市民」 

  教育を語る ひとりひとり 政治を社会語る そんな世の中になろう

 第42   雑感AREKOREpart2
       
                      2001.6.10(日曜日) アップロード
      


1.ハンセン病控訴断念に思う
2.小泉首相の参院選派閥離脱方針の後退が意味するもの
3.お坊ちゃんを逆手に取ろう
4.大阪児童殺傷事件


1.ハンセン病控訴断念に思う


<積極断念なのか> 小泉内閣は政府と国会の責任を認めたハンセン病訴訟の控訴を断念した。しかしそれは患者自身の尊厳の回復に関わる利益を考えての積極的な断念ではなく、小泉首相自身とその内閣の立場(その支持・人気)が控訴によって不利に働くかもしれない懸念――いわば自己利益にウエイトを置いた消極的断念なのは、今回の決定が、控訴と併行させて年金といった形式のカネを供与することで自らの責任を限りなく遠ざけようとした初期の方針を撤回させる、「極めて異例の判断」(政府見解)だとした経緯を証拠として挙げることができる。
 「極めて異例の判断」だとする根拠は、
「国会議員の責任は、国民全体への政治的責任にとどまり、国会議員が個別の国民の権利に関する法的責任を負うのは、故意に憲法に違反し国民の権利を侵害する場合に限られる(最高裁判例)。これに対して、本判決は、故意がない国会議員の不作為に対して法的責任を広く認めている。このような判断は、司法がそのチェック機能を超えて国会議員の活動を過度に制約することとなり、三権分立の趣旨に反するので、認めることはできない」という「法律上の問題点 」(毎日新聞インターネット記事からの引用)に置いている。
 だが、果たしてハンセン病患者の権利回復の訴訟は
「個別の国民の権利」にとどまる問題なのだろうか。このことは国民にとどまらず、広く世界中の人間の人権(人間が人間らしく生きる権利)に関わる普遍的問題である。ハンセン病患者に対する偏見・差別は、その強弱は別として、エイズ患者に対する偏見・差別と本質的には同質のもので、身体障害者差別とも近親関係にあり、民族差別・人種差別とも強く通い合った人間全体の問題である。いわば人間による人間に対する差別・偏見の罪を問う問題でもあり、日本の政治家は日本国民全体にとどまらず、世界の人間全体の人権に対して自らの無知≠放置したままでおいた「不作為」と(鳩山民主党党首は自らのメールマガジンで、「ほぼ50年前に世界では隔離政策が見直されたのに、日本ではその頃にらい予防法が成立して隔離政策がとられた」と解説している)、「不作為」であってはならない人間の尊厳と権利に対して「不作為」という、限りなく消極的で無意識の「故意」ではあるが、それを犯してきたのである。いわば憲法に保障されている基本的人権を等しく保障してこなかった「不作為」は、国会議員の責任上、「故意」行為に当たり、「故意に憲法に違反し国民の権利を侵害」したと解釈可能でもあるのである。このような解釈は不可能だと言うなら、自衛隊は憲法違反の軍隊として早急に解消すべきだろう。

<坂口厚生労働相> 控訴方針から控訴断念に至る過程で気になったのは、坂口厚生労働相「個人的見解としては控訴すべきではない。ただ厚労省の見解は別だ」として控訴方針を受入れようとした当初の姿勢である。だったら大臣なるものは無用の長物となるのではないか。自らの信念・政治姿勢を可能な限り全面的に貫こうとする意志こそがリーダーシップといわれるもので、貫くことができなかったなら、抗議の意思表示として、その職を辞すると前以って自らの退路を断つ姿勢を見せておくべきであるのに、そうはせずに小泉内閣の中にあって、全体の意志に自分の信念を従わせようとしたのは、その延長に小泉首相が意図する政治改革を置いたなら、自民党全体の意志に首相自身の信念・意志を従わせる構図を予想させることにもなり、早くも先行き不安を感じさせる事勿れな状況である。
 控訴断念となったからいいものの、控訴ということだったなら、例え辞表を胸に忍ばせていたと言っても、留意されたなら、これまでも何度も見せてきた連立維持を大義名分とした公明党お得意の
自民党政策へのすり寄りと同工異曲の(自民党と連立を組んでいた当時の社会党も犯した同じ過ちだが)、魂を売り渡す妥協で辞意撤回を演じたのではないのか。「ハンセン病患者への補償が無事済むのを見届けるのが残された私の務めである」とか何とかの口実を設けて。

