「市民ひとりひとり」
教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
第41弾 日本民族優越意識に毒された知識人
(日本国民ヲ以ッテ他ノ民族ニ優越スル民族)
2001.6.10(日曜日) アップロード
―― 目次 ――
1.少年犯罪における「歯止め」
2.少年犯罪の型とその変遷
3.「女子高生コンクリート詰め殺人事件」と大河内清輝君いじめ自殺事件との関連
4.地域崩壊論、あるいは共同体崩壊論
5.過去の美化
6.理想境としての江戸
7.実体としての寺小屋
宮台真司東京都立大助教授が『週間金曜日』の2001年4月20日号で『17歳の殺人者』(藤井誠二著)を、「共同体が空洞化する過程の貴重な記録」(書評の表題ともなっている)として、評価している。書物そのものの内容は、「一九八八年の女子高生コンクリート詰め殺人事件から二〇〇〇年の佐賀バスジャック事件まで、四つの事件についてのルポが収録されてい」ると言うことである。件の書物を読んでいないから、宮台氏の批評・評価が的中しているものかどうかは分からない。新聞・テレビでの活躍ぶりからしたら、批評能力を買われてのことだろうから、間違ったことは言っていないはずである。
宮台氏は、女子高生コンクリート詰め事件を「少年犯罪の古い部分と新しい部分が混在した、過渡期の現象」と見ている。「昨今の少年犯罪は単独の犯罪で、極めて個人的な動機によるものです。徒党を組んだり、誰かにそそのかされたり、何かに影響されたりしたわけではありません。ところがこの事件の容疑者たちは、少年Aにそそのかされて自分でもよく分からない状況で罪を犯している。徒党型、付和雷同型です。これは古いタイプと言えます
しかし、従来の徒党型には見られない歯止めのなさがあります。家の二階で女子高生が監禁・暴行されていることを知りながら、誰も止めに入っていない」
いわば、「徒党型・付和雷同型」でありながら、「歯止めのなさ」がそれ以前と現在の少年犯罪を分ける「過渡期」のものだと言うのである。
では、「過渡期」の犯罪であった「女子高生コンクリート詰め殺人事件」以前の少年犯罪の「歯止め」は何によってもたらされていたのかと言うと、宮台氏は次のように説明している。「従来は、地元のチンピラが暴力団とつながっていて、ある種の秩序≠ェできていました。暴力団が行きどころのない地元のチンピラを統制・収容して、勝手なことができないように歯止めになっていました」
宮台氏の主張を全面的に正しいとするなら、日本全国のすべてのチンピラは暴力団に組み込まれていて、その統制下にあったことになる。「地元のチンピラ」を統制下に置いて、彼らの「勝手なことができないように歯止め」となっていた暴力団という組織は、自身は女性を威して言うことを聞かせる形で芸者置屋や遊郭に売りつけたり、あるいは愛人に男を取らせて、稼いだ金を巻き上げて、自分の小遣いにする、言うことを聞かなければ残酷なまでに殴ったり蹴ったりの暴力を働くといった「歯止め」のない理不尽な「勝手な」こともしていたのだから、爬虫類的な奇妙な存在ということになる。宮台氏は、「素人衆に手を出すな」とか、「世間様に迷惑をかけるようなことはするな」といった、かつてのヤクザ映画で頻繁に使われたセリフを昔のヤクザたちが一字一句違わずに行動に移す程に良心的で理性的な集団だったと頭から信じているのだろうか。またチンピラの中には、ヤクザ組織に属さない不良少年・不良少女もいたのである。実際にはその方が多かったのではないだろうか。
大体が暴力団の支配下にあったチンピラは組の雑役以外に、場合によっては親分や兄貴分の意を体する手先としての役割も与えられていた存在でもあったのである。それが命令だと言うことなら、どんな悪どいことも実行しなければならなかった。親分や兄貴分の命令のままにおだてられて敵対する暴力団の親分や兄貴分をドスで刺して、狙いどおりに殺せなかった場合もあっただろうが、ムショで臭いメシを食らうといったことは事実あったことなのである。そのような彼らが個人的事項に関して「歯止め」があったとしたなら、それは親分や兄貴分といった同じ帰属集団内の上位権威者の能力を上回る認知外の凶悪性・凄腕を発揮して、度胸・腕前を証明し、評判を獲ち取ったことが露見した場合の上位権威者からの反撥への恐れであろう。いわば、出る杭は打たれることへの恐れである。
このような自己規制は何も親分や兄貴分に対するチンピラだけの専有物ではない。日本人全体の行動力学として集団や組織といった人間関係の磁場で現在でも機能している自己規制である。会社で部下は上司の命令・指示によって許可されたものでなければ、上司を上回る才能・能力の発揮を控える。発揮した場合、上司は自己の才能・能力を否定されたと受止め、抑えつけるための嫌がらせをしないとも限らないからである。このような自己規制によって、積極的に意見を述べない、提案しない、冒険しないという日本人の性格特性が生じているのでり、伝統性ともなっている。逆に部下が独自な態度で積極性を出して失敗した場合、上司は部下の失点を自己の得点とし、自己の優越性の証明とする。「失敗しないための最善の方法は、何もしないことである」という逆説的な格言は、失敗を恐れて事勿れな態度に終始する日本人性を皮肉ったものなのは、改めて持出す程のことでもないだろう。
女子高生を拉致し、40日間も監禁・婦女暴行を繰返した少年たちは、「都内の別々の私立高校を中退。非行仲間と一緒に足立区内を根城とする暴力団の青年組織『極青会』を作って、組の指示を受けて飲食店に花を売りつけるなど組員まがいの仕事をしていたという。グループは分かっているだけで十人おり、車で女性を誘っては強引にホテルに連れ込むなど繰返していたらしい。二人は、昨年十二月に起きた婦女暴行事件の容疑者として今年一月二十三日に逮捕されていたが、さらに別の婦女暴行一件と二十件のひったくりも自供し、再逮捕されていた」(1989.3.31「朝日」朝刊)という記事内容が事実としたなら、「暴力団とつながっていて、ある種の秩序≠ェできてい」て、そのことが「勝手なことができないような歯止めになってい」たはずである。ところが、「歯止め」は有効に機能しなかった。そのことの説明を宮台氏は次のように行なっている。
「九〇年代に暴力団新法ができてから、暴力団の構造が変りました。それまで電話番や運転手という形で取込まれていた地域のチンピラが、野放しになりました。不良少年たちのやり過ぎを注意したり、自制したりする基盤がなくなってしまったのです。
皮肉なことです。市民社会の意識が高まって地元から暴力団を排除できたと思ったら、今度は共同体が崩壊してしまった」
しかしである。女子高生の拉致・監禁の発端は、「一九八八年」11月であり、「暴力団新法」 (=暴力団対策法)が施行されたのは、3年後の1992年3月1日である。そのような法律が浮上したのは、暴力団行為が見逃せない形で社会問題化していたという背景があったからだろう。少年法改正も、改正内容の是非は別として、少年による重大な犯罪が頻発していたという背景が産みの親だったはずである。暴力団に関して言えば、特定の暴力団だけではなく、多くの暴力団が組織として充実し、一般社会の中で拡大・発展していた状況にあったことを示している。
当然、支配下にある「地元チンピラ」に対する「統制・収容」は強固さを維持していたはずで、彼らが「勝手なことができない」「歯止め」の役割を十分に果たしてもいたと考えなければならない。そのことに反する「女子高生コンクリート詰め殺人事件」における少年犯罪者たちの「歯止めのなさ」の矛盾はどう説明したらいいのだろうか。
さらに言うなら、「地元チンピラ」に関する「共同体」の秩序維持が暴力団の「統制・収容」に寄りかかさっていたとしたなら、一般人の間接的な暴力団依存に当たる。いまからでも遅くはない。少年犯罪に再度「歯止め」を設けるために、暴力団を社会に野放しにし、保護・育成する毒をもって毒を制する「共同体」の再構築を行なうべきではないだろうか。
一つ宮台氏の認識の誤りを指摘しよう。暴力団対策法が暴力団を追いつめたのは事実であるが、厳密に言うなら、市民が「地元から」「排除」したのはいくつかの暴力団事務所に過ぎず、暴力団そのものの存在ではない。これは教祖麻原彰晃逮捕後のオウム真理教の教団施設のいくつかを市民は「地元から」の「排除」に成功したが、布教そのものの、宗教そのものを各「地元から」「排除」したのではないのと軌を一にするものである。オウム心理教はインターネットを使った布教で日本全国をカバーしている。暴力団はその存在形式を主として企業活動に変え、巧妙に一般社会に溶け込む形で自らを見えにくくすることで、警察・社会の追及をかわしたに過ぎない。確かに全体的な構成員は減少傾向にあるし、追いつめられて経営が成り立たなくなり解散した暴力団も存在したが、その多くは元々から弱小集団であった上に旧態依然の経営から抜け切れず、状況に応じた変わり身を見せることができなかった無能力が原因となっている。新しい存在形式としての企業経営においては、その従業員のすべてが暴力団員である必要はない。もし大学卒の知識が必要なら、大学卒業者を採用するだろう。経営中枢部を除いて、いわゆるカタギの人間である方が、見えにくくするためには便利である。最も利口なやり方は、経営トップもカタギの人間を据えて、利益だけを吸い上げる方法だろう。贈賄、談合、リベート、女を抱かせて取引を有利にするといった一般企業でもやっていることを臨機応変に組み立てて活用すれば、経営が成り立たないはずはない。
