「市民ひとりひとり」
教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る そんな世の中になろう
第42弾
雑感AREKOREpart2
2001.6.10(日曜日) アップロード
1.ハンセン病控訴断念に思う
2.小泉首相の参院選派閥離脱方針の後退が意味するもの
3.お坊ちゃんを逆手に取ろう
4.大阪児童殺傷事件
<積極断念なのか> 小泉内閣は政府と国会の責任を認めたハンセン病訴訟の控訴を断念した。しかしそれは患者自身の尊厳の回復に関わる利益を考えての積極的な断念ではなく、小泉首相自身とその内閣の立場(その支持・人気)が控訴によって不利に働くかもしれない懸念――いわば自己利益にウエイトを置いた消極的断念なのは、今回の決定が、控訴と併行させて年金といった形式のカネを供与することで自らの責任を限りなく遠ざけようとした初期の方針を撤回させる、「極めて異例の判断」(政府見解)だとした経緯を証拠として挙げることができる。 「極めて異例の判断」だとする根拠は、「国会議員の責任は、国民全体への政治的責任にとどまり、国会議員が個別の国民の権利に関する法的責任を負うのは、故意に憲法に違反し国民の権利を侵害する場合に限られる(最高裁判例)。これに対して、本判決は、故意がない国会議員の不作為に対して法的責任を広く認めている。このような判断は、司法がそのチェック機能を超えて国会議員の活動を過度に制約することとなり、三権分立の趣旨に反するので、認めることはできない」という「法律上の問題点 」(毎日新聞インターネット記事からの引用)に置いている。 だが、果たしてハンセン病患者の権利回復の訴訟は「個別の国民の権利」にとどまる問題なのだろうか。このことは国民にとどまらず、広く世界中の人間の人権(人間が人間らしく生きる権利)に関わる普遍的問題である。ハンセン病患者に対する偏見・差別は、その強弱は別として、エイズ患者に対する偏見・差別と本質的には同質のもので、身体障害者差別とも近親関係にあり、民族差別・人種差別とも強く通い合った人間全体の問題である。いわば人間による人間に対する差別・偏見の罪を問う問題でもあり、日本の政治家は日本国民全体にとどまらず、世界の人間全体の人権に対して自らの無知≠放置したままでおいた「不作為」と(鳩山民主党党首は自らのメールマガジンで、「ほぼ50年前に世界では隔離政策が見直されたのに、日本ではその頃にらい予防法が成立して隔離政策がとられた」と解説している)、「不作為」であってはならない人間の尊厳と権利に対して「不作為」という、限りなく消極的で無意識の「故意」ではあるが、それを犯してきたのである。いわば憲法に保障されている基本的人権を等しく保障してこなかった「不作為」は、国会議員の責任上、「故意」行為に当たり、「故意に憲法に違反し国民の権利を侵害」したと解釈可能でもあるのである。このような解釈は不可能だと言うなら、自衛隊は憲法違反の軍隊として早急に解消すべきだろう。 <坂口厚生労働相> 控訴方針から控訴断念に至る過程で気になったのは、坂口厚生労働相の「個人的見解としては控訴すべきではない。ただ厚労省の見解は別だ」として控訴方針を受入れようとした当初の姿勢である。だったら大臣なるものは無用の長物となるのではないか。自らの信念・政治姿勢を可能な限り全面的に貫こうとする意志こそがリーダーシップといわれるもので、貫くことができなかったなら、抗議の意思表示として、その職を辞すると前以って自らの退路を断つ姿勢を見せておくべきであるのに、そうはせずに小泉内閣の中にあって、全体の意志に自分の信念を従わせようとしたのは、その延長に小泉首相が意図する政治改革を置いたなら、自民党全体の意志に首相自身の信念・意志を従わせる構図を予想させることにもなり、早くも先行き不安を感じさせる事勿れな状況である。 <国会議員の責任を形で示せ> 国会はハンセン病患者に補償金を支払う法案を可決した。隔離政策が憲法に保障されている基本的人権を等しく保障してこなかった国会議員の「不作為」行為に当たる以上、国民の税金を使って、ハイ、補償しますでは済まない。国会議員自体の責任を自らの痛みを伴う形で表現しなければ、公平とは言えない。1年分の歳費を返上するとか、総辞職するとか、責任の所在がはっきりと形に残る何らかの方法を講ずるべきだろう。 |
