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                      2003.8.3.(日曜日) アップロード


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A.名宰相村山富市の銀幕デビュー
B.土井党首2題
C.辻元清美は政治逮捕なのか
D.日本人は優秀なのか――家族主義から競争主義への転換
E.記者会見におけるジャーナリストの役目
F.有事法案――危機管理は有効に機能するのか
G.戦争百態
  
(メーリングリストの論争から)


名宰相村山富市の銀幕デビュー

送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : [kokkai2] 村山富市の銀幕デビュー
日時 : 2003年5月27日 4:07

 かつての名宰相村山富市(79)が『8月のかりゆし』なる映画で銀幕デビューを果たそうだ。

 「『かりゆし』は沖縄方言で幸せ、めでたいの意味」(03.5.23.「朝日」夕刊)だとか。「沖縄を旅する主人公の青年に精霊との出会いなど不思議な体験の謎解きをしてみせる沖縄の老人を演じる。沖縄戦で負傷し、車いす姿で戦死した若者の悲哀を伝える難しい役どころだ」(同)そうだ。

 死者の「悲哀」を伝えるには、人間の喜怒哀楽の感情を鋭く感受する心の働きと、口先だけの言葉を生理的に排する本能的な拒絶反応を併せ持たなければならない。

 かつての名宰相村山富市は阪神大震災発生時、それが相当規模のものであることをテレビの報道で知りながら、情報収集の指示を出すでもなく、緊急に閣議を開催することもせず、兵庫県知事の地震発生後4時間してからの自衛隊派遣要請の怠慢・モタツキを補って、一国の総理大臣として国民の生命・財産の安全を預かる立場上の役割を全うすべき必要事項への想像力を駆使することもせず、(国民の生命・財産の安全を預かっているんだという意識すらなかったのだろう)、そのことによって生じた救助活動の決定的な遅滞によってイタズラに死者の数を増やしていった間接的殺人の前科を持つ。口先だけの言葉で政治家を成り立たせてきた人間だからこそ可能となった前科なのは間違いない。

 村山富市は後で、「何分初めてのことだったので」と、人間の生死に関わる自らの感受性(いのちへの想い)と自己の役割に関する想像性の欠如を棚に上げて、経験の有無にすり替えた弁解をしていることがその証明となる。

 倒壊家屋の下敷きとなり、あるいは下敷き状態で生きたまま火災に呑み込まれ、逃れる術もなく苦痛と呻吟のうちに今まさに刻々と死を迎えていってるに違いない地震被災者の怒りと絶望を含めた悲哀を鋭く感受して、果たすべき役割を適確に判断し、俊敏に指示・行動することを現実の世界では果たせ得なかった人間が、非現実の世界で、「沖縄戦で負傷し、車いす姿で戦死した若者の悲哀を伝える」虚構の役割を演じて、話題を集め、注目される。それ相応の収入も得る。

 いやいや、一番の素晴らしさは、映画の役割そのものの好人物・好々爺と受止められ、自身もそう思い込んで、期待を裏切らない人間を演技し、なおさらの評価を獲得する。

 皮肉なことだが、そのような欺瞞や矛盾が人間世界を成り立たせている優れた原理の一つともなっている。かつての名宰相村山富市に映画出演を依頼した映画監督も、依頼したことによって、その種の原理を支える同罪者の一人となった。そのことの気づかずに記事を書いた新聞記者も同じである。何とも「かりゆし」な(幸せ、めでたい)ことか。

 同じ記事の末尾に、「首相在任中の95年、沖縄で米兵による少女暴行事件が起きている」とあるが、映画が平和・いのちをテーマとしたものであるなら、なおさらのこと、かつての名宰相村山富市にはそのようなテーマの証言者とはなり得ない。村山富市にとっては、「少女暴行事件」と「首相在任中」は単なる時期の一致以上の意味は残さなかったはずである。


土井党首2題

送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : [kokkai2] 土井党首2題
日時 : 2003年7月26日 21:04

1.滑稽なパラドックス

 政策秘書給与詐取の疑いで辻元清美前衆院議員と
土井たか子社民党党首五島昌子元政策秘書らが逮捕された。五島昌子元政策秘書は土井たか子氏が1954年に初当選を果たして以来、長年にわたって秘書を務めてきた側近中の側近で、党首に代って陳情まで受ける立場にいたという。いわば、土井氏は側近である五島昌子政策秘書に彼女が辞任するまで、党首の権威・威光を部分的に体現させ、分身を演じるのを容認してきた生半可ではない経緯と深い相互関係にあったのである。その人間が、勤務実体を伴わない名義だけの政策秘書を形式的に雇って、その給与を他の政治活動費に流用すべく「指南」できた行為も、党首とその政策秘書との相互関係性がモノをいったからこそ可能となった行為であろう。いわば、党首が直接できない世話を、党首に代って世話をする汚れ役(=反法律的行為)を演じたとも言える。そして、その誤魔化しに土井チルドレンといわれる、社民党期待の、政治悪追及の星である辻元清美は乗った。

 この偽善・マヤカシは「容疑事実については知らなかったのが現実だ」(土井党首の弁明)では済まされない、社民党という政党に関しても、辻元清美という政治家自身に関しても、滑稽なパラドックスとしか言いようがない。

 もしも土井党首の弁明が許されるなら、不正行為を犯した自民党の悪徳政治家の、「秘書がやったこと」という弁明も許されることになる。それを許すまいという姿勢できた経緯を持ちながら、同じ穴のムジナへと豹変したというわけである。

 政権党に属する政治家の不正・矛盾・政策の過ち等を監視・追及し、その責任を取らせるべき立場にいる野党の、しかも党首たる人間が、本来なら模範となる責任の取り方を率先垂範してつくり出して、前例とすべき境遇にいながら、そうはせずに、自党の不正に関わる滑稽なパラドックスに目をつぶって、いわば責任回避して、「党の信頼回復に力を尽くすことこそ天命と心得て、しっかりと努力していきたい」とした時点で、政権党の不正政治追及の資格まで失ったと言える。失ってまで、党首の地位にしがみつくべきか否か、それが問題である。

2.薄汚い自己欺瞞

 政策秘書給与詐取の逮捕問題で周辺からも辞任という形で責任を取るべきとの声が上がると、土井党首は、
「今回、逮捕という事態となって、率直に申し上げれば辞めようと思ったことも事実です。戦後、平和憲法のもとでいかなる戦争にも参加をせず、一人の犠牲者も出さなかった我が国のありようが根底から覆されようとしている現在、泥まみれになっても私は社民党を守るためにしっかりがんばりたいと思います」と、改めて辞任を責任の取り方としないことを表明した。

 本当に日本は、
「戦後、平和憲法のもとでいかなる戦争にも参加」しなかったのだろうか。日本の戦後の経済発展・世界第2位の経済大国化は、1945年8月15日がスタートラインではなく、実質的には1950年の朝鮮戦争がスタートラインであり、原点だった。戦闘には直接的には参加しなかったとしても、日本は米軍の発進・出撃基地、兵站基地、補修基地として、米軍の戦闘・戦争を維持し、遂行に協力・加担した。このように朝鮮戦争に深く関わって、特殊な役割を担った立場にいながら、これを間接的な戦争参加と言わずに、何と言えばいいだろうか。

 それだけではない。特需という形で、生半可ではない莫大な利益を獲得して、その棚からボタモチのボロ儲けが日本の戦後復興の資金的礎となったのは歴史的事実であり、国民の多くがその恩恵に浴した。朝鮮特需なくして、日本の戦後復興なしと言えるだろう。すべては間接的な戦争参加がもたらした甘苦い果実なのである。

 日本はベトナム戦争においても、同じ役割を担い、朝鮮戦争時と同じく、特需の恩恵を再度受けている。湾岸戦争では、やはり直接的には戦闘に参加しなかったものの、総額130億ドルもの戦費を拠出して、米国を主体とした多国籍軍の戦闘・戦争を資金面から支え、遂行に協力・加担した。これなどは、最も濃厚な間接的戦闘参加・戦争参加と言えないだろうか。

 湾岸戦争が朝鮮戦争やベトナム戦争と異なる点は、特需の恩恵に浴せなかったことであろう。もし浴していたなら、日本の、いわゆる
「失われた10年」は既に過去のものとなっていただろう。

 そもそも日本国憲法が
「平和憲法」であるためには、戦争放棄の前提たる「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」を絶対条件としなければならない。自民党と連立を組んだ旧社会党の村山首相は自民党との連立を維持するために自衛隊合憲論を打ち出し、社会党は、党大会で多数決で憲法解釈の変更を追認した経緯を持つ。当時土井たか子は党籍を離れて無所属に属していたものの、形式に過ぎず、細川護熙内閣時代から引き続いて村山内閣時にも連立与党所属議員として、衆議院議長職にあり、余程居心地がよかったのか、抗議して議長職を辞任するでもなく、自己の主義・主張に反する自衛隊合憲の流れを議長席から見守ってきたのであり、その時点で、既に「平和憲法」を口にする資格を失ったはずである。失ったにも関わらず、「平和憲法」を振りまわすのは、それを錦の御旗としなければ、あるいは、それをウリとしなければ、存在理由を自ら放棄することになるからだろう。土井たか子の政治生命を維持する道具としての利用物に過ぎない「平和憲法」だとということである。

 確かに政治の世界は(如何なる世界も同じだが)、綺麗事だけでは成り立たない。だからと言って、綺麗事を演じるのは、まさしく確信犯である。裏に自己欺瞞と自己矛盾の醜態を隠しながらの確信的な綺麗事の演出は、国民に対する醜悪な欺き行為そのものである。もっとも、欺かれる国民が悪いと言ってしまえば、それ以上言うことはなくなる。

