「市民ひとりひとり」
教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう 2001.5.18(金曜日) アップロード 第40弾 雑感AREKORE |
森首相退陣に伴う自民党新総裁選出に4人もが立候補し、賑やかな論戦を展開した。いくら小泉純一郎が「首相にしたい政治家」の一般支持率が高くても、最終的には従来どおりに派閥力学=永田町の論理がモノを言って、最大派閥橋本派領袖の橋本龍太郎が総理大臣の椅子に収まるだろうとタカをくくっていた。民主党以下の野党もそのことを望んでもいたに違いない。橋本派には大物フィクサーの胡散臭い野中・青木の2人が控えてもいるのである。立候補者が4人も雁首を揃えたのは、森首相選出劇で露骨化した自民党政治の密室性・政治権力の私物化イメージを方向転回させ、開かれた$ュ治・開かれた℃ゥ民党を売込む猿芝居・単なる演出に過ぎないだろうと見ていた。 ところが、小泉純一郎は一般党員選挙で圧倒的な票数を獲得し、本選挙では決戦投票で橋本支持にまわるだろうと見ていた江藤・亀井派と派の候補者である亀井静香が本選挙を降りる形で政策協定を結び、その派閥票も取込んで橋本龍太郎を大差で抑え込む予想外の展開を見せることとなった。 このような小泉圧勝の経緯は江藤・亀井派の動向と併せて、橋本支持を打ち出していた堀内派が演じた、土壇場で勝ち馬に乗る二股膏薬のドタバタ劇がすべてを物語っている。まずは長野県知事選から始まった、栃木、千葉、秋田と続いた地方首長選での自民党の敗北で露礁化した既成政党離れ・既成政治不信に見られる一般有権者の既成的可能性・既成的価値観への拒絶反応に参議院選とそれに続く衆議院選の成果に対する危機感から、背に腹は代えられぬものとして一般党員が便乗し、それが国会議員にも波及したということである。そしてそういった波及は、一枚岩を誇っていた、あるいは一枚岩を維持することによって数の力を最大限に発揮できてきた最大派閥橋本派の一部の若手に先取りされていて、橋本氏擁立に対する造反という形で前以って現れてもいたのである。いわば既成的価値としてある派閥力学・永田町の論理への同調は不利な状況にあると見て豹変を演じたのであって、決して一般党員も自民党議員もそれぞれが政治思想を持って行動した選択ではなかった。 政権維持が単なる数合わせでは危うくなり、既成的なるもの≠ニは180度正反対の改革イメージを期待の星としなければならない自己保身が従来どおりの数の論理に打ち勝って小泉選択へと雪崩を打たしめたのである。 だが、動機は次元が低くても、結果がよければいい。ひとえに言葉(思想・哲学)を発した新首相のリーダーシップと、その政治成果が、夏の参議院選、続く衆議院選の結果を(衆参同日選であっても)左右することになるだろう。言葉をニセモノとせずに、ホンモノとするかどうかの力量に掛かっているということである。 但し、例え小泉新首相が言葉をホンモノとすることに成功したとしても、殆どの政治家が本質的な体質としている、自己保身(=政権維持)が保障される限り既得権にしがみつき、構造改革・財政改革に総論賛成、各論反対の消極的で狡猾な日本的政治性にストップをかけ、国民の望む政治を実現させる最善策は政権交代という競争原理を政治世界に持込み、それを武器として政治家の尻を叩く方法がより有効であることに変りはない。政権を担うことによって、政権能力は育つ。必要に応じた懲罰としての与野党逆転による政権交代がなかったことが、政官財の癒着や族議員に代表される既得権益維持、あるいは派閥力学をはびこらせた要因ともなっているのであり、そのことに対する国民の責任は重い。経済的には大国であっても、政治的には世界に向かってリーダーシップを発揮できない政治後進国に甘んじているのも、国民が政権交代という競争原理を活用して日本の政治を育てることをしてこなかったことによる。村山富市如きが、あるいは森喜朗如きが日本国総理大臣になれたのも、有権者が競争原理とは裏腹の表面的な数合せの政治を許してきたからに他ならない。 最後に一言。小泉新首相の突出した積極的な靖国神社公式参拝意志である。それは日本という国の代表者でもあるのだから、ただの議員が積極的なのとは意味合いが異なってくる。アジアで仕掛けた戦争に対する考え方――戦争観に関して国家の姿勢を方向づける意思表示と受取られるのは間違いない。但し、予想される内外の反撥をかわすために、私人として参拝するが、記帳は内閣総理大臣小泉純一郎となると、例の如くのトリックでやり過ごすらしい。 積極派の理論は、「国のために尊い命を捧げ、犠牲となったのだから、参拝し、追悼するのは当然」と言うものだが、例え尊い命であったとしても、過った国家のための過った犠牲だったのである。肯定的な行動様式だったとは決して言えない。それを英霊として顕彰すると言うなら、組を守るため、組長を守るために命を捧げたヤクザ・暴力団員も同列のこととして肯定的な存在=英霊として顕彰することも社会的に許されることになる。あるいは死刑となった場合の麻原彰晃を殉教者として,神としてオーム真理教(現アレフ)信徒が称え祀り、肯定的存在と化したとしても、社会一般は何ら批判することもできなくなる。過ちは過ちとして明らかとし、二度と過ちを犯さない教訓、いわば否定的な行動様式・否定的な存在様式の見本とすべきで、それをしない参拝は、暴力団行為や麻原彰晃の生きざまを肯定するのと同じく、かつての戦争を肯定する行為につながるのみである。(2001/5/5) 【追記】2001.5.14.「朝日」夕刊に、『靖国神社の参拝首相改めて強調』と題する記事が載っている。そこで小泉首相は次のように言っている。「『戦争を二度と起こしてはいけないという気持と、家族や国のことを思って戦争に行かざるをえなかった人への敬意を込め、総理として参拝する。批判はあろうと、日本人として自然なこと。宗教との関係はない』」 |
