医学部教授の話 豚の臓器を人間に移植するには、拒絶反応の原因物質を作る遺伝子を破壊した豚を作るしかないと考えられている。世界の研究者が競う中で実際に誕生させたのは重要な成果で、臨床応用が大きく近づいた。ただ、米韓のグループが破壊したのは問題の遺伝子の一部。本当に原因物質ができなくなったかどうかの確認が必要だ」としても、自然科学分野ではノーベル賞受賞者を一人も出していない韓国が日本を後追いすることから出発したモノ作りの技術の対日本に遜色ない向上を遂げているばかりか、科学の分野でも活躍していることを記事は伝えているからである。

 いわば、2001年12月25日の「朝日」朝刊の同じ記事の中でNEC社長西垣浩司氏が言っている「モノ作りで競争力を維持できた右肩上がりの時代、日本型マネジメントは世界一」は簡単にマネをされ、追いつかれてしまうその場限りの内容のもので、日本人が現在獲得している程度の独創性も、時間は掛かっても、韓国・台湾・中国に追いつかれる内容のものだということである。

 日本人の一般的な知能は暗記知識の積み重ねを構造とした成果としてあるものであり、それは改良に関わる知識の積み重ねを構造としたモノ作りと、構造自体が重なる。いわば、知識を暗記形式で獲得する構造の知能には、改良にウエイトを置いたモノ作りには優れて適しているということである。但し、「日本発」の独創的技術の開発には、暗記を成果とした知能は逆に障害になる。暗記教育に訣別できるかどうかが、日本の製造業の生き残る道として残されている「最先端開発」の成果にしても、「日本発」の独創的技術の開花にしても、その一点にかかっていると言える。

                2002.1.14.


◆政治家秘書の脱税・収賄事件に連座制を

 「毎日新聞」HP(http://www.mainichi.co.jp/)に次の記事が載っている。

巨額脱税:加藤氏地元建設会社が提供 口利き料年数百万円

 自民党元幹事長、加藤紘一衆院議員事務所の佐藤三郎代表(61)の脱税事件で、加藤元幹事長の地元・山形県内の複数の建設会社が10日、東京国税局の強制調査(査察)を受けたことが分かった。建設会社は、県などが発注した大学施設やトンネルの建設など、大規模な公共工事を請け負っており、受注をめぐって佐藤代表に多額の「口利き料」を支払ったという。東京国税局は今後、建設会社側から佐藤代表への資金提供の実態解明を進めるとみられる。

 関係者によると、佐藤代表が受注をめぐって資金提供を受けたとみられるのは、東北公益文科大学(酒田市、01年4月開学)の関連施設の先端生命科学研究所(鶴岡市)建築工事や、鶴岡市内のトンネル工事など。研究所は、県や酒田、鶴岡両市などで組織する設立準備委員会が発注し、本体の建設費は18億円余。トンネルは県の発注で、建設費は約20億円に及んでいた。

 こうした工事はいずれも、東京国税局の査察を受けた酒田市や鶴岡市内の建設会社が受注し、口利き料は年間数百万円に上っていたという。いずれも、加藤元幹事長の影響力が強い地域に本社を置く建設会社で、社長らが加藤元幹事長の支援者になっている。

 関係者によると、佐藤代表は自治体など発注者側に「加藤の意向だ」などと元幹事長の名前を出し、口利き料を出した建設会社を売り込んでいたという。

 93年から94年にかけて、総合建設会社(ゼネコン)が東京地検特捜部に摘発されたゼネコン汚職以降、建設会社側が直接発注者側に働き掛ける動きが目立たなくなり、代わりに国会議員の秘書らが「口利き料」を得て、建設会社と発注者側をつなぐケースが増えているという。

[毎日新聞1月11日] ( 2002-01-11-03:01 )

巨額脱税:公共工事口利き料など隠す 加藤氏事務所代表 

 元自民党幹事長の加藤紘一衆院議員の事務所代表を務める佐藤三郎氏(61)が、公共工事の受注に絡む口利き料など数億円の所得を隠していた疑いが強まり、東京国税局は10日、所得税法違反(脱税)容疑で強制調査(査察)に乗り出し、佐藤代表の関係会社や加藤元幹事長事務所内の代表の机などを家宅捜索した。