 欺瞞と矛盾は土井党首だけではない。同じ党の中川智子議員の辻元清美前衆院議員の逮捕に対する、「言葉では言い表せない。それ程、ひどいことをしたかなと思います」という悔しさを滲ませた発言も、土井党首同様に欺瞞と矛盾に満ちたものはない。不正追及を役目とするという綺麗事の裏で演じた詐取、その金額が中・低所得国民の年収及び生活の質と比較して、どれ程の開きがあるか、そういったことを一度でも思い致したことがあるのだろうか疑わしくなる、国民意識から遊離した、身びいきのみに支配されているとは本人は何も気づいていない、政治家にあるまじき、いや、政治家だからこそ可能と言えるノー天気さは、この党首にして、この党員ありの一卵性双生児ぶりである。

 最後に一言。 
「泥まみれになっても」は、「死にもの狂いとなって」と同様に、何か不正や失態を演じておきながら、あるいは関与しておきながら、あるいは約束した実行を果たせない無能をさらしておきながら、そうあるべきふさわしい責任を取らずに地位にしがみつこうとする人間の自己正当化の常套句の一つとなっているものである。土井たか子は本人は気づいてはいないものの、同じプロセスを必要としたからこそ口をついて出た 「泥まみれになっても」だったのだろう。


辻元清美は政治逮捕なのか

送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : 辻元清美は政治逮捕なのか
日時 : 2003年7月27日 17:32


 今回の辻元清美逮捕に関して、社民党の土井党首は、「突然の逮捕に疑問を禁じ得ない」と、逮捕の不当性を暗に訴えている。同党の福島瑞穂幹事長はよりはっきりと、「総選挙に立候補するのがおかしいということでの逮捕なら選挙妨害。問題となる余地がある」と批判。さらに、逮捕された4人の弁護人は、「今回の逮捕は必要性を欠くものであり、憲法・刑事訴訟法の立場に反する」との声明を出している。

 関係者が言うように、逮捕は果たして政治的意図を反映した性格のものなのだろうか。その根拠の一つに、疑惑発覚から逮捕までの1年以上という時間的経過を挙げている。事実そのとおりなのだろうか。

 政策秘書給与の詐取といえば、民主党の山本譲司元衆院議員のケースが思い出される。彼は逮捕されている。辻元清美元衆院議員に関しては、例え逃亡や証拠隠滅の恐れがないと見なされていたとしても、逮捕を例外とする何か特別な理由があったとしたら、山本譲司元衆院議員の事例と比較して、不公平となる。

 いや、政策秘書給与の詐取が、名義貸しに複数(2人)の政策秘書が関わった上、土井党首に長年仕えた政策秘書との共謀となれば、真相解明を妨げる口裏合わせを不可能にするために、早期の逮捕こそ必要だったのではないだろうか。なぜ1年以上も逮捕せずにいたのだろう。

 いわば、見方・立場によっては、なぜ1年以上も経ってから逮捕されたのだろうという疑問は、逆に、なぜ1年以上も逮捕されずに済んだのだろうという疑問を可能とする。政治家にしたらハシタ金だったとしても、庶民感覚からしたら、大金も大金、1800万という、しかも国のカネを騙し取ったのである。

 山本譲司元衆院議員は懲役1年6カ月の実刑を受けている。金額差にしたら、山本譲司元衆院議員の方が約700万多く騙し取っているから、単純に比較計算したら、1年1ヶ月の実刑を受けて当然となるが、党首の牢名主的存在である政策秘書が教唆して成立させた詐欺の経緯と性格からすると、山本譲司元衆院議員以上に悪質と受取られても仕方がないだろう。そればかりではない。疑惑発覚時、辻元氏はテレビに出演して、これは一人の政策秘書の寄付で他の秘書の給与を賄うワークシェアリングだとか、笑顔で自己正当化の真っ赤なウソをもっともらしげについた悪質さは、山本譲司元衆院議員の比ではないだろう。山本譲司元衆院議員と同等、あるいはそれ以上の実刑を受ける可能性もある。

 となれば、逮捕が福島瑞穂幹事長の言うように「選挙妨害」を意図したものなら、早期の逮捕だったとしても、目的を果たせたろう。それとも市民団体とか革新を名乗る集団は、例え不正・ウソを働いた人間に対しても、一旦身贔屓した自己行為をあくまでも正当化する態度に出るのだろうか。だとしたら、不正を働いた保守政治家を支持し、国会に送り続ける有権者と何ら変らない。

 聞ける立場にある人間に、なぜ1年以上も経ってから逮捕したのか、なぜ1年以上も逮捕せずに置いたのか、双方の事情を同時に訊ねてもらいたいものである。例え正直に答えなかったとしても。

03.8.9の「朝日」朝刊は、辻元前議員の起訴に対する作家の落合恵子のコメントを載せている。

「辻元さんたちだけがなぜ?という思いが一般的な市民感覚だと思う。『政治的逮捕』であり、『政治的起訴』に思えてならない。イラク特措法など、不穏な法律が次々と成立していく時代に、市民派であり、女性であり、同時に護憲である『出る杭』は打たれなければならないのだろうか。ますます政治不信になってしまう。厳しく『政治』をチェックしていかなければならない時勢だと思う」

 辻元清美、福島瑞穂といった社民党の女性議員は、「市民派」・「女性」・「護憲」をウリに選挙戦を戦い、当選を果たし、議員活動を展開してきたはずである。いわば、それらを強み、あるいは長所として利用した一面があった。それを起訴・逮捕となった途端に一転して、「市民派」・「女性」・「護憲」を世間一般に受入れやすいる弱者の価値観――か弱い、虐げられる存在に置き換え、逮捕・起訴をそういった差別の構造・格下の構造が生み出した政治的陰謀だとする狡猾なすり替えをやらかして、自らは気づかない。自分勝手が過ぎないのではないだろうか。

 そもそも「護憲」とは、9条を固守することだけではないはずである。第3章の「国民の権利及び義務」における第12条の、【自由・権利の保持義務、乱用の禁止、利用の責任】には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又は、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」と規程している。

 例え、「今回の逮捕は必要性を欠き、総選挙を前にした政治的な思惑によるもの」と指摘。さらに「妻子など家族を秘書に登録し、ほとんど勤務実態がないのに秘書給与を国から得ている国会議員が多数存在」したとしても(逮捕を「不当だ」とする知識人・文化人の声明/03.7.23「朝日」)、それでもって、辻元清美以下の不正・犯罪が許されるというものではない。許されるとしたら、スピード違反で捕まった人間が、スピード違反しているのは俺だけではないと抗議すれば、同じく許されることになる。給与から天引きされる人間を除いて、正直にマジメに税金を払っている者など、まずいないだろう。それを根拠に、脱税しているのは俺だけではないと抗議したなら、許されることとなる。

 政策秘書給与を騙し取った不正・犯罪を犯したことがすべての始まりであり、すべての出発点なのである。国会で、政治家・官僚の悪・不正の追及を政治的役目の一つとしていながら、併行して、陰で政策秘書給与の詐取という不正・悪を働いていた悪質さには、情状酌量の余地はまったくないと言ってもいいだろう。逮捕・起訴に対して反対声明を出す知識人・文化人の感覚を疑う。それが身内を庇う意識から出たものなら、自民党・警察、大蔵省、その他の省の内部の不正・犯罪に甘い姿勢を批判してきた歴史・経緯を考えるなら、彼らと同等どころか、それ以上に堕落することを意味する。


日本人は優秀なのか――家族主義から競争主義への転換

送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : 日本人は優秀なのか――家族主義から競争主義への転換
日時 : 2003年7月30日 19:26

 日本人は
勤勉だと言われてきた。勿論、現在も勤勉だと言われている。

 では、なぜ、
旧国鉄は長期債務25兆円も抱えて、民営化されなければならなかったのだろうか。専売公社は塩とタバコの独占販売、電電公社は電話事業の独占に守られて一応の経営を維持してはいたが、いずれも親方日の丸を砦とした各種規制が保障していたことで、そのコスト高やサービスの悪さ・非能率は国民にツケとなってまわされていた。

 そういったことは勤勉だったなら回避された欠点だったはずである。
旧ソ連の、計画された製品を計画されたままに生産する、効率化のための創意工夫をしない、時間から時間まで働くだけという労働意識、指示された生産量を型通りに生産するのみで
、品質向上の意識もない、日常化した無断欠勤・職場放棄といった
国家計画経済の非効率を嘲笑った日本人が、実際には、似たような官僚主義・非能率の病に侵されていた。

 
大蔵省過剰接待汚職防衛庁の機種選定収賄や背任事件といった各種不正・犯罪、住宅公団や道路公団の天下り人事の古巣との癒着とその非効率性が大きな原因の一つを成している不採算性がつくり出した不良債権等々は、勤勉さとは正反対の怠惰や手ぬるさの産物であろう。

 なぜ
親方日の丸となると、勤勉ではなくなるのだろうか。いや、、民間大企業にも蔓延した病魔である。末端社員にしても、自分はこの会社に20年もいる、30年もいると、企業の権威と年功序列・終身雇用・定期昇給にあぐらを掻き、ハードな仕事・損な役回りは下請け・派遣社員・期間工・パートに押し付けることで、経営の辻褄を合わせ

てきただけのことである。そのツケの反動が、定期昇給の廃止能率給の導入といった能力主義への転換(=競争原理への傾斜)となって現れたものだろう。

 では、日本人は勤勉であるという通念化した評価は虚構だというのだろうか。しかし、日本人は戦後の貧しさから抜け出そうと必死になって働いてきたのは事実である。そしてぞこそこに豊かになった。給与や地位が上がり、立派な家を構えるようになった人間は汚れる仕事や大変な役目、そして責任までも人任せにし、自分は楽をするようになった。
勤勉さの喪失である。特に責任の回避・責任の所在の不明確さは、新しい物事への挑戦に対する拒絶反応を絶対的なものとし、慣行墨守といった最悪の官僚主義、あるいは事勿れ主義への最短の近道となる。

