「市民ひとりひとり」
教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
2001.3.18(日曜日) アップロード
第37弾 | コラムAREKORE |
※以下のコラムは所属しているメーリングリスト、その他に書いたものです。古いものもありますが、
みなさんの参考までに、書き直してホームページ化してみます。手代木恕之
MENUE
@≪靖国公式参拝と戦争犯罪と地下鉄サリン事件≫
A≪松浪議員の水かけ≫
B≪法に触れずに殺す≫
C≪フジモリ大統領の引渡し問題≫
D≪少子化と学力低下≫
E≪在日朝鮮人と公式≠フ問題≫
F≪かくせち≫
G≪少年殺人事件に見る人命軽視と臨死体験≫
H≪「人を殺す経験をしてみたかった」≫
I≪不登校は凶悪犯罪のリスク要因なのか≫
J≪正体見たり、奉仕活動≫
K≪物質的な豊かさが自己中心的風潮を生んだのか≫
L≪ゴルフは人命よりも重し≫
M≪森首相の想像力≫
N≪村上KSD疑惑元議員と森首相ゴルフ問題と不登校と≫
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「宗教法人・靖国神社に、首相や閣僚が公式参拝できる環境整備をめざす自民党の『靖国問題懇談会』(座長・野中広務幹事長)が旗揚げした」と7/20の朝日新聞朝刊に載っていた。 |
20世紀最後の年の暮れも迫り、テレビ各局は政治・芸能・事件等々、20世紀そのものの総決算共々、この1年の総決算報道を行っている。政治関係では、森首相をネタにしないわけにはいかず、松浪議員が内閣不信任案反対意見陳述の途中、演壇から野党席に向かってコップの水をかけたとき、森首相が松浪議員の方に手を向けて、オオ、ヤッタナーといったふうに笑みを浮かべたシーンを何局かが取上げた。自分に不信任案を突きつけられている笑い事ではない重大な場面で、笑みを浮かべることのできる軽さを 印象づけようとしたのは勿論のことだ。松浪議員は脇役に過ぎない。松浪議員が水をかける瞬間テレビを見ていた私自身も、ヤッタナーと思わずニンマリとた。不信任案が可決されるならいざ知らず、ああいったことでもなければ、日本の国会は面白くも何ともない。 しかし、あのとき松浪議員の行為を不謹慎だとしても、意見陳述で、「カラダを張って森内閣を守る」と演説した、その言葉の程度の低さ・品のなさ・思想のなさを取上げたマスコミは一つとしてなかった。日本の政治家はよく「命を張る」とか、「命をかける」とか「天命」とかの言葉を使う。具体的にこれこれの理由で必要である・必要でないと周囲に十分に説明し、納得させることができるだけの言葉を持ちあわせていない、その裏返しとしてある自己修飾語だろう。「命を張る」「命をかける」「天命」と言えば、さも立派に聞こえるし、さも立派なことをしようとしているようにも見えるからだ。実質的には族利害・派閥利害・省益代弁等々の自己保身で動いている政治家が殆どで、特に前野中幹事長が頻繁に使うようだが、彼は外国から「古いタイプの政治家」と見られている。まさしく「命を張る」「命をかける」とかの言葉は昔のヤクザがよく使った前近代的な言葉でしかない。もっとも日本の政治の世界も親分子分で成り立っていて、忠節を尽くすだ何だとヤクザの世界とそっくりなのだが、そういった関連からも、「命を張る」「命をかける」といった言葉が口から飛び出すのかもしれない。 森首相がこれから何か失言や失態を繰返したなら、そのたびに過去まで遡って松浪議員が演壇から水をかけたときの行為を肯定的に笑ったシーンは再放送されるに違いないが、松浪議員の言葉の品性のなさはやはり問題にされることはないだろう。 (2000/12/28) |
「法に触れずに夫または妻を殺す方法を2つ書け」と2年の生徒に期末試験の問題として出したことが保護者からの「配慮を欠いている」という指摘を受けて謝罪した中学校教師のことが新聞に出た。 厳密に言うなら、法に抵触しない殺人は存在しないから、出題自体矛盾している。完全犯罪は、見つからなければ罪に問われないが、あくまでも法には触れる行為である。法に触れる行為だから、ビクビクして生活しなければならなくなる。 戦争で敵国戦闘員を殺すこと、国の法律が認めている場合の末期患者に対する医者の安楽死は殺人行為ではなく、正当行為に入る。ときには正義行為ともなる。 勿論、≪アイロニー≫としてなら、矛盾は問題ではない。その矛盾を無視して、「飲酒運転させて事故を起こさせる」という解答は、なかなかの思いつきだと思う。運転者への飲酒提供も運転者自身による飲酒も≪違法≫だが、「呑んでいるからタクシーを使えと言ったのに言うことを聞かなかった」と言えば、死人に口無しで、カゼ薬を入れたアルコールを飲ませて時間をかけて致死状態に持っていったものの、その成分が検出された現実の殺人事件よりも完全犯罪の可能性(罪には問われない可能性)は高いかもしれない。生徒はその情報を自分のものとしていて、アルコール以外は何も検出されない殺人方法を思いついたのかも知れない。あるいは教師が模範解答として、前以って「たばこや酒の量を増やす」といった例を出していたから、それからの連想かもしれない。 例えまったく新しい殺人方法だとしても、現実社会の殺人事件を学習することからスタートさせた方法以外を考えつくのはなかなか難しいだろう。 「想像の中で殺す。1つは出刃包丁で相手の身体を切り刻んで、1つは紐で相手の首を少しずつ絞める方法で、その想像に現実味を持たせるために、実際に出刃包丁と紐を買ってきて、準備万端整えてから、夫、または妻を残忍に相手が最も苦しむ方法で徐々に息の根を止めていき、最後に殺してしまうところまで想像を巡らす。これは法に触れないだけではなく、何度でも殺人を味わい楽しむことができる」という解答なら、もっとよかったと思う。 問題は、そういった出題と解答だけで完結させずに、あるいはこういった面白い解答があったと、紹介するだけで終わらせずに、答案用紙を返却したあと、それぞれの解答を相互検討する形式で、人間の性(さが)といったことにまで踏み込まなかったなら、教師としての資格はないし、踏み込んでいたなら、保護者の非難に十分に対抗できただろう。教師・生徒双方の意識に、夫と妻=男と女が、さらには人間そのものが容易に変節し、その変節が相手の存在そのものを痛めつけ、抹殺したい殺意にまで高まるものだという情報からの、あるいは実体験からの知識が植えつけられているからこそ、出題と解答は成り立つからだ。 もしすべての男と女が偕老同穴とか諺で言われる通りの美しい存在であったなら、出題自体存在しない。