<国会議員の責任を形で示せ> 国会はハンセン病患者に補償金を支払う法案を可決した。隔離政策が憲法に保障されている基本的人権を等しく保障してこなかった国会議員の「不作為」行為に当たる以上、国民の税金を使って、ハイ、補償しますでは済まない。国会議員自体の責任を自らの痛みを伴う形で表現しなければ、公平とは言えない。1年分の歳費を返上するとか、総辞職するとか、責任の所在がはっきりと形に残る何らかの方法を講ずるべきだろう。

2.小泉首相の参院選派閥離脱方針の後退が意味するもの


<派閥離脱のまやかし>
 小泉首相は参院選出馬の自党候補者の派閥からの離脱を意図したが、意図どおりにはいかず、個々の候補者の判断に委ねるという形に後退した。小泉首相としたら、党改革を印象づけようと目論んだことなのだろうが、目論見とは別に過去の教訓から、全員が簡単に従ってくれるものと計算していたのではないか。高い支持率と何事もトントン拍子に進んでいる状況がそのようにも安易に計算させてしまったのかもしれない。
 自民党は過去において党改革と称して
派閥解散を行いながら、それは表向きだけのことで、政策集団とか政策研究会とかの形で存続させ、頃合いを見計らって元の派閥を復活させて、再び正々堂々と派閥活動を行うという、見せかけの派閥解散劇を何度か演じているのである。またそういったことが自民党の派閥の歴史ともなっていた。メディアもそのことを承知していて、元××派≠ニか、元○○派≠ニか、派閥に変りはない意味合いで報道した。
 小泉首相にしても、それまで
森派の会長として不人気な森首相を支える派閥次元の活動をしてきながら、総裁選への立候補に合せて森派を離脱したのは、派閥を土台とした候補では、一般党員に対する全体的影響力が派閥の構成員の規模に応じることを計算しての自己都合からだろう。そういった派閥の歴史を教訓として、派閥離脱が改革を印象づける一時凌ぎの見せかけを演ずるものでしかなく、参院候補者が当選して暫くしたら元の派閥に群れるだろうことは誰もが分かっていることで、そのような暗黙の了解を前提としていたからこそ、呼びかけに簡単に応じるものと踏んだのだろう。小泉首相自体が森派を離脱していながら、森派そのものなのである。国民の支持率が沈静化したなら、橋本派に対抗する砦は森派しか残らないという情けない状態にならないとも限らない。所詮、数とカネの力学で動く自民党政治・日本の政治なのである。

<暗黙の反乱> ところが、結果は違った。候補者としたら、見せかけの派閥離脱劇でその場をやり過ごしさえすれば、票稼ぎの得点となるなのに、それを捨てて、首相の意向を無視したのである。このことは説明するまでもなく、派閥離脱問題に仮託して、小泉首相の聖域なき構造改革に対する反対姿勢を、さらにその人気と支持率に対する妨害姿勢を示したものであろう。小泉首相の派閥離脱要請が一時的なものだと言う暗黙の了解によるものだとしたら、その要請の無視は暗黙の反乱とも言える。
 一連の経緯は聖域なき構造改革≠フ前途多難さを思わせるだけではなく、小泉政治の成否はその指導力に掛かっているというよりも、
反対勢力の自己保身に掛かっていることをも意味する。世論の動向を見て、自己保身の維持・確保に不利と見たら、それを完全には失わないギリギリのところで妥協、もしくは協力するだろうし、影響なしと見たら、反対して自己既得権の温存を図るだろう。また例え聖域なき構造改革≠ェ見るべき成果を上げたとしても、小泉首相が改革の主役の座に就いている間はじっと我慢の子を決めているだろうが、その座を去るのを待って、既得権の再構築に取り掛かるのは目に見えている。そうそう簡単には頑固な体質化した頭数とカネの力の政治から抜け出ることはできないだろう。また、だからこそ派閥解消とか派閥離脱を見せかけのものとすることしかできない歴史を今もって引きずっているのである。
 逆説するなら、日本の政治の真の改革は自民党を土俵にしている間は不可能ではないかと言うことである。だとしたら、今日本の政治に必要なのは自民党の選挙での敗北による、
政官財癒着の利益調整型政治への訣別をモチベーションとした政界再編ではないだろうか。