 となれば、日本人の勤勉さとは民族固有の性格としてある属性ではなく、
境遇や状況を関数とした条件性に動機づけられた表面的な態度に過ぎないことになる。だからこそ、旧ソ連の官僚主義と非能率を笑っておきながら、同じ社会的弊害に陥ることとなったのである。

 
小泉首相は非能率な官僚主義に陥った親方日の丸のは特殊法人における日本道路公団等の民営化、もしくはその他統廃合を行うことで競争原理を植えつけ、能率的活性化を図って、採算性と効率化の回復を狙っているが、自民党内抵抗勢力と官庁の抵抗に遭遇し、改革は遅々として進まない。非能率や不採算を生み出す官僚主義・天下りなどの人事の停滞・膠着に競争原理を注入するのは絶対的必要善だが、改革の手枷足枷となっている自民党や省庁の抵抗勢力たる既得権擁護派の暗躍、いや白昼堂々の跳梁跋扈とその侮れない実力は、小泉首相が特殊法人の民営化や金融改革にのみ競争原理を持込めば、すべてよしとしている誤謬、あるいは片手落ちが招いている結果的状況であって、その誤謬、あるいは片手落ちの是正は、政治の世界にこそ、競争原理を持込んで、既得権や当選回数に応じた序列にアグラを掻くことを許さない状況をつくり出すべきであることを示唆している。

 その唯一の方法は、あるいは日本人が政治に関してもアメリカ追随ではなく、自律的に優秀となるためには、
政権交代のある政治世界をつくり出し、そうすることで政党間及び政治家の間に政策とその実現を競わせる競争意識の植えつけ以外に道はないではないか。

 かつて
小泉首相は、「古い自民党はぶっ潰す」と威勢よいことを言っていたが、「「古い自民党」は依然、頑固な慢性病のように我が物顔にのさばり、小泉改革のどうにもならない障害となっている。「古い自民党はぶっ潰」せないだけを取っても、小泉首相の実行力に疑問符がつく。「古い自民党はぶっ潰す」には、古臭い自民党議員を数多く落選させて、政権交代を実現させ、下手なことはできないぞ、あるいは、国民を侮ったなら、とんでもないしっぺ返しを食らうぞという意識を政治家一人一人に植えつけることだろう。そうなったときこそ、政治家は真に、<襟を正す>人間となり得る。

 いわば、競争原理の導入(=政権交代)によって、勤勉であるよう条件付けてやるしかない。それまでは、<襟を正す>は単に言葉、あるいはポーズで終わるだろう。


記者会見におけるジャーナリストの役目

1.ただ承るだけの日本のマスコミ

 

◆送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
件名 : 万景峰号出航中止の記者会見でも、ただ承るだけの日本のマスコミ
日時 : 2003年7月21日 10:39

 朝鮮総連が記者会見を開いて、万景峰号の日本への出航中止を伝え、麻薬の密輸・不正送金・ミサイル部品の密輸・在日北朝鮮工作員との連絡等に万景峰号を利用しているとの指摘は謂われなき誹謗中傷だと強い調子で非難した。

 
北朝鮮は、拉致の事実が存在していたのに、存在しないと長年国ぐるみで否定し続けてきた。いわば、北朝鮮及び金正日は長年の間、どっぷりと『狼と少年』の少年に身を落としていたのである。日本のマスコミは朝鮮総連の声明をただ承るだけではなく、「北朝鮮は拉致で既に『狼と少年』の少年を演じているのである。万景峰号に関わる不正・疑惑は一切ないと宣言したとしても、言葉どおりに素直には信じることはできない」となぜ反論の一つもできないのだろうか。
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2.「それはニュースの役割ではない」との反論

 上記のメーリングリストに対して、朝鮮総連の声明を声明通りに「鵜呑み」に受止める者はいないだけではなく、「ニュース」はあくまで客観的な事実報道であって、「評論」であってはならないから、「それはニュースの役割ではない」との反論を受けた。「ニュースそのものにまで価値判断が含まれてしまったら客観的ではなくなり、それは『ニュース』とは言えない。イラクの報道官が現実の戦況とかけ離れたコメントをしたのをマスコミはそのまま伝えていたが、それを評論家が否定するまでもなく、誰も信じなかった。この総連の声明も全く同じだと思う」といった趣旨の内容である。

 私の答は次のとおりである。

◆送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : Re: [kokkai2] それは「ニュース」の役割ではない 
日時 : 2003年6月15日 12:06

 私自身は、<「ニュース」の役割だと><発言し>たつもりはありませんが、そう受取られたとしたら、私の言葉足らずが原因なのでしょう。私は、あくまでも記者会見の場での記者の役割はそうあってもいいのではないかとの主旨で述べたつもりです。

 
<客観的な事実報道>のみで完了させてもいい<「ニュース」>もあれば、それだけでは物足りない<「ニュース」>もあると思います。

 中には、質問を一切受付けないという条件で記者会見を開く場合もありますが、一般的には、開催側の一方的声明・発表で終わるものではなく、記者側からの質問を受ける対の関係を記者会見は原則的な形式としているはずです。その「質問」たるや、発表された内容をうわまわるより多くの<客観的な事実>を知るため、あるいは発表された内容が<客観的な事実>か否かの真偽を確かめたりする手段であり、と同時に、ニュースの受け手に発表内容をうわまわる<客観的な事実>を提供したり、真偽の網を通した<客観的な事実>を知らしめるための手段でもあるはずです。例え、<常識で考えてあの声明が鵜呑みに信じられる訳>のものではなくても、ただ単に、相手が述べた言葉を述べたとおりに承って、いわば、誰が・いつ・何をしたか(発表したか)という、相手側の行為をなぞったに過ぎない種類の<客観的事実>を伝えるだけでは、子どもの使いに似て、芸がなく、記者会見という形式は価値を失います。ファックスでも送ってもらえば、手間も時間も省くことのできる問題となります。

 発明・発見とか、婚約発表の記者会見とかは事実の公表のみでしょうが、その場合でも、出席した記者は色々と質問を浴びせて、より多くのことを聞き出そうとしますが、
自己正当化を目的とした種類の記者会見というのもあります。不祥事を起こした会社の謝罪会見も同種のものだと思います。本社の指示ではない、支社が独断でしたことだとか、会社ぐるみと認めたとしても、利益追求に走り過ぎてしまったもので、心底からの邪心がなさしめた不祥事ではない、あるいは一般的に行っていることではないとすることで、比較相対的に自己正当化を図る、あるいは、私の不徳の致すところでと社長が頭を下げることで、会社全体としての自己正当化は訴えるといった仕組みを持たせる構造の記者会見です。

 今回の
朝鮮総連の場合も、同じ仕組みの記者会見だと思います。この手の記者会見は、内容が事実と異なると明らかに分かる声明・発表だったとしても、それを言葉どおりに受取るだけでは、その時点で相手側に自己正当化を果たさせることになります。新聞上かテレビ番組内で批判・否定したとしても、あるいは最大公約数の読者・視聴者が批判・否定に同調したとしても、朝鮮総連・北朝鮮は、記者会見場で自己正当を果たした声明・発表どおりの姿勢を取り続けることでしょう。「北朝鮮は拉致で既に『狼と少年』の少年を演じているのである。万景峰号に関わる不正・疑惑は一切ないと宣言したとしても、言葉どおりに素直には信じることはできない」と一言でも返していたなら、朝鮮総連も北朝鮮も、全面的な自己正当化を演じることは難しくなると思います。

 我々に伝わることは勿論重要ですが、それは時間を置いたもので、張本人に時間を置かずにその場で直接伝わることの方がより重要だと思います。

 
<イラクの報道官が現実の戦況とかけ離れたコメントをしたのをマスコミはそのまま伝えていました。それを評論家が否定するまでもなく、誰も信じなかった>と言うことですが、イラク国民の殆どは信じて(アメリカのイラク攻撃反対派の中にも、攻撃が失敗することを願うあまりに信じた人間もいたこかもしれません)、民兵や自爆テロ要員として志願したり、イラク軍を支持・鼓舞したりして、死傷者をいたずらに増やした側面もあったはずです。つまり、我々が信じなければいいという問題では済まされないということです。

 
大本営発表を鵜呑みにして、あるいは中には、偽りの戦果だと気づいていた者もいたでしょうが、大本営というよりも、大日本帝国軍隊の自己正当化に向けて加担したばかりか、それを大袈裟に水増し宣伝して国民を鼓舞・叱咤する戦意高揚報道で、結果的に勝ち目のない戦争から目をそらさせて戦争を長引かせる種を撒き、死傷者をいたずらに増やした事実は、戦果自体を発表のままに揺るぎない<客観的な事実>としただけではなく、発表経緯をそっくり<客観的な事実>としてなぞり、報道した悪しき例の一つですが、そこに無条件に<客観的な事実>とする前提意志(=無条件性)が働いていたとしたら、逆方向の力学を持たせた意志――その場で問い質したり、追及したりして、<客観的な事実>か否かを確認する手続きをそれが不発に終わったとしても、働かせるべきであり、それを慣習とすべきだと思いますが。


有事法案――危機管理は有効に機能するのか

 03.5.15.政府提出の
有事法制関連3法案(武力攻撃事態法案・自衛隊法改正案・安全保障会議設置法改正案)が衆院本会議において与党3党と民主・自由両党の賛成多数で可決された。武力攻撃事態法案は、外国から武力攻撃を受ける恐れが生じた場合と、その恐れが現実のものとなった場合(国家的緊急事態)に備えた基本的対処方法が内容となっている。

 武力攻撃が予測される事態に対してと武力攻撃そのものの事態に対して、国はどう対処するよう定めているのか、5月16日の
「朝日新聞」朝刊の関連記事から拾ってみる。

@ある国が日本に対して武力攻撃の可能性が生じた場合、首相は安全保障会議を緊急に
 招集、武力攻撃事態対処法の適用検討に入る。「武力攻撃予測事態」と認定した場合
 、首相は「武力攻撃事態対処法」に従って、「対処基本方針」の策定を命じる。安全
 保障会議の答申を受けて、首相は「対処基本方針」を閣議決定、国会に承認を求める
 。