現実には出発点においては愛を誓い合ったはずの男と女の離婚が何分に一組という具合に分単位化し、憎悪や敵意・軽蔑から妻が夫を、夫が妻を殺す事件はなくなることはなく、ときには子どもまで巻き込み、そこまでいかなくも、結婚の体裁を維持しながら、不倫・浮気といった婚外交渉は芸能界だけではなく、一般社会においてももはや珍しくもない日常茶飯事の出来事となっている。 男と女の関係だけではなく、国を変えよう、政治を変えようと政治家を志しながら(もっともその多くは名誉欲・名声欲が主でありながら、それを隠す体裁でしかないことが多いのだが、だからこそなのだろう)、その情熱を鉄面皮に使い分け、ウラでは選挙に当選するために手段を選ばないカネ集めに走り、派閥の協力が欠かせないと派閥の言いなりになるといった、自分の魂をカラッホにする無節操化も、変節の一つであろう。会社の利益のためと役人にカネを渡すのも、同じである。「なぜ人間は変節するのか。自己の変節を正当化するために、殺人まで犯す人間とはどういう生きものなのか。殺人を犯さなければ、その変節は正当化され得ないのか」あるいは、「殺人方法を書き込んだ生徒は、必要なら殺人を正当と見る意識があるからではないか」と問うこともすべきだった。「君たちにしても、あなたなしでは生きていけないと人前だろうとべチャベチャとキスし合う仲となったとしても、そのうち憎しみあって別れることもあり、他の女に取られるくらいなら、あるいは他の男に取られるくらいなら殺してしまおうと実際に殺してしまうことだってあるかもしれないんだぞ」といった会話で人間とか人生とかいうものを教えることもすべきだった。 想像上の殺人は、殺したいという意識を持ったとしても、殺人を正当と見なさない認識からのものだろう。但し、その認識がいつ破られるかは誰も保証できない。始末の悪いことに人間は誰もが攻撃本能を持ち、その上いかようにも変節する生きものだから。 そういったことをも、生徒と会話を交わしながら、教えるべきだったろう。「気をつけろよ。夫婦の中が冷えたとき、答案に書いた通りの方法で殺してしまうこともあるかもしれないのだぞ」と。本当に殺してしまうことがあるのだろうかと自意識させることも、攻撃本能の抑止につながるはずだ。 (2000/12/24) |
日本政府はフジモリペルー前大統領の身柄引渡しをペルー政府が求めたとしても、日本国籍所有者に対して国内法がそれを禁じていることを理由に応じない方針だと言う。だが、フジモリ氏はペルー国籍のペルー人としてペルー社会で、ペルーの大統領としての政治活動を行ったのであり、在職中に不正行為があった疑いから、尋問のための身柄引渡しの要求があったなら、応じるのが社会正義というものだろう。あくまでも日本国籍を理由とするなら、日本政府はフジモリ前大統領に対する真相究明の隠蔽に加担することになるだけではなく、政治上の不祥事・犯罪を庇い合い、許し合う日本の政治家の馴れ合い、あるいは臭い物には蓋の(少年犯罪に対しては厳しいのだが)延長行為と受取られる覚悟も必要となる。歴代政府はただでさえ、かつての侵略戦争をきちんと総括しない逃亡犯であり続けている。 要は国籍とか民族を問題とするのではなく、必要なら法律を変えてでも、あるいは77年のパリ発東京行きの日航機がボンベイ空港離陸後ハイジャックされ、ダッカ空港に強行着陸したダッカ事件で当時の福田首相が「人命は地球よりも重い」の名言を用いて一度利用したことのある超法規的処置を講じてでも、国際社会の共通項とすべき基本的人権を原則とした民主主義に対する逸脱・侵害の有無とその検証を問題とすべきだろう。例え不正蓄財だけだとしても、貧富の格差の大きい、低所得者をたくさん抱えたペルーにおける公職者の不正蓄財はペルー国民に対する重大なる人権侵害に当たる。 フジモリ氏が大統領職にあった当時、不正行為があったか、人権侵害が行われたかのペルー政府の手による事実解明に、あくまでも民主主義のルールに則ってを絶対条件として協力すべきで、そのことは撥ね返って、自国政治権力の民主主義の逸脱・侵害に対する自戒、あるいは抑止として機能する契機ともなるはずである。 (2000/12/17) |
スクラップをひもといていたら、『少子の新世紀』と題して、「受験天国=学力の危機」という、99年1月4日の記事(「朝日」朝刊)に出くわしました。当時の文部大臣の有馬朗人氏は、少子化による受験生の減少が大学入試を容易にして、学力の低下を招くという関係を数式化し、職員に渡したそのメモは清書されて文部省中をまわったそうだ。彼はこう言っている。「学力を維持したいのなら、人口が減った分、入学者を減らすしかない」 入学者を減らしたら、立ち行かなくなる大学が続出する。そうなったら、政府は公的資金を投入するのだろうか。 記事は、「『浪人』が死語になる時代も近づく」と解説している。少子化が原因の定員割れ大学が絶対多数化して、誰でも入学できるという状態は、偏差値をモノサシに入れる大学に入るというこれまでの風潮を受継ぐことによって可能となる状態です。誰もが目的の大学と何を学びたいかを決めて、自分の可能性を試す姿勢(就職のステップとするのとは正反対の姿勢)で選択したなら、特定の大学に定員以上の受験生が殺到するという事態も起こり得るわけだから、全員合格は自分の成績に見合った、高望みはしない程々の大学に、という従来の傾向を引きずらなければ実現不可能だからだ。目的の大学が不合格で次善の大学に合格を果たすことで結果的に不合格者を出さなかったとしても、自己の積極性に反した完璧には歓迎することのできない成果(合格)が多くの大学生を精神的な浪人状態に陥れることもあり得る。 以上のことは密接に学力と関わってくる。何を学びたいのか、どのような知識の獲得を目指しているのか、目的を持って勉強し、それとの関連で自己目的に適う大学を選択するという構図であるなら、そのような積極性に反する学力の低下はありようはずもないからだ。現役突破が一般的になって学力が下がるという情況は、勉強が積極性とは無縁の大学受験のための受身なものであることの証明以外の何ものでもない。 と言うことは、少子化が影響する学力低下は、本来的には中学・高校の教育が受身の勉強を許していることを遠因としたもので、そのこと自体を問題にしなければならないはずである。 問題は有馬氏には「学力の質」「教育の質」への視点がないことである。いわばその視点≠欠くことによって成り立つ「数式」なのである。有馬氏は同じ記事で、「真の学力とは、例えば単純に公式を覚えて答を出すものではなく、自分で公式そのものを導き出し、証明する根源的な力。