「市民ひとりひとり」
教育を語る ひとりひとりが 政治を・社会を語る
第13弾 プロ教師に見る、お粗末な
神戸連続児童殺傷事件に関わる認識
2000.5.1(月)アップロード
さあ、はじまり、はじまり!!
プロ教師は「学校たたきに変化のきざし」(p68)と題して、相変わらずの持論を展開し
ている。「マスコミなどによる学校たたきに一つの転機をもたらしたのは、一九九
九年の神戸連続児童殺傷事件と言っていいだろう。中学三年生が被害者の首を校門に置くという、あまりにも残酷で特殊な事件であったことから、これまでの少年事件のように単純に学校の責任にして済ますことは、マスコミもできなかったようである。
もちろん事件後、相変わらず学校が悪い、教師が悪いと責任を追及する人たちもいたが、これまでのように一方的に学校をやり玉にあげるようなことは影をひそめた。むしろ、この事件にショックを受け、これまでになんとなく中学生に不安を感じていた人たちが、少しは冷静に考えはじめるきっかけになったようである」
プロ教師は 100年生きたとしても、現実の出来事を表面的にのみ把える名人で終わるだろう。確かに少年の犯罪は「被害者の首を校門に置くという、あまりにも残酷で特殊な事件であ」るが、それが少年の「特殊」な性格によるものだったとしても、意味もなくその場所を選んで、そのようにしたわけではなく、学校に対する感情を表現するのに少年が必要とした場所選択であり、「特殊」な「残酷」さであるはずで、その感情はそこまでしなければカタルシス(浄化)を獲得できないほどに激しいものだったということでもあるだろう。いわばそこに込められている何らかのメッセージ(学校に対する情念)を読み取らなければならないし、読み取ることによって、少年に対してだけではなく、他の生徒にも影響を与えているはずの学校が意図せずに抱えている抑圧の体系の少なくとも一端は明らかにできるはずである。
ところがプロ教師にはそういった手続きを踏もうとする姿勢すらない。あくまでも学校
・教師を責任のカヤの外に置こうとする。少年が逮捕された翌日の朝、プロ教師は大坂の朝日新聞社会部よりインタビューを受けたそうである。
「私は事件についてのコメントはできないと断ったが、最近の中学生の様子について聞きたいと言うので話した。社会部の若い記者はそれを聞いて驚いている。私は『学校の管理が強まっていてるのが原因だという識者の意見が載っていたが、それは現状認識がまちがっている』とつけ加えておいた。
この事件は、あくまでも中学三年生の犯行ということできちんと考えなければならない。少年Aの特殊性については私がとやかく言える立場ではないし、その能力もない。しかし、同じ中学生の問題として、事件につながる共通性については考えておく必要があると思う」(p69)
「最近の中学生の気になる特徴をまとめてみよう。
この十年、生徒たちは大きく変わってしまった。まず、やりたいことは我慢するということがひじょうにむずかしくなった。そのことが他人にどのような影響を及ぼすかを考えて自分を抑えるということがむずかしくなったのである。その結果、やりたければ何でもやってしまうというケースも出てくる。いじめがあっというまに限界を超えてしまうのは、そのいい例である。
好きなことをやっているときに、教師や親などにやめさせられた場合、すぐムカついて相手が弱ければ猛烈にくってかかり、強ければ憎しみをかかええこむことが多くなった。
自分第一で、何かあったとき、悪いのはすべて他人である、と自分を正当化することが多くなった。
何かやるとはに、きちんとした理由などほとんどない。ただ、やりたいからやっただけである。大人の側が理由探しに必死になって、生徒の行為を理解しようとしてもほとんど無駄である。
だから、そのときの気分で何をするかわからなくなった。日ごろおとなしく見える生徒でも、カッとしてわけがわからなくなり、ものすごく暴力的になることがある」(p69〜70)
「自分にとって心地よいことがいちばんだ、我慢しなくていい、つらいことはやらなくていいという」傾向は「大人の生き方の反映であると考えなければならない」(p38)とか
、「社会が子どもを甘やかすようになった」(p39)と、社会や大人との関係で子どもを把える理解を示しながら、ここではそのような関係性は一切排除しての、見事なまでの一方的な悪者視である。プロ教師の「理解」なるものが体裁や綺麗事でしかないことをここでも暴露するものでろう。
断るまでもなく、中学生は中学生だけでは存在し得ない。家庭・学校・地域・一般社会といった、常に何らかの複数の社会の一員として存在している。そのような関係上、それぞれの社会の公約数的な生き方をしている人間たち(大人たち)の影響を受け、それとの関係の中で自己を表現していく。いわば、子どもと大人はその存在様式において常に相関関係にあるのだから、生徒の変化を問題にするなら、大人たちの変化との関連で展開しなければならない。相関関係にあることのいとも手軽な証明は、プロ教師の中学生に対する言い分を大人への言い分に振替えることが可能であることによって成し得る
。
「この十年」、大人も中学生も実際はそれ以前からだが、「大人たちは大きく変わった
。まずやりたいことを我慢するということがひじょうにむずかしくなった。そのことが他人にどのような影響を及ぼすことになるかを考えて、自分を抑えるということがむずかしくなったのである」。そのような傾向は特に金銭と性に関する欲望に対して顕著に顕われている。「その結果」、金儲けのためにはもはや手段は問題ではなくなり、自分の性的欲望を満たすためには相手が未成年者であっても、「やりたければ何でもやってしまうというケースも出てくる」。
日本経済がバブルに向かうに応じて、その経済規模に追いすがろうとする形で大人たちの欲望が異常なまでに肥大化していったことを忘れてはならない。それまでは少なくとも表面的には部分的現象であった利益獲得のための手段を選ばない不正行為が企業の社会的責任の大きさや経営規模に関係なく、日本社会全体に蔓延化したことを挙げることができる。それは「日ごろおとなしく見える生徒でも、カッとしてわけがわからなくなり、ものすごく暴力的になることがある」突然変異傾向に相対するものであろう。
「日ごろ」地球環境保護や消費者の利益擁護、あるいは慈善活動や文化支援でイメージを振りまき好感度を高めていた企業が、ある日新聞を開いてみると、あるいはテレビのニュースを聞こうとチャンネルを合わせてみると、開発の権利を獲得し、莫大な利益を上げるために県知事やその他の政治家に億単位のワイロを贈ったり、頻繁な接待でご機嫌取りしていたといったことを思い知らさせることはもはや珍しい現象ではなくなったのである。総会屋や右翼に恐喝されるままに多額のカネを渡していた有名食品会社・有名デパートもあった。総会屋に要求されるままに株の売買で莫大な利益を与えていた大手の証券会社もあった。それらすべての企業が、「日ごろおとなしく見える生徒」同様に、優秀で素晴らしい外見を見せていたのである。