北朝鮮の金正日総書記の長男金正男らしき人物が偽造旅券で日本に不法入国した目的をめぐって、議論以前の推測がマスメディアをにぎわしているが、誰もが納得のいく答を出していない。法務省は件の人物を「金総書記の長男かどうかは確認できなかった」としているが、入国管理局に刑事告発を要請した警察庁の意向を採用せずに本人の希望する中国にいともあっさりと強制送還したのである。そうでない人物を「外交問題への発展を避ける」目的でそのように扱ったなら、日本政府の危機管理能力・情報収集能力は幼稚なものと見下されることになる。 あるいは田中真紀子外相が言うように「本人かどうか確認できなかった」のが事実で、金正男ではないかという疑いが出国先だったシンガポールから何らかの通報があったのではないかとテレビで解説していたが、そのような通報にのみ依存したもので、そこから一歩も出れなかったのなら、日本政府の情報収集能力は話にならない程にもお粗末だというさらに悪い事実が残るだけではない。通報をまともに受止めるのみで、身元確認の手立てを施す術もなく、国外退去と言えば聞こえはいいが、「外交問題への発展を避ける」という言葉が示しているように実際は腫れ物に触るように出国願った、危機管理能力にも深く関わる外交術の幼稚さも残る。 なぜ通報≠無視して、どこの誰とも知れない一般の不法入国者として逮捕し、偽造パスポートの入手先と国籍、実名を追及しなかったのだろうか。犯罪者として写真を撮り、指紋も採取し、自白するまで拘置所にとどめる。勿論本人は最初は正直に自白しないだろう。しかしもし金正男自身なら、犯罪者として取調べを受ける屈辱、犯罪者として拘置所に拘束される屈辱に耐えかねて、「俺は何様だ」と本名を名乗らないではいられないだろう。そのとき、次のように応対すればいい。「ウソつけ、金正男であるはずがない。金正日の後継者に目されている金正男が不法入国してこんな所にいるはずはないじゃないか。大体がなぜ日本に不法入国しなければならないんだ」と。本人は執拗に自分が金正男だと言い張るだろう。そのあまりのしつこさに根負けしたように、「そんなに言うのなら、上の方に報告してみる。北朝鮮側に確認を取ったとしても、相手にされないだろう。本人であるはずがないのだから」と応じ、相手を焦らす時間稼ぎをした上で、「お前が金正男本人ではないことを確認するために、北朝鮮の関係筋に問い合わせることにするそうだ。それもこれも、お前を黙らせるためにだ。金正男はピョンヤンにいるという返事が返ってくるだけのことだろう」と出る。もし北朝鮮側から金正男本人だという回答があったなら、身柄の安全の保障と、相手のメンツを立てる意味で一切を秘密にすることを請合う形で恩を売り、その見返りに拉致された日本人との、いわば体のいい人質交換に持っていく。相手はノーと言えるだろうか。不法入国から交渉までの一切の経緯をアメリカ政府に逐一報告して、万が一に――軍事行動に出ない保証はない――備える。そういった駆引きは不可能だったのだろうか。 さて、不法入国の目的は何だったのだろう。金総書記の後継者となる場合、金日成から金正日に権力継承が行われたときも、その正統性をめぐっての北朝鮮内の権力闘争が少なからざる存在したことを考えれば、金正日と同じく金日成の威光・カリスマ性を背景としなければならない事情は同じだろうから、その孫に当たる金正男は父から子への場合よりも血統的にも、抗日武装闘争を指導し、北朝鮮建国の父となって権力を握ったその合理性からもなお一層遠ざかることになり、継承の正統性がなお厳しく問われることになる。特にインターネット時代である、西欧民主国家からの疑問の声は北朝鮮国民の目に触れ、耳に入らないでは済まないだろう。マスメディアにおけるのと同じく、推測の範囲を出ないが、代を重ねるごとに薄れていくばかりか、民主的手続きを踏まないことによって常に矛盾を抱えることになる権力継承の正統性を、警護の者も連れず、家族らしき少人数の同伴者のみで、しかも偽造旅券で不法入国を試み、成功させる豪胆さ・大胆不敵さを戦争なき北朝鮮におけるカリスマ性獲得の方便とし、そのことによって補おうしていたのではないだろうか。 この推測が意外にも当たっているとしたら、金正男は日本だけではなく、先進主要国の観光地を似たようなスタイルで訪れているに違いない。多分、日本の水戸黄門もどきに。少なくとも、将来一国の指導者となる人間の、その地位にふさわしくない身軽な、しかもディズニーランドを目的地とするといった意想外な行状は人を感嘆させるエピソードとなるだろうことは間違いない。金正男側から言えば、悲しい話だが、勲章とすることのできる行状となり得るということである。だからと言って、程度が低いと誰も非難できない。世界第2位の経済大国日本ですら、靖国神社参拝だ、平安神宮参拝だ、あるいは道路をつくった、橋を架けたといったことでしか自己存在をアピールできない政治家がゴマンといるのである。 2001/5/5 |
≪機能することのない“案”・日本人拉致疑惑「第三国発見」の打開策≫
(この一文は2000年10月に「毎日新聞eメールディベート」への投稿・採用文に一部書き加えたものです) 2000年10月のソウルでの日英首脳会談で森首相がブレア首相に北朝鮮による日本人拉致疑惑問題で、「行方不明者ということでもいいから、北京でも、パリでも、バンコクでも、そこにいたという方法もあるのではないか」と第三国で発見される形での打開策を北朝鮮側に打診していたことを、どういうわけか披露したという。「第三国発見」が日本国主権の侵害を棚上げとした被拉致者の早急な原状回復を目的としたものであっても、発見された日本人は日本政府・北朝鮮政府相互の秘密取引によって拉致に関する一切の発言を禁じられるだろうから、どこで発見されようと、何も語らないことによって北朝鮮に拉致された事実は明らかとなり(例えすべてを語ったとしても同じ結果となるが)、北朝鮮政府には受入れることのできない“案”であり続けることになる。いわば、元来から決して有効に機能することのない“案”でしかないのに、森首相が他国首脳に洩らしたことが公となった以上、北朝鮮関与の事実を改めて世界に暴露したのと同じ結果を生じせしめ、北朝鮮に対して認めたくても認めることのできない立場になお一層追い込むこととなり、一国の総理大臣として軽率のそしりは免れることはできない。その責任は重大である。 