こうした力をどう育てるかが一番大切なことだ」と言っているが、そのような知識獲得メカニズムは少子化云々に関係ないことで、そのことに気づかずに少子化にこだわっているようでは、多くの政治家の国民向けのメッセージと同様、単に口先だけのもっともらしげな警告に過ぎない。 数学には公式は必要でも、経済とか社会とか政治とかの現実世界の諸活動に関しては公式は必要ではなく、公式から離れた創造的な応用力が求められる。日本の政治に活力がないのは、前例とか伝統、既得権といった広い意味での公式=i「数式」)に縛られていて、そういった機械性から抜け出したところで活動できないでいるからだろう。 阪神大震災での自衛隊の救援活動の遅れは、偵察機を飛ばして、その惨状の凄さと自衛隊の緊急な出動の必要性に気づいていながら、県知事の派遣要請に基づいて行われるという公式=i「数式」)にガチガチに縛られていたからものある。この国の公式=i「数式」)を挙げたら、キリがない。学歴で人間を判断するのも、公式=i「数式」)の一つに入る。 同じ記事の中に、(日本では)「最難関の東大も、学問のレベルが米国の大学を除いても、世界の大学で四十一番目という格付けが、米国にある」と出ていた。日本の大学生の学力が少子化が影響するような内容のものだからこその結果に違いない。少子化とならなくても同じことだと言うことである。米国の大学を入れたなら、何番目くらいに下がるのだろうか。 現在の学力低下は、教師が教育の名のもとに発する情報が一方通行のものである上に、テレビやマンガや雑誌、あるいはテレビゲーが発する情報の刺激性と比較して、相対的に退屈でつまらない、色褪せた無刺激なものとなってしまっていることも、一つの大きな原因となっているのではないだろうか。 有馬氏の数式は、「<有馬さんの数式>と呼ばれる」と記事には書いてある。<有馬数式>とは呼ばずに、「さん」をつけるところが如何にも日本的である。文部大臣ではなかったなら、例え東大総長の地位についていたとしても、<有馬数式>とは呼ばれていたのではないだろうか。大臣であっても、「さん」を取って、誰もが<有馬数式>と言うようになったとき、学校でも、教師と生徒の間に双方向の意志疎通が可能な社会になるに違いない。 国際数学オリンピックに日本代表として出る優秀な人材たちの大学進路についての記事(97/5/26)には、「数学オリンピック財団理事長の野口広早大名誉教授が初期の3年間の成績優秀者47人を追跡調査した結果、43人が東大か京大の理系に進んでいた」と出ている.。同じ財団の理事の伊藤隆一早大教授は、「世界に通用する頭脳をもつ彼らの間から、ハーバードへ行く、プリンストンへ進むという生徒が出てこないのもふしぎ。科学分野のノーベル賞の人数でも分かるとおり、東大などは国際レベルより相当低い。その東大になぜこだわるのでしょう」と言ってい.る。 解説の言葉が、「英才たちの進路で見る限り、頂点に東大Vをいただく偏差値序列が依然、影を落としている」とあるのも、頭がよければ東大という公式=i「数式」)に囚われて、そこから逃れられないでいる姿を映したものだろう。 東大は、言って見れば富士山みたいなものではないだろうか。富士山は日本一の山かもしれないが(その判断は人それぞれの美意識にもよるが)、世界に目を転ずれば、いくらでも富士山以上の素晴らしい山がある。 (2001/1/7) |
これもスクラップをひも解いていたら、見かけた記事で、<有馬さんの数式>に関連した話。 アメリカ映画の中で、白人が黒人に向かって、「俺はお前が嫌いだ。なぜならお前が黒人だからだ」と罵るシーンを見かけたことがある。日本人の場合は例え映画や小説の中でも、韓国・朝鮮人の悪口を陰で言っても、直接本人に向かって、「俺はお前が嫌いだ。お前が韓国・朝鮮人だからだ」と言うシーンはまずないだろうと思っていた。在日朝鮮人三世の中学校教師朴元綱(パク・ウォンガン)氏は「生徒の一人から面と向かって、『おれは朝鮮人は嫌いなんだ』と言われた」と朝日新聞(96.8.4)に出ていた。黒人だったなら、「俺だって白人は嫌いだ。お互い様さ」と言い返すだろうが、朴氏は何と答えたのだろうか。「朝鮮人が嫌いなのは君だけではない。私は朝鮮人だと言う理由でたくさんの人から嫌われている。陰でこそこそ悪口を言うよりも、正直に面と向かって言ってくれてありがとう。差別はよくないが、虚偽よりも正直だ」と笑いながら答えたなら、痛快だったろう。もっとも、「差別はよくないが、虚偽よりも正直だ」という部分は、不動産屋やバーなどは「外国人不可」と正直に書いてあるのに、妻の通う大学院からのクレジットカードの案内用紙に留学生の場合は日本人の保証人が必要だと明示してなかったために余分な手間を取らせらて不快な思いをさせられた中国人留学生の投書からの引用である。 |
『近世農民生活史』(児玉幸太著)に、「越後長岡領の西組庄屋大平与平衛が天保10年(1839年)ごろに記した『農家年中行事』を中心にして、同じ地方のことを記した『粒々辛苦録』を参照して一年間の年中行事を記してみよう」と、二文献を基に全体的な農民の生活を解説した個所がある。そこに、九月「下旬から十月中旬ごろまでのうちに、『かくせち』と称して、一村壮年の男子いわゆる若連中一同は米銭を出して、寺院または一軒を借り受けて集合飲食をほしいままにする。客には壮年無夫の女子を呼び集めて二日二夜以上三日三夜以下とする。そのみだらなことは言語に絶するが、これを拒みあるいは教諭をすれば不日敵対するゆえ主も親も禁(いまし)める法がない」とある。いわゆる今で言う乱交パーティである。なぜ「かくせち」と言うのか説明がないが、季節の変わり目の祝いをする日のことを「節」(せち)と言うから、「隠れ節」が縮まって「かくせち」となったのだろうかか。 問題は乱交パーティが江戸時代の農村にあったと言うことではなく、「主も親も禁(いまし)める法がない」という個所に注目したい。当時は家父長が絶対的な権力を持ち、家(家族)を支配する儒教社会だったとされている。ところが儒教の重大な教えの一つであり、その時代の人間を支配していたはずの長幼の序といった生活及び道徳のルール(規範)は、農村の「壮年の男子」には通用しなかったことを証明している。多分、腕力にしても、働き手としても、親をしのぐものが出てきた場合は、親にしたら、その存在を無視できなかったのだろう。 現在の教育学者や教育評論家、あるいは政治家の多くは、昔は陰湿ないじめがなかったとか、いじめたとしても、これ以上いじめたら危険だぞという場面になったなら、仲間の誰かが止め役を買って出て、陰湿になるのを防いだとか、誰かが悪いことをすると、目にした大人が必ず注意したと、地域の教育力がいつも有効に機能していたようなことを言い、現在の社会に比較した過去の社会を常にプラスのルールが働いていた人間空間であったかのように肯定的に把える。