当然構成員は必要最小限でいいということになり、少数精鋭化による全体的な数の抑制が一因ともなっている減少傾向である。その過程で、単に荒々しいだけの暴力団予備軍(チンピラ)は頭脳が暴力団にも求められる時代に不適者として振るい落とされるか、最初から拒まれるかして、絶対数の減少を招いたと言うこともあるだろうが、そのように排除された者のみが「歯止め」のない犯罪を犯すわけではない。「歯止め」のない犯罪は暴力団やチンピラとは無関係な小中高生の間でも起きているからである。
宮台氏は既に記したように、「昨今の少年犯罪は」「単独」「犯罪であり」、「徒党型・付和雷同型」は「古いタイプ」だと言っている。その画期を成す事件が「女子高生コンクリート詰め殺人事件」であり、その社会的契機は「暴力団」「排除」による「共同体」の「崩壊」からの「歯止め」の喪失だと。
しかし、「地元チンピラ」に関しては暴力団の「統制・収容」のゆるみ、もしくは放置が「共同体の空洞化」の原因だとしても、一般人の「共同体の空洞化」は何が原因で起こった現象なのだろうか。
「女子高生コンクリート詰め殺人事件」以降の1900年代後半に多発した「オヤジ狩り」・「ホームレス狩り」は(ホームレスを虫けらに譬えて、ケチョラ狩り≠ニ呼んでいたグループもあったという)「単独」「犯罪」ではなく、複数者による「徒党型・付和雷同型」の「古いタイプ」のである。但し、「歯止め」という点では、「ホームレス狩り」では、無抵抗の相手に対して寄ってたかっての激しい暴行で重傷を与え、知る範囲では、それが原因で後に死亡させてしまっている事件が2件生じているのだから、新しいタイプに入れなければならない犯罪である。そのいずれの事件でも、加害少年は逮捕後の警察での供述で、「ホームレスは虫けらで、生きていてもしょうがない人間」、「ゴミ、世の中でいらん人間」だと歪んだ正義感による社会からの排除という「極めて個人的な動機」を述べている。「オヤジ狩り」の殆ども、遊ぶカネが欲しかったとか、小遣いが欲しかったという、これも「極めて個人的な動機による」犯罪で、その点に関しても新しいタイプに入れなければならない犯罪である。
かくかようにも「少年犯罪の古い部分と新しい部分が混在し」ていることから、宮台説に則って、「過渡期の現象」としてもいいが、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」から10年前後も時間的にズレているという新たな問題が持ち上がってくる。これはどう説明したらいいのだろうか。
「オヤジ狩り」は体力的に弱そうな相手を標的とするか、あるいは多勢に無勢の心理的・精神的・身体的まで含めた優越的距離を前以って準備して、それを利用して言葉の攻撃や身体的暴力によって、同じく心理的・精神的・身体的まで含めた支配と従属の関係にまで推し進めた、そのことによって権力行為となる金銭強奪犯罪であり、「ホームレス狩り」はホームレスを無価値とすることで自己を絶対とする両者間の支配と従属の関係性を暴力によって実証しようとする権力行為ではないだろうか。
無価値だとする人間存在を、例え暴力によらずに言葉を用いたものだとしても、社会から排除・抹殺しようとするのは権力行為以外の何ものでもない。排除・抹殺は、限りなく相手を支配し、従属させようとする権力意志の実践・遂行によって可能となる行為なのは言うまでもないからである。また、ゴミ、だとか、虫、あるいは臭いと貶めて言葉や身体的攻撃による排除・抹殺はいじめにも見られるプロセスで、同質・同種の権力行為と言える。
1人の人間、あるいは複数の人間を支配し、自分の思い通りに言いなりに従属させたい本能欲求としての権力欲は誰でも持っている。支配と従属を可能としたとき、自己を絶対とすることができる。自己の絶対感を味わうことができる。それがえも言われぬ甘美さを誘うゆえに、誰もが取りつかれる危険性を抱えている。「オヤジ狩り」も「ホームレス狩り」も、そのことによって加害少年たちは自己支配欲を満足させたのであり、自己の絶対性を味わったのである。それは他のことでは充足させることができなかったことの代償としてあったものなのだろう。人間の価値を上下の位置関係で計る堕落が生じせしめた倒錯からの人間観なのだが、学歴や収入、地位で人間の価値を決める社会的な価値観に連動した人間観なのは言うまでもない。
3.「女子高生コンクリート詰め殺人事件」と大河内清輝君いじめ自殺事件との関連
1994年11月27日に首を吊った大河内清輝君のいじめ自殺事件は時期的には、「一九八八年の女子高生コンクリート詰め殺人事件」と「二〇〇〇年の佐賀バスジャック事件」のちょうど中間に位置する。宮台説からいくと、当然、「極めて個人的な動機による」「単独の犯罪」でなければならないが、実際は「古いタイプ」の側面も持った「徒党型・付和雷同型」の犯罪でもある。しかも、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」と同様に、「歯止め」を見い出せないままに、あるいは外部からの「歯止め」がかからないままにいじめと暴力がエスカレートして、被害者をして首を吊らせてしまったのだから、「過渡期の現象」と見なければならない。いわば「歯止め」の不在という点を加味するなら、「古いタイプ」と新しいタイプが「混在した」少年犯罪だと言える。但し、「過渡期」が「一九八八年の女子高生コンクリート詰め殺人事件」を岐路として、1994年の大河内清輝君いじめ自殺事件を経て、 90年代後半の「オヤジ狩り」・「ホームレス狩り」まで続くことになる。
「昨今の犯罪は単独の犯罪」で、「極めて個人的な動機」を持った「歯止め」のないもので、「徒党型・付和雷同型」の複数者の犯罪は「古いタイプ」だとする仕分け基準そのものが間違っているのではないだろうか。
二つの事件は吟味するまでもなく、犯罪内容が金銭恐喝の有無と被害者の性別による相違があるのみで、本質的には同種・同質の事件である。複数者が単独者を、その数の差違や性差によって獲得し得る身体的・状況的優越性――言葉の威嚇・肉体的暴力、あるいは精神的・心理的威圧でもって支配・従属させ、言いなりにする優越的な権力行為からの犯罪に他ならない。いわば「オヤジ狩り」も「ホームレス狩り」も二つの事件の継承であり、「オヤジ狩り」・「ホームレス狩り」の原形を成す事件であるとも言える。強いて違いを挙げるなら、被害者に対する加害日数の短さぐらいだろう。
「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の場合は、最初から性的欲望の充足を目的としていたから、相手の人格・人間性を無視・支配した権力行為はいわゆる強姦や輪姦の形に集中したのだが、大河内清輝君いじめ自殺事件では加害者の権力行為は使いっ走りや身体的攻撃・金銭の恐喝にとどまらず、恐喝したカネで飲み食いやゲームセンターに出入りして豪遊する形に拡大・発展させている。主犯格の加害者が仲間に自分を「社長」と呼ばせていたことが、権力行為であることを象徴的に証明している。最上位権威者の「社長」として、恐喝で稼いだカネをバラまくように使うことで、大河内清輝君に対してだけではなく、仲間に対しても自己の権力欲を充足・発散させていたのである。多分「社長」は、飲み食いのカネを支払うとき、自分のカネを気前よく払うような錯覚に陥っていたのではないだろうか。
大河内清輝君いじめ自殺事件が本質的には「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の単なる延長形に過ぎないとなると、時間の経過による社会の変化とは無関係の位置にあることにもなる。「暴力団新法」とも関係なく、「共同体の空洞化」とも深く関わっていないということである。
宮台氏は言っている。「共同体の崩壊でアノミー(混沌状態)が進行し、無軌道が現出したのです。・・・(中略)・・・家族は『一つ屋根の下の他人』状態になり、学校や地域社会も『他人の集まり』になっていく。本書(『17歳の殺人者』)は、共同体の空洞化が進行する状況を伝える貴重な記録です。
・・・(中略)・・・これらの事件の共通項として、同居家族が気づかなかったことがある。外見上まともに共同体が存在するように見えて、内実は完全に空洞化している状態が見て取れます」