森首相は第十八富士山丸事件を教訓とすることができなかったのだろうか。1983年11月、北朝鮮兵士が北朝鮮の港に入港していた富士山丸で密航して門司海上保安部に逮捕されたことに対する報復として、同年12月に再び北朝鮮に来航した富士山丸の船長と機関長の2人をスパイ容疑で逮捕し、87年11月に日本政府が北朝鮮兵士を釈放すると、さらなる報復として2人に労働教化刑15年を科し、逮捕から約7年を経た90年10月にやっと釈放した事件である。最終的な釈放には90年9月の自民党・社会党訪朝団(金丸・田辺両団長)の交渉が関わっている。多分釈放条件としての密約があったのだろう、釈放された2人はマスコミの取材に対しても、北朝鮮側の待遇、そこでの生活の内容、その他一切を語ることをしなかった。北朝鮮にしても、報復のための不法逮捕なのだから、何も語らせるわけにはいかなかったのだろう。他国の領土にその国の主権を侵害する形で不法入国し、不法な暴力的方法で何も関係のない複数の無実の人間を拉致していった行為は富士山丸の2人に対するよりもなお一層残酷な非人間的犯罪行為である。釈放したとしても、経緯の一切を喋らせるわけにはいくまい。非情な宣告になるが、死人に口無しとするか、釈放せずに永久に北朝鮮にとどまらせるか、そのような方法を関与の否定の方法とすることも十分に考えられる。そういった相手の戦術を乗り越えた釈放を考えなければならないのに、軽々しく手の内を他国首脳に明かすとは、政治家の資格さえない。 森首相はアメリカやイギリス・ドイツ・フランスなどが北朝鮮との国交正常化への動きを急速に見せていることに焦りを感じて、日朝国交正常化のネックの一つとなっている拉致問題の長引く不解決を日本政府の無能と受取られないために、こういった素晴らしい提案を行っているのだという意味で、「第三国発見」を持ち出したのではないだろうか。当初はそれを自分の案だとした点をも考慮すると、日本国内で総理大臣としての政治能力を問われていることと、欧米各国に対する政治能力コンプレックスがミックスして言わしめた発言だと受取れないこともない。 「拉致問題」の打開は、日韓併合と東南アジアで起こした戦争を不当な侵略だったと世界に向けて認め(学校でも、侵略戦争だったと明確に教えるべきだろう)、口頭・文書合わせた謝罪と強制労働問題、賃金未払い問題、従軍慰安婦問題といった未解決な個人に対する補償を表明した上で、「拉致」は北朝鮮政府の関与による国家犯罪だとの事実を前面に押し出し、「これはあなたがた政府の重大な過ちではあるが、我々日本が過去に犯した日韓併合による朝鮮半島の植民地化と東南アジア諸国に犯した侵略戦争の過ちから比較したなら、取るに足らない過ちでしかない。我々がその罪を認めるにはそれなりの勇気を必要としたが、あなたがたも勇気を出して認めて、人権意識に立って拉致された日本人の身体・生命の原状回復に協力して欲しい」と正直にお願いすることから交渉に入るべきではないだろうか。 朝鮮半島の二国家分割も、北朝鮮の共産主義化と孤立化も、元をただせば日韓併合と侵略戦争が引き金を引き、その産物としてあるものである以上、それらの事実に立ち戻って「拉致」の事実に立ち向かわなければ、現在の北朝鮮との関係修復を図ることは困難なはずである。 2001/5/6 |
(次の文章は『週間金曜日』<2001/4/20号>の「論争」欄への投稿・採用文です) 一つには創造(想像)性の欠如が日本人全体の問題としてあることを認めざるを得なくなったからだろう。自然科学分野でのノーベル賞受賞者のあまりの少なさ。政治・経済・教育・医療等々、社会生活全般にわたる制度・思想まで、欧米からのモノマネを出発点としたまま、モノマネから出れない現実。例えば、救助犬や盲導犬や介助犬の問題、カルテの公開やインフォームド・コンセント、情報公開、欧米に学びながら、その不備・不徹底は、社会全体を豊かにする構造の制度化が、一重に人々の創造(想像)力が可能とする、構成員の異なる利害の調整を要件とするのであり、その欠如の表れとしてあるものだろう。優秀だと言われているモノづくりでも、独創性の欠如を言われる昨今である。 創造(想像)性の欠如を総合学習で言えば、その主たる課題の「自分で考え、学び、自分で解決する力」の欠如を意味する。例えば、96年導入の学習要領の「ゆとり教育」で文部省が示した「体力増進」、「地域の自然や文化に親しむ」といった事例は学校側の求めに応じたものだそうで、各学校ともその範囲内で画一化してしまったという、「自分で考え、学び、自分で解決」できなかった前科と、さらに今回の総合学習でも、事例集や例示を準備した文部(科学)省対学校の関係は、教科書の内容を機械的画一的に暗記させ、暗記する教師対生徒の関係に対応し合うもので、それは学校教育者の「自分で考え、学び、自分で解決する力」の欠如を反映させた、児童生徒の同じ能力の欠如として表れているものであろう。 もし親を含めた世間の大人が(特に学校教師が)「自分で考え、学び、自分で解決する力」を自分のものとしていたなら、そのような能力は自然発生的に子どもにも伝わるはずのもので、それを財産としていなかったことの表われとしてある日本人全体の創造(想像)性の欠如なのであり、今更ながらに総合学習を持出さなければならない原因なのである。 そのような欠如は、管理教育・暗記教育を歴史的に伝統としてきた成果なのは言うまでもない。管理とは、上からの命令・指示に下が支配される構造を言う。暗記教育は教師が教科書の内容をほぼなぞったなりに一方的に伝え、児童生徒はほぼそのままの形で頭に記憶するプロセスの教育を言う。いわば、管理の構造はそのまま暗記教育に反映され、両者は相関関係を築いているのである。さらに管理にしても暗記にしても、中間に思考のプロセスとしての言葉の交換を介在させないことによって成り立つ。そのことが相互の創造(想像)性の欠如の発生源となっている。 どうせ意図していないだろうが、子どもの頃から総合学習で「自分で考え、学び、自分で解決する力」を育み、30年後、40年後には日本人全体のものにしようという壮大な計画としてあるものでなければ、何も解決しない。となれば、その出発点は管理教育・暗記教育の否定としなければならない。それは教師対生徒の上から下への意志伝達関係を心理的・精神的に対等ななものに持っていき、批判すべきは批判し、自己主張すべきはする、そのような思考のプロセス(=言葉の交換)を双方向から介在させることによって、初めて可能となる。自分の言葉をつくり、持つことをしなければ、批判も自己主張も不可能なのである。自分の言葉をつくらない・持たない批判精神というものは存在しない。批判の要素こそ、日本の教育に欠けているものであり、創造(想像)性の欠如につながっているものなのである。 2001/4/3 |