<国民世論に整合性を与える政権とは> 以上のことは国民の気持にもある期待である。5月29日の「朝日新聞」朝刊に、「発足から一ヵ月過ぎた小泉純一郎内閣の支持率は84%で」「前回4月調査(小泉内閣発足直後)の78%を上回った」という世論調査記事がそのことを証拠立てている。その具体的な内容は、小泉内閣を高支持する一方で、「『自民党が割れるなどの政界再編が望ましい』と答えた人は62%」「『自民党が政権に居続けるのがよい』の22%を大きく上回った」と、内閣支持率と矛盾した調査数値を見せている。世論調査に示されたこのような国民の政治に対する期待感に明快な整合性を与えるとしたなら、既に述べたとおりに、夏の参院選、それに続く総選挙での自民党の敗北以外に選択肢はない。具体的には、小泉純一郎と民主党の鳩山・管を結びつけ、混ざり気のない純粋な改革党をつくり出し、それに政権を委ねることだろう。勿論、もう一人田中真紀子を加えたなら、日本の政治史にはかつてなかったそうそうたる改革派メンバーとなる。

 

3.お坊ちゃんを逆手に取ろう

 


鳩山由起夫に夏目漱石の『お坊ちゃん』を期待しよう 鳩山由起夫は、お坊ちゃん育ちだと言われていて、ときには巧妙・狡猾な駆引きや強引さが必要な政治の世界ではマイナス要素とされる育ちのよさゆえの善良さ・押しの弱さが難点とされていて、今一つ迫力を感じさせない。だが、それに上回る人気が出ない大きな理由は大衆性のなさで、小泉首相と比較して分かることだが、ユーモアが欠けていることが災いしているのだろう。それも育ちのよさゆえの几帳面な性格が彼からユーモアを奪っているのではないか。少々クソ真面目の印象さえ感じてしまうぐらいである。
 だがである、育ちのよいお坊ちゃんだからこそ、正義感を失わないでいられるという利点も抱えている。お坊ちゃんだからこそ、日本の政治を金権・利権で汚してきた
悪辣な面々の系譜に連なることなく、現在の彼があると言える。別の言い方をするなら、鳩山由起夫の改革性の源はお坊ちゃん的育ちにあるのだとも言えるのである。夏目漱石の『お坊ちゃん』を連想させるくらいである。
<自民党を見限って、小泉を救う> 国民の高い支持を背景に小泉首相が聖域なき構造改革を掲げているが、支持を動機づけている国民の期待にすべての自民党議員が応えようとしているわけではない。否応もなしに透けてみえる既得権を守ろうとする自民党内のうごめきがそれを証拠立てている。
 彼らが現在おとなしいのは、小泉首相の足を引っ張るには、いまは時期が悪いからに過ぎない。息をひそめてチャンスをうかがっているから、波風が立たないだけである。
金権・利権で汚れきった日本の政治を短い時間で思い切ったマシな形に持っていくためには、やはり行きつく先は7月の参院選での自民党の敗北→橋本派の反撃による小泉首相の責任問題→伝家の宝刀・衆院解散→再び自民党の敗北→単独過半数獲得の政党無し→政界再編、と絵に描いたことが絵に描いたとおりにうまくいくことではないか。またそのことが、小泉純一郎と言う政治家と、その政治改革を救う道なのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まあ、こんなふうなレトリックを展開でもしなければ、自民30%、民主6%、小泉内閣と言うよりも、小泉首相自身が80〜90%といった人気・支持をほぼ独り占めにしている世論調査結果では、政界再編劇の導火線となる自民党敗北は望めないだろうから、やってはいられないといったところだが。

 

4.大阪児童殺傷事件

 