しかし、どのような時代のどのような社会であっても、「かくせち」という行事に表れているように、考えられているルールが考えられているとおりに働いていたとは限らず、何かしらの矛盾や違法を抱えていたはずである。と言うよりも、人間社会は矛盾や違法が勝っているのを常なる姿としていたのではないだろうか。彼らは時代に応じたそういった矛盾や違法を無視して無考え・無条件に過去を肯定することで(そのことはそのような過去≠生きた自分たち自身を矛盾なき存在として肯定することでもある)、翻って現在の子どもを否定し、追いつめる罪を犯していることに気づいていない。現在のいじめや少年犯罪を、大人たちとそのありようの支配的な集合体である今の時代・今の社会に対応した矛盾や違法の表れとして把えることによって、解決の糸口までとはいかなくても、少なくても子どもたちが追いつめられる状況から逃れることができるのではないだろうか。社会(=大人)がそのような考えに則ったとき、当然、「また17歳が」といった新聞や雑誌の見出しは姿を消すことになる。 江戸時代、「不義密通はお家の恥」とされていた。それは不義密通がたまさかの出来事ではなく、大上段に構えなければならない程に横行したことの裏返しとしてある事態であるはずである。近世の密通に関して、『日本史広辞典』(山川出版社)は次のように解説している。「姦夫・姦婦重科(公事方御定書四十八条では死罪)、本夫による密通現場での姦夫・姦婦殺害容認の規範を前代から継承すると共に、本夫による家宅外での姦夫・姦婦の殺害を公的に許容するまでになった(妻敵討――めがたきうち)」。 一方で、「日本は武士道の国だ」などと言う。武士道≠ネるものを完全無欠な絶対的倫理性を備えた道徳観と把え、少なくとも封建時代の支配階級たる武士はそれを完璧に体現していたという考え方である。それは支配階級者を絶対的存在と見なすと同時に、社会や人間の矛盾や欠陥・違法・確執等の実態を隠蔽・無視する過去の捏造=(過去美化)以外の何ものでもなく、それは支配の絶対性と自民族優越意識なくして成り立たない認識作用である。 大東亜戦争を侵略戦争と総括できないのも、南京虐殺を数の問題とすり替えるのも、従軍慰安婦問題に関して軍の関与を長いこと認めなかっったも、過去の捏造=(過去美化)を行わなかった場合の自民族優越の否定を恐れるからだろう。 (2001/1/1) |
2000/12/17のテレビで、国際政治学者の桝添氏は、最近の、特に17歳少年による殺人事件に関して、「子どもの頃おじいさん、おばあさんの死を見てこないから、簡単に人が殺せる」といった文脈で、核家族化による臨死体験の欠如を人命軽視の理由に挙げていたが、まったくもってバカげたことで、では、かつての戦争で虐殺・虐待・婦女暴行・略奪等で見せた人命軽視はどう説明したらいいのだろうか。 戦前の大日本帝国軍隊の下層兵士は農村がその主な供給源だったそうで、いわば農業では食えない農家の次男三男、あるいはそれ以下がその殆どを占めていたということでであり、彼らは都市住民以上に大家族のもとで育ち、子どもの頃、自分たちの家だけではなく、本家だ、分家だと、それらのおじい さん、おばあさんの死に立ち会っただろうから、人の命というものを存分に学んだはずである。桝添氏の説明は矛盾するではないか。 戦争という異常な極限状況が人間の理性を狂わせ、臨死体験を無とし、人命軽視に走らせてしまったとする把え方もあるだろうが、では、戦争に至る前の極限状況にはない軍隊での古参兵による伝統と化していた新兵いじめは、どう説明したらいいのだろうか。人間の命とは物理的な生死を言うだけではなく、一人ひとりが独自の喜怒哀楽の感情を持って生きてある状態をも言うはずで、それへの精神的・身体的侵害・攻撃は人命軽視そのものである。戦前における、現在以上に執拗で残酷だった朝鮮人差別も、人命軽視に入る。当然現在の子ども・生徒のいじめも人命軽視であり、少年たちの殺人はいじめにおける人命軽視の最悪状態化したものと言える。 戦前の兵士たちと現在の少年たちの人命軽視における共通項は臨死体験ではなく、心の余裕のなさではないか。天皇陛下のため、お国のために命を捧げること、死ぬことを義務づけられた兵士が心の余裕をもって戦争を行うことができただろうか。農業では食えない農家の次男三男だった下層兵士が、自分たちよりも楽な暮らしをしていると常日頃から恨みの感情で見ていたことから特に新兵いじめのターゲットにされたという都市給与者の入隊に対して心の余裕をもって対応することができただろうか。もっとも、新兵いじめが俺は先輩だと、先輩であることの優越性の証明としての暴力でもあった権威主義的な側面も見逃してはならない。 今の学校の子ども・生徒たちをテストの成績かスポーツの成績で人間としての価値を決定する学校価値観・社会価値観(=学歴主義・スポーツ主義)の蔓延を前にして、それらの能力に恵まれない子ども・生徒たちが心の余裕をもった対人関係・心の余裕をもった生活が果たせなかったとしても、彼らだけに責任を負わせることはできない。心の余裕のなさがキレたりといった感情の爆発を容易に引き起こし、それが家庭内暴力や集団暴行、殺人といった形で現れるのである。 殺人を犯す子どもたちの心の余裕を奪っているのは、教師・親を含めた大人たちである。臨死体験の欠如が少年による殺人の頻繁化を招いているといった見当違いの認識が、あるいはそのような認識を得々と披露する無見識が世の中を、あるいは子どもたちを誤らせている一因にもなっていることに留意しなければならない。 (2000年12月19日) |