A防衛庁長官は防衛出動待機命令を出し、予備自衛官を招集。敵国部隊の展開予想地域
 に陣地を事前に構築するために(防衛出動待機での陣地構築は、有事法制で新たに認
 められた)、「防御施設構築措置命令」を出すことを決定。首相からの承認を得る。

B陣地構築の土地収用は知事の「公用令書」のみで可能。地形を調べるための立入り検
 査を拒否したり、妨害したりすると、20万円以下の罰金。連絡が付かない土地所有
者には事後通知。自衛隊は陣地構築に着手、田畑を掘り返したり、これまで認められて
いなかった立ち木の移転・処分も可能となる。

C事態は更に切迫して、攻撃そのものの恐れが生じたため、「武力攻撃予測事態」から
 、政府は「武力攻撃事態」と認定。その場合の「対処基本方針」を策定。首相は自衛
 隊に出動命令を出す。国会承認は事後承認で可能。

D一部の民家を拠点とし利用する必要性が生じた場合、防衛庁長官は県に土地・家屋の
 使用と形状変更などを要請、承認を得る。避難して不在の家主には事後通知で可。但
し、家屋の形状変更は「原状回復が可能な程度
 にとどまり、取り壊すことができない」とされている。

E防衛庁長官は攻撃を受ける可能性の低い主要都市を医療や物資輸送の拠点とすること
 を決めて、知事に、病院の使用の他、衣料品の保管命令、医師や看護師、トラック業
 者、建設会社に対する業務従事命令(拒否しても罰則規程はない)を出すよう要請。
 物資保管命令に違反して、物資を搬出、隠匿すると、6ヶ月以下の懲役、または30
 万円以下の罰金。

F有事終了後の自衛隊が使用した土地や家屋への補償は、国庫負担で都道府県が行う。

G物資の収用には実費を弁償し、業務命令を受けた民間人が死亡・負傷した際も、補償
 される。

H戦闘行為の中で、家屋が壊されたりした場合は、補償の対象にならない。

以上。

 
「武力攻撃事態を含め、国家の緊急事態に対処し得るよう必要な備え」だと政府は事細かに決めてはいるものの、外国からの武力攻撃を受ける恐れが生じてから、実際に攻撃を受けて、それぞれに即応すべく展開させる政府及び日本の軍隊である自衛隊の上記対応シーンからは、いくら専守防衛を掲げているとは言え、どこか近代化を果たしていない国と軍隊の、その場主義的な活動を思わせる。洩れがないようにとの意図からだろうが、事細かに決めれば決めるほど、IT時代に適う機動性・創造性から遠ざかるだけの前時代性を印象づけられるのはなぜなのだろうか。 

 瑣末的とさえ思える事前の事細かな取決めは、そこに
核となる理念、あるいは哲学の不在を無意識に補う、その反動としてあるものだろう。

 敵の攻撃は社会混乱や経済混乱が最適化可能なダムや発電所、原子炉・道路・鉄道といった社会基盤がメインではあるが、それをスムーズに遂行させるためには、「土地」を「収用」し「構築」した「陣地」や、「使用と形状変更」が認められ「拠点」とした「民家」を含めた相手国部隊が展開した場所をも重要な攻撃目標に加える以上、攻撃を引き付けることによって生じる人的・物的両面にわたる破壊・損傷の高度な可能性を考慮に入れずに、いわば、「土地」を「収用」し、「民家」を「拠点」化することによって攻撃と破壊を受ける危険度が高まる状況をつくり出しておきながら、「戦闘行為の中で、家屋が壊されたりした場合は、補償の対象にならない」とか、「家屋の形状変更」は「原状回復が可能な程度にとどまり、取り壊すことができない」といった矛盾を平気で犯している。

 逆説するなら、事細かな取決めは理念・哲学の不在が誘発した瑣末的結果性であり、滑稽な矛盾なのだが、最も始末が悪いのは、そういった不在・矛盾に気づいてさえいないことことだろう。

 
「朝日」の同記事が紹介している陸幕幹部の次の談話が、理念・哲学の不在を端的、且つ象徴的に証明している。「我々の任務は国家を守ることだ。それが国民の生命や安全につながる。自衛隊は国民を守るためにあると考えるのは間違っている」

 
日本国憲法が定める<主権在民>の思想がここには欠けている。あるのは、国民を国家に従属するものと把える戦前以来の伝統的な国家観――国家優先の権威主義でしかない。極端なことを言えば、「国家」を守るために追いつめられた場合、自国兵士を特攻隊として利用する、既に戦前に犯している罪を再度犯す衝動の契機を内包した談話であり、「国家」を守るために学校や病院の近くに軍隊を配置することで国民を防御の盾と利用するフセインばりの戦術も選択可能とする考え方である。

 政治家・官僚・一部大企業幹部が添い寝をすることで国家を成り立たせるべく意志していることが理念・哲学を欠落させていることにつながっている。それが当の陸幕幹部1人だけの問題ではないことから国の法案として完成した有事法制関連3法案なのである。

 日本国憲法が
<主権在民>を保障している以上、有事法制の核となる理念・哲学は、<自国軍兵士を含めた国民の生命・財産の安全を守ることを第一義の信念とし、そのためには政府・自衛隊、及び地方公共団体は国民と共に可能な限りのあらゆる手段を尽くすことを義務とする>としなければあならない。

 戦闘行為の目的を<自国軍兵士を含めた国民の生命・財産の安全を守ることを第一義の信念>とした場合、その信念を阻害されることなく遂行するための戦闘と戦闘を包括的に継続・成立させる陣地構築や医療施設の確保、あるいは物資輸送手段の確立といった必要事態を阻害する立ち木とか家屋といった障害物、使用や動員の拒否といった障害要因は、その信念を代表して体現し、遂行する、それぞれの立場にある指揮官の個人的判断によって排除され得るのは当然の成り行きとして設定されなければならないルールであろう。具体的には武力攻撃予測事態時には、指揮官が防衛庁官を通さずに県に承認を求め、武力攻撃事態時には、指揮官が県の承認を求めずに自らの裁量で行うものとする。

 そのような個人的判断の優先が、<国民の生命・財産の安全を守る>危機管理において、従来的には欠けていた相手任せ・指示任せではない主体的行動の育みを督促するだけではなく、そのことが初動対応を含めた危機管理における機能性と機動性の獲得に発展可能の要因となっていく。指揮官の個人的判断によって生じた民間の経済的損失は武力攻撃事態の収拾後、速やかに補償されるのは当然の措置であるが、行わなかった判断をも含めて、個人的判断そのものが真に信念に添った必要不可欠事項であったか否かの適法性・妥当性の審査も併行して行われなければならない。地位に応じた責任遂行の有無と是非を問うためである。

 しかしである。1995.1.17発生の阪神大震災、1971.11,31のリベリア船籍タンカー・ジュリアナの座礁事故による原油流出と26年後の同じ繰返しである1997.1.2のソ連タンカー・ナホトカの座礁事故による重油流出、1999.9.30.のジェー・シー・オー(JCO)東海事業所で起きた臨界事故による東海村放射能漏れ事故、2001.2.9の米原子力潜水艦に衝突され沈没した愛媛県立宇和島水産高校実習船えひめ丸事件、2002.5の北朝鮮脱北者の瀋陽日本総領事館駆込み事件、最近では、2003.5初旬の、日本ツアーに来た台湾人医師のSARS感染騒動等々、及びその他数多くの事件・事故で露呈した、お馴染みの十八番とさえなっている初動対応の遅滞に見る危機管理対応の未熟さ、あるいは危機管理対応の欠如・不在は、<国民の生命・財産を守る>ことを決定的な大前提としていないことの現われであろう。特に1971.11,31のリベリア船籍タンカー・ジュリアナの座礁事故による原油流出の対応遅れから26年も置いたソ連タンカー・ナホトカの座礁事故による重油流出でも見せた同じことの繰返しは、初動対応を含めた危機管理に関して、日本人の意識と行動が何ら成長していないこと――いわば<国民の生命・財産を守る>ことを理念・哲学とする意識が日本人に真に根づいていないことを証明している。

 阪神大震災での危機管理に大失態を演じた村山富市名宰相は、「何分初めてのことなので」と弁解の名セリフを吐いているが、この弁解を裏返すなら、マニュアルや前例が不在の場合は臨機応変な想像的対応が不可能であることを証拠立てている。しかし、座礁や転覆を引起こしたタンカーや貨物船からの重油流出といった繰返される事故の場合においても危機管理が満足に機能しない現実は、マニュアル・前例が存在したとしても、それを生かしきれない欠陥が存在することを否応もなしに示唆しているが、やはり危機管理における核となる理念・哲学の不在が原因を成しているのではないだろうか。有事法制関連3法案なる法律を通したものの、法律どおりに危機管理は有効に働くのだろうか。

 これまでの危機管理状況を考慮すると、単に事細かに取り決めるだけでは、有事関連においても、あるいはその他別個の危機管理においても、適切、且つ臨機応変な対応は期待不可能の虞がある。日本人は前以て用意されている答を見つけ出す暗記教育に慣らされ、それがDNA化しているために、例えマニュアルを用意していたとしても、あるいは教訓となる前例が存在していたとしても、事態が発生する期日が前以て把握でき、発生状態や規模がそっくり同じではなかったなら、それが少しの違いであっても、暗記教育と違って、前以て用意されていない答を見い出さなければならい不得手を要求されることとなり、危機管理を適切に機能させることが困難となる。

 もしも実地には見たこいともない、地図上で示されただけの複数の敵国陣地のいずれか一つを自分の判断と方法で攻め込めと指示されたなら、そのような答を自らつくり出さなければならない攻撃に、殆どの兵士はパニック状態に陥るのではないだろうか。逆に、所在位置を示した上で指名した敵国艦船に体当たり攻撃せよと特攻を指示した場合は、その指示自体が前以て用意された目標であると同時に答となり、戦前と同様に与えられた役目をよりよく果たすに違いない。「無から有を生み出す能力には欠けるが、目標を与えると力を発揮する」という日本人性がその証明となる。日本人の行動の基本は、教育が決定するという証明でもあろう。

 日本人が危機管理に成長を見ようが、見まいが、あるいは立ち木を何本伐り倒そうと、国民の人権擁護の試金石として、自衛隊兵士の良心的兵役拒否を認めるべきだろう。但し、単に認めたり、兵役の代りに労働を課すといったことをするのではなく、自衛隊からの退職を義務づけて、再就職の仲介を行い、同時に、それまでの自己の生活、あるいは人生の資金を賄ってきた自衛隊給与の一部の返還を再就職先の給与から、極端な負担にならない範囲のローン方式で返済させる代償を課すべきである。

                    2003.6.1.