「オヤジ狩り」・「ホームレス狩り」は仲間を組んで行なった「徒党型・付和雷同型」である。いじめも、その殆どが「単独」「犯罪」ではなく、「徒党型・付和雷同型」として現れている。大河内清輝君のいじめ自殺事件の場合は、学校も家族も本人の普通ではない姿に気づいている。父親は自宅から現金がなくなっていることに気づいて、清輝君に、「いじめではないのか。カネを取られているのではないか」と問い質しているし、学校に行って、いじめがないか調べて欲しいと訴えてもいる。学校の養護教諭は精神的に不安定状態な清輝君に気づいて、心理テストを行ない、カウンセリングを受けるのがよいと判断して、担任が母親に受けるように勧めている。一緒にいる仲間から抜けるよう忠告もしている。しかしいずれも本人の何でもないといった否定の言葉を、その真偽を確かめる努力も能力も果たさず、そのまま受止めてその場を収めてしまう無難な姿勢に終始して事態の深刻化に知らずに手を貸してしまう。
このような人間関係状況も宮台氏の言う「共同体の空洞化」に当たるだろうが、清輝君自殺事件に現れたいじめの「歯止めのなさ」は、「暴力団新法」成立が原因した暴力団の「地元のチンピラ」に対する「統制・収容」能力の衰退が引き金となったものではないことだけは確かである。もし「暴力団の排除」が遠因した「共同体の崩壊」によって生じた「歯止めのなさ」だとするなら、あまりにも他律的に過ぎるだけではなく、そのような「共同体の崩壊」のプロセスが家庭や学校にまで波及して、そこでの人間関係の希薄化・他人に対する関心の低劣化を誘発したとするなら、あまりにも情けない日本社会だと言うことになる。
宮台真司氏はこうも言っている。「昨今、単独犯で動機の不透明な少年犯罪が急に出現したような印象があるけれども、後の少年犯罪を予告するような事件が、実は一〇年以上も前から起こっていたということです。本書を読めば、昨今の少年犯罪が一連のプロセスを経て、殆ど必然的に起こっているのだということが納得できます。少年法改正にしろ、有害環境対策にしろ、この流れを考慮に入れない限り見えてこないでしょう」
果たして、「共同体」は「崩壊」してしまったのだろうか。
「女子高生コンクリート詰め殺人事件」・大河内清輝君のいじめ自殺事件・「オヤジ狩り」・「ホームレス狩り」の加害者たちの「徒党」・「付和雷同」を律していた「統制・収容」が、ボス格の少年の威嚇と、それを無視した場合の懲罰・仕返しを恐れる子分格の少年たちの恐怖だったとしても、そういった内容の人間関係を彼らの「共同体」として維持・構築していたのであり、維持・構築していたからこそできた犯罪であったのである。彼らは決して相互に「『他人』状態」でもなく、「『他人の集まり』」でもなかった。さらに言えば、いずれの事件も各被害者に対する権力行為に準じた犯罪である以上、加害仲間においても段階的な力関係によって位置づけられた権威的人間関係を生じせしめていたはずである。いわば権力関係が存在していた、あるいは、序列的力関係が仲間の人間関係を支配していたと言うことである。
宮台氏が言うように、過去においては「地元のチンピラが暴力団とつながっていて、ある種の秩序≠ェできていて」、それが少年犯罪の「歯止め」となっていたことが事実だとしても、それは理性を土台として繰広げられた展開ではなく、あくまでも支配と従属の権力関係――いわば権威主義的人間関係が可能とした状況である。もし理性を契機としたものなら、「チンピラ」の頃理性として植えつけられた「歯止め」意識はヤクザの地位を得ても失うものではなく、骨までしゃぶるとか、ぶったくるとか、血まで吸うといったヤクザ行為は存在不能となる。しかし実際にはヤクザの当たり前の姿として存在していたのである。
戦前の大日本帝国軍隊での新兵いじめは陰湿で、「歯止めのな」いものとして悪名を馳せていたが、それは先輩、あるいは古参兵という地位を笠に着た権威主義的な権力行為そのものであった。先輩、あるいは古参兵を律していたものは、暴力団の「統制・収容」とは無縁の、地位(=力)が上であるという優越性と、新入りに対する支配意識からの権威性である。
新入りに対する先輩、あるいは古参兵のこの存在様式は、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」・大河内清輝君のいじめ自殺事件・「オヤジ狩り」・「ホームレス狩り」の加害者たちの被害者に対する態様と相似の関係にある。言い換えるなら、旧軍隊の新兵いじめに存在した権威主義的な権力行為が戦後半世紀以上も経過した日本社会の少年犯罪の磁場で、加害者と被害者を律する人間関係の力学としてなお生き続けているということである。あるいは加害者仲間を規制する人間関係のメカニズムとして機能し続けているということである。
さらに言うなら、「昨今の少年犯罪」における「歯止めのなさ」は、旧軍隊での新兵いじめに現れた「歯止めのなさ」を引き継いだものだと言うことである。いや、東南アジアで見せた日本軍兵士の虐待・虐殺の「歯止めのなさ」、さらに遡って、関東大震災で見せた日本人の朝鮮人・中国人虐殺の「歯止めのなさ」を引き継いだものなのかもしれない。逆説するなら、「昨今の少年犯罪」における「歯止めのなさ」は、「地元から」の「暴力団」の「排除」には関係なく、「共同体」の「崩壊」にも関係なく、日本民族の伝統性としてあるものではないかと言うことである。
昔のいじめは「歯止め」があった、伝統的なものであるはずがないといった反論もあるだろう。しかし、日本兵の虐待・虐殺も戦争のあらゆる局面で露呈したわけではないし、時間の経過と共に常に継続的な発展形を取ったわけでもない。状況に応じて強弱の度合いを持って出没したのである。確実に言えることは、日本兵同士の人間関係を、さらに日本兵と敵国兵・敵国非戦闘員の人間関係を律していたのは権威主義的な上下の人間関係であり、だからこそジュネーブ条約に違反して人道的待遇に反する捕虜虐待が可能となったのである。
また、清輝君事件での、「いじめは担任が解決するもので、いじめがあると分かっていても口を出す雰囲気にはなかった」といった人間関係の希薄性、問題が起こりながら、お座なりな対応でその場をやり過ごしてしまう関心の低さは、最近のものなのだろうか。我々日本人は過去において、街中で難儀している障害者に恥ずかしさや気後れを持たずに、積極的に手を差し伸べることをしてきただろうか。混雑している電車の中で席を譲るとき、その多くが相手のためであるよりも、周囲の目を意識した自分のため――自己の善意を演じるためのものではなかったろうか。
第二次大戦末期、ソ連の参戦を受けて関東軍は満州居留日本人の保護を無視・放棄して自分たちだけ撤退を行なった「無軌道」、同じ日本人でありながら、そのような「『他人』状態」、「『他人の集まり』化は、多くの人間が「共同体」の「空洞化」を言うはるか前の、まだ濃密だったはずの時代の出来事である。そのような現代的状況のものであるはずの「共同体の崩壊」による「アノミー(混沌状態)」が戦争末期に生じたのは、状況に応じて間欠的に目覚めた伝統的日本人性だからだろう。
旧日本軍はフィリピンでも敗走中に、「足手纏いになる、子どもたちの泣き声が敵に居所を知らせてしまう」といった理由で子どもを21人も毒物や銃剣で殺害している。そしてそのような「無軌道」な「『他人』状態」の犯罪は米軍上陸下の沖縄でも一般住民に対して強行された。99年1月6日の「朝日」夕刊に出ていた記事であるが、「敗戦の年の秋のある日」の内地で、「サイパン島の、住民を巻き込んだ悲惨な戦闘の模様を」内地人の女性が沖縄の女性に向かって、「玉砕したのは、殆ど沖縄の人だったんですって。内地人の犠牲が少なかったのは、せめてもの救いだったんですって」と語ったというのは極めて象徴的である。日本と言う「共同体」において、沖縄は「一つ屋根の下の」同じ「家族」ではなく、「『他人』状態」に置かれていたのである。それは何も「昨今」の専有物ではないことを示す状況証拠となり得るものだろう。
そしてこのような意識にあるのは、日本人を上位に置き、沖縄人を下に置いた権威主義的優越性であり、当然の結果としてそれは両者の人間関係をも支配していた。もし誰もが人間的に対等であるという意識に立っていたなら、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」も大河内清輝君のいじめ自殺事件も「オヤジ狩り」・「ホームレス狩り」も、「共同体の崩壊」とか「空洞化」とかに関係なしに起こりようはなかったはずである。
ときに少年犯罪が過剰なまでに「歯止め」のない理解不能な「単独の犯罪」として現れるのは、自己の周囲の「共同体」を支配している窒息的な権威主義的人間関係に、あるいは家庭を含めた社会の狭隘な権力的関係性に染まることができないためにそこから浮いてしまったか、あるいはそこから弾き出された人間が、そのような「共同体」・社会に対する権利意識からの復讐と抗議の入り交じった屈折した自己存在証明の性格を持ったものだからではないだろうか。「共同体」・社会から浮いた人間、弾き出された人間が、そのように仕向けた対象に権利意識の間違った方法で接点を求めるのは、なお一層の遊離と反撥を招く二律背反行為でしかなく、その乖離を埋めようとしたなら、勢い「歯止め」のない過剰性に追い込まれることになる。