愛知県の65歳の主婦が2000年5月3日の夕方、無面識の高校3年生(17)の男子にナイフで殺された。供述した動機は、「人を殺す経験をしようと思っててやった」である。 殺人には何らかの目的があるはずである。憎しみや怒りや嫉妬心を晴らすため、バカにされたからといったことからの名誉回復のため、金を奪うため等々。しかし、「人を殺す経験をしてみたかった」は一見、殺人そのものが目的のように見えるが、それをすることによって、少なくとも心理的・精神的な何かを得ようと頭に描いたはずである。「経験」が目的で(ここで目的≠ニいう言葉を使うのは矛盾しているが)、殺す対象は誰でもよかったと言っている。元々特定対象のない殺人は(特定対象をすり変える場合はある)、人間や社会そのものに対する破壊衝動を内包していないだろうか。すべての人間に対する破壊(殺人)、あるいは社会全体に対する破壊(殺人)を、それが不可能だから、任意の一人を選び、可能とすることによって、自分が目的とした感情を得ようとした。本人に尋ねなければ、どのような感情を期待したのかは理解不可能だが、本人もそれを感覚的に感じただけで、言葉で説明することができないということもある。それに、彼は実行した後、思い描いたものは手に入らなかったのではないだろうか。以上の推測がまるきりの的外れということもある。 もし当たっているとしたら、すべての人間≠ニ社会全体≠ヘ、全人類と地球全体を指すのか、それとも日本人全体と日本社会を漠然と指したものなのか、学校や家庭、地域を含めた自分自身の生活圏とそこで生活する不特定多数を指すのか。対象のすり替えは対象間の境目を失うことによって生じる現象であろう。いわば、日本人全体と生活範囲内の人間との境目をなくすことで可能となる不特定対象犯罪である。 自分の信じた宗教(あるいは異性)に裏切られた人間が、自他の境目を失って、すべての宗教(あるいは異性)に対して不信感や憎悪を抱くこともあるからである。 オウム真理教の麻原彰晃は総理大臣になるのが夢だったという。信者共々選挙に立候補して、全員が落選した。教団は維持できたとしても、自分の輝かしい将来像とすべき第一歩を社会から全然受入れられなかった失望と反撥が、それまでの極度の弱視という身体障害に対する世間の差別や厭な思いを散々受けた被害意識を基本として、日本人全体に対する憎悪へと広がり、その報復をとりあえず地下鉄の車両内にサリンを撒くという形で行ったのではないだろうか。いわば、それまでの人生に関わってきた人間と日本人全体との境目を失い、不特定多数の人間を対象とする大量殺戮を狙った攻撃に走った――、ということではないだろうか。 もっとも、麻原彰晃を擁護する気持はさらさらない。 (2001/1/3) |
2001/2/1の『不登校新聞』に、「警察庁が昨年末に出した少年事件に関する緊急報告書」を分析した、≪不登校は凶悪犯罪のリスク要因?≫と題する批判記事が掲載されている。「報告書」は「1998年1月から2000年5月までに起きた少年による凶悪事件のうち、22例を、事件予防の手がかりを得るため、『背景』(リスク要因)と『前兆的行動』を分析したもの」で、それは「少年本人や保護者などに直接聞き取りをしたり、少年鑑別所や家裁の調査官の科学的な調査結果を参照して分析したものではなく、捜査資料の閲覧と担当調査官からの聞き取りをしただけで、捜査をする警察官の見方、考え方」が反映した偏った調査だと言う。 ここに記事にある「緊急調査報告書」の「少年の背景(調査対象25人・複数回答)」の調査結果を記しておく。 『●被害経験・・・・・・・・・・・15 ・犯罪の被害・・・・・・・・・・3 ・いじめの被害・・・・・・・・13 ・家族からの暴力・・・・・・・・4 ・教師からの過度の体罰・・・・・1 ●対人不適応・・・・・・・・・・16 ・孤立経験・・・・・・・・・・10 ・不登校・・・・・・・・・・・10 ・怠学・・・・・・・・・・・・・7 ・引きこもり・・・・・・・・・・4 ●自殺企図・・・・・・・・・・・・2 ●加害経験・・・・・・・・・・・12 ・対人の身体的暴力・・・・・・・8 ・脅迫・・・・・・・・・・・・・9 ●攻撃行動・・・・・・・・・・・11 ・激高行動・・・・・・・・・・・8 ・家庭内暴力・・・・・・・・・・3 ●報道、書籍等の影響・・・・・・13 ・事件報道・・・・・・・・・・・7 ・神戸事件・・・・・・・・・・・5 ・猟奇もの関係の書籍・・・・・・6 ・武器関係の書籍・・・・・・・・2 ・ホラービデオ・・・・・・・・・5 ・テレビドラマ・・・・・・・・・2』 以上はあくまでも統計であって、そこから少年ひとりひとりに共通する最大公約数的な思い(=心理的要因)≠抽出する作業を経過させた結論の構築が必要であって、「調査報告書」がそのような作業を経過させたのか、経過させたとしたなら、結論が正しい方向性を獲得したものとなっているかどうかの検証を行わなければならない。 「被害経験」と「対人不適応」との関連について言えば、どちらが先行要因としてあったのか、いわば、「被害経験」を原因として「対人不適応」が結果として生じたのか、「対人不適応」を先行条件として、「被害経験」がその結果として控えていたのかによっても、少年のそれ以降の行動性にも影響は異同が生じてくる。「被害経験」が「対人不適応」に発展した場合の、それを「背景」(リスク要因)とした凶悪犯罪£i階への移行は、例えそれが歪んだものであっても、倒錯したものであっても、自己正当化意識(あるいは自己権利意識)の発動を受けた自己主張行為の一形態を取ると考えられないことはない。いわば「いじめの被害」を初めとするその他の「被害経験」の恨みを晴らす、あるいは失地を回復する、被害≠ノ優るスケールの大きさへの希求の結果としての凶悪犯罪≠ナはないかということである。 逆に、「対人不適応」が「被害経験」に発展した場合の、それを「背景」(リスク要因)とした凶悪犯罪£i階への移行は、自己に対する負意識からの自己嫌悪意識(自責意識)を発端とした自暴自棄的な自己破壊型を取りがちではないだろうか。「いじめの被害」、その他の被害の責任を、学校に適応できない、人とうまく関係を持てないといったことの自己の性格にあるとし、そのことへの自己嫌悪に見合う自傷心理、あるいはそのような宿命を担わせた存在としての親や教師への嫌悪に見合う屈折心理の爆発としての凶悪犯罪≠フスケールではないかということである。 ここで留意しておかなければならないのは、「被害経験」のうち、「いじめの被害」が25人中13人と50%を超えていることである。「教師からの過度の体罰」を背景要因の一つとしている少年は1人に過ぎないが、額面どおりには受取ることはできない。例え「過度の体罰」でなくても、時と場合、あるいは頻度によって、生徒の感性や情操に決定的な傷≠与える場合もあるだろうし、さらには「教師からの」「被害経験」が常に身体的行使力を伴った体罰だけとは限らず、無視とか内心の軽蔑を顔に見せるといった精神的な攻撃も、ソフトではあっても、それが人格無視・人間無視の装置としてあるものなら、体罰と同等の、あるいはそれ以上の見えないムチに相当するだろうからである。あるいはそれ以前の問題として、学校教師が生徒の人間価値を成績がよい悪い、テストができるできない、あるいはスポーツが優れているいないを主体として判断すること自体が身体的攻撃性を伴わない体罰――言葉を替えて言うなら、教師による生徒に対する精神的・心理的ないじめそのものであり、生徒自身は気づかなくても、「被害経験」の項目に、「教師からのいじめの被害」をも付け加えなければ、より正確な「背景」をさぐり出すことは不可能だろう。 