戦争百態

 以下は、朝日新聞の社説「『大義』をごまかすな イラク戦争」を批判した一文に始まって、批判に対する批判の形である女性と交換し合ったメール類です。許可を得て、転載しました。

 何を事実と取るか――事実認識の差が如何ともし難い姿で両者間に如実に現れています。どちらの事実を「事実」と取るか、人それぞれの判断に任せるしかないでしょう。

 

◆送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : [kokkai2] 「大義」のあげつらいが続いている
日時 : 2003年6月15日 5:17

 手代木ヒロユキです。

 03.6.11の朝日新聞は「『大義』をごまかすな イラク戦争」と題した社説で、「イラク戦争を正当化するために、大量破壊兵器(WMD)の脅威を故意に誇張したのではないのか。米英両国でそれぞれの政権に対する批判が噴き出している。/同じ脅威を理由に戦争を支持した小泉政権にとっても、ひとごとではない。」という出だしと、「バグダッド陥落から2ヶ月が過ぎ、核も化学兵器も、あるいはそれらの保有を示す証拠も見つかっていない。」という経過材料でもって、「脅威」が「演出」されたもの――いわばデッチ上げたものではないかと、限りなくクロに近いと確信した容疑を投げかけている。

 イラクは化学兵器を使用した前科を持つ。その技術を所有しているということである。核兵器製造の技術は、現在ではそれほど難しい種類に入らない。サダム・フセインは独裁者の所以たる特権の一つとして、国家財政の私物化を可能としている。世界第2位の産油国イラクの資金をもってすれば、意志さえあれば、現在所有していなくても、必要とする時と場合に合わせて所有することは可能であろう。

 いわば、大量破壊兵器及びその「保有を示す証拠」が「見つかっていない」としても、あるいは社説自身が説明しているように、「『WMDはかなり以前廃棄されていた可能性が高い』」と「国連の査察責任者・ブリスク氏」が「疑問を投げかけ」ているとおりだったとしても、「脅威」はなくなったわけではない。独裁者の存在自体が「脅威」の源だからである。殆どの場合、世界の安全を不正当に脅かす大量破壊兵器状況はあくまで<子>に当たる存在であって、生みの親は独裁者であることを忘れてはならない。

 絶対的権力を掌握した独裁者は、その絶対性ゆえに、あるいはその絶対性を守ろうとするゆえに往々にして恣意的意志の所有者と化す。ヒトラーが気まぐれであったことは、つとに有名である。米英が大量破壊兵器の排除を「大義」としたこと自体が間違っていたのである。根を断つ意味で、独裁者の排除を「大義」とすべきだったろう。

 しかし、人間世界を動かす決定要因は「大義」がすべてではない。

 サダム・フセインが自己正当化のために、いわばアメリカの攻撃を非正当化させるために、自己の絶対権力をもってして、完璧な証拠隠滅を図った可能性も考えられる。関係者が非保有で示し合わせ、例えイラクがアメリカに占領されても、それを破った者は、家族だけではなく、血のつながった者すべてを、例え国外に逃亡しようとも、大統領に忠実な生き残った者の手によって残酷な方法で死を代償とする復讐を受けるであろうと脅迫を受けていたとしたら、サダム・フセインの政敵に対する残酷な抹殺を知らぬ者はいないだろうから、脅迫は有効な口止めの手段となり得る。はっきりとした証拠書類も、証言も存在しないまま、「『WMDはかなり以前廃棄されていた可能性が高い』」と予想の範囲内でしか裏付けることができないのは、上記のようなイキサツがあったからではないかと推測できないことはない。

 大量破壊兵器及びその「保有を示す証拠」が現在「見つかっていない」ことをもって、イラク攻撃を不当だとしている社説の文脈から見る限り、社説子はアメリカの攻撃が安保理決議の承認を得た性格の場合であっても、大量破壊兵器も「保有を示す証拠」も見つからなければ、アメリカに対しても勿論、決議に賛成した国々の判断を非難するだろう。

 では、大量破壊兵器の「脅威」さえなければ、独裁的圧制は許されるというのだろうか。体制批判者に対する不当な懲罰、密告の奨励、思想・言論の統制、自己政治への強制的忠誠、国家財政の私物化、国民福祉の軽視・・・・等々の圧制。

 逆に、独裁者の排除を「大義」としたなら、安保理決議容認を条件に攻撃を許すとするのだろうか。社説は、「確かに、イラクはフセイン政権の圧制から解放された。だが、米英両国でこうした議論が起きていること自体、戦争をするにあたっての『大義』がいかに重いものかを示している。まして脅威が故意に誇張されたとすれば、米国の先制攻撃論に対する国際社会の不安はいや増すだろう。」と主張しているが、社説子自身、「脅威」が大量破壊兵器よりも、独裁者の存在自体だと気づいていない過ちを犯しているだけではなく、「圧制から」の「解放」という事実を述べるのみで、事実に対する価値判断を一切示していないのは卑怯である。それとも国民がどのように苦しもうと、政治体制に関係なく、如何なる戦争にも反対という立場を取るのだろうか。旗色を鮮明にすべきであろう。断わっておくが、よく言われる<平和的解決>なる方策は、独裁体制下の国民の苦しみに目をつぶる一国平和主義を対極に置いた独裁体制の容認=独裁者の延命とならない保証はない。

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◆送信者: "kondo taeko" <
kondot@orion.ocn.ne.jp>
宛先: <
kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : [kokkai2]
<一元論的「独裁=悪の根源論>
日時 : 2003年6月15日 23:52

kondo です。

手代木さんの見解は常に、「独裁=悪の根源」論が前提にあるから
米国のマヤカシ論がみえてこない。それは、それでよいのかもしれ
ませんが、あまりに一元論的ではありませんか。

イラク攻撃の大儀名文は大量破壊兵器の武装解除でした。
フセイン大統領が抵抗した場合、フセイン体制を倒さざるを得ない
こともありうる。と言う見解で日本もイラク攻撃に支持を表明したの
です。

大量破壊兵器が見つからない場合には、イラク攻撃の大儀名文
(原文のまま)
崩れる訳です。米国は大量破壊兵器の武装解除からフセイン体制
の打倒へさらに中東和平へと都合のよい大儀名文を造って、
イラク攻撃を正当化させようと言う訳です。

米国のイラク攻撃の本音は、石油の利権と、中東でのイスラエルの
優位性を保障することです。イラクの石油利権を獲得した米国は
「協力しない国には石油の分け前はないぞ」とばかり、国際社会を
我が物にしているではないですか。そのため、韓国も700名の兵を
出しました。日本もごり押しにでも、自衛隊を派遣せねばならない
のは、石油の分け前が欲しいからです。

小泉首相は、米国のイラク攻撃を支持した手前、大義名分が立たない、
石油が欲しいから自衛隊を派遣しなければならないし、そのためには
新法をつくらねばならないし、国民に矛盾だらけの説明しか出来ない
ではありませんか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
◆送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : Re: [kokkai2] <一元論的「独裁=悪の根源論>
日時 : 2003年6月25日 19:58


 手代木ヒロユキ

 kondoさんへ

 kondoさんと私の見解の相違は、次のことから生じているのではないでしょうか。kondoさんが、「大量破壊兵器の武装解除」を「イラク攻撃の大儀名文」だとした、アメリカや国連がつくり出した常識をそのまま自らの常識としているのに対して、私は、大量破壊兵器は独裁政治における二次的問題であって、独裁者サダム・フセインの打倒をこそ、大義名分とすべきだとの立場をイラク攻撃前から一貫して示してきました。そのことは、以前送信した「『「平和的解決』なるもののイカガワシサ」でカキコミ済みです。

 国連は、イラク国民が如何なる非人権状況下にあるか、どれ程の圧制に人間であることを維持する上で、精神的苦痛を強いられているかをこそ査察すべきだと私は考えていたのに対して、アメリカの、というよりもブッシュの<大義>として掲げた制裁理由をそのまま受止めて、いわばアメリカの大義大儀に無条件に添い寝すべく大量破壊兵器の摘発と廃棄の義務づけを役目とした。そして、日本を含めた世界のマスメディアの殆どが、アメリカ及び国連と同様に、サダム・フセインの独裁政治とイラク国民の非人権状況よりも、大量破壊兵器の存在の有無を<大義>理由として優先させた。

 そして大量破壊兵器が未だ発見されないことをもって、アメリカの先制攻撃は国際法違反だとか、イラク攻撃は正当化されないとか、自らが追随した<大義>理由に呪縛されて、その範囲内でのみ、正しいか、正しくないか判断できないでいる。独裁政治とイラク国民の非人権状況をこそ攻撃の<大義>とすべきだったと考えている人間として、そのことを問題にしているのです。