<派閥離脱のまやかし> 小泉首相は参院選出馬の自党候補者の派閥からの離脱を意図したが、意図どおりにはいかず、個々の候補者の判断に委ねるという形に後退した。小泉首相としたら、党改革を印象づけようと目論んだことなのだろうが、目論見とは別に過去の教訓から、全員が簡単に従ってくれるものと計算していたのではないか。高い支持率と何事もトントン拍子に進んでいる状況がそのようにも安易に計算させてしまったのかもしれない。 自民党は過去において党改革と称して派閥解散を行いながら、それは表向きだけのことで、政策集団とか政策研究会とかの形で存続させ、頃合いを見計らって元の派閥を復活させて、再び正々堂々と派閥活動を行うという、見せかけの派閥解散劇を何度か演じているのである。またそういったことが自民党の派閥の歴史ともなっていた。メディアもそのことを承知していて、元××派≠ニか、元○○派≠ニか、派閥に変りはない意味合いで報道した。 小泉首相にしても、それまで森派の会長として不人気な森首相を支える派閥次元の活動をしてきながら、総裁選への立候補に合せて森派を離脱したのは、派閥を土台とした候補では、一般党員に対する全体的影響力が派閥の構成員の規模に応じることを計算しての自己都合からだろう。そういった派閥の歴史を教訓として、派閥離脱が改革を印象づける一時凌ぎの見せかけを演ずるものでしかなく、参院候補者が当選して暫くしたら元の派閥に群れるだろうことは誰もが分かっていることで、そのような暗黙の了解を前提としていたからこそ、呼びかけに簡単に応じるものと踏んだのだろう。小泉首相自体が森派を離脱していながら、森派そのものなのである。国民の支持率が沈静化したなら、橋本派に対抗する砦は森派しか残らないという情けない状態にならないとも限らない。所詮、数とカネの力学で動く自民党政治・日本の政治なのである。 <暗黙の反乱> ところが、結果は違った。候補者としたら、見せかけの派閥離脱劇でその場をやり過ごしさえすれば、票稼ぎの得点となるなのに、それを捨てて、首相の意向を無視したのである。このことは説明するまでもなく、派閥離脱問題に仮託して、小泉首相の聖域なき構造改革に対する反対姿勢を、さらにその人気と支持率に対する妨害姿勢を示したものであろう。小泉首相の派閥離脱要請が一時的なものだと言う暗黙の了解によるものだとしたら、その要請の無視は暗黙の反乱とも言える。 <国民世論に整合性を与える政権とは> 以上のことは国民の気持にもある期待である。5月29日の「朝日新聞」朝刊に、「発足から一ヵ月過ぎた小泉純一郎内閣の支持率は84%で」、「前回4月調査(小泉内閣発足直後)の78%を上回った」という世論調査記事がそのことを証拠立てている。その具体的な内容は、小泉内閣を高支持する一方で、「『自民党が割れるなどの政界再編が望ましい』と答えた人は62%」、「『自民党が政権に居続けるのがよい』の22%を大きく上回った」と、内閣支持率と矛盾した調査数値を見せている。世論調査に示されたこのような国民の政治に対する期待感に明快な整合性を与えるとしたなら、既に述べたとおりに、夏の参院選、それに続く総選挙での自民党の敗北以外に選択肢はない。具体的には、小泉純一郎と民主党の鳩山・管を結びつけ、混ざり気のない純粋な改革党をつくり出し、それに政権を委ねることだろう。勿論、もう一人田中真紀子を加えたなら、日本の政治史にはかつてなかったそうそうたる改革派メンバーとなる。 |
<鳩山由起夫に夏目漱石の『お坊ちゃん』を期待しよう> 鳩山由起夫は、お坊ちゃん育ちだと言われていて、ときには巧妙・狡猾な駆引きや強引さが必要な政治の世界ではマイナス要素とされる育ちのよさゆえの善良さ・押しの弱さが難点とされていて、今一つ迫力を感じさせない。だが、それに上回る人気が出ない大きな理由は大衆性のなさで、小泉首相と比較して分かることだが、ユーモアが欠けていることが災いしているのだろう。それも育ちのよさゆえの几帳面な性格が彼からユーモアを奪っているのではないか。少々クソ真面目の印象さえ感じてしまうぐらいである。 だがである、育ちのよいお坊ちゃんだからこそ、正義感を失わないでいられるという利点も抱えている。