確かに中国は一つであり、台湾と中国は平和裏に統一されるべきである。但し、統一の主導権は民主化の進行度、基本的人権の普及度から言って、中国にはなく、台湾にあるのは自明である。もし中国が自らの主導で統一を果たしたいなら、共産党一党独裁を放棄して、なおかつ基本的人権の保障を制度化したとき、初めてその資格を得ることができる。 現時点において台湾こそが中国統一主導の有資格者ならば、李登輝氏が台湾政府関係者であろうと、一民間人だろうと、日本政府は世界における民主国家の一員として、人権国家として李登輝氏へのビザ発給を行うべきである。 一国両制≠ト返還された香港での基本的人権の後退の現実から考えても、日本政府が一党独裁の中国の意志を優先するなら、それは世界の人権に対する裏切り行為を犯すものとなる。一党独裁を放棄できないなら、また平和統一が実現しないなら、二国家並立はやむを得ない。 2001/4/16 |
2001/3/25(日曜日)のNHKテレビで、『いのちの重さ実感できますか』という番組を放送していた。出席者は不登校をキッカケとして10年間自宅に引きこもった28歳男性、自殺を2度試みた18歳の女性、難病を抱えながら、ストリートミュージシャンをしている二人の若者、死と向き合い、ガンを克服したマンガ家の赤塚不二夫氏、民間の自主学校代表の59歳の女性、その他、合計12名だったと思う。 赤塚不二夫氏は、「人間はバネを持たないとダメだ。バネを持っていないから、死んでやろうと思う。何かの苦境に出会ったなら、自分が何かの方法で立ち直る術を考えておくことが必要だ。僕の時代は兄弟がたくさんいて、一つの小さな社会ができる。そのような中で大人になっていくと、逞しい大人になっていく。兄弟が少ないのは親にも責任がある。バネを持たなければ、生きていけない。それが人間だ」といったことを話していた。 子どもをたくさん産んだ時代の親は何も家庭内に「小さな社会」をつくることを意図して多産に励んだわけではない。戦前は産業予備軍としての、あるいは兵士予備軍としての、「産めよ増やせよ」の国策を受けた多産だった。それ以前の時代は、避妊技術が未発達なことも絡んで、労働力(=男子)の必要性からも、多産となった。労働力にならない女子が産まれたり、あるいは男子であっても、育てる余裕がない場合は間引きしたり、育てはしても、余裕ある生活への誘惑からか、増えていく借金ににっちもさっちも立ち行かなくなってしまったからなのか、七歳かそこらまで育てて、女子は遊郭に売ったり、男子は丁稚奉公に出したりした。中国の農村部では一人っ子政策のため、最近までか、現在もか、女子が産まれると、家を継ぐ後継者として次に男子が産まれることを期待して売ってしまうといったことが新聞に出ていた。 赤塚不二夫氏が言うように、たくさんの兄弟と共に育っていくと、「逞しい大人になっていく」とするなら、日本の伝統的な風習としてある、貧しいゆえに、あるいは夫に裏切られたと言って、現在も時折ある、子どもまで道ずれにする親子心中を行う親はすべて一人っ子か二人っ子育ちだと言うことになる。農村においても少なくとも大多数が「逞しい大人」に育ったはずで、地域の共同体が常にそういった「逞しい大人」たちを構成要員としていたなら、村八分といった全村単位による、家単位に対する排他的慣習は日本に存在することはなかっただろう。悪事を犯した場合はその人間の行為としてのみ問題とし,家族をも巻き込んですべての生活行為にわたって制裁を加えるといった、家族全員の人格を一つの人格で律するような非人間的行為は、逞しさ≠ニは無縁の行為だからである。逞しさ≠ニは逆に例え血のつながった家族であっても、罪を犯していない場合の人間は寛容な態度で受入れる性格を言うものだからであろうからである。さらに言えば、逞しさ≠ヘ自律(自立)の精神と深く関わっている。自律(自立)とは、一人ひとりであることを言う。一人ひとりが他や全体の判断に従うのではなく、自分の判断に従い、自分で行う相互的独立性を言う。となれば、悪事を犯した場合、その人間の問題であり、制裁を与えるにしても、犯した人間に限るのが、いわゆる相互的独立性(=相互的な一人ひとりの精神=jと言うものであろう。 現在においても、殺人を犯した親の子どもに対して、「人殺しの子」と、別人格であるはずの子どもをも同じ人格として非難・攻撃するのは、一人ひとりを一人ひとりとして扱うことのできない「村八分」の名残としてある精神性だろう。殺人者となった親の娘と婚約していた男が親の犯罪を理由に(実際は世間体を気にして)婚約を破棄するのも同じである。 赤塚不二夫氏の話は、自己を「逞しい」人間だとする前提によって成り立っている。そのような意識には、自分への視線だけがあって、人間は様々で、負けてしまう人間もいる、挫けてしまう人間もいる、あるいは一生の間常に逞しくしていることができるわけではないといった人間という生きものへの視線、あるいは様々である人間の現実というものへの視線を欠如させていることによって成り立たせることのできる自己絶対化の考えを往々にして混在させている。さらに言えば、自己絶対化には、絶対的な人間が存在しない以上、常に自己美化か、思い込みを紛れ込ませている。 また赤塚氏の、「いじめられたとき、わら半紙にマンガを描いて親分に渡すと、みんなの仲間にはいれた。