 世界には独裁国家が数多く存在する、独裁政治が国民の人権を圧迫していたなら、先制攻撃は許されるのかという反論が予想されますが、私は許されると考えています。勿論無条件ではありません。国連の人権委が査察を行い、非人権状況が認められたなら、期限付きで改善を求める。求めに応じなかったなら、武力で独裁政治を打倒し、国民を圧制から解放する。

 その過程で、kondoさんの言う、大国の政治的・経済的利権に導かれた「マヤカシ」、あるいは、「本音」が介在しようとも、私は独裁政治からの解放という比較善をもって、支持します。kondoさんは、「米国のイラク攻撃の本音は、石油の利権と、中東でのイスラエルの優位性を保障することです」と言っていますが、例えそうであっても、それを改善、あるいは解決するのは関係国の政治家と国民の意志にかかっていると思います。この点についての改善、あるいは解決できない日本の例を一つ挙げると、官僚の天下りや特殊法人の非採算的経営は小泉首相が構造改革を提唱する前後に起こったことではなく、何十年も前から生じていたもの、もしかしたら、歴史的に伝統的な慣習としてあるもので、それを許してきたのは、自民党を政権党として支持してきた総体的な国民の意志そのものです。このことは、国民が如何に賢明であるかを求められているかということを示していますが、それぞれの生活保守主義(=国益に対する個人益)にのみ囚われて、気づいていないようです。

 とは言っても、日本は太平洋戦争(=アメリカの日本攻撃)による敗北によって一応は民主主義という果実を与えられた。アメリカに対して政治的・経済的には未だ属国状態にはあるが、様々な交渉によって、段階を経て独立国家としての地位を確保した。イラクが自らの石油生産と輸出・販売に関するあらゆる利権を自国の権利とするのは、すべては国民の意志――どのような政治家に投票し、どのような政権を望むかにかかっているということです。時間はかかるでしょうが。

 現在の世界は、第二次世界大戦前の植民地主義時代とは異なって、そのことを許さない未開の状態にはないはずです。
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◆送信者: "kondo taeko" <
kondot@orion.ocn.ne.jp>
宛先: <
kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : [kokkai2]
<欧米の身勝手>
日時 : 2003年6月28日 0:23

kondo です。

中東における石油利権について、アメリカはずっと以前から、それを全て我が物にしようと狙っていました。アフガニスタンがまだタリバン政権だった頃、石油のパイプラインの件でタリバンと交渉しましたがタリバンが断わったため、いずれアフガニスタンを爆撃しようと策略を練っていた矢先、9月11日のテロが起きました。このテロ撲滅に世界中が支持し、アフガン攻撃が行われたのです。

アフガンとイラクを攻略したアメリカの次の目標はイランです。イランは現在、大量破壊兵器の件で国連の査察を受けています。「悪の枢軸」と名指したイランをなぜ先に爆撃しなかったか。アフガン側及びイラク側からイランを爆撃したほうが戦略上有利だからです。

手代木さんの理念とは関係なく、アメリカにとって、国益のためなら独裁であろうが、民主主義であろうが、そんなことはどうでもよいのです。アメリカに同調する国なら、核を持とうと大量破壊兵器を持とうと構わない。むしろそれを支援する。イランに国連の査察が入って、中東で唯一の核保有国であるイスラエルになぜ査察が行われないか、を見ても明らかです。

手代木さんのように、世界を「独裁対民主主義」と捉える見方もあるでしょうが、私は最近、欧米というか白人の身勝手を痛切に感じます。例えば、「人身売買」の本家であった、いや今尚そうであるアメリカが、「人身売買」の実態を調査し、世界各国をランク付けして、自国は棚にあげて、ランク3の国は制裁をするという。捕鯨の件も然り。元はと言えば、油を取るためにアメリカが鯨を捕獲していた。中東の石油が手に入るようになった為、鯨を捕獲する必要がなくなるや、捕鯨国、殊に、日本に「鯨を捕るな」と圧力をかけてきた。鯨だけを保護すれば自然の生態系は崩れてしまうと、日本が
科学的に実証しても聴く耳をもたない。

アメリカの国会議員の良識を疑いたくなる事案が可決されたのは、つい最近だったと思う。第二次大戦中、強制労働をさせらたと、日本企業を相手取った賠償請求の事案が民主、共和両党の賛成多数で可決された。過去の清算はサンフランシスコ条約をもって解決済みであることの常識もないのだろうか。サンフランシスコ条約を無効とするなら、アメリカの国際法違反で日本から陳謝と損害賠償求めることもできる。アメリカが終戦の2週間前に何をやったかを、まず考えるべきであろう。

アメリカを中心とする欧米の民主主義は、自分達白人のための民主主義であって、人類普遍のためのものなどではない。アメリカが東海岸の13州から、領土を広げて世界の大国になった歴史はインデアンリザベイションに始まる略奪の歴史であり、今も尚、その歴史は営々として続いているのです。
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◆送信者: "kondo taeko" <
kondot@orion.ocn.ne.jp>
宛先: <
kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : [kokkai2]
  <欧米の身勝手> 2
日時 : 2003年6月28日 16:02

kondo です。

今回の英米によるイラク攻撃の目的は、手代木さんのいうようなサダムフセインによる独裁体制を倒して、イラクを民主化することではない。戦争には必ず、「民主主義のため」とか「平和のため」とかのスローガンがなければならない。その背後にある「他国の資源の略奪」「領土の侵略」こそが目的であって、スローガンはその手段にすぎない。付随的にその国が民主化されることがあっても、内部から噴出したものではないから、おそらく定着することは稀であろう。

現在も尚、絶えない局地紛争の殆どは、宗教紛争であり、領土争いである。民主主義の実現のため国家間で戦争が行われた、などという話は聞いたことがない。もし、ブッシュ政権が民主主義を広めたいと真に思っているなら、なぜミヤンマーの軍事独裁政権に眼を向けないのか。軍政は私服を肥やし、麻薬王たちを保護し、自由を求めて平和的に
意思表示をした千人以上を投獄している。そんなミヤンマーで、アンサンスーチー氏率いる国民民主連盟が生き延びている。ブッシュ政権はこのような稀な状況を見て、民主主義を広める絶好なチャンスだと飛びつきそうなものだが。

話はイラク戦争に戻るが、米英のイラク攻撃に反対を表明したフランス、ドイツも国益中心主義で動いているだけで「平和のため」でも「民主主義」のためでもない。フランスはイラクに武器輸出や核まで売って、フセイン独裁体制の強化に寄与した。

国際社会は「民主主義対独裁」という構図で動いている訳ではない。手代木さんが独裁政権の実態を暴き、国際社会の中で一国でも多くの民主主義国が誕生することを願っている心情も論理も、おおいに評価はするが、他国の武力による政権転覆が可能だ、とする意見には賛成出来ない。必ず民主主義をスローガンに、侵略あるいは略奪の下心が潜んでいるからである。その見返りのない政権転覆の爆撃など有り得ないことは明らかである。それが、地球を分割した歴史をもつ欧米という国である。

以前、リヴィウスの「ローマ建国史」を読んだことがあるが、紀元前一世紀のローマでは、王すら投票で選ばれたそうだ。王が世襲制になって弊害が出てくると途端に王制を止めてしまい、その代わりに執政官2人を選挙で選ぶことにしたそうだ。権力の乱用を警戒して、任期は一年に制限したとまで書いてあった。

現在130カ国もの、王制を含む独裁政権を如何に民主化するかの課題に応える示唆に富む書物だと思う。各国の政権運営の国際基準を任期4年とし、再選は基本的には2期までとする、としたら自動的に民主化されるのではないかと思うが、どうだろうか。
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◆送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <
kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : [kokkai2]
<図式的、教条主義的に過ぎませんか
日時 : 2003年6月28日 19:50


 手代木ヒロユキです。

 kondoさんへ。

 私は、kondoさんが言うように世界をすべて「『独裁対民主主義』と捉え」る程、図式的でもなければ、教条主義的でもないと自負しているつもりですが。
 
 キューバを例に挙げて、説明してみます。カストロがアメリカ資本の支配した腐敗したバチスタ独裁政権を打倒、共産主義化したのは、当時のキューバにあっては、アメリカ資本と結びついた一部富裕層を除いて、大多数の国民には苛酷な労働と生活しか生み出さない、悪の象徴でしかなかった資本主義を反面教師としたからだと思います。その時代の世界は、国民の虐げられた状態に憎しみと怒りを感じる人間にとっては、資本主義国家にあっては共産主義を、共産主義国家においては資本主義を、それぞれに理想の制度と見なしていたという状況も影響したでしょう。旧ソ連政府から国外追放処分された反体制派作家ソルジェニーツインは自由の国アメリカに移住しなががら、皮肉にも、その社会に対する失望を語っています。

 キューバは中南米唯一の共産主義国家だと言っても、ある程度の自由の制限は存在するでしょうが、カストロがイラクのフセインや北朝鮮の金正日レベルの政治権力と国家予算の私物化・国民に対する過度の人権及び経済的抑圧・体制批判者に対する無制限、無条件な行き過ぎた身体的拘束と肉体的精神的懲罰を権力維持の絶対的方法としているわけではない独裁国家に対するアメリカの経済制裁には、前々から反対でした。キューバ人の陽性を考慮すると、逆に経済交流を図って、その過程で民主主義と自由主義の有意義性を肌に染み込ませ、共産主義における全体主義的規律を氷解させていけばいいというのが私の考えでした。

 同様に、43年間続き国家の富を独占したソモサ一族の腐敗した独裁支配に対する反動として樹立されたニカラグアの左翼政権・サンディニスタ民族解放戦線に対するアメリカのかつての政治的・経済的圧力にも反対でしたし、核開発を意図しているといは言え、ホメイニ死後の、国民の多くが民主化を求めているハタミ大統領のイランに対するアメリカの国交断絶と経済制裁には、現在も反対しています。アメリカの国交回復と経済制裁解除によって、イランは民主化に向けて大きく変るだろうと予測しているからです。