法の正義を演ずるはずの弁護士が整理屋と組んで汚いカネ儲けに手を貸し、逮捕される事件も起きている。テレビが、東京では
100人からの弁護士が整理屋と関わっていると言っていた。そう言えばプロ教師は、「一生懸命勉強して、大学まで行って弁護士になるということが君の役割だとしたら、そのとき一番大事なことは、いまいっしょにいる友達のことは忘れてはいけないということだ。きみが弁護士になっていい生活をしたいと思うのは、それはそれでけっこうなことだが、それ以上にきみが弁護士になることが
、いまいる友達にとって意味があることがどうか、そういうことを考えて弁護士になることが大切だ」(p30)などと、かつては自分の生徒に説教を垂れていたというが、跡を絶たない悪徳弁護士現象を前にした場合、説教の内容はなおさらに白々しいものとなる。
逮捕された弁護士は60歳であり、プロ教師の言う「この十年」よりずっと以前の45年程前に中学を卒業している。いわばプロ教師に近い世代の、「大きく変わ」る前のまともな中学生だったはずである。弁護士の犯罪は「日ごろおとなしく見える生徒」の突然の暴力行為とは比較にならない、一般市民の信頼を破壊する精神的暴力行為であろう。
「悪いことをしなければカネ儲けはできない」は貧乏人の恨み節でもあるが、真理の一端を突いてもいる。今の時代の不正行為に感覚麻痺した企業の「悪いことをしてカネ儲けする」構造からしたら、中学生の変身は何程のことでもない。
「相手が弱ければ猛烈にくってかかり、強ければ憎しみをかかええこむ」行動様式は権威主義の典型行為であって、現在の中学生が発明したものでも何でもなく、日本人が歴史的に伝統としてきた行為性である。下位権威者が上位権威者に対して内心の不平や不満や批判・非難、あるいは怒りや憎悪を隠して、表面的には従順に同調・従属の面従腹背を示し、比較下位者に対しては強い態度に出て、それを自己の偉さや能力の証明とする、日本的権威主義の行動様式に添った人間関係の力学を単に受け継いでの中学生の性格傾向でしかない。
プロ教師の一方的な生徒の悪者視も、裏を返せば、比較上位者としての自己の、あるいは教師全体の過ちのなさ=能力の正当性を主張するだけの、権威主義的表現にとどまっている。
今迄は集団主義的・権威主義的人間関係=上下の力関係でのみ、生徒を抑えつけてきた
。いわば怖さや威嚇で生徒を言いなりにしてきた。それが機能しなくなったにも関わらず、学校・教師が、親も含めて、それに代る人間関係の方法を見い出せないまま、集団主義・権威主義を引きずり、生徒との人間関係を旧態依然の状態で維持しようとするため、生徒が人間関係にきちんとしたルールを持ち得ていないだけの話である。いわば、新しい人間関係の方法を見い出せない大人たちの存在様式をそのまま学習し、受け継いで、子どもたちも今の時代にふさわしい新しい人間関係を学ぶことができない状態にあるのである。
常に大人のありようを受けての子どものありようなのである。この視線を持ち得ない人間は学校教師の資格はない。別の面から説明すると、親は親としてのみ存在しているわけではない。一般的には大人として存在している。いわば親とは大人のことである。改めて言うまでもないことだろう。だが、「親のしつけが悪い」とか、「親がなっていない」と言うとき、親は親としてのみの存在者であるかのような印象を与える。親のしつけが悪いということは、世の大人の人間形成に関わる意識・想像力が未熟だということであり、さらに大人自身が人間形成が未熟な状態のまま成長して、形ばかり大人になっているということを意味する。
言い換えるなら、子どもの未熟な人間形成は大人の未熟な人間形成の反映なのである。子どもにとっての人間形成の重要な場は家庭が大きくウエイトを占めているが、学校も家庭に劣らず重要な位置を占めているはずである。家庭で人間形成が十分に果たされないまま、学校においても学校社会の大人である教師自らが(彼らの中にも家庭では親の立場に立つ者が多数いるはずである)十分な人間形成を経ていないために、そのことに関する想像力・哲学が未熟なため、人間形成教育は顧みず、学校教育を成績優先・テストの点数優先にすり替えている情けない状態にあるのだから、「やりたいことを我慢する」ことができなくなっているとしても、親・教師を含めた日本社会の大人たちの未熟な人間形成を受けた子どもの未熟な人間形成なのだから、当然の姿とも言える。
まず親・教師が(世間の大人すべてがということになるが)、人間形成を果たして人間的に成熟し、そこからにじみ出る人格や知性・教養・想像力・哲学等を、子どもが植物の根が地中から水分を吸収するように意図しない自然な形で自らの人間形成の養分としていく存在様式の反映、あるいは存在様式の刷り込みを確立せず、生徒の人間価値をテストの成績・学歴を尺度として計る感覚・想像力しか発揮し得ない現在の状態のままでは、「最近の子どもは分からない」ということはいつまでも続くだろう。
獣は血として受け継いだ捕獲本能を親の捕獲方法を見習い、実体化して自分のものとしていく。だが、幼い頃に人間に育てられた獣は捕獲本能を実体化するプロセスを奪われ
、餌は獲るものではなく、与えられるものと学習するように、人間の子どもも大人の生態・生きざまを学習し、受け継いでいく。獣に捕獲され、獣に育てられているわけではないのだから、大人以外の誰かの生きざまを実体化できるわけではない。生命の初期の段階では親という役割を担った大人に育てられていくが、親は親だけで存在しているわけではなく、同じ社会の一員である教師、その他の職業の大人たちと常につながっていて、そこでの社会性、あるいは社会的性格を相互的に形作って、基本のところで生活様式や精神性を共通項としていることを忘れてはならない。
こういうことであろう。子どもは親に育てられながら、その親を通して、大人として一般社会を世界とし、生きて在(あ)る姿から見たもの・感じたものを養分とすることで
、家庭という範囲にとどまらず、それを超えて自らも一般社会を世界としながら人間形成を果たしていく。特にテレビを通じた塞き止めようもない過剰なまでの情報が一般社会と家庭との境目をなくしてしまい、子どもは世間の大人を親に劣らない身近な存在とし、親が親として子どもには見せない大人のありようまで取り入れさせられていく。言い換えるなら、子どもは大人の生態を無制限・無秩序にインプットされ(刷り込まれ)ることで、子ども自身にとっても外見からでは分からないところで、否応もなしに大人に限りなく近づいた存在と化しているのである。
ということなら、犯罪や性の低年齢化ではなく、高年齢化(大人化)と言うべきかもしれない。
さらに言い換えるなら、世間の大人たちが言う「子どもの耐性のなさ」は、大人の耐性のなさを受け継いだもの、その反映だということである。子どもが欲しがれば、何でも簡単に買い与えることが大人の耐性のなさではないと言うのだろうか。買い与える行為を通じて子どもの歓心を買い、そうすることで自己の支配下に置こうとする低劣な精神性からは、子どもはまともな人間形成を獲ち取ることは難しいだろう。