ここまで述べれば、既に答は出ている。社会の人間関係における権威主義性・権力性がキーワードとなっている。勿論、社会の情報はそれぞれの生存形式と相互作用しあって、それに深く影響を与える。犯罪を犯すも犯さないも、そのような権威主義性・権力性を社会に対してどう表現するかの人それぞれの権利意識にかかっている。権威主義的権利意識・権力的権利意識の突出した人間は、自己の力(支配力)を誇示する性格欲求の傾向が強いことから、社会的に正当な自己充足の方法に恵まれなかったとき、最も力(支配力)を誇示しやすい社会の弱い部分・弱い対象に向かう権利主張(自己主張)に流されやすい。
それが犯罪の形を取るとき、大人の犯罪であろうが少年犯罪であろうが、「単独」「犯罪」型を取るか、「徒党型・付和雷同型」を取るか、それが「歯止め」を持っているか持っていないかは、「共同体の崩壊」とか「空洞化」とかに無関係なことで、当然そのことによる「無軌道(アノミー)」も関係なく、そのとき自己が置かれている人間関係に左右される。生活上関わっている人間関係から一人疎外されている人間が、何をしようにも仲間を組みようがない。例外として、同じように疎外されている人間が見つかった場合は、意気投合することもあるだろう。例え社会的に人間関係が希薄化状態にあったとしても、仲間という形でとにかくも複数の人間関係を持っている人間が複数者を必要とする犯罪を犯そうとするとき、危険を冒して単独犯の形を取るはずもなく、当然その仲間と行動を共にする確率は高くなるだろう。
また、「歯止め」を持ち得るかどうかは、「徒党型・付和雷同型」の場合は、そのときの権威主義的人間関係の力学がどう作用するかに多くはかかっているのではないだろうか。いわば、犯罪にビビッた場合の軽蔑・非難を恐れる気持が相互作用しあって、それぞれの意志を超えて過剰行動に出てしまう結果の「歯止めのな」さである。特にボス格はボスとしての凄さ・度胸を演じなければならない強迫意識から、ビビッた場合の軽蔑・非難を恐れる気持は最も強く働くだろう。
「単独」犯で、自分が身近に関わっている「共同体」から弾き出された人間の権利回復、あるいは名誉回復を目的とした犯罪の場合は、ひとえに自己の社会に対する権利意識の強弱とその実現方法に影響されるはずである。強い権利意識を持ちながら、社会が正当と認める方法で達成不可能であった場合、それを無理に実現させようとすれば、また権利意識の強さから高い充足度を得ようとした場合、勢い「歯止め」を無視しなければ、達成は不可能となる。
テストの成績・学歴で人間価値を決定する学校社会において、そのような生存形式を持ち得ない生徒の自己権利の主張が、勢い学校価値観に反するいじめや暴力といった歪んだ形で噴出しているのであり、そういったことを出発点として少年犯罪の多くは発生しているのではないだろうか。
旧軍隊の下層兵は農村出身の貧しい次男以下が、百姓では食えないから軍隊に入るというパターンで重要な供給源となっていたという。戦争が激しくなって多くの都市労働者や学歴を持ったサラリーマンが赤紙一枚で軍隊に新兵として招集されると、農村出の古参兵は、農村よりも生活が楽な都市出身兵に対する嫉妬と憎悪から先輩の地位を利用して、特に彼らを陰湿ないじめの標的とする傾向があったという。これも権威主義的権利意識・権力的権利意識が深く関わった人間の人間に対する「歯止め」のない虐待行為である。「共同体」などというものは、地域や階層で利害が異なれば、いつでも「一つ屋根の下」の「『他人』状態」に置かれるものである。利害が鋭く対立するほど、「アノミー(混沌状態)」を誘発することになる。現在の「アノミー(混沌状態)」は、大人たちの権威主義的権利意識・権力的権利意識と子どもたちのそれと鋭く対立していることが原因となっているのではないか。大人の望む学歴主義に乗れる子どもはいい。大人たちが望みながら、望みどおりに乗れない絶対多数の子どもたちは、学歴を絶対とする社会で、少なくとも一日の生活の中で人生のメインとなっている学校社会ではテストの成績か、スポーツの才能か二者択一となっていて、それ以外はないという状況で、自己の権利意識をどう充足させたらいいと言うのだろうか。
地域崩壊論・共同体崩壊論の背景には、過去の地域・共同体は、「理想的な状態にあった」という過去を美化する考えが土台にある。そこに人間が住む以上、どのような内容・形であれ、地域・共同体は維持される。崩壊≠ニは、人間が住まなくなった状態を言うはずである。ただ、一人の人間の中で持っているありとあらゆる性格がそれぞれに時と場合に応じて、前面に強く出たり、背後に隠れたりするように、時代に応じた性格を持つのみである。戦前、軍国主義的国家権力により戦争遂行への国民総動員化が図られ、銃後国民は地域単位で、やれ軍事訓練だ、消火訓練だ、出生兵士の見送りだと集団動員を強制されられた。だからと言って、地域・共同体が濃密状態にあったと言えるのだろうか。隣近所と同じ行動を取らなければ何を言われるか分からないという世間体からの機械的同調行為もあったはずである。他人を基準に自己決定する行動様式は日本人の伝統的なメンタリティーとしてあるものだからである。
緊急に必要というときにコメや醤油を切らしていたのに気づくと、隣の家に借りに行ってすぐの間に合わせたものだと、そのようなことをもって地域の人間関係が濃密だった有力証拠とする者がいるが、現在ほど商店がたくさんある時代ではなかったための、歩いて買い物に行く不便を避けるやむを得ない選択といった側面もあったはずである。女性が一般的に自転車に乗るようになったのは、戦後もかなり経ってから、女子中学生や女子高生が自転車通学するようになってからではなかったか。社会人女性の自転車に乗る姿を頻繁に見るのは彼女たちが社会に出るまで待たなければならなかったはずである。
戦争で殆どの国民が生活に難儀しているときに、役得で配給物資の横流しを受けたり、ヤミ物資の分け前にあずかったりして、ひそかにおいしい生活を送っていた人間が少なからず地域の有力者たちの中にいた事実は、そこでの人間関係が見せかけのものであることを物語っている。
イエスかノーか、いずれかの署名を求められたとき、あるいは態度決定を求められたとき、ノーとした場合の人間関係が気まずくなるのを怖れて、自己意志に反してイエスの署名・態度決定をする日本人性としてある自己抑制は、本心からの、あるいは本音を用いた人間関係が存在しなかったことを証拠立てている。いわば、そのような存在形式は当り前のものとしてはなかったと言うことである。
薬害エイズ裁判で、前帝京大学教授・安部英被告の部下だった同大学教授は、「非過熱製剤の投与をやめて、より安全なクリオ製剤に替えるべきだと思ったが、自分の学者としての将来を心配して、安部先生に勇気を持って進言することができなかった」(97.6.5「朝日」朝刊)、「安部先生の意に逆らったことをやれば、仲間外れにされ、医師として学会でやっていけなくなるという漠然とした不安があった。当時から、非過熱製剤の使用を続けるのは誤りだったと思っている」(同)と証言を行なっている。これは前述の自己抑制と同根のもので、ひとえに個別・個人の問題ではない。日本人全体の問題としてある関係性である。
このような人間関係を存在形式としている地域・共同体が果たして「空洞化」とは正反対の濃密な状態にあったと言うことができるだろうか。非過熱製剤から過熱製剤に切り替わったのは、宮台氏が言う、「暴力団新法」が成立するずっと以前、「一九八八年の女子高生コンクリート詰め事件」が起こるよりも前の、1985(昭和60)年12月からである。安部被告と部下の教授との見せかけの形式的な関係性は、前述した大河内清輝君いじめ自殺事件で表面化した、担任と「いじめは担任が解決するもので、いじめがあると分かっていても口を出す雰囲気にはなかった」他の教師との関係性と相互関係にある。このことからも、「『一つ屋根の下の他人』状態」や「学校や地域社会」の「他人の集まり」状態は何も現在だけの状況ではなく、過去から引きずっている状況だと証拠立てることが可能である。
なぜ多くの学者・文化人、さらにジャーナリストも含めて、過去社会を美化する衝動に突き動かされるのだろうか。それは殆どの日本人が無意識下に、「日本国民ヲ以ッテ他ノ民族ニ優越スル民族」だと思い込んでいるからではないか。日本の知識人たちは日本人として持っているその権威主義性から、日本社会の上層部を構成する自分たちを非知識人に対して優越人種と見なしているものの、自分たちが支配的でなければならない現実の日本社会は矛盾に満ちていて功績とすることが不可能なため、過去社会の美化で代償としているのだろうか。