 強制調査を受けたのは、佐藤代表が代表取締役を務める港湾運送業「コーショー」(本社・横浜市中区)と関連会社の不動産賃貸業「コーショーコーポレーション」(本社・同)や都内の事務所など数カ所。

 関係者によると、佐藤代表は山形県酒田市や鶴岡市の公共工事に絡み、複数の建設会社などから数年間に口利き料として数億円を受け取っていたとされる。これらの資金提供を申告していなかった疑いが持たれている。

 佐藤代表は芸能プロダクション「フリーゲートプロモーション」(旧ライジングプロダクション)の巨額脱税事件でも、99年にライジングの関連会社から約1億円を受け取ったとされているほか、別の同社の関係者から資金提供を受けていた疑いも持たれている。佐藤代表は1億円は返したと主張している。

 佐藤代表は会社を経営するかたわら91年ごろから、加藤元幹事長の秘書的な仕事をしており、94年ごろ加藤元幹事長事務所の代表になっていた。事務所の「金庫番」として知られ、元幹事長の資金管理団体「社会計画研究会」の会計責任者も務めている。ライジングの脱税事件の捜査過程で、佐藤代表の不正蓄財が判明したという。

 民間の信用調査会社によると、コーショーは70年10月設立で、社員は約30人。売り上げは昨年3月期で8億8000万円。

[毎日新聞1月10日] ( 2002-01-10-23:44 )

 テレビでちらっと見たのだが、社民党の福島瑞穂代議士が他の同党代議士と共に記者会見を開いて、自民党元幹事長の加藤紘一代議士秘書の脱税・収賄に絡んで、「斡旋利得罪を政治家の私設秘書にまで適用範囲を広げるべきだ」といったことを主張していた。毎日新聞のHPで確かめてみると、次の記事が検索できた。

福島社民党幹事長:加藤氏の私設秘書にもあっせん利得罪適用を 

社民党の福島瑞穂幹事長は13日、富山市内で記者会見し、自民党の加藤紘一元幹事長の私設秘書(事務所代表)の脱税疑惑について「私設秘書が口聞き料として多額の金を受け取っていたのではないかと言われている。あっせん利得処罰罪を(改正し)私設秘書に適用すべきだ」と述べた。

 同法は公設秘書が公務員に口利きした見返りに報酬を受けた場合に処罰されるが、私設秘書は除外されている。

[毎日新聞1月13日] ( 2002-01-13-19:00 )

 それでは加藤紘一元幹事長に対して、「秘書がやったこと」と政治家の常套手段を用いた罪逃れを従来どおりに許してしまう。

 もし公設・私設に関係なく、政治家秘書が脱税や収賄で不正に得た政治資金を使用者の政治家の政治活動の原資としたなら、政治家本人が気づいていなかったとしても、関係者が買収等の悪質な選挙違反を犯した場合、候補者本人にも制裁を科す連座制を、上記の場合においても使用者責任の立場から政治家本人に適用するように法改正すべきではないだろうか。

 「秘書が勝手にやったこと」ということはあってはならないことなのである。立場上の影響力を悪用して不正に政治資金を得てはならないのは、政治家も秘書も同じ立場に立っているのであり、そのことを約束事として認識しておくためにも、秘書の使用者である政治家は常々、秘書、その他に対して、「不正に政治資金を得てはならない」と戒める責任を有しているはずである。戒める責任を怠った結果の脱税・収賄であろう。

 戒めていたのに、戒めに反して不正を働いたという言い訳は許されない。心から戒める気持があったなら、カネの出入りを帳簿等で自ら監査するだろうし、政治家はそのようにするまでに自らに潔癖でなければならないはずである。それほどまでに潔癖でなかったなら、「国民のみなさんのために」といった言葉をウソになる。

 いわば、「国民のみなさんのために」という言葉を口にする資格を自らのものにするためには、政治家は汚れたカネを政治活動の原資にすることはあってはならないし、そうするためには、秘書その他に、政治資金を不正な方法で獲得してはならないとという約束事を絶対のものとしなければならない。

 もっとも、日本がカネの力がモノを言う政治社会・政治後進国であること自体が、「国民のみなさんのために」といった言葉が見せかけのものであることを暴露している。

                     2002.1.14.


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