親分はまた違う奴をいじめたりした」という話を、≪赤塚流逆境の乗り越え方≫と紹介し、それに対して誰もがその話の胡散臭さに気がつがずに、笑ったり、へーえと感心したりしていたが、何か自分が宝物としている珍しい物か、家で大事にしている物をくすねて、いわゆるいじめの「親分」に与えて仲間入りを果たすといったことは過去だけではなく、現在でもあることなのである。現在では、与える物の殆どが金銭に変っているに過ぎない。 乞われたわけでも、威されて要求されたわけでもない、何かを与えて仲間入りする行為は、自分から媚びて支配下に入る儀式としての貢ぎ物行為に相当する。いじめが続いている間は完全には支配されているわけではない。親や先生、警察に訴える可能性が残されているからである。自分からの貢ぎ物行為によって、完全な支配関係が生じる。自分から子分となった弱い人間が誰かに訴えて仲間に反抗したり、仲間から離脱していくといった強さを発揮することはまずないからだ。但し、うまく仲間に入って、いじめから自分を守ることができたとしても、仲間の上位者が仲間に自分の強さを誇示するために仲間内の最も弱い人間を虐げるといった優越行為の標的にされる、新たないじめにあうこともある。他の仲間は虐待が自分にまわってこないように、上位者に怯え、仲間全体がますます言いなりの状態になることを狙っての新たないじめなのである。 大河内清輝君が家からカネを持出して仲間に与えながら、いじめが続いたのは、それが自分から行った貢ぎ物行為ではなかったからではなく、時代的な事情に影響されていたからだろう。いじめ加害者たちの際限もない金銭欲求・際限もない欲望の拡大は大人たちの時代的な欲望の姿を反映させたもので、そのような仲間たちのエスカレートしていく要求金額と要求頻度に相手の満足のいく形で応ずることができなかったからだろう。いわば自分たちの要求金額と要求頻度を満たすべく、脅迫や攻撃を必要としたのであり、その犠牲となってしまったということなのだろう。もし大河内清輝君が普通の家に住んでいたなら、ああまではカネは請求されなかったかもしれない。旧家の大きな家に住んでいたから、いくらでもあると思われてしまったということある。 赤塚氏の場合は、現在みたいに露骨なまでに金銭万能の感覚が行き渡っていたという時代ではなく、特に子どもはそういった感覚から遠ざけられていたために、「わら半紙に描いたマンガ」程度の貢ぎ物で、「親分」は仲間の手前もあって、虚栄心をいたく満足させ、快く仲間入りを許したのかもしれない。もし赤塚氏がマンガを特技としていなかったなら、別の何かを貢ぎ物としなければ、仲間入りを果たすことができなかったはずである。決して「逞しい」行為ではなく、媚びへつらって、自分から進んで「親分」の風下に立ったに過ぎない。 「いのちの重さ」なるものについて、乏しい経験と乏しい知識を参考までに述べてみる。いのち≠ヘ空気みたいなもので、常に実感したり、意識したりできるものではない。何かの事件や事故で生死に関わる事態に直面した人間、あとどのくらいと期限を区切られた不治の病にかかった人間とかは、命のありがたさや、命の充実といったことを常に意識したり、実感したりするだろうが、一般の人間は意識も実感もなかなか持つことは困難である。すべきことは、何をしたいか、何ができるか、ということではないだろうか。見つからなければ、親に相談するのも一つの手である。「小さかった頃、何か得意としたものがあった?」と聞く。思っても見ない可能性を見つけることになるかもしれないし、そこから新たな親子の会話が始まり、親の協力を得て、何かのキッカケをつかむことができるかもしれない。綺麗事の言葉で言えば、自分探しの旅である。なぜ綺麗事の言葉かというと、自分探しの旅などというものは言うは易く、行うは難しだからである。 次に、人が死ぬと、悲しまない人間はいないと誰もが使う言葉についてである。しかし、肉親や近親者以外の他人の死は決して悲しくはないというのも事実である。幼い子が暴走自動車にはねられて死亡したニュースを新聞やテレビで知ったとしても、痛ましいという思いはしても、悲しくなったり、涙を流すことはまずないし、すぐに忘れてしまう。また、子どもが自殺して肉親や近親者が涙を流したとしても、では生きている間にその子のいのち≠ェどのようなものだったか、正確に把握していたのかというと、疑わしい限りである。不登校になった子どもを親が学校に行けと強要して親子が衝突することになるばかりか、それ以上の最悪の状況を招く結果となってしまうよくある例は、親がその子が生きているときのいのち≠正確に把握していなかったことの証拠となるものである。自殺した子どもに流す親の涙が、その子が自ら命を断ったことへのものである以上に、その子のそれまであったいのち≠正確に把握していなかったことへの責めの気持からのものであることを願うばかりである。厳しい言い方をするなら、死んでから流す涙はたいして意味はないということである。 自殺がその子の生きてあるいのち≠正確に把握できなかった結果としてもあるものであるなら、さらに学校で教師がテストの成績に還元するために教科書の内容を知識として伝えるだけで、生徒一人ひとりのいのち≠ェどのような存在を望んでいるのか思いやることも把握することもしないことが自殺の出発点としてもいるのだろうから、親も教師も、さらに範囲を広げれば、学校管理者たる校長も責任があるわけで、「お父さん、お母さんはどんなに悲しまれたことでしょう」などと、自殺を自殺としてしか取上げることのできない物言いは許されるものではない。ところが、そういった言葉が罷り通って紋切り型のものとなっているのは、赤塚氏と同様、もっともらしい態度だけを武器に何様で通っている胡散臭い人間が多いからである。例え赤塚氏が優れたマンガ製作者だったとしても、才能と人格が常に一致しているとは限らない。大人たちの胡散臭さを隠したもっともらしげな言動が世の中をおかしくし、子どもをおかしくしているのではないだろうか。 自分のいのち≠ェ誰にも正確に把握してもらえなかったなら、自分で把握する以外に道はない。先に触れたように、何がしたいか、何ができるか、模索することから始め、色々と試してみるしかない。絵を描いたり、写真を撮ったり、あちこちの公園に出掛けて、樹木の名前を知ることから始めて、その生態を勉強したり、あるいはインターネットでその何か≠探す、そういった心の旅に出る。