2000年5月29日の「朝日」の朝刊に「ニッポン診断 児童虐待の『発見』と専門家の不在」と題する記事が載っている。ロジャー・グッドマンと言う名の英オックスフォード大学講師が寄稿したものである。次のように書いている。「調査によると、日本で公式には年間に千六百十一件しか児童虐待がなかったとされる九三年に、人口が二倍の米国では二百三十万件の虐待があり、人口が半分の英国では約四万件あった。問題意識が高まるに連れ、日本で報告される件数は今後数年で、急速に増え続けていくのはまず間違いない。・・・(中略)・・・医師や福祉の専門家を含むほとんどの人たちが、日本では児童虐待が起きている可能性を否定していたころから、まだ十年もたっていない。
親子心中といった日本社会ならではの現象があるということは認めながらも、感情的・身体的・性的な虐待は『欧米の』問題で日本には存在しないと見られていた」。その理由は、「日本に比べ、西欧社会の多くでは離婚率や婚外子の割合が高く、地域や家族の助け合いが弱いために虐待が起きるとも考えられていた」と言うものである。
そのような意識の背景にあるのは、間違いなく日本人優越意識だろう。「日本には存在しない」児童虐待が「まだ十年もたっていない」間に突然変異的に日本社会に現れるはずはない。それもゼロから「九三年」には「年間」「千六百十一件」もである。矛盾と不平等のない時代・社会は存在しない。これは絶対真理である。いや、いずれの時代・社会も矛盾や不平等の方が多かったはずである。そして、人間存在はいかようにも不条理になり得る。例え日本民族が「他ノ民族ニ優越スル民族」であることが事実だとしてもである。
上記の記事を読んだとき思い出したのは、日本が誇る雇用形態としての終身雇用である。バブル経済がはじけて暫くしてからも、正規雇用ではない期間工やパート従業員が次々と整理・解雇されているさ中にあっても、生涯生活を保証されるゆえに家族的雰囲気に満ちた職場を提供する素晴らしい制度だと、さも矛盾・不平等を何一つ抱えていないかのように学者は新聞やテレビで得々と知ったかぶりのマヤカシを披露に及んでいた。日本の終身雇用はごく限られた人間に適用される条件付きのものだと、誰も言わなかった。いわば、正社員にのみ保証された雇用制度なのだと。彼ら正社員の終身雇用を支えたのは、身分が保証されていない期間工員・パート・アルバイト・臨時工員等々の労働者である。あるいは下請け会社の、そこの正社員は終身雇用ではあっても、抑制された賃金が元受け会社の正社員の終身雇用を支えていたのである。期間工員・パート・アルバイト・臨時工員は人件費抑制の調整弁とされていただけではなく、採用人数を調整することで、会社の利益確保の調整弁としての役割も担わされていた。グリコ・森永事件で森永製品が売れなくなると、まず最初に自宅待機させられたのはパート従業員である。彼らにとって終身雇用はどこか遠い国の話だったろう。
終身雇用をさらに厳密に言うなら、女子社員は寿退社と称して結婚すると暗黙の強制で退社させられた会社もあったから、「多くは男子正社員に限って」の制度だったと、より正しい姿を知らせるべきだったろう。
かくかように現実とはかけ離れた、現実を見ない、さも矛盾のないような理想的な日本社会だと言う言動が大手を振って罷り通っていたのである。それは学者たちの意識の中に「優越スル」人種だという思いがあったからだろう。日本人は優れているという意識が。
2001年6月4日の「朝日」朝刊に、「仏壇のどら焼き食べた」と「8歳の次女を炎天下、自宅の庭の木にロープで約2時間宙づりにして脱水症状などで死亡させ」逮捕された55歳の父親の記事が出ている。
こういった幼児虐待死事件が「感情的・身体的・性的な虐待は『欧米の』問題で日本には存在しないと見られていた」「まだ十年もたっていない」以前にもあったのではないだろうか。なかったと断言できるのだろうか。ただ事件として社会の表面に現れなかったに過ぎないのではないか。日本人の体面を気にして表面を美しく取繕おうとする、民族性ともなっている性格特性を考えると、終身雇用説と同じく、なかったとすることが如何にも怪しく思える。
例えば、封建時代でも、封建意識が強く残る明治・大正の時代でもいい、ある村で親が虐待で子どもを殺してしまう。大庄屋、もしくは村長といった村の有力者は、こんなことは村の恥だと、医者には言い含めて、役人とか駐在所の巡査には口止め料として何がしかのカネを与えて、事件を闇に葬ってしまう。人権意識の低かった時代は個人よりも集団の体裁が大事にされたのである。江戸時代、街中で不慮の死、あるいは不名誉な死を遂げた藩士の遺体の引取りを藩邸に申出ても、そのような者は当藩にはおらぬと引取りを拒否されたのは、個人よりも藩という集団の体裁を守るためだった証拠となるものである。
人権意識が高まっている現在でも、日本人の中に個人よりも集団優先の意識は色濃く残っている。企業の労災隠しはなくならないし、日本の警察や自衛隊の内部の者の犯罪を隠す体質はもはや習性と言ってもいいくらいである。噂や内部告発によって露見するのだろうが、それも情報社会だからこそ事件としてすくい上げられるのであって、そこに人権意識が関わっていたとしても、情報が未発達社会だったなら、隠蔽を図ったが洩れてしまったといった経緯をも含めて真相は一部の人間にしか伝わらない、それゆえに集団や組織とは関係ない特殊な個人の問題として片づけられてしまう確率が高くなる。
不祥事隠しや犯罪隠しは、不祥事や犯罪は個人の問題としてはあったとしても、集団としてはあってはならないという意識の発動があって可能となる出来事だろう。それは集団は常に正しい、あるいは常に正しくなければならないとする無誤謬意識を土台としなければ成り立たないプロセスのはずである。南京虐殺を否定したり、あるいは虐殺された人間の数の問題に矮小化したり、あるいは、「不幸な一時期があった」とすることで全体としての日本は間違っていないとする歴史操作にも表れている同じプロセスである。このようなことはやはり、「他ノ民族ニ優越スル民族」であるという感覚、あるいは信念がなければ生じない構図であろう。
そのような感覚・信念は実際はマヤカシの思い込みに過ぎないのだが、今まで見てきた通りに保守派の人間だけが犯しているマヤカシではなく、細部では文化人や知識人と称している人間も犯しているもので、例え進歩派を名乗っていたとしても、共犯関係にあると言える。
侵略否定は、警察や自衛隊の不祥事隠しや犯罪隠しと同じ線上にある国家規模の不祥事隠し・犯罪隠しとも言える。
「性的な虐待」についても推理してみよう。江戸時代、年少の頃から下女や小間使いとして商家に奉公に出された娘が、同じ住み込みで、正月と盆以外に滅多と休みの取れない外出不自由な番頭以下の男の奉公人たちの性のはけ口として、恰好の餌食とならなかった言えるだろうか。中には主人の目に触れないように暴力的に短時間のうちに果たすといったこともあったはずである。当然相手の娘にしたら、性的虐待≠ニいう意識はなかったとしても、逆らうことのできないひどい仕打ちと受止めもしたろう。そしてそのようなことが相手の女子の意志に反した形で継続化したなら、まさしく立派な性的虐待の成立である。江戸時代には強姦を意味する「手込め」という言葉が既に存在していたのである。手込めが常に成人女性を対象とした保証はない。
男子に対する性的な児童虐待は、江戸時代のゲイ=男色から行なってみる。男色について『日本史広辞典』(山川出版社)は次のように説明している。「中世には、女性を排した寺院内で、稚児が先輩の僧侶の寵愛の対象となった。戦国期には、武士の間で、主君が家来の少年を寵愛し、両者間のあるべき姿を主張した若衆道まで成立した。江戸時代には男色は一般化し、美少年の若衆歌舞伎が幕府に禁止されたり、陰間(かげま)という男娼が登場したり、男色物と呼ばれる仮名草子や浮世草子が盛んに刊行された。江戸時代前期まで行なわれていた殉死の風習にも、主君と家臣間の男色関係にからんでの例があった」
陰間についても、同じ『日本史広辞典』をひもといてみる。「江戸時代の男娼の通称。江戸初期、まだ舞台に出ない年少の歌舞伎役者による売色(売春のこと)が盛行(広く盛んに行なわれること)し、『陰の間』の役者の意からこの通称が生まれた。一六五二年(承応元)若衆歌舞伎が禁止されると、僧侶や女性を対象に専業的に男色を売る者が現れた。売色を伴う宴席に利用されたのが陰間茶屋で、江戸では芳町・木挽町・芝神明町、京では宮川町、大阪では道頓堀といった芝居町や寺院の周辺に集中した」
江戸吉原の花魁と同じで、陰間も売れっ子になったら、値が高くなるだけではなく、客も選ぶだろう。一度陰間にはまってしまって、通いつめて懐具合が悪くなった客は次第にグレードを下げざるを得なく、最後には町の男の子どもを襲うといった、今で言う「性的な虐待」を行なわなかった保証はない。陰間に強い関心は持つものの、最初からカネがなくて、茶屋などで買えない男は、なおさら強姦(手込め)という形でしか欲望を満たすことはできなかったはずである。あるいは陰間の商売用の媚びや駆引きに新鮮味を失って、かつて男が処女を求めたように何も知らない通りすがりの男の子を新鮮強烈な性感獲得の対象として襲うといったこともあったかもしれない。あるいは小銭で釣って、騙すというやり方もあったろう。