<保安処分> 小泉首相は大阪児童殺傷事件の再発防止策として「保安処分」の導入も視野に入れているらしい。「禁固以上に当たる犯罪を犯した精神障害者に再犯の恐れがあると裁判所が判断した場合、専門の施設に強制的に収容、治療する」「保安処分」は、重大事件が発生するたびに浮上しては、人権問題との兼ね合いで立ち消えとなり、導入論者の見果てぬ衝動の対象と化している。精神障害者=犯罪者ではないし、犯罪者=再犯者とは限らない。もし、「精神障害者に再犯の恐れがあると」「判断した場合」「保安処分」を科すことができるとするなら、一般犯罪者も「再犯の恐れがあると」「判断した場合」「保安処分」とすべきである。再犯者は何も精神障害者に限ってはいないからである。
 実際問題として、再犯の恐れがあるか否かの適正な客観的判断基準を設けることが可能なのだろうか。早くシャバに出たいという切実な理由で模範囚を装う服役囚の場合は、どう見抜くことができるのだろう。国民の利益をウリにした政治家の、実際は裏で私利私欲を肥やしていた裏切りに長いこと気づかない場合だってあるのである。真実自分は真人間に返ったと思い、二度と戻ってくることはないと希望に燃えて社会復帰に一歩足を踏み出した出所者が、復帰した社会から一個の人間として受入れられなくて、自棄を起こして再犯を犯してしまう場合も、
差別社会日本である、多々あるだろう。「再犯の恐れがある」として施設に強制収容されたとしても、刑務所での服役囚のように、そこから一刻も早く出たい一心で無害な人間を装う「保安処分」者が出ない保証もない。それ以前の問題として、「保安処分」が制定された時点で、どのような犯罪者も「保安処分」に引っかからないように、うまく立ち回ることになるだろう。結果的にうまく立ち回ることができなかった要領の悪い犯罪者ばかりを施設に強制収容するということにもなりかねない。宅間容疑者にしても、立場が上の者・強い者に対しては従順だったという報道があるくらいである。真っ先に「保安処分」検査をくぐり抜けるのではないか。
 犯行後5日間の経過時点で警察の取調べにより、刑事責任を逃れる目的で精神障害者を装った疑いが出てきた。このことは
「保安処分」逃れの演技が可能なことをさらに提示しているけではなく、「保安処分」を決定する適正な客観的判断基準の設置の難しさも示している。

<地域に開かれた学校> 地域に開かれた学校とは、どのような内容のものを言うのだろうか。ただ単に常時門扉を開放していて、誰もが自由に出入りできる状態にしておくことが、それをもって地域に開かれているとは言い難い。体育館を地域のママさんバレーチーム等に自由に貸すといったことは単に場所を提供しているに過ぎない。地域の老人を授業に招いて、土地柄に関する「昔はこうだった」という話を聞くといったことをしたとしても、そういった話の多くがいいこと尽くめの思い込みに彩られていたなら、人間の実際の姿を学ぶよりも、隠すことに役立つだけだろう。日本民族優越意識天皇主義がどのような人種・民族も優劣両側面を持っているもので、日本人もその例に洩れないという実際の姿を隠したばかりか、そのことが思い上がりを生じせしめて、戦争時の残虐行為を可能とした前科を日本人は抱えているのである。いいこと尽くめの思い込みだけを取入れて、実際は日本人は素晴らしい国民なのだと老人と同じ立場に立ち至ったなら、日本民族優越意識の次世代への再生産を行なうに等しい。
 そのような構造の意思伝達は、「昔はこうだった」と一方的に過去の事実を並べ立てて提示し、生徒がそれを話した形なりに受止める機械的同調――言い換えるなら、批判的精神の不在――によって可能となる種類のものでしかない。批判的精神の不在とは、実際にそうだったのかを検証する双方向の言葉の闘わせの不毛状態から生じる。批判的精神を育まれないまま成長した人間が授業で話をする老人の立場に立ったとき、同じ
いいこと尽くめの思い込みを語り伝えることになるだろう。過去に対するいいこと尽くめの思い込みは、自己人生の肯定=自己存在の正当化の快適な作業でもあるから、多くの人間が陥りやすい甘い蜜を持っている。日本人は戦争中自己民族の肯定を侵略、その他の戦争犯罪によって証明しようとした。それは日本民族優越意識・天皇主義といういいこと尽くめの思い込みを土台としたものであることは既に述べたとおりである。
 提示された事実を提示されたままの形で受止める感性を当たり前のこととしていたなら、その先にあるのは、芸能週刊誌を読んで、「誰と誰が離婚したんだって」といった提示された事実を提示されたままに受売りするレベルの会話が限界の貧弱な知性しか育たないだろう。
 老人が生きた人生、そのことによって獲得した哲学や思想(=人生哲学)を表現する手段として「昔はこうだった」という話があるなら、決していいこと尽くめにはならないはずである。人間の矛盾や社会の矛盾も提示しなければならなくなるに違いない。社会が常に矛盾しているのは、矛盾している人間がつくり出している成果物としてあるからである。そして人間の歴史とは、その矛盾を少しでも改めようとする努力の時間経過であり、ときとして新たな矛盾を生み出してしまう変遷過程である。
 地域の老人を招いて話を聞くことがそういった範囲を出ないものなら、
いいこと尽くめの思い込みの伝達に役立ったとしても、開かれた地域の構築に役立つどころか、地域の閉鎖性の手つかずの推移に貢献するだけだろう。いわばこれまでどおりに排他的・差別的社会の維持には役立つということである。
 また例え父兄が頻繁に授業中の学校を訪れて授業参観したとしても、学校が地域に開かれていない状況は変らないだろう。学校社会が
テストの成績(学歴)スポーツの能力以外の可能性を排除し、その二つの可能性で生徒の人間価値を計って、相互に競争を煽っている構造にある以上、親は自分の子どもとのつながりしか持たなく、地域なるものは形式的な人間関係によって成り立つことになるからであ。それは教師が成績が優秀な生徒かスポーツの能力に優れている生徒とのつながり(人間関係)を優先し、その他大勢の生徒とのつながりを軽視する人間関係構造を反映させた親子の人間関係の構造でもある。生徒同士が友人関係を持ったとしても、二つの可能性が最優先され、その可能性を競って、その成績で人間の価値が決定する態様の競争原理で成り立っている社会である以上、友人は常にライバルか、最悪の場合敵対関係にあり、開かれた℃ゥ分を提示することのない形式的な人間関係しか持ち得ないだろう。もっとも、二つの可能性から疎外された生徒同士が、お互いの傷をなめ合う友人関係を築くことはあるだろうが、学校が彼らに開かれ≠トいない状況にある以上、そのような友人関係は学校社会の周辺か外部でしか有効に機能しないだろう。
 学校社会が生徒それぞれが持つすべての価値観・すべての可能性に関して
機会均等な追求の場を提供するようになったとき、例え同じ価値観・同じ可能性を持つ人間同士でも、それぞれが自己の価値観・可能性の追求(生き方)そのものが目的となるために、他者との関係は優劣決定の競争原理によってではなく、刺激原理によって成り立つこととなり、そのことを受けて親は自分の子どもとだけではなく、他の子どもともつながる存在となり、そのとき初めて学校は地域に開かれた≠烽フとなり得る。