確か誰か偉い人が言った言葉だったと思うが、「誰も他人を正確に窺い知ることはできない」。裏返して言うなら、自分を最も知り得る人間は自分だということである。親でも兄弟でもなく、また学校の先生でもなく、自分なのである。例え失敗しても、自分の足で歩くしかない。不登校も引きこもりも、歩いている姿である。一つのいのち≠フ姿なのである。もしかしたら、そこから次のいのち≠ェ始まるのかもしれない。そこから始まった人間がたくさんいるはずである。 車椅子を使う障害者にしても、自分の意志という足を持たなければならないし、持つことによって、社会参加をより可能とし、より広範囲なものとすることができるのである。NHKの教育テレビの、『きらっと生きる』の鑑賞を進めるのも一つの手だろう。車椅子を使っていても、みんな自分の足で立って社会に生きている姿を紹介している。難病のために病院のベッドで寝たきりの人生を余儀なくされながら、パソコンでインターネットとメールを使って社会と自分をつなげて生きている障害者の紹介もあった。それは一つのいのち℃pである。そういった姿を学ぶことからも、自分の旅立ちを勉強することができるのではないか。いのち≠ニは、どのようなものであっても、どのような内容であっても、何らかの活動する姿――それぞれの生活の姿、いわばその人の生きてある姿を言うのではないだろうか。どう活動するか、どう生活するかは、あるいは、どうある≠ゥは、誰かのアドバイスを必要としたとしても、最終的には自分で決めるしかない。自殺も、一つのいのち≠フ姿だが・・・・。 2001/3/30 |
新学習指導要領による教科内容の3割削減が学力の低下を招くと、それを危惧する声と、反対に招かないとする声が相交錯して湧き起こっている。以前にHPでも紹介したことだが、東大総長も務めたことのある元文部大臣の有馬朗人氏は、少子化による受験生の減少が大学入試を容易にして、学力の低下を招くと警告を発したことがある。合格率の減少、あるいは受験生が定員に満たない状況が低下を招くような学力とは、もともと付け焼き刃で済ますことのできる学力でしかなく、一喜一憂する価値もない。いわば一喜一憂する価値もない学力の蓄積に一喜一憂しているだけのことなのである。 日本の学力が暗記学力だということをまず押さえておかなければならないのに、それを押さえずに、殆どの教育関係者は一喜一憂する愚を犯しているのである。暗記学力だからこそ、日本人の創造性(想像性)の欠如・決断力の欠如が問われているのである。日本の政治家の危機管理無能力も、暗記学力によってもたらされている創造性(想像性)の欠如・決断力の欠如が原因なのは言うまでもない。 日本の学力が暗記学力である以上、教科内容の3割削減によって生じる教えない知識は、当然学力低下の要因となって現れるだろう。1+1=2と教えて、2であることの範囲を出ないのが暗記教育であり、暗記学力なのである。またそういった知識授受形態の成果としてあるのが、日本人の行動様式となっているマニュアル主義≠ニか、前例主義≠ニ言われるものである。横並び主義≠燗ッじ成果の一つであろう。猫も杓子も1+1=2に従い、1+1=2に倣うのだから。 1+1が3とも4ともなり得る、ときにはマイナスにもなるという教えと学びが創造性(想像性)や判断能力・決断能力に深く関わっていくのであり、そのような教育が成果を上げたとき、教科内容が例え3割削減されたとしても、その3割を補うばかりか、生徒自らがそれ以上に発展させることも可能となる柔軟な、創造力(想像力)に満ちた学力を獲得するのである。 言い換えるなら、暗記学力でしかない学力低下を懸念する前に、暗記教育の廃止を考えるべきなのである。 (2001/5/17) |
小泉新首相のもと、やれ「財政改革だ」「構造改革だ」と国会論戦がたけなわである。小泉首相の答弁には必ずバカの一つ覚えさながらに、「痛みを伴う」とか、「痛みを覚悟して」といった言葉が囃子詞みたいに使われている。その「痛み」は国民が負う以上に、政治家が負うものでなければ、また負うことを覚悟しなければ、改革≠ヘ幻で、あるいは小手先の誤魔化しで終わるだろう。 政治家がこれ程までに利権をホシイママとし、政官財癒着を豪華絢爛なまでに確固としたものにすることができたのは、「痛み」は国民に付け回しとし、自らは「おいしい」ことのみを引受けてきた成果なのである。だが、カネと頭数を力とする金権政治とは権威主義政治の一種であって、それは日本人の行動様式から派生した歴史的伝統的なもので、今に始まった日本の政治ではない。権威主義に覆われているからこそ、上位権威者の下位権威者(一般国民)の「痛み」に疎い性格を生来的なものとしていて、自分たちだけの「おいしい」ことに目を奪われる私利私欲的視野狭窄を生態とさせているのである。 田中真紀子新外相が就任直後に、外務省員が機密費を詐取して王侯貴族もどきの豪華な甘い生活に浸っていた事件で管理責任の立場の幹部が減給処分止まりだっことに対して、「『十分とは思っていない。幹部にはノーブレス・オブリージュ(高い身分に伴う義務)がある。事件が起こるシステムをグレーゾーンにしておいて、幹部が「知らなかった」と自己弁解してすむわけがない』」(「朝日」2001.4.29.朝刊)と批判している。4.22.の朝刊では、「国家・国民の生命・財産を毀損したり、国民の不信感を増進させたりした公務員を過去にさかのぼって処罰する法律を作るべきだ」とも言っている。政官財の利権構造や癒着を排除し、国民が「痛みを負う」のと少なくとも同等に政治家・官僚が「痛みを負う」政治とするためには、政治家・官僚、それらと組んだ企業人の脱税・不正利益供与・不正な天下り・談合・カラ出張・虚偽報告・カラ手当て・重大な職務怠慢等々のすべての不正行為を現在以上に厳しく罰する法改正を早急に行うべきだろう。例えば、多額の不正献金を受領して逮捕された村上正邦前参議院議長が有罪ということなら、15年や20年の拘束刑に処するぐらいの厳罰としたなら、自分たちの「おいしい」行為は常に損得勘定の反射的対象となり、改革≠ヘ政治家自身の「痛みを」優先的に「伴う」ものとするようになるだろう。