いずれにしても、生徒のいじめがテスト・スポーツで果たせない自己の優越的距離の確保の代償としての自己優越証明であり、それは学校社会が生徒の生存機会をテストとスポーツに限定していることの反映としてある、倒錯した生存機会証明であり、そうである以上、学校価値観の強要として表れている精神的・心理的体罰に相当する教師による「いじめの被害」は「凶悪犯罪のリスク要因」として最初にあると同時に最大のものと位置づけなければならないのではないか。いわば、生徒の「いじめ被害」は二次的か、それ以下の要因に位置したものに過ぎないのではないかと言うことである。 「被害経験」が25人中15人に対して、「加害経験」がそれに近い25人中12人もあるのは、被害≠ェ被害≠ナ終わらず、加害≠ェ加害≠ナ終わらない、既に通念となっている役割が相互循環型を取ることの改めての証拠立てであろう。それはまた、倒錯した自己優越証明が常により弱い者をターゲットに連鎖していることの裏付けでもあるが、そのような循環と連鎖の予期しない発展形が凶悪犯罪≠セとすると、被害≠熈加害≠焉A相互的な「対人不適応」を構図として成り立つより悪しき一形態としてあるものだから、先の「被害経験」と「対人不適応」との関連と同じように、「対人不適応」は無視できない重要なカギの位置にある。 学校社会が生徒の生存機会をテストとスポーツのみに限定して、あるいは遮断して、それらで生存機会を果たすことのできない生徒を「不登校」や「孤立経験」、「引きこもり」といった「対人不適応」の形で学校社会の片隅に、あるいは学校社会の外に追いつめて、凶悪犯罪≠フ「背景」(リスク要因)をなさしめていることがすべての発端と把えるなら、学校価値観そのものを創造的に変化させることこそが、「背景」(リスク要因)云々、「前兆的行動」を云々することよりも先決としなければならない事柄であるはずである。 (2001/2/4) |
町村信孝文部科学相はこの度、大学入学時期を9月とし、高校卒業時期との半年の空白期間の3、4ヶ月を奉仕活動に当てる考えを示した。その中身として、自衛隊体験入隊を挙げている。本人は、「体験入隊とは言わないが、もうちょっとソフトなプログラムがつくれるだろう」と言っているが、それが反対の声を抑えるための柔軟性を装った煙幕に過ぎないだろうことは、「3ヶ月で、ぐうたら息子が変わるという、日本にはそういう場がない」と自ら語った町村氏自身の言葉が、戦中からそれ以前生まれの日本人が、「軍隊に行って根性を叩き直してこい」とか、「軍隊がなくなって、根性を入れる場がなくなった」とか、スパルタ式肉体訓練を通した精神注入は軍隊が最も適していると考えていたのと同じ文脈のもので、隠しようもなく町村氏の本心を滲み出している。いわば旧帝国海軍が用いた精神棒の役割を自衛隊体験入隊に持たせようというわけである。 軍隊である自衛隊体験入隊が精神主義に真に役立つとしたなら、未成年女子との性行為、下着の盗撮、機密重要書類の外国の秘密機関への売却、あるいはゴルフで上司を負かしたら、異動希望届を関係部局に通してなかったといった無視行為ばかりか、内部規定に従い幕僚長に苦情を申し立てたところ、閑職の幹部学校資料班長に左遷されたといった組織的な嫌がらせ、その他その他の不正行為を働く「ぐうたら」不埒な自衛官の出現は出来(しゅったい)しなかったろう。確か海上自衛隊でもいじめ事件と、なかなか上級試験が受からない上官のために試験問題を洩らすかした事件も起きている。 いや、それ以前の問題として、規律ある集団生活を通して精神を叩き直すといった他力依存の発想は、自発性に期待しない、自発性への視点を欠いた時代錯誤な精神的発展途上人の産物でしかない。自発性を獲得した人間こそが、真に自律(自立)的存在足り得るということを知らないらしい。 もし 町村氏が言うように自衛隊体験入隊が、「3ヶ月で、ぐうたら息子が変わる」なら、日本では殆どがそうである「ぐうたら」政治家を体験入隊させたなら、3ヶ月では無理だが、2年も3年もかけて根性を叩き直したなら、日本の政治はもう少しマシなものとなり、欧米から子ども扱いされないくらいには成長することになる。 しかし日本の政治家の無思想性を補うものとしてあるカネと数でしか勝負ができない政治性は本質的なものだから、10年20年体験入隊したとしても、何も変らないだろう。ただ単に要領とハッタリに磨きをかけてくるだけで終わるのではないだろうか。 政治家だけではない。高島屋だ、日本航空だ、味の素だといった、総会屋や右翼に不正利益供与するような企業の幹部もまず体験入隊させて、その「ぐうたら」さが叩き直させるものなのかどうか、試したらいい。不正経理、不祥事隠蔽、監査の名を借りた飲み食いの遊興等々、警察も相当「ぐうたら」化状態にあるから、、日本全国の警察幹部だって一人残らず入隊の仲間入りをさせるべきだ。本人の「ぐうたら」ぶりは直らなくても、今度は自分たちが入隊させられるのではないかと世の大人たちがビクビクすることによって、日本の社会は少しはピリッとなって、景気回復も早まるのではないか。 (2001/2/4) |
平成8年7月16日の≪文部省発表≫に次の一文があることを知った。 ≪いじめの問題は,大人の一人一人に対して大きな意識の変革を迫っている。その一つは,他人を思いやることのない自己中心的な風潮や人間相互の連帯感の希薄化などについてである。物質的な豊かさの中で,社会全体がこうした様相を帯びており,このことがいじめを許し,見逃す背景の一つであると指摘されている≫ ここには意図しない狡猾な事実誤認、あるいは事実の歪曲がある。もしも≪物質的な豊かさの中で≫、こうした状況が生じたと言うなら、≪他人を思いやることのない自己中心的な風潮や人間相互の連帯感の希薄化≫は戦後の状況としてあることになる。 プロ教師の河上亮一も『学校崩壊』で、「経済的に豊かになるというのは、子どもの教育にはマイナスの面のほうが大きいのかもしれない」(p33)などと小賢しげなことを言っている。 そういったことが事実としたなら、無意識に意図するところは、戦前と戦後の貧しかった一時期の肯定であり、経済成長以降の戦後の否定ということになる。否定はアメリカナイズの否定であり、アメリカそのものの否定、いわば戦前の日本≠フ肯定を内側に隠したものとしてあるものだろう。