 「中東における石油利権について、アメリカはずっと以前から、それを全て我が物にしようと狙っていました」とか、「石油のパイプラインの件でタリバンと交渉しましたがタリバンが断わったため、いずれアフガニスタンを爆撃しようと策略を練っていた」とか、それが決してすべてではないのに、さもすべてであるかのように論陣を張るkondoさんの方が遥かに図式的且つ単眼的で、教条主義的に過ぎるように私には見えますが。「中東における石油利権」については、フランスやイギリス、かつてのソ連と現在のロシアも深く関わってきまっしたし、それぞれに政治的取引を繰返してきています。ブッシュ大統領はプーチンとの首脳会談で、アメリカのイラク攻撃に対するロシアの支持を獲得するために、イラクにおける既存のロシアの石油権益を保障する言質を与えて、プーチンは一時アメリカ支持に傾いたといった経緯もありました。アメリカが、「中東における石油利権」を「全て我が物にしようと狙」うなどと言うことは不可能ですし、不可能なことを「狙」うということすらしないはずです。

 「人身売買」に関しても、確かにアメリカは養子縁組みにアジアから幼い子どもを受入れて、その謝礼に決して小額ではないカネが動いていますが、その言葉本来が持つ意味での「人身売買」――一個の人間を労働力や性的対象とみなすモノ・道具としての「売買」ではなく、幼児虐待といった悪い結果を生む場合もあるでしょうが、一個の人間としての扱いを受ける、経済的にはより良い状態が保証される、相手の親の承認を得た新たな親子関係の構築であって、それを「人身売買」とするのは、少々ひねくれた見方という印象を受けてしまいますが。

 また、「身勝手」は、「欧米というか白人」の特許ではなく、日本も散々に犯してきた行為です。朴独裁政権時代の韓国に援助したカネが自民党に還流しているという疑惑が生じたこともあり、三菱重工が韓国に地下鉄車輌を輸出した際、朴政権にリベートが渡ったという疑惑もあったように、韓国民よりも、政治権力者に利する援助でした。スカルノ・スハルト時代のインドネシアへの日本の援助も、インドネシア国民の生活の向上と福祉に直接役立たず、政治権力者とその取巻きの経済的利益と権力維持にのみ役立ち、結果的に富の偏在・貧富の格差に寄与した「身勝手」も演じているのです。日本のODAの殆どが、過去においては、援助相手国の国民生活を視野に入れたものではなく、日本企業の利益という国益を視野に入れた性格の援助だったことは通念化しています。

 あなたの言う「過去の清算」に関しても、「サンフランシスコ条約」締結時は、<個人の権利意識>は、まだ確立されていませんでした。個人よりも国家優先の時代だったのです。個人の権利を優先する時代を迎えた以上、アメリカの被強制労働者だけではなく、日本企業による中国人・朝鮮人強制連行、及び日本軍が強制した従軍慰安婦が生存している以上、個人の権利の恩恵に浴するために、彼らに対する賠償はなされるべきだと考えていますが。

 「アメリカを中心とする欧米の民主主義は、自分達白人のための民主主義であって、人類普遍のためのものなどではない。」

 アメリカ社会はいつまでも単一民族にこだわっている日本と違って、人種のるつぼとも、サラダボールとも言われていて、「白人のため」だけの国家・社会とはなっていません。政治社会においても、企業社会においても、スポーツの世界・音楽の世界でも、白人・黒人・アジア人等々が入り乱れて活躍し、それぞれの存在が相互的に認められています。人情として、国益中心になるのは止むを得ませんが、ある大国の国益だけが突出するのは、関係国の政治的・外交的創造力の貧困が許した結果的状況のはずです。

 もし、フランス・ロシアなどが、大量破壊兵器の有無はさして問題ではない、サダム・フセインという独裁者(あくまでも)が問題である、その排除に向けた攻撃なら支持し、攻撃に参加するとしたなら、ブッシュアメリカの突出・一国主義の過剰は防げたはずですが、フランスもロシアもそれぞれの国益にのみ縛られて、現在見るような結果を招いてしまったとも言えます。
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◆送信者: "kondo taeko" <
kondot@orion.ocn.ne.jp>
宛先: <
kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : [kokkai2]
<二重の「過去の清算」>
日時 : 2003年6月28日 23:52

kondo です。

私は米英のイラク攻撃、イラク攻撃に反対したフランス、ドイツの本音から欧米の身勝手を指摘したまでで、それを手代木さんがどう捉えるかは、自由です。

腑に落ちないのは、手代木さんが、「強制連行」だの「従軍慰安婦」だの朝日新聞が宣伝した造語を軽々しく使って、日本に二重の過去の清算を求めていることです。平成4年だったと思いますが(もっと後かもしれません)、朝日新聞でさえ、「ドイツは個人補償で日本は国家賠償で」、北朝鮮を除いて日本は過去の清算を済ませたと報道していました。日本政府も同様の見解を取っています。教科書からも「強制連行」や「従軍慰安婦」の造語は消えました。

先の大戦から60年近く経ちました。当時、<個人の権利意識>が確立されていなかったからと言って、現代の価値観を遡及させて「賠償せよ」との手代木さんの論理は、全く理解出来ない。ドイツが個人補償をしたのは、まだ東西ドイツが統一されていなかった
ので国家賠償が出来なかったからです。

米国はベトナムにも中南米にも何の賠償もしていません。世界中を暴れ捲ったヨーロッパ諸国も然りです。
 
手代木さんの論法でいくと、7年間にも渡るGHQの占領下で、日本にも数多の「従軍慰安婦」がいると思うが、彼女達も損害賠償を求めたら如何なものか。
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◆送信者: "kondo taeko" <
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kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : [kokkai2]
  <二重の「過去の清算」>2
日時 : 2003年6月29日 23:05

kondo です。

戦後処理についての朝日新聞の記事が見つかりました。正確には、平成7年1月1日号の「日独両国の戦後処理」についての記事です。それによると「日本が国に対する賠償を基本とし、ドイツはナチスの不正の被害者個人への補償を柱とした。政府は北朝鮮と台湾を除き、国家間の賠償と財産請求権の問題は解決済みとの立場だ」と、「ナチスの不正」を持たない日本が「個人補償」の不要なことを言外に表明しています。

朝日新聞は平成5年から6年にかけて「日本よ、戦後補償でドイツを見習え」式の大キャンペーンを展開していましたが、平成7年1月1日の記事以来、ぱったりと「ドイツを見習え」論が社説に出てこなくなりました。

手代木さんの所謂「従軍慰安婦」について、岸田秀氏「戦後賠償の問題」を引用いたします。「軍が強制したのではなく、すべての面で余裕のなかった世の中で一部の女性が自発的に応募してきたということが考えられる。だが、現在の状況を基準として、戦中戦後のことを道義的に判定するには問題がある。もし、そういう言い訳を日本軍の場合に認めないのであれば、アメリカ軍の場合にも認めるべきではない。」

つまり、「慰安婦」なるものは日本軍に限らず、世界中の軍にいた。だが、「従軍慰安婦」はやはり、朝日新聞の造語である。この造語を盾に日本を相手取ったカネ目当ての賠償請求が起こされています。手代木さんはその煽動的役割をしているのですか。

戦時中の日本軍による「強制連行」も造語であることは、以前、このMLで西村さんが詳しく書いていました。これについても岸田氏の本を引用させて頂きます。「旧連合軍が強制労働や捕虜虐待などについての賠償を正当な権利として要求し続け、日本がいささかでも認めるのであれば、日本も旧連合軍の犯罪についての賠償を要求し続けるべきである。国際関係は何よりもまず、相互性と首尾一貫性を必要とするからである。」
                             以上です。
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◆送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <kokkai2@egroups.co.jp>
件名 : Re: [kokkai2] 
<欧米の身勝手>2
日時 : 2003年6月30日 0:42

 手代木ヒロユキです。

 kondoさんへ

 「今回の英米によるイラク攻撃の目的は」、「サダムフセインによる独裁体制を倒し
て、イラクを民主化すること」だとは、私は決して言ってません。勝手な解釈はやめて
下さい。米英は大量破壊兵器の存在を攻撃の大義名分とした。ブッシュは大量破壊兵器がなかなか発見できなかたものだから、後になって、付け足しのように、サダム・フセインの独裁体制の打倒とイラクの民主化を攻撃目的の一つに付け加えた。私は大量破壊兵器は二次的問題で、攻撃は最初からイラクの民主化を目的としたものでなければならないと自分の考えを述べたまでです。そして、大国の独善とか、利権といった矛盾や夾雑物を抱えていても、とにかくもイラク国民はサダムの独裁から解放され、民主化のチャンスを得た。それを比較善とみなして、支持・歓迎し、どう民主化するか、民主化の過程で、アメリカ、その他の大国の介入を如何に排除していくかは、イラクという国とイラク人自身の問題だという考えを展開してきただけのことです。

 「戦争には必ず、『民主主義のため』とか『平和のため』とかのスローガンがなけれ
ばならない」とのことですが、目的が事実そのとおりの場合もあれば、そうでない場合もあるはずです。一概に決めつけることはできないと思います。そうでない場合に、それを隠すために、口先だけのスローガンを必要とします。戦前の大日本帝国は、「他国の資源の略奪」「領土の侵略」を目的としたために、、<八紘一宇>だとか、<五族共和><大東亜共栄>とか、真の目的を韜晦するためのスローガンを必要としたようにです。

 しかし、現在において、世界社会にその一員として,仲間として籍を置く国が「他国の資源の略奪」「領土の侵略」を目的とした戦争を起こした場合、国際世論が許さないでしょうし、それを無視することは難しいでしょう。アメリカは、「他国の資源の略奪」「領土の侵略」を目的として、イラク攻撃したわけでは決してありません。安保理の決議を経ない攻撃ということで国際的反撥を受けたに過ぎません。アメリカはアフガニスタンに対して、「資源の略奪」「領土の侵略」を行ったでしょうか。イラク攻撃で米英の兵士のいのちを犠牲にした、戦費も多大に費やした、その分を当然の取り分として、米英主導の復興事業としたということでしょう。勿論、そこに色々な利害や権益争いが入りこむでしょうが、それを解決していくのも、今後におけるイラク人自身の賢明さにかかっていると言えます。