そのことが例え国民の「痛み」までも「伴う」ことになるとしても、自らの「痛み」を優先させなければ、政治家としての存在理由が少なくとも問われることになる。いわば、政治家は初めて国民に対して、「下手なことはできないぞ」という気持を常に抱かざるを得なくなり、否応もなしにエリを正すことになる。またそういった厳罰主義によってのみ、田中真紀子外相が言う、「ノーブレス・オブリージュ(高い身分に伴う義務)」を機能させることが可能ともなるのである。 さらに、「国家・国民の生命・財産を毀損したり、国民の不信感を増進させたりした公務員を過去にさかのぼって処罰する」という考えを厳密に採用するとするなら、阪神大震災のとき、自衛隊への救援要請が遅れた兵庫県知事、県知事の要請があってからとイタズラに待機して救援を遅らせてしまった自衛隊幹部、首相官邸でのんびりとテレビの震災報道に見入って、何ら有効な指示を与えることもしなかった当時の村山首相などの無意味・無益な職務怠慢・危機管理無能力による被害死亡者を不作為に増大させた行為も、遡及的処罰対象とすべきであろう。 さらに言えば、無能・狡猾な政治家・官僚を公平・厳格に罰することが可能な社会となったとき、表面的だけではなく、国民から見えない場所でも公明正大であることが重要な価値観となり、そのことが正直者がバカを見ない世の中をつくり、国民は少しぐらいの不景気にも負けない元気を持つこととなって、個人消費に関しても、活動的になることができはずである。 (2001.5.16) |
ダム見直し論への言及が目立つ。その皮切りは長野県の田中康夫新知事で、ダム建設推進派が占める議会と敵対関係を生じせしめている。公共事業を利権としている業界、その業界を重要な支持母体としている議員としてはダム廃止は死活問題であろう。国政の場では民主党が自党の政策として、『ダム見直し論』を掲げた。 だが、ダム見直し派はダムに代る有効で具体的な治水対策法を提示しているわけではない。頭の中で考えたことで、役に立つかどうかは分からないが、井戸がダムに代る治水対策の方法とはなり得ないだろうか。従来の井戸は地下水を汲み上げ、それを飲料・その他に供する目的のものである。だが、「ダム代用の井戸」は雨水や川の水を地下に導水して地下水に戻す機能を付加した役目を持たせることとする。 具体的には、直径1メートルか2メートルの井戸を、家庭排水や工場排水を流さない雨水専用の側溝脇に必要本数だけ地下水脈に届く深さで掘り、それまで河川や海に流しっぱなしにしていた雨水を側溝から、それと接続させた井戸を経由させて地下水として戻す。掘削場所としては、雨水専用の側溝を公園内や河川沿い、低地帯に設けて、それに附属させる。河川が汚染されている場合は、中間に浄化装置を設け、水位が一定の高さに達したなら、井戸に誘導される構造のものとする。ただでさえ工場などで地下水を利用するために、全国的に地盤沈下傾向にあり、そのような状態を食い止める役目も果たせる。 井戸は常に水質検査して、飲用に供することが可能なら、上水道を川の水としないで、井戸から取水することも可能となる。少しぐらいの汚れなら、浄化装置によって濾過・消毒してから、飲料水とすればいい。あるいは消火用の水、農業用水にも利用可能となるだろう。その他公園の散水、ガソリンスタンドの洗車、プールの水にも利用できる。 河川流域のすべての市町村にそのような井戸を可能な限り掘削 させたなら、大雨が降っても、あるいは短時間の降水量が急激だった場合、従来の側溝が許容量を超えて雨水を道路に溢れさせてしまうといった現象を抑えて、雨水は井戸に貯水される分、河川への垂れ流しが防止可能となり、それに比例して水位の上昇も低く抑えることが可能となるはずである。このような方法が可能だったとしても、予算の問題が残る。但し、「井戸方式」はダム建設に伴う自然破壊を免れることは確実である。 (2001.5.16) |
定住外国人の地方参政権付与の問題で、反対派は日本国籍の獲得を賛成の要件としている。なぜ日本国籍を獲得して、日本人とならなければ受入れることができないのだろうか。なぜ外国籍の外国人のままで仲間として受入れることができないのだろうか。ジャーナリストの桜井よしこ氏は、在日の「毎年1万人以上が国籍を獲得している事実」(2000/10/8「朝日」朝刊)を,日本国籍獲得への拒絶意識の希薄化と見ているが、在日、その他に対する差別・偏見が未だに根強く残っていて、日本人ではなかったなら日本人と同じように扱われない日本の住みにくい社会性からのやむを得ない選択という側面があることも見逃すことはできないはずである。いわば諦めと妥協からの日本国籍獲得という要素である。 同じ問題で石原慎太郎東京都知事は、「国籍のない人間が国家の命運を左右しかねない問題について決定権を持つのは、おかしなことではないか」(2000/11/26「朝日」朝刊)と言っている。では、戦前の日本を軍国主義・侵略主義へと誤らせた決定権者は日本国籍を持たない外国人だったと言うのだろうか。戦前の日本「国家の命運を左右」したのは日本民族優越性の実現を掲げ、その証明にのぼせ上がった日本人全体の驕りと付和雷同性そのものだったはずである。つまり、日本「国家の命運を左右しかねない」点に関しては、その絶対数においても、ホームグラウンド性からしても外国人をはるかに上回る日本人の方が危険度は高いということである。 また、日本国籍を獲得したからといって、即座に人間性・人格まで変るわけではない。私利私欲から便宜的に日本国籍を獲得する外国人もいるだろう。元々日本生まれで日本国籍を有していながら、政治を私利私欲の道具としてのみ利用する日本人はゴマンといるのである。かつてキングメーカーであった、政界のドンと称せられた金丸信はその代表格の一人だった。どれ程の多くの政治家が金丸信にひれ伏したことだったろう。金丸信はそれまでの金権政治をなお一層煽ることで日本の政治をもっぱら「左右」してきたのである。「国家の命運を左右」する行為性はひとえに国籍が要件となるものではなく、人間性・人格を要件として起こり得るものである。