<事件後の対策> 悲惨な事件を受けて、各地域の教育委員会や学校は独自に対策を講じた。それまで開放していた校門の門扉を登下校時間を除いて閉じた状態に改めた学校もテレビで放映していた。殆どの学校の門扉が子どもでも乗り越えることのできる高さしかないのにである。塀にしても、刑務所のように高くしている学校は少ないだろう。地域に開かれた学校を目指して、校門は常に開放状態にしていたのに、閉じた状態にしなければならないのは非常に残念であるといった学校関係者の言葉は、校門の開放がイコール地域に開かれた学校だと見なすことで成り立つもので、教育者の言葉として非常に印象的であった。東京の有名大学の教授は、授業時間中は校門は閉鎖しておくべきだと提案していたが、学校の門扉や塀の殆どが大人なら難儀なく乗り越えられる高さしかないということに目を向けた上での発言だったのだろうか。
 
ガードマンを置いている私立小学校を紹介したテレビがあったが、余程経営がうまく成り立っている学校でなければ、経費の問題ですべての学校というわけにはいかないと解説していた。そのためか、父兄に謝礼として1日800円を支払い、4、5人単位で学校内のパトロールを委託する地方公共団体も現れた。パトロールを受持つその殆どは若い主婦で、しかも無防備な状態であった。もしそのような母親の一人が侵入してきた暴漢に襲われたりしたら、今度はどんなふうな羹に懲りて膾を吹く¥況を呈するのだろうか。不謹慎に思われるだろうが、そのときの周章狼狽は見ものである。
 子どもを襲撃のターゲットとする攻撃心理は、
弱肉強食の原理をストレートになぞった構図のものである。若い母親は子ども程ではなくても、体力的には比較下位弱者に位置している存在である。子どもで目的を達せないとなったなら、身代わりの生け贄とならない保証はない。宅間容疑者の「『付属中学を受験しようとしたが、学力が足りないからと母親に諭され、受験をあきらめた』と供述」(「毎日新聞」6月13日)したのが事実なら、1999年12月21日に京都の市立小学校の校庭を犯行現場に選んで、遊んでいた二年生の児童を刃物で殺害して任意同行を求められたあとで自殺した21歳の男性も学歴挫折者である。学歴主義を有形無形の強制で押しつける大人たちへの恨みが屈折した形で、あるいは間接的な形で子どもに向かった可能性を考えると、子どもに果たせなかった場合、母親が攻撃対象に加えられたとしても不思議はない。
 アメリカの学校では生徒が銃器を学校に持ち込んで乱射・殺人を犯す事件対策にオートロックや金属探知器の設置を行なっているケースをいくつかのテレビ局が取上げていた。それらが銃器持込み阻止に力を発揮したとしても、生徒が怒りに駆られて銃をぶっ放す目的で一旦家に戻って銃を持出し、学校に引き返す経緯をたどったなら、オートロックも金属探知器も用をなさないだろう。阻止しようとする対象には、それが人間だろうと機械だろうと、銃弾を見舞わせることになるだろうから、簡単に突破可能となる。

<事件の経緯から読み取れるもの> 宅間容疑者は97年12月に同年3月に結婚したばかりの女性から離婚を求められて、家庭裁判所で調停が始まった直後から再三にわたって殺人をほのめかす脅迫電話をかけ、女性は兵庫県警に被害届を出している。市の職員として小学校の技能員をしていたときの99年3月には、自分が使用していた精神安定剤をお茶に混入して教諭4人に飲ませたとして傷害容疑で逮捕されたが、刑事責任は取れないとして措置入院処分となっている。病院での診断で「妄想性人格障害」とされたが、約1ヵ月で退院している。その約1年半後の2000年10月にタクシー運転手だった宅間容疑者はホテル従業員と口論の末ケガを負わせた事件を起こして、大淀署に通報されている。警察は軽傷と見て、逮捕せずに、任意で事情聴取したのち、上司を身元引受人にして帰宅させている。その後従業員から長期の治療が必要という診断書が提出され、再度事情聴取後、大坂地検に書類送検している。地検は宅間容疑者に取調べのために犯行当日の8日午後に出頭するよう求めている。
 