このような親の行為性は親だけのものではなく、上司や取引先といった利害関係者に対して自己の立場・地位をより有利な位置に置く方法としての、日本の文化ともなっている、世間一般の大人たちの盆暮れの贈答行為につながる、その一変形態であって、このことだけでも親は親としての存在者ということだけではなく、世間の大人の一側面であることの証明となるだろう。
「何かやるときにきちんとした理由などほとんどない。ただ、やりたいからやっただけである。大人の側が理由探しに必死になって、生徒の行為を理解しようとしてもほとんど無駄である」とする認識も、生徒の行為を表面的に把えただけの浅はかなものでしかない。
人間のいかなる行為も、「ただ、やりたいからやっただけ」ということはない。若者が反社会的な何かをやらかしたとき、「ただ、やりたいからやっただけ」と公言することがあるが、それは自己行為への説明能力を欠いているか、余程反抗的になっているかのどちらかだろう。それに対して言葉どおりにしか受止めることができないのは、洞察能力の欠如が原因してのことである。
人間の意識・感情は相互反応の変数として誘発されるが、常に直接的対象者に相互反応するとは限らない。例えば、かわいらしい小さな女の子が自分を見て笑ったような気がして、急に憎らしくなって殺してしまったと証言する殺人行為は、その子への直接的な憎悪からのものではなく、実際は例えそれが理不尽で残酷なものであろうと、誰か顔見知りの人間に対する晴らすことのできない怒りや憎悪を、晴らすことができる無力な人間に代償的に振り向けた感情の発散行為であろう。
いわばどのような行為も何らかの意味や理由を隠し持っているのに対して、教師に理解能力がないために、「ただ、やりたいからやっただけ」と、脈絡も連続性もない衝動として片づけることができるのである。
このことは、「自分やったことはよく覚えていない。やるときにははっきりとした
自覚がないのかもしれない。たとえば、他人に暴力をふるったり、金をたかったりしたことは認めても、こまかいことはおぼろげなのである。事実関係を確認するのに相当にてこずることになる」(p70)といった認識についても同じことが言える。
計画殺人ではなく、その場の感情の行き違いからカッとなって殺してしまった発作的な衝動殺人の場合は、自分は殺人を犯そうとしているという「はっきりとした自覚がない
」だろうが、殺人に至る経緯に関して「よく覚えていない」のは、罪薄めの意識の働きによる説明回避と、殺人を犯さなくても元々からの自己省察能力の欠如による説明不能を原因とした誤魔化しのための口実に過ぎないだろう。過度の泥酔状態による朦朧意識下の行為というわけではないのである。
特に「暴力をふるったり、金をたかったり」の行為は権威主義的力関係に依拠して自分の偉さや力を証明する自己活躍行為であり、自己達成や自己解放の獲得の方法としてあるものである。それは学校・教師が提示する、テストの成績を支配的価値観とする可能性をごく限定した自己活躍機会に適応できない生徒の、そのことへの意図しないアンチテーゼ現象でもあるはずである。また、一人の生徒の個別的対象からの反照作用としての感情・意識は同じ個別的対象に相互反応するとは限らないと既に断っているが、一人の異性に手ひどく裏切られた経験が異性全体への不信に発展するように、集団や社会全体向けた印象と化す場合もある。いわば、「暴力をふるったり、金をたかったり」は全般的な学校生活行為との関連で取上げるべきで、断絶した単一行為として取り扱って済ますわけにはいかないはずである。ところがプロ教師はいつも、いつも学校・教師が押しつけている価値観・可能性は問題にせず、それとは無関係なものとして生徒の行為をあしざまに非難するばかりである。このことはプロ教師が代表選手であるということに過ぎず、その他大勢の教師も共犯者の位置にいる。
「つらいことがあったとき、それに立ち向かおうとしたり、うまくすり抜けようとするなど、自分から挑戦するということがほとんどない。
自分の殻に閉じこもってじっとしていたり、あるいはまったく関係ない弱い者に当たり散らしたりすることが多い。不登校や自殺もそのことに関係するのではないかと思われる」(p70)
以上の生徒情況に対して学校・教師は、特にプロ教師はどのような対策を講じているのだろうか。どのような思想・哲学でもって、生徒と向き合っているのだろうか
。生徒の現状を非難・批判するだけが学校教師の務めではないはずである。
「最近の中学生の様子を聞きたいというので」プロ教師が「話した」ことに対して、「
社会部の若い記者は、それを聞いて驚いている」と、自己を単なる情報提供者の位置にとどめているだけではなく、「最近の中学生」をそのように把えている自己観察の正当化の証明に相手の短絡的な反応を持ち出して、それで満足しているとは情けない話としか言いようがない。
「自分の殻に閉じこも」るのは、自分にとって不快な感情を抑圧し、蓄積させるだけで
、代理的なよりよい形で発散する手立てを持たないからだろう。例えそれが法に触れる悪事だとしても、「他人に暴力をふるったり、金をたかったり」を自己活躍の方法としている生徒は、それが感情浄化・感情発散の手段ともなり、「自分の殻に閉じこも」ることはないばかりか、成功の達成感で充足状態を保つことも可能である。
「まったく関係ない弱い者に当たり散らしたりする」のは、一旦は不快な感情を不用意に抑圧してしまい、抱えきれなくなってか、最初から抱えるだけの心の広さがなく、先ほど触れたように、その発散が弱い者への攻撃の形を取って現れたものだろう。
今必要なのは表面的な観察や分析ではなく、自分にとって不快な感情を不快なままに抱え込んで抑圧しないように、不快感情を誘発する対象者と相互に批判や非難の、あるいはこうして欲しい、ああして欲しいといった要求の言葉を闘わせて、そこからお互いに納得のいく意見・主張を紡(つむ)ぎ出していく訓練であり、それは相手にとっても自己にとっても相互に納得のいく自己性、あるいは自己の立場を確立しようとする訓練でもあるが、そのような訓練を通した自由闊達なコミュニケーションを常に可能とする人間関係の構築であろう。それは積極的な人間関係への参加(「自分の殻に閉じこも」ることへの決別)であり、難しい道のりではあるが、選択しなければならない道でもあるはずである。
教師対生徒、生徒対生徒の関係が権威主義的力関係から抜け出して、そのような内容となったとき、生徒は「つらいことがあったとき、それに立ち向かおうとしたり
、うまくすり抜けようと」「自分から挑戦する」姿勢を持つようになるはずである
。なぜなら、思ったことを率直に言い合う関係が周囲からの励ましや忠告の言葉に事欠かなくなるばかりか、自分からも助けや相談の言葉を自己卑下や自己嫌悪の感情を介在させることもなく求めることができるからである。