お坊ちゃんだからこそ、日本の政治を金権・利権で汚してきた悪辣な面々の系譜に連なることなく、現在の彼があると言える。別の言い方をするなら、鳩山由起夫の改革性の源はお坊ちゃん的育ちにあるのだとも言えるのである。夏目漱石の『お坊ちゃん』を連想させるくらいである。 <自民党を見限って、小泉を救う> 国民の高い支持を背景に小泉首相が聖域なき構造改革を掲げているが、支持を動機づけている国民の期待にすべての自民党議員が応えようとしているわけではない。否応もなしに透けてみえる既得権を守ろうとする自民党内のうごめきがそれを証拠立てている。 彼らが現在おとなしいのは、小泉首相の足を引っ張るには、いまは時期が悪いからに過ぎない。息をひそめてチャンスをうかがっているから、波風が立たないだけである。金権・利権で汚れきった日本の政治を短い時間で思い切ったマシな形に持っていくためには、やはり行きつく先は7月の参院選での自民党の敗北→橋本派の反撃による小泉首相の責任問題→伝家の宝刀・衆院解散→再び自民党の敗北→単独過半数獲得の政党無し→政界再編、と絵に描いたことが絵に描いたとおりにうまくいくことではないか。またそのことが、小泉純一郎と言う政治家と、その政治改革を救う道なのである。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− まあ、こんなふうなレトリックを展開でもしなければ、自民30%、民主6%、小泉内閣と言うよりも、小泉首相自身が80〜90%といった人気・支持をほぼ独り占めにしている世論調査結果では、政界再編劇の導火線となる自民党敗北は望めないだろうから、やってはいられないといったところだが。 |
<保安処分> 小泉首相は大阪児童殺傷事件の再発防止策として「保安処分」の導入も視野に入れているらしい。「禁固以上に当たる犯罪を犯した精神障害者に再犯の恐れがあると裁判所が判断した場合、専門の施設に強制的に収容、治療する」「保安処分」は、重大事件が発生するたびに浮上しては、人権問題との兼ね合いで立ち消えとなり、導入論者の見果てぬ衝動の対象と化している。精神障害者=犯罪者ではないし、犯罪者=再犯者とは限らない。もし、「精神障害者に再犯の恐れがあると」「判断した場合」「保安処分」を科すことができるとするなら、一般犯罪者も「再犯の恐れがあると」「判断した場合」「保安処分」とすべきである。再犯者は何も精神障害者に限ってはいないからである。 実際問題として、再犯の恐れがあるか否かの適正な客観的判断基準を設けることが可能なのだろうか。早くシャバに出たいという切実な理由で模範囚を装う服役囚の場合は、どう見抜くことができるのだろう。国民の利益をウリにした政治家の、実際は裏で私利私欲を肥やしていた裏切りに長いこと気づかない場合だってあるのである。真実自分は真人間に返ったと思い、二度と戻ってくることはないと希望に燃えて社会復帰に一歩足を踏み出した出所者が、復帰した社会から一個の人間として受入れられなくて、自棄を起こして再犯を犯してしまう場合も、差別社会日本である、多々あるだろう。「再犯の恐れがある」として施設に強制収容されたとしても、刑務所での服役囚のように、そこから一刻も早く出たい一心で無害な人間を装う「保安処分」者が出ない保証もない。それ以前の問題として、「保安処分」が制定された時点で、どのような犯罪者も「保安処分」に引っかからないように、うまく立ち回ることになるだろう。結果的にうまく立ち回ることができなかった要領の悪い犯罪者ばかりを施設に強制収容するということにもなりかねない。宅間容疑者にしても、立場が上の者・強い者に対しては従順だったという報道があるくらいである。真っ先に「保安処分」検査をくぐり抜けるのではないか。 犯行後5日間の経過時点で警察の取調べにより、刑事責任を逃れる目的で精神障害者を装った疑いが出てきた。このことは「保安処分」逃れの演技が可能なことをさらに提示しているけではなく、「保安処分」を決定する適正な客観的判断基準の設置の難しさも示している。 <地域に開かれた学校> 地域に開かれた学校とは、どのような内容のものを言うのだろうか。ただ単に常時門扉を開放していて、誰もが自由に出入りできる状態にしておくことが、それをもって地域に開かれているとは言い難い。体育館を地域のママさんバレーチーム等に自由に貸すといったことは単に場所を提供しているに過ぎない。