2000年2月には、運転手として運転していたダンプに割込んだとして、乗用車を運転していた大学生を引きずり下ろして暴行を加えた上、乗用車をキズつけたとして暴行と器物損壊容疑川西署に逮捕されている。そしてその間、テレビで報道していたことだが、婦女暴行罪でも服役している。
 これまでの経緯で浮かび上がってくるのは、
各警察間の情報交換が有効に機能することなく、それぞれの所轄署の犯罪として関わった警察が個別に当たって、個別に処理していた姿である。例え所轄署がそれぞれに異なっていたとしても、現在の人間活動が車や飛行機の利用によって広範囲のものとなっている事情を踏まえて、管轄する各警察本部は都道府県を跨る場合であっても、再犯の形で新たな犯罪が発生の場合は、それが微罪に当たる犯罪であっても、警察庁に一元化されているはずのその人物に関する情報を呼び出して、新たな情報を書き加えると同時に、そこからその人物がどれ程の犯罪予備地点に達しているか否かを炙り出す作業を行なっていたのだろうか疑わしい。そして炙り出した情報を管轄下にあるすべての所轄署に新たな情報として再提供していただろうか。
 勿論、精神障害者=犯罪者、犯罪者=再犯者という先入観に立ってはいけない。あくまでも提供された情報から客観的分析を行ない、地下マグマの蓄積が観測されたとき、地震の発生に備えるように犯罪の発生に備えるという形式を採用されなければならない。それが
市民の生命・財産の安全を図る危機管理というものだろう。
 もし
情報の蓄積と活用の一元化が図られていたなら、「兵庫県の元妻を追い回し、ストーカー行為を続けたが、警察はパトロールを強化しただけ。池田市内のマンションの大家が、同容疑者と住民とのトラブルを心配して相談したときも、警察は動かなかった。
 同容疑者が無断で駐車していた駐車場の周辺の車が相次いでパンクさせられ、住民が怪しんで5月に被害届を出した。署から刑事がやってきたのは附属池田小の事件が起きた日の午後だった」
(2001.6.14「朝日」朝刊)といった単純な個別のトラブル扱いとはしなかったろう。指紋照合とか前歴照会といった捜査マニュアルとして決まっている情報利用はできても、例え小さなトラブルからでも、それを単一のものとはせずに、様々な情報を足したり引いたりして、どういった性格衝動が関わったトラブル(あるいは犯罪)なのか、そこから人物像を浮かび上がらせることまでする想像的な情報活用がなされなければ、成熟した情報社会とは言えない。例えば車のタイヤをパンクさせる同じ行為だとしても、行為者が常に刃物を所持している人間といない人間とでは、危険性に差が出てくる。常に所持している人間の場合は、誰かに目撃されたりしたら、刃物が即座にその人間に向けられる確率は高くなるからである。あるいは直接的な攻撃対象としても、タイヤから人間そのものに変わる確率も高いだろう。そしてナイフを常に所持していなくても、極度に攻撃的な性格の人間は、攻撃対象が器物から人間に向かう危険性が高いと考えなければならない。
 池田小の校長は、危機管理が不足していた学校の責任は重いといった発言をしているが、それ以上に警察の責任は重いのではないか。起きた事件を解決するだけではなく、伏在する事件を未然に感知し、それが顕在化しないように抑止することも、市民の生命・財産を守るという警察の役目ではないだろうか。