また、既に触れたが、そのような関係性は「自分の殻に閉じこも」る情況を許さないものとなるが、ときには自分の殻に閉じこもっていたくなったときは、「今ちょっと誰とも口を利きたくない心境だから、暫く放っておいてくれないか」と言える構造のものとなるだろう。言われた方も、人の親切を無にしてなどとむっとすることもなく、常に相手の気持を尊重する姿勢が要求されることになる。
そのように言葉の闘わせの訓練を通して、それぞれが感情を溜めない関係を作り出していくことによって、不快感情を発散しやすい比較弱者に振向ける形の「関係のない弱い者に当たり散らしたりす」といった陰湿な代償攻撃は影をひそめる方向に進むはずである。当然、「自分の殻に閉じこも」ることの一形態である「不登校や自殺」も減少化傾向を見せていくものとなるだろう。
「社会的な機制はほとんどなっているようで、怖いものがなくなっている。怖い大人はほとんどいなくなったし、法律も中学生には非常に甘くできている。どんな犯罪をおこなっても刑務所行きはないのをみんな知っている」(p70)
この一節はプロ教師の正体が威嚇的権威主義者であると同時に、時代錯誤的な復古主義者であることを暴露するものであるだろう。「怖い大人」の「怖さ」と、生活の細部にまで干渉の手を伸ばす規則で子どもを言いなりに支配・強制しようとする衝動を隠すつもりなく露骨に表現している。それは自己を暴力団の威嚇的立場に置こうとする精神的メカニズムをベースとしているからこそ可能な衝動である。
オウムの幹部たちは麻原彰晃の恐怖の前に言いなりの服従で自らを縛りつけるファシズム体制を受入れていた。プロ教師がけち臭いながらも、ミニ麻原彰晃に擬すことができる根拠がここにある。
何度でも例に挙げるが、封建時代の武士は農民に対する支配と強制を、その生活を窒息させんばかりにことこまかに規制することで確立し、自らの権力と生活を確保していた
。「近年自然と内証奢りに長じて、暮らし向きのよい者の妻子などは不都合な風俗を致し、不勝手な者までその見真似するようになり」と、「衣服その他の制限を立て」(『近世農民史』児玉幸多著・吉川弘文館)たり、「在々にて酒を造ってはならない。在々の百姓に酒を売ってはならない、豆腐を作ってはならない、百姓の食物は雑穀を用いて米を多く食べぬように申し付けること」、「在々にてうどん・切麦・素麺・そば切・まん頭等五穀の費えになるものを作って商売してはならない」(同上)と、武士の権力と生活の維持のみを目的とした年貢徴収優先の規制を行い、それに対して農民は自らに言いなりの同調・従属の忍従を強いた。
自由・平等の民主主義と基本的人権擁護が世界的潮流となっているこの時代に、プロ教師の復古願望の針が少しでも過去の方向に振れただけで、生徒はたちまち封建時代の農民の位置に閉じ込められるに等しいこととなるだろう。
プロ教師は「怖い大人がほとんどいなくなった」原因は何か考えたことがあるのだろうか。プロ教師の程度の低い想像力からは何も出てこないだろう。
まず第一番に大東亜戦争と称せられた正義の戦争が敗戦によって正義でも何でもなく、国土の荒廃と国民に困窮を強いる結果となった単なる侵略戦争でしかなかったとその正体が露見したにもかかわらず、国家の軍国主義に率先加担して子どもたちにお国のために戦って死ぬことを愛国心=大和魂だと教えた教師たちが自らの下劣な付和雷同の責任に決着をつけず、誤魔化しの態度を取ったその狡猾な自己保身・その優柔不断な事勿れ主義によって、個々の教師に関しては既に見抜かれていた、立派な人格者と通念されていた権威が教師全般にわたって単なるメッキでしかないこと、外形をことさららしく装った見せ掛けでしかないことを知られてしまったことが始まりだったのである。
世間の大人たちも教師同様の態度を取ったのである。教師は世間の大人とつながった存在であり、世間の大人は教師とつながった存在だからである。当然すべての大人が同じ穴のムジナと化すこととなった。そして大人たちのそのような態度は、戦後社会の情報化への進展が大人の裸の姿を次々と暴き立てていったことによって、戦争に関してだけではなく、社会生活全体に関してのものだとチエをつけてしまったのである。いわば社会の情報が子どもたちの目の曇りを払い、大人を落ちた偶像とさせたのである。
そして現在では暴力団的威嚇が通用する大人だけが、あるいは教師だけが怖い大人・怖い教師として子どもへの君臨を可能としているが、それは恐怖を磁力とした支配と従属の秩序でしかなく、それに対して子どもは自分たちなりの何らかの自己維持の方法を見い出して対抗するだけである。懸命な子どもだったなら、内心の軽蔑と冷笑を心理的な支えに怖さへの屈服とバランスを取るに違いない。多分、生徒にとってはプロ教師もそのような一人に入るのだろう。子どもたちにしても自分たちの価値観で尊敬できる大人なのか、教師なのか、何らかの方法で色分けするはずだからである。
教師なるものの正体がバレてしまっているのだから、「勉強したくなくても、我慢して勉強しろ」とか、「学校では教師の言うことを聞け」と一律的・全体主義的に子どもを規制しようとも、もはや通用しないのである。親・教師を含めた大人なるものが通用するのはまだ社会の情報を読み取る能力、読み取ったデーターを参考に大人という存在を読み解く能力を持つに至らない、ごく年齢の低い子どもたちのみであろう。
軍国主義の内容・程度・是非を問うこともせずに非国民とか国賊とか、スパイ・アカという威し・非難・村八分を恐れて、最大公約数の国民が無批判・無定見に同調・追従していったのと同じく、「学校の言うことを聞け」というサインはその内容・程度・是非を問わせない一種の全体主義的支配と強制の強要に当たり、そのような社会的規制は学校社会だけのものとして存在するはずもなく、戦前と同様に社会全体――いわば国のありよう・国民のありようを規制するものとして最初にあり、それが学校社会に及ぶ順序
・方向を取るはずである。裏返して言えば、日本という国・社会が全体主義的か、全体主義そのものの国家体制を取ることによって、学校社会においても可能となる社会的規制なのである。
但し、そのような国家体制・社会体制は国際社会が許しはしないだろう。
プロ教師はそこまで考える能力もなしに、「社会的規制力」を教育荒廃解決の切り札であるかのように振りまわす。教育の内容や方法によって生徒の信頼を獲ち取る意識・意志・想像力を働かせもせずにである。多分、その方面の才能は持ちあわせていないからこその、埋め合わせに持ち出した「社会的規制力」頼みなのだろう。
「こんなふうに考えてくると、少年Aの行動の基盤に最近の中学生があると考えたほうがよく、私のクラスの生徒だって、いつどんなことをするかわからないという怖さを感じてしまう」(p70)
教育空間でありながら、自由・平等は空念仏で、言葉を力とした相互認識のコミュニケーションもなく、不平等な権威主義的人間関係を一律的に強いられ、テストの成績と学歴で人間価値を計る不自由な学校価値観を画一的に押しつけられるという、同じ社会構造の中に生きているのだから、「少年Aの行動の基盤に最近の中学生がある」のは特別でもなんでもなく、ごく当たり前のことで、それをことさららしく言うところがプロというわけなのだろう。