陰間茶屋が「寺院の周辺に集中した」というのは極めて象徴的である。当たり前の女性には感じない妖しい性的興奮を誘ったのだろうか。あるいは別口の興奮として、それはそれで愉しんだのだろうか。仏に仕える身でありながらである。ましてや凡人・俗人が味を占めて抑制が効かなくなって常軌を逸したとしても、不思議はない。
これまで例を挙げたのは他人による児童虐待であるが、出産した赤ん坊を養う力がないからと、あるいは勝手にできてしまった子だからと間引きするのは、親の子どもに対する虐待死の原形を成す行為ではないだろうか。間引かずに成長した子どもが親の言うことを聞かずに手に負えないないことが起こった場合、あのとき間引いておけばよかったと憎しみをわかせもするだろうし、直接口に出して子どもに罵ることもするのが人間である。そういった感情は、間引きを生活維持の慣習的な制度として疑問もなく受入れる精神的風土を当り前のものとしている人間にはときとして持つだけでは終わらず、行動の形を取ることもあるだろう。少なくとも棒などで叩くことで、間引きしておけばよかったという感情を代償させるに違いないと考えても、無理はあるまい。日本の社会は現在でも親や教師が子どもを殴るのを、しつけの方法として容認する風潮を一部に残しているのである。そのようなしつけが一度も行き過ぎたことはないとするなら、日本人は冷たいまでに理性的にできていることになる。アメリカと日本の国力・軍事力・工業生産力の差、さらに情報収集力の差が冷静に計算できて、真珠湾攻撃といった無謀なことはしなかったろう。それよりも何よりも、教師の生徒に対する体罰死(これが小中学生相手のものなら、児童虐待死に当たるだろう)は起こりようはずもなく、教育史に記録されることもなかったろう。教師が犯した体罰死の殆どは、しつけの境界を踏み外して、冷静さを失い、カッとなって仕出かしたものが殆どでであることを忘れてはならない。
2001年6月1日の「朝日」朝刊に次のような記事がある。東京町田市の4歳の保育園児が母親の交際相手の男性から暴行を受けて死亡した事件で、保育園は指先の火傷や頬のあざ、身体の傷に気づいて、5月17日に「相談窓口となる町田市の児童福祉課に」電話連絡して、「児童相談所の調査を要請した。翌日、福祉課の職員は、都八王子児童相談所に電話で報告した」にも関わらず、相談を受理した「40代の児童福祉司は」園児が「毎日通勤していることなどから、直ちに危険な状態になる可能性はないと見て、『しばらく様子を見る』ことにしたという」。相談内容は「緊急性がある場合はその都度、協議することになっている」が、すべて記入すべき「受理カードも作らず、上司にも報告しなかった」ということだから、緊急性は全然感じていなかったのだろう。その結果、「事件が起きた29日まで、相談所は何も対応しなかった」
と言うより、当の「児童福祉司」は忘れてしまっていたのではないか。ロジャー・グッドマン英オックスフォード大学講師の前述の記事を参考とするなら、児童虐待は「『欧米の』問題で日本には存在しない」などと思い上がらずに、欧米での問題化を受けて、日本ではどうだろうかと真摯な客観的態度で検証を行なっていたなら、「英国や米国」のように「児童虐待の『発見』によって福祉に携わる専門家を増やし、質的にも高め」ることが可能となり、電話一本で緊急性があるかどうか判断せずに、一度足を運んで自分の目で判断する親切心を起こしたに違いない。
この「児童福祉司」の態度は、児童虐待は検証もせずに「『欧米の』問題で日本には存在しない」とした「医師や福祉の専門家」たちの態度と同一線上にあるものだろう。もしかしたら日本の知識人の多くは夫の妻に対する家庭内暴力も最近の出来事と思い込んでいるのではないだろうか。過去の妻は人権意識の低さから、夫の暴力にただ耐えるだけで泣き寝入りした。人権意識が言われる現在でも、ただ耐えるだけの妻はなくならず、妻に暴力をふるう夫もなくならない。となれば、人権意識の低かった時代の家庭内暴力がどれ程の数のものか想像はできよう。と同時に、人間の人権意識とか理性とかは、当てにはならないものだと言うことである。ましてや、「他ノ民族ニ優越スル民族」などといった特性は当てにも何もならない。人間が人間と相対立して、自分が不利な立場に立たされたなら、あるいは決定的に有利な立場に立とうとして立てなかったなら、理性よりも感情が勝ってくるのが人間なのである。
江戸を舞台としたNHKのライトコメディー『お江戸でござる』の後半で、江戸風俗研究家だかの杉浦日向子氏がドラマの筋立てに関する時代考証を行なっている。時々見るが、自分の専門分野だから見栄えをよくしたいのか、いつもと言っていいくらいに、いいことずくめの江戸となっている。視聴率がどのくらいなのか関心はないが、長期番組となっているから、人数にしたら、全国で相当数の人間が見ているはずである。杉浦日向子氏の解説をそのまま鵜呑みにする人間も多いことだろう。大体が出演者の殆どが彼女の言葉に感心して、彼女の語る江戸≠実際の江戸と思い込んでしまうようである。彼女の言説は江戸を美化するものであるが、江戸の美化にとどまらないことが問題なのである。ただでさえ日本の美化が「他ノ民族ニ優越スル民族」意識――即ち、日本民族優越意識につながる危険を孕んでいるのに、過去の日本の美化はそれを補強する材料になりかねないからである。
問題にするのは、2001年5月31日の番組である。その中で、江戸の寺小屋がどういうものか解説していた。ドラマ自体は、浪人が寺小屋を開く資金を稼ぐために、用心棒を引受けることを決心するが、腕がいいのだか悪いのだか分からない、もう一人の用心棒志願の浪人も強そうなのは見せ掛けだけで、2人の真剣勝負の結果で採用が決まるというドタバタ劇である。杉浦日向子氏に言わせると、寺小屋を開くのに何も資金はいらない。長屋でもどこでも開ける、いい寺小屋だと言うことになれば、近所の人が援助してくれるということである。さらに寺小屋という呼び名は関西の言葉で、教育は商売ではないから、商家の屋号のように屋≠つけるのは差し障りがあるため、江戸では手習指南所とか、手跡指南と言うのだと。但し、分かりやすいように寺小屋と統一して説明すると。そして、江戸の就学率は7〜8割で、識字率は世界最高とも言われていたと述べている。これを聞いて単純に凄いと思ったとしたら、単細胞の傾向にある人間である。
寺小屋そのものは『江戸東京実見図録』のうちの『雷師匠』という版画絵を示しながらの解説である。テロップに、「日本橋佐内町に雷師匠として有名な中石水という名物先生がいた」と出ていた。杉浦日向子氏は「雷師匠」のことを大体次のように紹介している。「非常にしつけの厳しい先生で、その厳しさに親御さんたちの評判を呼びまして、最盛期には間口10間、奥行きは裏通りまで突き抜けるくらいで、2階建てで、5百人もの門弟を抱えていたと言います。江戸で最も繁盛した寺小屋の一つ。通りに面していて、中が見えるように格子になっていて、授業風景が分かるようになっています。これを見て、うちの子もまた通わせたいなと思うのでしょうね。宣伝も兼ねているわけです。真ん中に構えているのが中石水(なか・せきすい)と言うお師匠さんです」
「たいていの寺小屋が、もうバラバラに天神机と言う机を好きな所に置いて、毎日席替えと言うか、好きな順に勉強していた。しかも一人一人教科書が違う。その子の適性にあった教科書を宛がうのです。年長者が年少者を教えて、分からないことがあれば、先生に聞きにいくのです。先生は見守っているという形で真ん中にいるのです」
絵の中の煙が立っている線香の前に正座させられた子どもを指差し、「この子は線香が燃え尽きるまで正座の罪を与えられています」。その隣で正座したまま肩紐をつけた米俵らしきものをランドセルのように背負わされている子は「暴れたか何かした」との解説。俵は床についているから、重くはないが、ずっと同じ姿勢でいなければならない。杉浦日向子氏は何も説明していなかったが、罰を受けている子どもの姿は、厳しいと評判を呼んでいる中石水大先生のその厳しさの効果が必ずしも完璧なものではなく、いたずらや悪さをする子どももいたことを示している。どのように優秀な教師も完璧ではないことは勿論のことであるが、完璧ではない≠ニいうことを常に事実としていなければならないはずである。それを事実としていないから、「他ノ民族ニ優越スル民族」などとする思い上がった独善に支配される。
「午前中店の手伝いをしなければならない子は午後から来るし、途中から早退することも自由自在で、自分の空いた時間帯に座ることができたのです。遅刻ということもなかったのです。休みたいときに休めるというふうになっていました」