<学校の対策方法> 例え人権問題をクリアして「保安処分」を制定することができても、人間の人間に対する攻撃の多くが比較下位弱者に向かう原理に変化を与えることはできない。いわば攻撃対象として子どもや女性が狙われやすい存在であることに変化はない。特に学歴挫折者にとっては、学歴を強制する親や学校は恨みの対象となる。小学校では成績がよくて、中学から成績が悪くなった生徒にとっては、所属した中学校が恨みの標的ではあっても、恨みを解放する攻撃の可能性という点で、より攻撃しやすい小学校に標的は簡単にすり替え可能となる。あるいは、親から近所の子どもにとか、自分の弟や妹にいったふうに。
 となれば、学校もそれぞれに
危機管理対策を講じなければならないだろう。このような重大な事件がたまにしか起こらない事件であっても、たまに起こって子どもの命が1人でも失われないためにである。ガードマンを常駐させるか、塀と門扉を刑務所のように高くするか、門扉は常に閉じていて、監視カメラを設置し、出入りの人間を確認してから自動開閉にするか。この場合は監視カメラをモニターする人間を1人常駐させなければならない。あるいはすべての父兄と出入りの業者にカードキーを支給して、カードキーで開閉する門扉を設置するか。だが、カードキーは紛失したり、偽造されたりしないわけではない。より完璧を期して、出入りする人間のすべての指紋を登録して、指紋感知センサーによる開閉式とするか。
 しかし上記のいずれの方法も学校を心理的にも物理的にも
刑務所のような密閉状態にすることになる。ネットフェンスは外界を透かせるが、高くしても、手や足を掛けて簡単に登ることができるし、番線カッターで切断して、潜り抜ける穴をこしらえることができる欠点を持つ。一旦登校したら、敷地が少しくらい広くても、高い塀が囲んでいて、空しか見えない。勿論校舎の2階や3階から外界が見渡せても、それまでも見渡すことのできた、いわば意識や感覚に折り込み済みの解放感であって、校庭で走りまわったり、身体を休めていたりしたときの解放感は外界を高い塀が遮る分、圧迫感となって子どもたちに纏わりつくことはないだろうか。感覚は慣れるものである。高い塀に慣れたとき、子どもたちの持つ溌剌さに何がしかの影響を与えることはないだろうか。
 