≪文部省発表≫は、≪自我の確立≫とか、≪個を大切にし,個性や差異を尊重する態度やその基礎となる新しい価値観を育てるという児童生徒観に立ち,これに基づく指導を徹底することがいじめの問題への根本的な取組みとして極めて重要となる≫などとも言っているが、大体が、自我≠フ確立とか、個≠フ確立といった観念は欧米の思想としてあったもので、アメリカそのものの否定は自我≠フ確立まで否定しなければならなくなり、自己矛盾を犯すことになる。 もし≪他人を思いやることのない自己中心的な風潮や人間相互の連帯感の希薄化≫が戦後のものであるなら、いじめも戦後生じた現象ということになる。多くの人間が、プロ教師も含めて、「昔は今みたいな陰湿ないじめはなかった」と言っているが、弱い者いじめだけではなく、日本人の子どもによる子どもに対する朝鮮人差別、身体障害者差別はその時代なりの残酷で陰湿ないじめとして厳然として存在していたのである。それらは大人のいじめや差別の反映(大人の態度や意識の反映)としてあったもので、関東大震災における在日朝鮮人虐殺の残酷さに匹敵する、子どもによる残酷ないじめや差別があったとしても、当然の受継ぎとして否定することはできない。 戦前は現在よりも集団主義・権威主義の力学が人間関係を強く縛り付けていた時代である。いわば現在以上に個を重視しない社会、自我≠フ確立を見ない社会だった。それぞれがお互いに一個の個であるという考え(=相互的に違いを認める人間観)が自己中心性を排除し、そのことが≪人間相互の連帯感≫を生むのであって、その不在こそが≪他人を思いやることのない自己中心的な風潮や人間相互の連帯感の希薄化≫の原因を成すもので、≪物質的な豊かさ≫は関係のない要素としてある。戦争のために物資不足を来し、殆どの日本人が物質的に貧しかった時代に軍人や地域の有力者がコネを利用して生活必需品を横流しさせ、それを役得とした≪自己中心的な風潮≫の蔓延は、よく知られた戦争中の事実としてあったもので、決して戦後だけの産物ではない。 ≪文部省発表≫には、≪これまで我々の社会では,個性を尊重し個々の差異を認め合うことの大切さが必ずしも十分に顧みられてこなかった。このためもあり,ともすれば教科指導ばかりでなく,生徒指導においてもきめ細かい個に応じた指導は必ずしも十分に行われてこなかった≫と、≪十分に顧みられてこなかった≫、≪十分に行われてこなかった≫としているが、狡猾な意識操作に過ぎない。例え自分たちは気づいていなくてもである。本来的には日本人の精神性には家の思想≠ヘあっても(家の頂点が国家であり、国体だった。だからこそ天皇を主権とすることができた)、個の思想≠ヘなく、集団主義・権威主義を引きずるばかりで、≪十分≫どころか、スローガンとして掲げるばかりで、いわば表面性と形式性で済ますばかりで、実質的には全然顧みられることはなかったと言っても過言ではない。だからこそ、横並び∴モ識とか、横並び″s動と言うものが現在もなお社会的蔓延状態としてあるのである。 ≪物質的な豊かさ≫が≪自己中心的な風潮や人間相互の連帯感の希薄化≫を誘発しているなどと見当違いなことを考えている間は、真の自我≠フ確立教育は不可能だろう。≪個性を尊重し個々の差異を認め合う≫意識・態度は集団主義・権威主義の向う側にある。いわば日本人の精神性から集団主義・権威主義を取り除かなければ、≪個≫に届くことは決してない。 (2001/2/12) |
ゴルフは人間の命よりも重し
作・手代木恕之 愛媛県立宇和島水産高校 漁業実習船えひめ丸が ハワイ沖で緊急浮上訓練の 米原潜グリーンヒルに 衝突され、沈没した 実習生、教官、乗組員の 26人は救出されたが、 まだ9人が行方不明だ 偉大な日本国総理大臣森喜朗は 大学時代の友人とゴルフの最中に 事件の一報を受けた お楽しみの最中に邪魔が入って と思ったかどうかは分からないが そのまま2時間もゴルフを続けてから 首相官邸に戻った それも一旦東京・瀬田の 自宅に寄ってからの官邸到着である 軍事同盟を結んでいる アメリカ海軍所属の原子力潜水艦が 日本の実習船に衝突し、沈没させたのである しかも13人の高校実習生が乗船し、 行方不明者9人の中に4人が含まれている 緊急事態とは考えなかったらしい 福田官房長官は首相は 「ゴルフ場から色々と指示していた」と言うが それでも2時間も 自国民の安否に惑わされることなく ゴルフに集中できた神経は素晴らしい 森クンのことだから ダジャレを飛ばしながらだったろう 想像力の機能停止 あるいは 想像力の機能不全に 陥っている人間でなければ できない芸当ではないか 「神の国」発言も、 「国体」発言も、 「寝ててくれれば」発言も、 北朝鮮拉致疑惑の「第三国発見」発言も みんなつながっている 想像力の機能停止 あるいは想像力の機能不全から出て それなくして存在しない発言だ 一国の総理大臣が 想像力の機能停止 あるいは想像力の機能不全状態にある だが、それは一人森喜朗だけの問題ではない 日本人の精神性としてある 横並び行動」 前例主義、指示待ち症状 マニュアル対応 危機管理無能力 すべてみんな、みんな 想像力の機能停止 想像力の機能不全を原因としなければ 現れることのない症候群である 阪神大震災で県知事の出動要請を 待ち続けた自衛隊 9年間拉致監禁されていた女性が 保護されたと言うのに その報告を受けながら 内部監察官と共に 酒とマージャンに耽っていた 新潟県警本部長 想像力のマヒ状態があってこその 素晴らしい対応なのだ だからと言って 日本人全体の問題だからと言って 日本国総理大臣たる森喜朗が 想像力の機能停止に 陥っていてもいいという理由にはならない 想像力の機能不全に 陥っていてもいいという理由にはならない それは日本で最高の 総理大臣という責任ある 最も重い地位についているからである 資格のない総理大臣は その椅子から速やかに去るべきである (2001/2/12) |