「学びたいときに学べるんだ」と出演者の一人が感心したふうに呟いた。他の出演者も感心した顔である。版画絵の上方に描かれていたのは、師匠の前に2人の子がいて、1人は顔に手を当てて泣いている。その手前隣でもう1人は床に手をついて頭を深く下げ、何か謝っている光景である。
「お詫びをしている子はこの子の」と奥方の泣いている子を指差し、「年長者で、この子の指導に当たっていた先輩。いたずらをした張本人はこっちの子ですけど」と、再び泣いている子を指差す。「代りに謝っているんです。これを謝り役と言いまして、本人が謝るよりも、自分の先輩に迷惑をかけて謝ってくれているというのが身に応えて、絶大な反省心が起きたということです。それ以外に師匠の妻が謝り役になったり、子どもの両親が直接謝りに来たり、あるいは留め置きと言って、その子だけ居残りをさせられた場合は、近所の年寄りが来て、その子の代りに謝る。早く帰してくださいと言う。これは常日頃から話をつけてあるのです。一番厳しいのは机を持って出て行けという退学命令です」
そのとき、テロップが出た。「謝り役――第三者が仲介に入り、子どもの懲罰を解決するというユニークなシステムがあった」
「自分の先輩に迷惑をかけて謝ってくれているというのが身に応えて、絶大な反省心が起きた」というのは綺麗事のこじつけではないか。子どもの何らかの悪い行い→師匠の叱責・懲罰→謝り役の謝罪→子どもの謝罪・二度としませんという約束→師匠の許し・懲罰からの解放、というプロセスからは、なぜそんなことをしたのか、なぜそれが悪いことなのか、直接問い質し、本人に言い分があるなら言わせて、どこに誤りがあるか指摘するといった理(ことわり)を以って理を導き出す直接的なコミュニケーションが見えてこない。見えるのは、事態収拾の約束事の起承転結のみである。いわば謝罪の形式があり、その形式の決着だけである。逆説すると、理を以って理を導き出す直接的なコミュニケーションがあったなら、第三者の謝り役は必要なくなる。
なぜ自分の言葉でもって、自分で謝らせないのだろう。謝り役を介することは、その尻について謝ることである。謝り役が頭を下げてから、自分が頭を下げる。謝り役が謝りの言葉を述べてから、「お前も謝れ」と言われて謝る段階的謝罪でしかない。謝り役に「迷惑をかけて謝ってくれているというのが身に応え」る切実な気持を持ったとしても、その分、いたずらや悪さをして迷惑をかけた直接の相手への謝罪の切実な気持、あるいはそのような行為を犯したこと自体の切実な反省の気持が薄れることになるだろう。
そういったことばかりではない。日本人は元々権威主義を人間関係の力学としている。謝り役となる「先輩」・「師匠の妻」・「近所の年寄り」は上位権威者として位置する存在のみである。そのような存在に謝ってもらうということは、「迷惑をかけて謝ってくれているというのが身に応えて」心理的になお一層自分を下位に立たしめることを意味する。例え「絶大な反省心が起きた」としても、自己を精神的に謝り役の支配下に置いての「反省心」に過ぎない。謝ってもらったあとで、謝ってやったんだからと、その代償として何か無理な要求をされても、断ることができるだろうか。自分を持たない同調・従属人間(非自律的人間)をつくることに役立っても、独自の自分を持つ人間(自律的人間)をつくることには役立たない。いわば、自分で考えて、謝罪するもしないも自分で決めて自分で行なう人間をつくることには役立たない。
杉浦日向子氏が続けて、「謝り役は師匠に、よく叱ってくださいましたと礼を言います」というと、出演者の一人は「(謝り役は)先生を立てて帰るんだ」と感心して応じた。「そうなんです」といいこと尽くめの江戸≠ヘいよいよ佳境に入っていく。サラ金のテレビコマーシャルで使うセリフを使って、「そうだんです」と言ったなら、何もかも許してしまうのだが。「寺小屋の基本のしつけはただ一つ、禮を尽くすと言いまして、禮という言葉をきちんと理解できれば、いつでも卒業できる。きちんと挨拶ができるか、人を敬えるか、あるいは人の過ちを許すことができるか、あるいは感謝の気持を述べることができるかとか、昔の旧字体の禮、豊かさを示すという字ですね、自分自身の心が豊かでなければ、人を敬ったり、許したりすることはできないという、本当に道徳を教えるのが中心だった」
「子どもは宝と言いますね?」という進行役の問いに、「そうです。家の中の両親の私有物ではなく、町の共有財産として、町ぐるみで育てていた」
何と言うパダイス。何というユートピア。この上なく理想的な教育が江戸にあった。矛盾も不平等も何一つない理想社会。なぜそのような教育を日本の伝統とすることができなかったのだろう。答は一つ、元々存在しない絵空事の世界だからである。
人間はそうそう簡単に心豊かになれるものではない。なれたなら、人類はモーゼや釈迦やモハメッドの昔から、殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、騙すなかれなどと言い続けなくて済んだろう。寺小屋社会は江戸社会の反映であり、両社会は相互に谺(こだま)し合っている。現在の日本の学校の主力価値観は学歴であり、それが社会の主力価値観である学歴主義を受けた反映物であるように、寺小屋の主力価値観が『禮を尽くす』ことにあるなら、江戸社会においても、同じ価値観が支配的であったはずである。杉浦日向子氏の言っていることは、人間は利害の生きものであるという絶対真理を否定するものである。利害の生きものだからこそ、人を殺し、盗み、姦淫を犯し、人を騙す。
杉浦日向子氏は江戸には犯罪を取締まる町奉行所もなく、引回しの上張付け獄門といった刑罰もなく、島流しといった流刑もなかったと言っているのと同じことを言っていたのである。寺小屋で誰もが「禮という言葉をきちんと理解」し、誰もが「自分自身の心」を「豊か」にして卒業していっただろうし、そういった人間が江戸社会の支配層となっただろうからである。現在保守政治家が道徳教育の強化を声高に叫んでいるが、日本社会における最大公約数の大人たちの行動が彼らの言う道徳に基づいたものでなければ、特に政治家が口先だけではなく、率先して自らを道徳で厳しく律することをしなければ、道徳をどう教育しようとも、学校社会に反映させることは不可能だろう。保守政治家の道徳教育と言うものは、子どもを言いなりになるおとなしい国民に育てようとするものでしかない。
老い先短くなって、たくさんの書物を読んで勉強するというヒマがない。横着して、『大日本史広辞典』(山川出版社)を再度利用することにする。「【てらこや】寺子屋」の項目をそっくり引用してみる。「寺子屋・手習所(てならいどころ)・筆道稽古所とも。近世から近代初頭の教育機関。内容は主として習字で、他に読書・算術を教えるところもあった。まず『いろは』から始め、その後男女の別や、子どもの出身にあわせ往来文(物)に進んだ」
ここまでの説明で、寺子屋教育が読み書き算盤≠セったことが分かる。そして読み書き算盤≠ヘ現在の教育にも受継がれている日本の伝統としてある教育方法なのである。それが機械的な教育であるのは、欧米諸国の考える力(想像力・創造力)に劣る日本人の考える力(想像力・創造力)を放置していたのでは、モノ作りには長けていても、発明原理には劣って、製造業の地位に甘んじなければならなくなると、「自分で考え、自分で決め、自分で行なう能力」の育成を謳った新学習指導要領を採用したことからでも分かる。杉浦日向子氏は、「一人一人教科書が違う。その子の適性にあった教科書を宛がう」と素晴らしいことのように言っているが、要するに子どもの年齢や身分に合せて、主として習字の手本となる教科書を違えたということに過ぎない。「おうらいもの【往来物】」とは、「平安時代〜近代前期までに手紙文例集の形態で編纂された初等教科書の総称。往復一対の手紙を編纂した形態をとることからこの名がある。一〇六六年(治暦二)に没した藤原明衡(あきひら)撰の『雲集消息』(明衡めいごう往来とも)が最古。形態的には、(1)明衡往来型(実際の消息や擬作を集め故実や儀礼に関する知識を与えたもの)、(2)一二月往来型(一二ヵ月の月順に時宜折々の消息の模範を示したもの)、(3)雑筆往来型(消息に常用される語彙を集めたもの)、(4)庭訓往来型(文例集と語彙集を組合せて諸道の知識を与えたもの)、(5)富士野往来型(消息文以外に、種々の文書の書式をあげて武家の教養を目的としたもの)がある。近世には約七〇〇〇種も出版された」(『大日本史広辞典』山川出版社)
要するに、往復の手紙文を手習い(筆写)させることで、文字や言葉・手紙の書き方・故実(儀式・作法・服装などのならわし)を吸収させる教育である。師匠と子ども、子どもと子どもが言葉を交わし合い、お互いの考え(想像力・創造力)を高める訓練とするプロセスはここには見えない。そしてそのことは現在の教育でも欠如している部分である。いわば繰返し書かせて、書いてあることを覚えさせる機械的な暗記教育であり、それをそのまま伝統として現在の教育として受継いでいるのである。だとしたら、江戸の就学率は7〜8割で、識字率は世界最高とも言われていたとしても、低いよりはまし程度のことでしかない。