非常ベルを活用する方法はどうだろうか。非常ベルも、テレビのリモコンスイッチのように遠隔操作式専用のものと、手押し式兼用のものとする。音はベルの音ではなく、パトカーのサイレンと同じ音が出るものとする。
 まず校庭には塀に沿って一定の間隔で何本か高さ5メートル程のコンクリート柱を立てて、先端に
遠隔操作式専用の非常ベルを取付ける。授業時間中であろうと、休み時間中であろうと、放課後であろうと、生徒が校庭にいる間は彼らを教師は必ず2人はリモコンスイッチを携帯して見守ることとする。不審人物を見かけたら、例えそれが過剰反応であっても、リモコンスイッチを非常ベルに向ける。子どもの命を失わないためには、過剰反応し過ぎるということはない。結果的に過剰反応ということになったとしても、前以って過剰反応は許されるという取決めを行なっておくべきだろう。
 非常ベルは最寄りの交番とつながっているだけではなく、学校に設置してあるすべての非常ベルとつながっていて、一つが作動すれば、すべてが作動する仕掛けにしておくと同時に、校長室と職員室にはどの場所の非常ベルが鳴ったのか、作動と同時に表示されるモニターを設置しておく。学校中の非常ベルが一斉に鳴れば、相当な音量のサイレンとなるだろう。その音量だけで、侵入者は驚き、怯むに違いない。中には攻撃意識を喪失させてしまう場合もあるはずである。
 校門は常に開放しておくことで、そこを侵入路に仕向けることで、教師の監視をしやすくすることができる。但し、ピストルを持った侵入者が現れない保証はないのだから、校門近くに生徒は置かないようにした方がいい。登校時・下校時には教師が1人交代でリモコンスイッチを持って校門に立たなければならないだろう。
 一つ注意しなければならないのは、不審者と保護者を区別するために、保護者だという目印に
黄色の腕章などを持たせないことである。ニセ物はいくらでも用意できるし、保護者が暴漢に早変わりしない保証もないからである。黄色の腕章と保護者を結びつけてしまう先入観によって、児童に近づけてしまう危険が生じるだろう。
 教室は前と後ろの出入り口脇には一つずつ設置しておき、その他周囲の壁に一つだけではなく、手が届く高さに何ヶ所か非常ベルを設置するものとする。それらは生徒がじかに押しても作動させることができるように
手押し式とリモコン式兼用とする。教師はリモコンを必ず携帯し、生徒を残して教室から出るときは、誰か生徒に預けておくこととする。授業中は出入り口のドアは締め切っておき、外からカギで開けることができても、そのカギは教師が所持し、中に入るには生徒が中から開けるようにする。ドアの上部は強化ガラスの窓を取付け、誰がドアの外に立ったか、中から分かるようにする。授業中は教師であっても、カギを持っているからと自分で開けて中に入ってはならないこととする。危機管理の訓練を習慣づけることによって身体で覚えさせるためにである。休み時間の間は出入口のドアは開放しておくが、教師が教室を不在とする場合は、便所にもいかず、教室に残っている生徒の1人にリモコンを預けることとする。例え小学1年生であっても、テレビのリモコンで慣れているだろうから、定期的な訓練によって、使いこなせるようになるだろう。他にも生徒がいて、手押し式も有効なのだから。
 また、校庭と同じように、教師は勿論、生徒が間違えて作動させてしまっても、いたずらでない限り、悪いことではないということを伝えておくこととする。間違えたことを責めたなら、作動させなければならないときに逡巡することにならないとも限らない。誰もケガをしなかった、誰も命を失わなかったことから比べたら、間違えたことなど取るに足らないことだと教えておくべきだろう。そこから
身体生命の大切さを学ぶこともあるだろう。
 
廊下の非常ベルも、手押し式とリモコン式兼用とし、なるべく多く設置する。この方式なら、設置時にカネが多くかかるのみで、あとの維持費はさしてかからないだろう。また、生徒自らも危機管理に参加することになり、危機管理の一端を学ぶに違いない。他に何か最善の方法があるなら、提案してもらいたい。

<措置入院者の退院後の対策> また、措置入院先の病院を退院した精神障害者に対して、社会に一人きりで立たせるのではなく、その速やかな社会復帰を補導・援助する保護観察を行なうべきではないだろうか。警察・医師・精神保健福祉士・カウンセラー・職業訓練所・職業安定所等が連携して、就職活動のアドバイスと斡旋、就職した場合のそこでの人間関係の構築に対するアドバイス――これで社会人として十分に生活していけるだろうと見極めるまでフォローする。その間も、警察はその人物の犯した場合の犯罪情報の収集を欠かさないこととする。そういった援助・努力の甲斐もなく、他人の助力も無視して、攻撃的な性格を露骨に見せ、他者に危害を加えるような行動に少しでも出たなら、再度措置入院に持っていく。そのような制度としたなら、大事に至る前に予防措置を講ずることが可能となるのではないだろうか。

 

トップページに戻る