地域の老人を授業に招いて、土地柄に関する「昔はこうだった」という話を聞くといったことをしたとしても、そういった話の多くがいいこと尽くめの思い込みに彩られていたなら、人間の実際の姿を学ぶよりも、隠すことに役立つだけだろう。日本民族優越意識や天皇主義がどのような人種・民族も優劣両側面を持っているもので、日本人もその例に洩れないという実際の姿を隠したばかりか、そのことが思い上がりを生じせしめて、戦争時の残虐行為を可能とした前科を日本人は抱えているのである。いいこと尽くめの思い込みだけを取入れて、実際は日本人は素晴らしい国民なのだと老人と同じ立場に立ち至ったなら、日本民族優越意識の次世代への再生産を行なうに等しい。 <事件後の対策> 悲惨な事件を受けて、各地域の教育委員会や学校は独自に対策を講じた。それまで開放していた校門の門扉を登下校時間を除いて閉じた状態に改めた学校もテレビで放映していた。殆どの学校の門扉が子どもでも乗り越えることのできる高さしかないのにである。塀にしても、刑務所のように高くしている学校は少ないだろう。地域に開かれた学校を目指して、校門は常に開放状態にしていたのに、閉じた状態にしなければならないのは非常に残念であるといった学校関係者の言葉は、校門の開放がイコール地域に開かれた学校だと見なすことで成り立つもので、教育者の言葉として非常に印象的であった。東京の有名大学の教授は、授業時間中は校門は閉鎖しておくべきだと提案していたが、学校の門扉や塀の殆どが大人なら難儀なく乗り越えられる高さしかないということに目を向けた上での発言だったのだろうか。 <事件の経緯から読み取れるもの> 宅間容疑者は97年12月に同年3月に結婚したばかりの女性から離婚を求められて、家庭裁判所で調停が始まった直後から再三にわたって殺人をほのめかす脅迫電話をかけ、女性は兵庫県警に被害届を出している。市の職員として小学校の技能員をしていたときの99年3月には、自分が使用していた精神安定剤をお茶に混入して教諭4人に飲ませたとして傷害容疑で逮捕されたが、刑事責任は取れないとして措置入院処分となっている。病院での診断で「妄想性人格障害」とされたが、約1ヵ月で退院している。その約1年半後の2000年10月にタクシー運転手だった宅間容疑者はホテル従業員と口論の末ケガを負わせた事件を起こして、大淀署に通報されている。警察は軽傷と見て、逮捕せずに、任意で事情聴取したのち、上司を身元引受人にして帰宅させている。その後従業員から長期の治療が必要という診断書が提出され、再度事情聴取後、大坂地検に書類送検している。地検は宅間容疑者に取調べのために犯行当日の8日午後に出頭するよう求めている。 <学校の対策方法> 例え人権問題をクリアして「保安処分」を制定することができても、人間の人間に対する攻撃の多くが比較下位弱者に向かう原理に変化を与えることはできない。いわば攻撃対象として子どもや女性が狙われやすい存在であることに変化はない。特に学歴挫折者にとっては、学歴を強制する親や学校は恨みの対象となる。小学校では成績がよくて、中学から成績が悪くなった生徒にとっては、所属した中学校が恨みの標的ではあっても、恨みを解放する攻撃の可能性という点で、より攻撃しやすい小学校に標的は簡単にすり替え可能となる。あるいは、親から近所の子どもにとか、自分の弟や妹にいったふうに。 <措置入院者の退院後の対策> また、措置入院先の病院を退院した精神障害者に対して、社会に一人きりで立たせるのではなく、その速やかな社会復帰を補導・援助する保護観察を行なうべきではないだろうか。警察・医師・精神保健福祉士・カウンセラー・職業訓練所・職業安定所等が連携して、就職活動のアドバイスと斡旋、就職した場合のそこでの人間関係の構築に対するアドバイス――これで社会人として十分に生活していけるだろうと見極めるまでフォローする。その間も、警察はその人物の犯した場合の犯罪情報の収集を欠かさないこととする。そういった援助・努力の甲斐もなく、他人の助力も無視して、攻撃的な性格を露骨に見せ、他者に危害を加えるような行動に少しでも出たなら、再度措置入院に持っていく。そのような制度としたなら、大事に至る前に予防措置を講ずることが可能となるのではないだろうか。 |