また、「その子の適性にあった教科書を宛がう」と言っても、既に言ったように年齢や能力に応じて単にお手本を違えたということで、「適性」と言うほど大袈裟なものではない。杉浦日向子氏は気づかずに情報隠し・情報操作を犯していたとも言える。
「【てらこや】寺子屋」の項目の続きを追ってみる。「入学年齢・時期・在学期間などは近代以降の学校と異なり、地域の民衆の生活実態に適合した制度だったが、そのことが教育内容の合理化や高度化を阻んでいた面もある。教師はふつう手習師匠とか、たんに師匠といわれ、地域紛争や家庭問題の仲裁役・相談役としても尊敬された。寺子屋は民衆の現実的必要性や勉学への意欲を背景にして近世後期以降盛んになり、幕末・維新期には全国津々浦々に普及した」
戦後以降、日本は工業化する以前、まだ農業人口が多くを占めていた。当時は現在から比べたら遥かに貧しく、家が農家の子どもたちは、農繁期になると下の子の子守りや雑用に狩り出されて、学校を長期に休んだ。多くの人間にとって生活していくことが切実な問題であったから、学校は自由に休ませた。それをも、「地域の民衆の生活実態に適合した」暗黙の「制度」とも言えるが、田作業する親の近くで親に代って殆ど一日、赤ん坊を背中に背負って子守りしたり、直接農作業を手伝う子どもたち――いわば働かざるを得ない当事者たちにとっては、「地域の民衆の生活実態に適合した制度」などという表現は意味もないことだったろう。
「地域紛争や家庭問題の仲裁役・相談役としても尊敬された」も、学歴ある人間が立派な人間とされるように、読み書きができて、葬式や祝言、正月や節句の作法・方式・言い伝えに詳しいし、年も行っているから、一段上の人間とされて獲得した上下の人間関係に頼った「仲裁」・「相談」なら、他を従わせるという権威主義的な構造の解決が支配的となるし、特定の人間が決まりきってその役を担うというのは、例え有効ではあっても、解決方法が一定の紋切り型のものになるだろう。いわば、謝り役と同様に、謝る形式が決まってしまうということである。
そのことは、「民衆の現実的必要性や勉学への意欲を背景にして近世後期以降盛んになり、幕末・維新期には全国津々浦々に普及した」としても、手紙の書き方や手紙に書いてある「故実や儀礼に関する知識」をそのままの形で覚える(暗記する)教育に表れている、手本を与えてその内容に従わせるという強制、あるいは指示と、それに対する同調・従属の師匠と子どもの関係性が師匠と「仲裁」・「相談」する他の大人にも反映されるものであることによって証明できることである。
寺子屋教育における考え、批判する能力育成の不在は、寺子屋の師匠ばかりではなく、当時の大人たちの(現在の大人たちにも当てはまることだが)考え、批判する能力不在の反映としてある教育現象でもある。そのような教育の伝統的不在の最悪の成果としてあったのが、軍国主義への総国民的な付和雷同なのは言うまでもない。そして戦後の学歴主義への総国民的崇拝も、考え、批判する能力の不在から生じた同種・同質の付和雷同なのは改めて言うまでもない。
子どもも、「家の中の両親の私有物ではなく、町の共有財産として、町ぐるみで育てていた」となると、胡散臭さを感じてしまう。間引き行為は子どもを「私有物」としていること(私物化)から起こる出来事のはずである。江戸の住人の中にも間引きする人間がいたろう。江戸の町では捨子が多かったそうだが、町で世話をしたことをもって、子どもに対する人権意識の高さを言う人間がいるが、果たしてそうだろうか。(『大日本史広辞典』山川出版社)で、「すてご【捨子】」を調べてみる。
「棄子・棄児とも。子どもを捨てること。また捨てられた子をいう。基本的には間引きや堕胎と違い、その死を望まず、親権や扶養義務を一方的に移す養子入りの一つといえた。かつての家は労働力に非親族の住込み奉公人を必要とし、子育ても多様な仮親慣行が示すように、生みの親が全責任を負うものではなく、貰い子や養子奉公人の延長として捨子が受容された。近代以降激減し、それと反比例して大正末期以降、親子心中が急増するのは、家のあり方の構造的変容と、子育てを生みの親の全責任と見る育児観の変化による。現実の捨子の他、一時的に子どもを辻などに捨てる儀礼的な捨子や、蛭子ひるこや熊野の本地、酒天童子・弁慶・金太郎など、神話や昔話のなかで活躍する捨子の英雄も注目される」
上記解説は、杉浦日向子氏の「家の中の両親の私有物ではなく、町の共有財産として、町ぐるみで育てていた」説に近い。だが、子どもの「死を望まず、親権や扶養義務を一方的に移す養子入りの一つ」であり、「子育て」が「生みの親が全責任を負うものではな」いなら、なぜ「間引きや堕胎」といった慣行が生じたのだろうかという疑問が残る。たまたま読んだことがある『近世農民生活史』(児玉幸太著・吉川弘文館)から、間引き・堕胎・捨子を解説した個所を引用してみる。
「生児を殺すのを当時間引き、洗子(あらいご)、『おしかえし』などといった。間引きは奥羽・関東・九州に多かったが、ほとんど全国的に行われていた。武士や町人の間では堕胎が多かったが、農村では多く圧死させた。近隣の者も産家で育てるか否かがわかるまで祝いには行かなかった。
間引きとともに捨子も行われた。江戸市中でも盛んに行なわれたようで、五代将軍綱吉は生類憐令を発した時に捨子の禁令もしきりに出している」が、「捨てた本人」からだけではなく、「町は町年寄、浦・村は庄屋から」も「科料を徴」している。
「貰い子や養子奉公人の延長として捨子が受容された」(『大日本史広辞典』山川出版社)ことと、「科料を徴」『近世農民生活史』(児玉幸太著・吉川弘文館)することは矛盾する。
「武士の二男三男も百姓の二男三男と似た条件であったから、江戸でも堕胎専門の中条流の医者は町人に限らず、武士も顧客にしており、鹿児島では城内で堕胎した数十名の者の墓が現存しているが、これは藩主一家のものであろう。徳川光圀もその兄も兄の子も危うく水に流されるところであったから、武士に捨子があっても不思議ではない。このように間引きや捨子が増加したことは農村人口の減退をもたらし、享保以後は人口増加は停滞するか逆に減少するかであり、そこに農村の窮乏も窺われるのである。しかも間引きの時は労働力を考えて女子を多く間引いたので、どこでも女の方が一割も二割も少ないのが普通であった」
そしてその対策として幕府・各藩とも間引きや堕胎の禁令を盛んに出すと同時に、育児に奨励金を出している。現在の少子化が江戸時代の間引き・堕胎に対応する妊娠中絶も一役勝手いることを考えると、何か象徴的な印象を受ける。
「美作の久世と備中の笠岡および武蔵久喜の代官であった早川八郎左衛門正紀(まさとし)」が「美作・備中の任地に赴いた時に、いたるところの河端や堰溝に古茣蓙(ござ)の苞(つと)があるのを怪しんで調べてみると、いずれも圧殺した嬰児を包んだもので、男子には扇子、女子には杓子を付けてあって、その惨状に目を覆ったということである」
このような光景からしても、過去においては「感情的・身体的・性的な虐待は『欧米の』問題で日本には存在しない」ものだとは決して言えないだろう。
『近世農民生活史』(児玉幸太著・吉川弘文館)が描く間引き・堕胎の光景からは、杉浦日向子氏の描く江戸の美しい子育ての風景も、(『大日本史広辞典』山川出版社)の「すてご【捨子】」の項目に解説してある「生みの親が全責任を負うものではな」いといった慣習は全然見えてこない。間引きは親子心中よりも始末に悪い。間引きは子どもだけ殺して、親は生き残るからである。
再度言う。矛盾・不平等のない時代・社会は存在しない。これは絶対真理である。矛盾・不平等を不在とする過去の時代・過去の社会の美化は、「優越スル民族」意識があって初めて可能となる。そして「優越スル民族」意識は例え現実の社会が矛盾だらけ、不平等だらけであっても、そのような完璧理想的な過去の時代・過去の社会の血を受継いでいるのだという思いによって満たされる。文化というものが常に混血し、変質していくものである本質を無視して、日本の文化をそれが伝統的なものであるという理由で無闇強調するのは、「優越スル民族」意識を満たす代償行為だろう。文化の混血とは何も外国文化との間に行われるとは限らない。階級間の文化の混血、地域間の文化の混血もある。文化が混血と変化を常態としていることに愚かにも気づかず、伝統文化として固定したものを押し付けようとするのは、水の流れに逆らうことでしかない。もし成功したとしたなら、同調・従属一方の国民であることの証明でしかない。政治権力者にとっては統治しやすい国民となるだろうが、グローバル時代に要求される想像性(創造力性)を無縁なものとすることになる。なぜなら、同調・従属(非自律)と想像性(創造性)(自律)は相反する方向を持つベクトル様式だからであ。