「私のクラスの生徒だって、いつどんなことをするかわからないという怖さを感じてしまう」と言うのだから、生徒を信頼していないと同時に、生徒にも信頼されていない人間関係状況にあるということである。生徒はプロ教師にも、その不信頼に対する不信頼を抱えるはずだからである。人間の意識・感情は相互反応の変数として誘発されると、既に断っている。教師は学校という社会構造に重要な位置を占めている。その信頼なくして、生徒は信頼で応えようがない。いわば信頼・不信頼は生徒だけの問題ではなく、相互的なものであるはずなのに、生徒だけの問題としている無神経は計り知れない。
「当然、今回の事件で少しものを考える親のなかにも、自分の子が何を考えているかわからない、何をするかわからないという不安を抱くようになった人が出てきても不思議ではない。相変わらずマスコミは犯人探しに熱中している。そしてやり玉にあげられているのが、いつものように学校であり教師である。その怠惰なこと、あきれるばかりだ」(p70〜71)
生んでから、その成長と共に一緒に生活をしながら、「自分の子が何を考えているかわからない」と言うのでは、「少しものを考える親」どころか、何も考えていない親と言わざるを得ない。但し権威主義的に、「ああしろ」「こうしろ」と命令・強制するか、あるいは欲しがるものを買い与えることで支配下に置こうとする関係のみで、それぞの思いを言葉にして伝え合うことを通してお互いの考えや生き方を確認し、それらを尊重したり、ときにはそれは間違っているとたしなめたりし合う言葉の闘わせ・言葉の交換の習慣を積み重ねることをしなかったなら、一緒に過ごす時間の長短に関係なく、「自分の子が何を考えているかわからない」のは当然の結果と言える。言葉の闘わせ・言葉の交換は「自分の子が何を考えているか」知るためだけではなく、親自身が「何を考えているか」子どもに知らせるための欠かすことのできない絶対的条件であり、絶対条件なのに、それを欠かしているからである。
プロ教師が自分のクラスの生徒に「いつどんなことをするかわからないという怖さを感じ」る。いわば、「何を考えているかわからない」のは、自分を知らしめ、生徒を知る言葉の闘わせ・言葉の交換を教育において不在のものとしているからだろう。親共々、学校・教師が「犯人」なのは一目瞭然である。
事件に関して、「考えなければならないことは、つぎのとおりである」(p71)と述べている。
「・少年Aの小さいときからの育てられ方をきちんと跡づけること、特に親子関係
、兄弟関係を明らかにすること。
・少年Aの残虐性がどこからきたのか明らかにすること(これはしかし、はっき
りとさせることは相当にむずかしいだろう)
・最近の中学生の特徴的な問題を明らかにし、少年Aとの共通性を明らかにする
こと。
・そのような中学生の登場を、戦後社会の作り方、戦後の子育て、学校教育の面
から詳しく分析すること」(p71)
対策として、学校の問題を最後に持ってきたところにプロ教師の、学校・教師には責任はないとする意志を看取することができる。なかなかの策謀家である。但し、言っていることは至極もっともである。もっとも過ぎて、学校教師の程度が分かるくらいである
。言葉の闘わせ・言葉の交換への視線が皆無なのだから、表面的な分析で終わるのは目に見えている。
何度もの繰返しの説明になるが、少年Aの問題だけではなく、現在の中学生の問題には集団主義・権威主義と戦後民主主義との衝突が横たわっている。自由・平等の個人の権利意識の発達にも関わらず、日本社会の人間関係(=意志関係)が歴史的に今もって集団主義的・権威主義的上下関係で成り立っていて、意志・価値観の上から下への一方通行・押付けが行われ、それが下位権威者の位置に立たされている者の権利・可能性を阻害し、歪めている。最近の子どもたちの大人に対する反抗には、上から下への意志・価値観の一方通行の軛(くびき)、あるいは抑圧から逃れようとする足掻き・反発の一面と把えなければならない。
子どもにとって次なる社会である学校が、最初の社会である家庭で受けている価値観的・意志的抑圧に何らかの中和作用を施す救世主たる役目を担うべきなのに、親以上の意志・価値観の一方通行・押し付けを強制するさらなる抑圧者として子どもに君臨している情況を改めないままなのである。
いわば学校社会における教師対生徒の存在様式が人間関係そのものだけではなく、価値観に関しても、可能性に関しても、集団主義的・権威主義的な構造のものではなく、それらを一切排除して、民主的な対等の立場のもの、お互いの価値観・可能性を自由に表現しあい、不必要に抑圧したり、歪めたりすることのない関係構造のものとなることによって、例え家庭において親が子に対して心理的・精神的な抑圧・押付けで子どもの可能性・価値観を歪めていたとしても、その発散作用・浄化作用を受持つことができるはずである。
いわば学校が結果として家庭での抑圧・押付けに加担するより悪しき延長として、なおさらの抑圧機構として子どもを丸呑みしている情況を断ち切ることによって、「いつどんなことをするかわからない」突然変異行動からの子どもの解放を果たすことが可能となるた゜ろう。
ところが教師は自らも言葉を獲得せず、獲得する努力も怠り、そのために言葉の闘わせも言葉の介在も不要な、学歴という外形を価値とする教育だからこそ可能な、教科書の内容をなぞったなりのコマ切れ知識の暗記教育に安住している始末で、「
その怠惰なこと、あきれるばかり」である。
「少年Aの残虐性」に関しても、戦争時の日本人の残虐性、現在の日本人の大人の犯罪の残虐性、あるいは凶悪化を考えると、犯罪の低年齢化現象に添う大人からの漸進的な受継ぎと考えられないことはない。情報によって子どもでも一定年齢に達すると知り得る等身大に表現した、あるいは等身大以上にどぎつく演出したセンセーショナルな大人の残虐行為・凶悪行為は(他のすべての行為についても同じことが言えるが)、恨みや憎しみの感情を抱いたとき、少なくとも初期の段階では、空想上の再演によって、精神的な浄化に利用される。多くの人間はその段階にとどめ、実際行動には移さないが、ときとしてその段階を踏み越えてしまう。それが少年Aの特殊な性格からのものであっても、行為の形態そのものは社会の情報(大人たちが発信している情報)を土台として反映されたものである。いわば大人の犯罪の残虐性を受けた子どもの犯罪の残虐性なのである。
学校教師のいじめに気づかぬ振りをしたり、見て見ぬ振りをする、面倒に巻き込まれまいとする無責任行為・自己保身行為も「少年Aの残虐性」に劣らない残虐な行為に入るだろう。テストの成績だけで人間の価値を決めてしまう人間観もそれに優る残虐さはない。十年間行方不明状態にされた少女に対する無能な警察捜査も、その事後処理も、人間による人間に対する残虐行為であろう。