同じ日本人だからといった付和雷同性は実際は国籍を基準としているのではなく、人間性・人格に深く関わった行為性――自律性や判断能力の欠如・欠陥が招く行為性なのは言うまでもない。 日本国籍獲得が人間性・人格帰結の基準とは決してなり得ず、「国家の命運」が政治家・官僚を始めとする全体的な日本人の人間性・人格にかかっているとしたなら、 桜井よしこ氏の言うように「参政権は国家の経営形態に関わる権利要求」(2000/10/8「朝日」朝刊)だとしても、日本国籍を要件とするのは矛盾を犯していることになる。 また石原慎太郎が同じ記事でこうも言っているが、「国家の意思が左右される」までに「国籍を持たない人間の投票いかんによって地方の意思が決ま」る恐れが現実のものとなるには、日本に住む定住外国人の数だけでは、あるいはその全体の金力をもってしても、不可能に思える。さらに日本のすべての定住外国人が日本の圧倒的多数の地方の意思を支配する目的で便宜的に日本国籍を取得して参政権を得るべく陰謀を働かせ、実行したとしても、目的達成は不可能に思える。 また例え自然な形で日本国籍を獲得したとしても、ルーツを記憶の彼方に葬り去ることはできない。何々系という、ルーツとなる系統≠終生抱えることとなる。それを誇りとしなければ、外国で自分を維持することは難しい。 ルーツは消し去ることはできないのだから、日本国籍を何がなんでも纏わせようとしても、外国人を日本国籍の背後に紛れ込ませて、日本人を装わせる結果しか望めない。さらに日本国籍を取得しなければ参政権を与えないというのは、政治参加(社会参加)は国籍を条件とするという元々から存在した制約の継続宣言でしかなく、国籍獲得によって参政権を許されたとしても、容姿でルーツが明らかな帰化者や、何らかの方法でルーツを知り得た帰化者に対する職業選択や賃貸住居の契約といった一般的な社会参加に関わる制約は残ることになるだろう。 例え外国籍のままでも、一般の日本人と同じ条件で住める社会にすることが政治家、その他の日本人の先決問題としてある創造性(想像性)ではないだろうか。 (2001/5/17) |
宇野宗佑内閣の官房長官時代に機密費を野党対策に使ったとの今年1月のテレビ番組での塩川正十郎財務相の就任前の発言に対する15日の衆院予算委員会での質問に、「覚えていない」「忘れた」と答えて、院内が騒然となる場面をテレビで見た。5月17日の「朝日」朝刊には、「16日の会見で塩川財務相は、番組のビデオをチェックしたことを明らかにしたうえで、『そんな(ことを言った)はずはないんだが・・・・・、ビデオに出ていますから』と述べ、自らの発言を『心外だ』『うかつだった』との表現で釈明した」が、「改めて、機密費の使途について問われたが、『実際に忘れているので、言わないし、言えない』と答えた」という。 人間は確かに自分が口にした言葉を忘れることがある。だが、3ヶ月前の発言である。酒に酔っていたわけでもない。しかもテレビに出演しての話であり、外務省員の機密費詐取問題はその場限りに片付いた種類のものではなく、ずっと尾を引いている重要問題なのである。特に使途は外国派遣大使が飲み食いに使ったり、国会議員が外国訪問した際の土産物の買入れにまわしたり、野党対策として使用したりしてはならないもので、その種の範囲で使用した前歴の有無は国民に明かさなければならない情報としてある。いわば忘れてはならない、忘れてもらっては困る重大事項なのである。それを忘れること自体、さらに人に指摘されながら、わずか3ヶ月前の発言も思い出せないというような、自己発言に責任を持てない人間を大臣に据えておく。それは任命権者としての小泉純一郎首相の首相としての資質にも関わってくる問題でもないだろうか。 もし塩川氏が外国首脳と会談し、そこでの自己発言を忘れたとしたら、政治家としての資質と責任能力を厳しく問われることになるだけではなく、そういった無責任な人間が大臣をしていられる日本という国は改めて不思議な国だという印象を世界に知らしめることになるに違いない。森喜朗氏が首相をしてきたこと自体、そのノーテンキ振り・真空振りが国際的規模で奇異の目と冷笑を招き、その民主主義の成熟度を疑われる前科ともなっているのである。 国会の場で小泉首相や田中真紀子外相に論戦を挑み、批判を展開した野党議員に国民から抗議の電話やeメールが殺到するという現象も、支持率80、90%をもって小泉氏・田中氏を絶対化してしまう、国民の民主主義の未熟性からきているものだろう。例え100%の支持率を獲得したとしても、その人間を絶対化するのは、民主主義とは正反対の独裁を国民自らが招くことを意味する。戦前の日本国民は日本国家を絶対化する過ちを犯したばかりである。それを歴史の教訓として学ぶこともできなかったようだ。誰の言葉であっても、それが現実化可能な言葉なのか、あるいは現実化させ得たのか客観的冷静に吟味し、検証する姿勢を常時維持することによって、国民は政治家に自らの言葉に対する責任を全うさせ得るのである。それをしないで、無条件・盲目に正しい・絶対だとするのは、ただでさえ言葉に責任感のない日本の政治家に言葉に対する責任意識を限りなく失わせる結果を誘発させるだけだろう。 (2001/5/17) 【追加】塩川正十郎こと塩爺 5月21日、テレビを見ていたら、若者の間で新財務大臣塩川正十郎がアイドルになっていることを知った。それもたわいない理由・コンセプトで。この手のたわいのなさが政治家が常態としている胡散臭さに対する記憶喪失や無知を生じせしめてもいるのだろう。見事と言うしかない。 財務大臣塩川正十郎は、そこにいるというだけでホッとさせてくれる癒し系の存在だということだ。水戸黄門にも譬えている。それで塩爺≠ニ親しみをこめた愛称をつけ、人気の的とした。それもテレビで外交機密費を野党対策に使ったと一旦口にした言葉を追及されて、人のよさそうな困惑した笑みを浮かべ、「覚えていない」「忘れた」と答えた姿が憎めない、親しみが持てたというのだから、それがビックリ箱だとは知らずに、箱だけ見て甘い菓子が入っていると思い込むような早トチリなたわいのなさである。 |