森首相がえひめ丸事故時に言い訳した、「右往左往しない」こととは、ゴルフを続けるということかなのか。「そのまま止まっているわけにはいかない。後の方に迷惑かけるから。・・・・あちこちに歩いちゃみんなに迷惑がかかる。非常にうるさいゴルフ場なので」(「朝日」2001/2/14朝刊」)――いわば、ゴルフ場の規則を優先させたというわけである。 総理大臣とは、政治の安定維持・社会の安定維持、経済の安定維持・教育の安定維持、外国との友好関係維持等々を意図・運営する国家危機管理機関たる政府における、最高責任統括者のはずである。 今回のハワイ沖の事故は単にアメリカの民間船と日本の民間船が衝突したということではない。軍事同盟国の原子力潜水艦が緊急浮上訓練時に日本の高校の漁業実習船と衝突し、沈没させたのである。当然死傷者が出ることも予想されるだけではなく、双方の国民感情にも関わってくることも予想される、外国との友好関係維持という国家危機管理の範疇に入る外交問題、外交事態と受止めるだけの想像力が国家危機管理最高責任統括者たる総理大臣には求められていいはずである。沖縄駐留米軍兵士が起こす各種犯罪事件が国民感情、特に沖縄県民感情を刺激してもいるのである。新たな軍関与の事故ともなれば、何かのキッカケで日本の反米感情が噴出する可能性もなきにしもあらずである。そういった日本の反米感情に対抗する米国の反日感情の誘発という事態も考えられないことはない。 もっとも、日本の政治の社会の安定維持、経済の安定維持という国家危機管理問題である景気政策の無能力による長引く不況が日本国民の士気を奪い、反米感情を引き起こすだけの気力を失っているかもしれない。だとしても、今回の事態が果たして,「これがどうして危機管理なのか。事故でしょ」は、国家危機管理最高責任統括者たる総理大臣が示してもいい判断だろうか。想像力の機能不全・想像力の機能停止と非難されても仕方ないだろう。 (2001/2/15) |
新聞の記事(「朝日」01.3.4朝刊)で知ったことだが、KSD疑惑の主役村上正邦元参議員は、ダウン症の末娘が生まれたとき一週間は持たないと言われたその一命を、病院を駆けずりまわり取りとめたそうだ。「生命の尊さ、生かされていることの素晴らしさを思ったとき、涙がとめどなく溢れてきた。国の命、人の命を守るという政治家としての志は、この原体験に根差している」と、そのときの村上氏自身の存在そのものを揺さぶった衝撃的な体験を政治家としての姿勢の原点としているそうだ。記事は、「原点は、KSDのカネと票にまみれ、失われた」と、ドラマティックに解説しているが、意地の悪い見方をするなら、原体験≠ネるものは、自己の政治家像を人間生命に理解ある、人間味溢れた、思いやりあるものとする創作でしかなく、それを目玉に政治家としての体裁を成り立たせていただけのことではないだろうか。 もっともらしく聞こえる言葉ではあるが、「国の命を守る」とはどのようなことを言うのだろうか。そもそもからして、「国の命」とはどのようなことを指すのだろう。「人の命」とは、当然物理的な生死だけを言うのではない。生きてあることが常に充実している。そのような状態の「命」でなければ、無意味である。例え不可能であっても、そのような「命」を一人残らずの国民が享受できるよう、国のありようを準備する努力をするのが政治家の務めで、それを日常的姿とした国民の全体像を国の姿≠フ目標としなければならない。もし「国の命」という言葉が成り立つとしたなら、国民があるべき姿・あるべき命を求めて苦闘する、そのような命の営みを側面援助し、完成への道筋をつけていくことを責務とする、そういったことを言うものでなければならない。言い換えるなら、「国の命」とは、常に国民を優先し、国民の立場に立って国民の生命と活動(生活)を有機化する機能体でなければならない。 日本の政治が果たして真に国民の立場に立ったことがあっただろうか。経済大国化しながら、「豊かな国の貧しい国民」という国の姿・国民の姿は、政治が経済運営主体の大企業優先と、自己権力維持のための自己保身優先に立っていたことの当然の現われと当然の結果であり、国民の立場に立っていなかったことの強烈な証拠としてあるものである。 そして、村上氏はそのような国の姿をKSDを後ろ盾に見事に体現していたのである。醜い本質を抱える者ほど、それを隠すために自己を美しく装う原点とか原体験とかを創作するものである。 日本の政治(特に自民党の政治)は国民の命≠軽々に扱ってきたから、森首相も同じ傾向の政治家だとしても不思議はない。総理大臣だから、特別に目立つに過ぎない。ただでさえ国民があるべき姿から程遠い場所に位置させられているというのに、原子力潜水艦に衝突させられ沈没したとなれば、全体から見ればほんの数人の国民でしかなくても、巨大な暴力に等しい物理的な外部からの力によって今ある姿・今ある命そのものが奪われるかもしれない危機に立たされたことを意味するのである。例え全員救助という結果になったとしても、国民の上に立つ者として、最悪の事態回避を願って、首相としてあるべき場所・あるべき姿で事態の推移を見守るべきであったし、そうするのが責務であったはずであるのに、そうしなかった。人の命≠ヨの思い・想像力が働かなかったからに過ぎない。 翻って不登校とは、学校社会において生きてあることを充実させ得ず、そこに自己にふさわしいあるべき姿・あるべき命を見い出し得ない状態を言うものであろう。裏返して言うなら、学校・教師が、生きてあることが常に充実している、そのような命≠一人残らずの生徒が享受できるような学校社会を準備することを怠っているとことを意味するはずである。いわば、不登校生がたった一人であっても、自分から好んで学校社会から外れるわけはない以上、不登校生の問題としてではなく、学校・教師の側に問題があると自覚自省して、結果として例えすべての生徒にそのような生命環境を提供するのは不可能だとしても、提供を常なる努力目標とすることを学校・教師の責務としなければならない。ところが実際は多くの人間が不登校は不登校する生徒の側の問題だと把えている。「自己統制力(セルフコントロール)なき自由や権利の主張は、気に入らないことはやらなくてよいという結果をもたらす」(「全国不登校新聞」2001/2/15)と、そのことを不登校の原因の一つに挙げている町村文部科学相の発言も、その一つであろう。人の命≠ヨの思い・想像力が働かない政治家の一人であるからに他ならない。 町村氏はその発言の前置きとして、「家庭や学校の教育の中で、自己統制力(セルフコントロール)を児童生徒に身につけさせることが不十分であった」と言っているが、「気に入らないことはやらなくてよい」ことを行動原理とした生徒は、それが教育の成果の一つで、日本の教育の申し子でもあるなら、そのような生命を与えた「家庭」共々本家本元の一つである学校社会にのさばり、不登校とはならないだろう。 実際は「気に入らないことはやらなくてよい」とは逆で、自己にふさわしいあるべき姿・あるべき命を見い出し得ないからこそ、学校社会に背を向けるのではないのか。不登校が不登校生の側の問題だとする考えには、不登校生を悪者視する思いをひそませていて、外国人犯罪者の増加とそのことによる外国人に対する排除心理の高まりの例を出すまでもなく、外から見えなくても、悪者視には必ず排除の心理が働くことに気をつけなければならない。 (2001/3/16) |