このような大人の残虐性がもはやもはや珍しいことでも驚くべきことでもなくなり、内側に隠しているだけのことで、誰もが残虐になり得ることが動かしがたい事実となっている。「いつどんなことをするかわからないという怖さ」は、何もプロ教師の「クラスの生徒」を始めとした今時の中学生に限ったことではなく、大人もそうであり、人間全般について言わなければならないことなのである。中学生だけに限るのはプロ教師の視野の狭さ、認識力の貧困を証明するだけのことでしかない。
今年4/5に逮捕された、名古屋市の3月まで中学校生だったときの複数の少年の5千万円と言う多額の金銭恐喝事件では、担任は被害者の生徒の母親への電話で「
子どもの預金から50万円引き出されている」という事実を知らされた後の、学年主任らと共に生徒と母親を交えた話し合いの場で、「友達に貸した」とか、「マージャンやゲームに使った」といった生徒の説明に対して、「恐喝の疑いもある、警察に行ってみたらどうか」と勧めたのは、その種の説明が加害者側からの仕返しを恐れての言いつくろいではないかと、大河内清輝君のいじめ自殺事件やその他の学校内犯罪で知り、学習していたからだろう。ところがその解決を警察に下駄を預けっぱなしで、それ以後は事件化できかった警察と同じく放置したばかりか、生徒が不登校状態になっても、何ら有効な手も打たず、「事件になっていないのに、加害者と思われる生徒に強い指導はできなかった」と学年主任は弁解するだけである。大河内清輝君のいじめ自殺事件との違いは、被害生徒が自殺しなかったことと、恐喝された金額の違いぐらいで、本質的には同質の事件である。結果的に、担任・学年主任・その他の教師は大河内清輝君のいじめ自殺事件から学校教師でありながら、表面的にその情報を学んだだけで、生徒の危機管理に何ら役立てることができなかったのだから、実質的には何も学ばなかったのである。学ぶだけの感性・想像力もなく、学校教師をしていたのである。
「友達に貸した」とか、「マージャンやゲームに使った」と誤魔化しながら、内心では学校・教師の助けを求めていたに違いない被害生徒の必死の願いを、「怠惰」で貧困な想像力ゆえに結果的に無視することになった学校・教師のこの「残虐性がどこからきたのか」、プロ教師に教えを乞いたいくらいである。
「生徒指導担当の教師が、他の生徒に暴行を働いた少年Aに、『おまえのような危険なやつは学校に来るな』と言ったらしい。そしてその発言が、少年Aの行動を導き出したと報道しているマスコミが多い。あきれてものが言えない。全体的に、事件の責任を少年Aではなく、他に持っていこうという姿勢が強い。しかし十四歳である。自分のやったことの第一の責任は本人にあるのはあたりまえではないか。子どもは純真で保護してやらなければいけないという『お子様教』が広く行きわたっているようだ。少年Aにまっこうから取り組まなければならないのに、それを避けて通ろうとしているのは、怠惰だといわざるをえない」(p71)
プロ教師は何がなんでも「事件の責任を少年A」=「最近の中学生」に「持っていこう
」とし、学校・教師には関係ないとしたい意識をここでも強く働かせている。さながら
、学校・教師に責任あるとする批判が強迫観念化してしまっていて、それを取り払おうと躍起になっているみたいだ。
「やったことの第一の責任は本人にある」と言うよりも、「本人」が取らなければならないが、少年Aに限らず、誰にしても、家庭・地域・学校と、それぞれの社会の一員として生きている。さらにそれぞれの社会における全体的な力関係は中学生の年齢の場合
、社会的年齢や社会的立場からして、下位権威者として立たされる方向に働く。いわば総体的には人間関係の影響は与える側にあるのではなく、受け身の側にあると言える。当然、「少年A」は(殆どの中学生も同じだが)それぞれの社会によって作り出されたクローンの側面を持つ。家庭という社会においても、「少年Aの小さいときからの育てられ方」とプロ教師が言っているように、作られた(「育てられ」)たのである。
では、学校ではどう作られたのだろうか。その方面への視点も持たなければならないはずである。プロ教師が言うところの「学校教育の面」がそれに当たる。となると、生徒指導担当の姿勢・人格・人間性も少年Aを作っていく過程(発達・成長)に何らかの形で関わらなかったはずはない。いわば少年Aの殺人に至る感情の増殖に全然手を貸していなかったとは言えない。
大体がプロ教師は、「そのような中学生の登場を、戦後社会の作り方、戦後の子育て、学校教育の面から詳しく分析すること」と言いつつ、少年Aの問題としてのみ扱おうとする矛盾を平気で犯している。少年Aの問題だとするのがプロ教師の正直な気持だから
、それ以外の説明は綺麗事を装ったものとなるのは必然的と言える。
生徒指導担当教師の発言が少年Aの行動(=感情の爆発)の直接的な引き金とはならなかったとしても、爆発を誘発させた恨みの感情を補強する材料の一つ、あるいは条件の一つとして、感情のさらなる抑圧化に悪影響を与えたと言えないことはない。
もし少年Aの恨みの感情の抑圧化が臨界状態にあったときの生徒指導担当教師の発言だとしたら、その影響はより大きなものとなるだろう。抑圧感情の本格的な爆発を先延ばししていたのは、「他の生徒」への「暴行」だったり、ネコなどの動物に対する虐待といった小出しの蒸気爆発だったのかもしれない。
問題は家庭や学校・地域との関連で、それらからどのような影響を受けて、少年Aがどのように作り出されていき、どのように本格的な爆発の瞬間に至っていったかである。
勿論家庭でのしつけ――と言うよりも、家庭での人間関係が色濃く影響している。あるいは決定的に影響していたかもしれない。だからといって、それが爆発の決定的理由となるとは限らない。学校での人間関係のほんのちょっとした波紋が抑圧を積み重ねていって臨界状態に達していた感情に点火火花の役目を果たした可能性も考えられるからである。
言い換えるなら、家庭での影響が決定的だった抑圧感情だとしても、学校・教師がそれへの中和作用を施すどころか、逆に火に油を注ぐ形を取ったとしたら、学校・教師に責任なしとは言えない。少年Aの憎悪を育んでいったのは、家庭社会における人間関係だけではなく、それを引き継いで学校社会での人間関係も一枚加わっていたのは、殺した少年の首を校門の門柱に曝したことが如実に象徴している。
「私は、七月初めの一週間の間に四回にわたってテレビで話すことになったが、このときも、学校現場の様子、中学生の状況をまず知りたいという姿勢が強く、これまでの一方的な学校たたきの雰囲気が変わりつつあることを実感した」(p72)
「一週間の間に四回にわたってテレビで話す」とは、なかなかの売れっ子である。現実を表面的に切り取り、表面的に分析するしか能のない、無内容といっていい程の貧困な感性・想像力の人間をかくまでも引っ張りダコにするテレビの感性・想像力もプロ教師と同質の現実を表面的に切り取り、表面的に分析するだけの内容のものだからだろう。情報を本物かどうか読み解く力を獲得しない限り、テレビはプロ教師の売れっ子ぶりに手を貸すことになるだろう。
次にプロ教師は、「相変わらずの『お子様教』信奉」(p72)と題して、「親や教師など
、現場のレベル」での生徒の把え方を展開している。
「私は、九七年九月十日発売の『文藝春秋』十月号の『特集 子どもが変だ!』に
、私のクラスの生徒たちの生活を報告した。この特集は、神戸の事件の背景を探るという目的で組まれたもので、私は、最近の中学生の実態を報告し、少年Aとの関連があるのかないのかを考える材料になればと、毎日書きためた日記を発表したのである」(p72)
ところが、「ふつうの中学校のふつうの中学生の生活報告だったのだが、見出しがショッキングだったこともあって、大騒ぎになってしまった」(p72)
見出しは関係ない。正当なものと受止められる内容のものだったなら、見出しが少々ショッキングではないかという問題で済み、「大騒ぎにな」ることはないだろう。このことからして現実分析能力の貧困を証明している。
「具体的な生徒の動きを書いたため、プライバシーの侵害だとか」、「学校の恥をさらすことになったとか」、「抗議の電話も入り、校長はパニックにおちい」り、「教師も大多数は批判的で、うちの学校はこんな悪い学校ではないという意見が多かった」(p72)という周囲の反応に対して、「私は少年Aの登場で、新しい子ども
、つまり『子どもが変だ』ということが広くわかりはじめたのではないかと思っていたから、このリアクションは予想外だった。つまり、一般のレベルでは教師をふくめ、子どもが質的に大きく変わり、『変』になったということをほとんど感じていないということがわかった。いや、感じたくないと思っているのかもしれない」とし、そのような「反応」を「ほとんどの人たちが、現在の子どもの状況をよく見ておらず、危機的なものだとは思っていないことを示している」(p73)と述べている。
そして、同僚の「教師」を「その場しのぎでやっているだけ」で、「私の生徒たちの話なのだが、それを冷静に読んで、自分の生徒と重ねあわせてみるという姿勢の人はほとんどいなかったようである」(p73)と批判している。
「ただ、『文藝春秋』を読んだ一般読者からは好意的な反応が多く寄せられたということがあり、風向きが変わりつつあることはたしかだと思うが、いまだに、悪いのは子どもではなく社会なのだから子どもたちを保護してやらなくてはならないという『お子様教』が親ばかりか教師をも広く支配しているということなのだろう」(p73)
「お子様教」には批判一辺倒だが、プロ教師教信者は根強い存在を示しているばかりか
、新しい信者を今もって獲得しつつあるらしい。プロ教師教信者がこの世に一人でも存在する限り、日本の教育はよい方向には進まないだろう。
既に何度でも言い繰返していることだが、プロ教師教をこの世から抹殺するために何度でも繰返すが、子どもが「変」としたら、それは大人の「変」を受けた「変」なのである。子どもが突然変異的に「変」になることは決してないからである。総体としての子どもは大人の持つ総体的なものから作り出される。
戦前の子どもたちの総愛国少年化は当時の大人たちの思惑とは無関係なところで突然変異的に勝手に変身を遂げたわけのものではあるまい。大人たちの意図を受けた子どもたちの同調行為だったはずである。
今の「子どもが変」は、今の大人たちの無節操・無責任・無軌道の反映だろう。勿論、昔も大人は程度の違いはあったとしても、無節操・無責任・無軌道だったが、情報の未発達が隠れ蓑の役目を果たして、子どもたちには大人は偉い人間として君臨する怖い存在として受止められていた。戦後の経済の発達を受けた豊かな生活が大人の無節操・無責任・無軌道を露骨化し、それを社会の情報が子どもたちの目と耳に過剰なまでにストレートに伝え、子どもたちは無節操・無責任・無軌道といった反倫理性に感覚麻痺を起こすというプロセスを踏んで、今の「子どもの変」があるのだろう。
例えば、「今の子どもは欲しいものは何でも手に入ると思っている」とプロ教師を初め、世間の多くの人間が言うが、大人がそう思っていないのは現実社会でそのような経験を味わわされて知った学習知識、大袈裟に言えば、学習理論なのであって
、社会的年齢に比例して、誰でも身につけさせられる思い(これも大袈裟に言えば
、思想・哲学)だろう。
それにしても、社会的年齢と共に社会的経験を積みながら、「欲しいもの」がカネなら
、児童誘拐だとか金融強盗だとか、保険金殺人だとか利益強要だとか、ワイロの要求だとか、手段を選ばないカネ儲けにうつつを抜かし、それが女なら、カネにあかした女漁り、あるいはこの間あったばかりの大阪府知事や学校校長のセクハラのように地位を利用した肉体関係強要に我を忘れて、「欲しいものは何でも手に入る」と思っているる懲りない大人が如何に多いことか。
社会的年齢に比例して社会的経験に乏しい子どもに、「欲しいと思ったものは何でも手に入るとは限らないのだ」ということを大人が経験させるか、教えるかしなければ、子どもは親掛かりの生活をしている間は、いわば世の中に出て行くまでは、いつまで経っても「欲しいものは何でも手に入る」と思い続けるだろう。あるいは例え社会に出ても
、子どもの頃に染みつかせてしまった習性を社会に出てからも引きずり、障害となる条件を不当・不法に排除してまで「欲しいものは何でも手に入」れようと、他人や会社のカネを騙し取ったり、誤魔化したりの犯罪に走る人間もいるのは現実が証明していることである。
言葉を変えて言うなら、親・教師を含めた大人が子どもに対して責任を果たしていない無節操・無責任の先に、子どもの「欲しいものは何でも手に入る」という思い・考えがあるのであり、さらにそのような思い・考えを、世間の大人の金銭感覚や性感覚、その他の事柄に関する無節操・無軌道が増長させているのである。
社会とは人間の集合体なのは言うまでもない。社会の大勢的色合い・性格を決定づけているのは子どもではなく、大人である。いわば大人が先行して社会の性格を決定づけ、後から来る子どもをその社会の性格に染めていくというプロセスを取る。大人が作った社会の鋳型に子どもをはめ込んでいくのである。ゆえに大人から離れた子どもは存在しない。少年Aにしても、広い意味では、現在の日本社会の大人に密接につながっている子どもなのである。
子どもは常に大人につながっている。大人のありように続いて、子どものありようがあるのである。学級崩壊も、大人が民主主義だ、自由だ、平等だ・個人の権利だと、そういった意識を植えつけておきながら、タテマエだけのことで、現実には学歴やテストの成績を物差しにして人間の価値を計ったり、生徒の可能性に関しては学校の成績かスポーツの能力を最上位のもの・最優秀なものとし、それをすべてとさせる不平等・不自由
・非人権――いわば民主主義を唱えながら、実体は集団主義・権威主義の思考様式・行動様式から離れることができず、限られた価値観・可能性で生徒を支配・強制している矛盾が噴出したもので、大人の矛盾を受けた子どもの混乱・矛盾なのである。大人の矛盾・混乱が子どもの矛盾・混乱となって現れているのである。
子どもを問題にする前に、大人がタテマエとホンネを一致させるべきだろう。例えば、価値観の多様性を言うなら、テストの成績で生徒を選別する学歴至上主義を排除して、それに代るものとして生徒それぞれの可能性に平等な市民権を与えると同時に可能性発揮の機会均等を図る教育――いわば可能性の違いによって上下や優劣をつけない平等価値観に立った教育への転換を実現させるべきだろう。
そのような可能性に対する平等価値観は日本社会に根強く残る職業差別観(職業を基準とした人間価値観・身分制度意識――それへの忌避意識としてあるのが学歴主義である
)の払拭と相互反映するものでなければならないのは当然である。
プロ教師はさらに、「新聞は荒れる中学生とそれにうまく対応できず立ち往生している教師の姿を報告しはじめた」(p73〜76)と皮切りに朝日新聞の記事(「『新しい荒れ』全国に広がる」「(九七年十二月二十三日))を例にとって執拗に証明している。
「・・・・一九八〇年代、ツッパリの生徒が集団で学校の管理に反抗したのとちがい、ひとりで突然『むかつき』を爆発させる子がふえている。その波は小学校にも及び、学級が崩壊して授業が成り立たず、悩んで休職に追い込まれる教師もいる。
・・・・・
――京都の小学校では・担任が『うるせえ』『ババア』とののしられ、ドッジボールやものさしを投げつけられた。
――教師たちの発言
・『非行ではなく奇行』『宇宙人のよう』『アメーバみたい』
・経験を積んだ人でも若手でもクラスが荒れる。誰の学級が荒れてもおかしくない。
『非行ではなく、奇行』『宇宙人のよう』『アメーバみたい』という生徒たちに対する教師の感想は、新しい子ども≠スちの登場を明らかにしている」
次いで、「警察庁」の「校内暴力に関する調査結果」を挙げている。
「警察庁の『非行歴のないふつうの子≠ェある日突然凶悪犯罪を引き起こすいきなり型≠ェ最近の大きな特徴である』という報告は、最近の中学生の様子と一致する。ふつうの子≠ェ突然キレて、暴言、暴力へ突き進むことがはっきりしてきた」
「いつ、誰が、どんな情況で荒れるのかを明らかにするのは困難だろう。『誰の学級が荒れてもおかしくない』という教師の発言は、これまでの経験や方法が通用しない事態に至っていることを示している」
相変わらずプロ教師は現実を表面的に切り取って、表面的にしか分析できない浅はかな
地点に「立ち往生」するだけなのを「明らかにしている」。
「ひとりで突然『むかつき』を爆発させる」情況は人間の自然で健全な感情の発散に反する不合理な抑圧と蓄積の前段階を必要とする。そのような前段階を経ない「突然」の「爆発」も、「ふつうの子≠ェある日突然凶悪犯罪を引き起こすいきなり型」も存在しない。前段階の過程で、心理的・精神的に既に「ふつうの子」の情況ではなくなっているのである。
いわば抑圧感情を自然体で小出しに発散・浄化して・精神のバランスを取る心理的なテクニックの欠如がカタストロフィ(破局)に一気に突き進む「いきなり型」の凶悪行為を誘発するのである。抑圧の主たる原因は言いたいことを言わない、あるいは言えずにため込んでしまうコミュニケーション(意思伝達)の不在による人間関係の摩擦・軋轢であり、当然、活発な言葉によるコミュニケーション(意思伝達)の確立によって解決できるはずのものである。
親が子どもにコミュニケーション(意思伝達)に必要な言葉と言葉を交わす習慣の訓練を施さないことがそもそもの原因だとしても、学校教育がその種の家庭教育をそのまま引き継ぐだけの同じありさまだから、言い換えるなら、教師対生徒・生徒対生徒が自己の意見を・主張を相互に自由に展開し合い、その是非を判断する力を訓練によって習慣化することで言いたいことを心にため込まい教育を学校教育に取り入れていないことが
、「ある日突然」なのである。
対人関係における思考・感情の抑圧・蓄積は発散すべき言葉を持たないか、持っていたとしてもそれを駆使する習慣のなさによってもたらされる。いわば自己主張を可能とする言葉の獲得と、それを駆使し、相互に衝突させる言葉の闘わせによって
、相互の妥協点を見い出し、自己の立場を確保していく訓練の不在が「突然『むかつき』」の「爆発」に至る感情・思考のマグマを生み出すのである。
言い換えるなら、子どもたちが「変」なのは、大人が要求する子どものありようへの否応もなしの刷込みとそれへの逆らい・反発の二律背反による自己立脚点の定まらなさと
、定めるための言葉の構築への、あるいは言葉の発散への飢渇が招いているものだろう
。
言葉を駆使して、かくありたい自己の立場を明らかにしたいのに、日本の学校教育が言葉を育む訓練も、言葉を自由に発する習慣も伝統的に不在とさせたままなため
、使うべき言葉を持たない焦慮と自由に駆使できる言葉への渇望が抑えつけられている情況が「変」という混乱を生じせしめているのである。
校内暴力時代の生徒の反抗は、些末なことにまで規制する厳しい校則と、成績で生徒の価値を計る学校の管理への反発が教師に向かったものだったが、現在の生徒の「荒れ」も校則による管理は弱まったとしても、成績・学歴を支配的価値観に位置づけて、他の価値観・可能性を排除する生徒への管理に対する反発であり、行為者の一般化、あるいは反発形態に違いがあるのみで、本質的には同じものである。行為者の一般化は、何度でも指摘しているが、権利意識の広まりと情報の浸透化に無関係ではないだろう。
教師の荒れる生徒に対する感想は、それを抑えることのできない責任を理解できない存在とすることで、生徒に転嫁するものであろう。「宇宙人のよう」「アメーバみたい」と言うが、親・教師、いわば世の大人と同時代に生きている人間であり、今の時代の気分・今の時代の性格を受継いでいないわけはないのである。
プロ教師は家庭のしつけを問題にするが、子どもの出発点は家庭ではなく、学校とすべきなのかもしれない。学校が言葉の闘わせ教育による相互の自己主張を通して、自
他を知る(自他を理解する)訓練を施さない限り、生徒が大人となって親の立場に立ったとき、自分の子どもに対する家庭のしつけとして、同じ教育を再生産することはないだろうからである。
いわば学校社会における言葉の闘わせ教育の不在によって、生徒は言葉を持たないまま社会に出て行き、言葉を持たないままに子の親となっていくのである。そしてそれを可能にしているのは日本人の行動様式となっている比較上位権威者に対しては自己意志の抑圧・抹殺による無定見・無批判の同調・従属の、比較下位権威者に対しては批判や反対を許さない一方的・一律的支配と強制の、いずれも言葉の闘わせを必要としない集団主義・権威主義の人間関係構造なのである。
今回はここまで
次回は、中学一年生の男子生徒が女教師を
ナイフで刺し殺した、いわゆる黒磯事件に
対するプロ教師の認識批判。5月中旬アップロード予定。
ますます面白くなるよ。