 すべての戦争が「他国の資源の略奪」「領土の侵略」を「目的」とすると考えるのは、やはり図式的に過ぎ、独善的解釈に思えますが。 

 「内部から噴出したものではない」民主化は、「おそらく定着することは稀」という言い方には、胡散臭さを感じます。例え「稀」であったとしても、イラクがその「稀」の内に入らないと断言できない現在時点においては、「稀であろう」との結論で締めくくるのは、「稀」の内に入らないことを願う意識が働いているからと受取らないわけにはいきません。イラク攻撃に反対した手前、アメリカの手によるイラクの民主化が失敗することを願っている、少なくとも様々にケチをつけている日本のマスメディアと同様の心理状況に侵されていると解釈できないことはありません。

 「現在も尚、絶えない局地紛争の殆どは、宗教紛争であり、領土争いである。民主主義の実現のため国家間で戦争が行われた、などという話は聞いたことがない」

 「話は聞いたことがない」ことをっをもって、今後の世界で、「民主主義の実現のため国家間で戦争が行われ」ない保証はないとは言えないと思います。アメリカのイラク攻撃は、結果的には民主主義獲得のための機会を与える戦争であったことは誰もが認めると思います。アメリカのイラク攻撃に強硬に反対したドイツのシュレーダー首相は、バグダッドが陥落後、「いずれにしても、独裁者が追放されたことは歓迎すべきことである」と語っています。その言葉は、新たな独裁者・新たな独裁体制を想定していないことを示しています。いわば、民衆主義体制を予定調和とする言葉だったということです。

 「米英のイラク攻撃に反対を表明したフランス、ドイツも国益中心主義で動いているだけで『平和のため』でも『民主主義」』ためでもない。フランスはイラクに武器輸出や核まで売って、フセイン独裁体制の強化に寄与した。」

 例え、「『平和のため』でも『民主主義』のためでもな」くて、「国益中心主義」だったとしても、「武器輸出」はフセインの<武器獲得という思惑・利益>があっての、相互利益を構造とした双方向性の成立案件であって、「国益」自体も、現在の世界では単独では成り立たず、イラクの国益なるものを抹殺することはできません。双方の「国益」の攻めぎ合や折り合いで決定する性格のもので、他国の国益の過剰・不純な干渉を許すか否かは、民主化と同様に今後のイラク国民、特に為政者として登場することになるイラク人自身の賢明さにかかっていると言えます。

 ミヤンマーの軍事独裁政権の今回のアンサンスーチー女史の拘束に関して、アメリカのパウエル国務長官は、「あの薄汚いネズミ共め」と怒りを露わにしましたが、「ミャンマー問題を話し合うために来日したラザリ国連事務総長特使」が記者会見で、「日本政府のミャンマーへの途上国援助(ODA)」の「見直しを求める考えを示唆した」のに対して、外務省は「事態解決まで新たな事業の契約は見合わせる方針を示す一方、小泉首相は」「欧米諸国のような圧力重視路線を取ることに慎重な姿勢をみせた」(03.6.26.「朝日」朝刊)と、日米の取るべき態度の違いを見せました。日本は97年までの累計で最大の援助国だとのことです。つまり、問題はアメリカよりも、日本の方でしょう。

 私自身はミヤンマーに対する武力攻撃には賛成ですが、アメリカが攻撃しないのは、軍事独裁政権の危険が外に向かう方向の性格には至っていないことと、友好国日本が最大の援助国として深く関わっているからでもあるでしょう。

 「国際社会は『民主主義対独裁』という構図で動いている訳ではない」

 再度断わりますが、「国際社会は『民主主義対独裁』という構図で動いている」と言った覚えはありません。国益だとか権益・主導権争い・権利欲や名誉欲といった矛盾・夾雑物が日常的に介入して、矛盾した社会をつくり出していると言うのが持論です。人間行為における美しく・清くなんていう局面は頭から信じていません。だからと言って、国家の対外活動が「国益中心主義」で動いていると取るほど、狭い考えに支配されているわけでも、図式的でもありません。

「各国の政権運営の国際基準を任期4年とし、再選は基本的には2期までとする、としたら自動的に民主化されるのではないかと思うが、どうだろうか。」

 人間の現実ということを考えると、夢物語ですね。金正日やミャンマーの軍事政権が、「ハイ、そうします」と素直に応じると思っているのですか。但し、数ヶ月でガン首が代る日本の首相は、4年間の任期安泰の保証には大歓迎でしょうが、次の総理大臣の椅子を狙う政治家にとっては、自分の順番がまわってくるのが遅くなると、反対でしょうね。例え任期が短くても、総理大臣になったという名誉が欲しい政治家が多いのですから。

 Re:<二重の「過去の清算」>

 私は、「日本に二重の過去の清算を求めている」わけではありません。国家と個人、一対のものとして、精算を求めているのです。個人の権利があまりにも踏みにじられた時代だった、現在、個人の権利が言われる時代になった以上、踏みにじられた人間が生存していることをもって、補償されるべきだとの考えです。そのことが、いつの時代も国家主体で、抜け落ちがちな傾向にある個人の存在を重視する貴重な前例となり、今後の個人の権利の着地点を決定する基準となり得るはずです。

 「朝日新聞でさえ、『ドイツは個人補償で日本は国家賠償で』、北朝鮮を除いて日本は過去の清算を済ませたと報道していました。日本政府も同様の見解を取っています」

 「国家賠償」ですべて終わったとしているのは、日本の歴代内閣がそういう態度・姿勢を取っているということであって、朝日新聞の報道は単に日本政府の方針を支持したものだということでしょう。政府の態度・姿勢をすべて正しいとするなら、日本は既に独裁体制下にあることになります。

 アメリカは大戦中に収容所送りした日系人生存者に賠償することになり、レーガン大統領が謝罪しています。日本政府がハンセン病患者への国家賠償を決めたのも、彼らの個人としての権利を踏みにじった代償であり、「現代の価値観を遡及させ」る行為の一種に当たると思いますが。隔離は時代的に正当な常識だった――いわば、「当時、<個人の権利意識>が確立されていなかった」ことをもって免罪されるとなったなら、国家賠償は行われなかったでしょう。

 「強制連行」・「従軍慰安婦」という言葉が、「朝日新聞が宣伝した造語」かどうかは知りませんし、「教科書から」「『強制連行』や『従軍慰安婦』の造語」が「消え」たとしても、あったという事実は消えないでしょう。

 アメリカのベトナムへの戦争賠償ですが、私自身は特に枯れ葉剤撒布による奇形児の発生被害を将来的な教訓とするためにも、ベトナム政府に対する国家賠償だけではなく、奇形児としての生命を負わされた各個人に対する賠償も行われるべきだと考えています。

 「手代木さんの論法でいくと、7年間にも渡るGHQの占領下で、日本にも数多の『従軍慰安婦』がいると思うが、彼女達も損害賠償を求めたら如何なものか。」

 戦前の「従軍慰安婦」の中には自らその境遇に身を投じたケースもあったでしょうが、戦後の彼女たちの全部が全部、強制的に狩り出されたわけでも、あるいは強制的に狩り集められたわけでもありません。また、部隊の移動に合わせて、部隊と共に強制的に行動を共にさせられる「従軍」を義務づけれられていたわけでもありません。当初は、日本政府の音頭取りで、進駐したアメリカ兵に対する、いわゆる<肉体の防波堤>として公的に企画され、設立された特殊慰安施設協会(RAA)の(警視庁がRAA協会を認可したのは、1945年8月29日、8月15日敗戦のわずか2週間後です。何と早手まわしなことか)、<駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む>(『売春』神崎清著・現代史出版界)という広告に応募した女性だった。但し、慰安婦とおおっぴらに募集できないということで、<女事務員募集――年齢十八歳以上二五歳迄。宿舎・被服・食糧全部当方支給>(同)と看板に偽りありを働いたものの、『売春』は、「個人面接の段になって、RAAの幹部から、業務内容の説明を聞き、『・・・・というような仕事なんだが、それでよろしいか』と念を押されると、さすがにびっくりしたり、腹を立てたりして、大半の者が憤然と、あるいは悄然と店を出ていった」と描写しているから、募集に応じて店に来た女性すべてを強制的に因果を含めたわけではなく、個人の意志が優先されたことが証明されます。但し、一旦は腹を立てたとしても、戦後すぐの極端な食糧難と就職難(生活難)に負けて、思い直して再び応募し、屈辱的な仕事であっても、衣食住の確保を優先した女性がいなかった保証はありません。人間は我慢し、慣れる生きものでもあるから。

 そして、平和目的でも、不純な権益が混じり込むように、当時の日本にはまだ人身売買の風潮が残っていたいたから、借金のカタにムスメを売春宿に売り渡すといったこともあり、その売春宿がアメリカ兵専門だったり、ヤクザが駆り集めた若い女を、アメリカ軍が駐屯する基地近辺の歓楽街で米兵相手に強制的に売春させてボロい儲けの道具に利用するといった歓迎されざる意図しない悪しき状況が生じるといった推移を見たのです。

 いずれの場合においても、彼女たちに「損害賠償を求め」る資格はないでしょう。求めるとしたら、借金のカタに娘を売った親、借金のカタに娘を取上げた女衒や売春させた売春宿の主人の類、そして強制売春を命じたヤクザに対してでしょう。自ら応募し、自らの意志で特殊慰安婦となった女性が「損害賠償を求め」る資格があるとしたなら、サダム・フセインだって、アメリカに「損害賠償を求め」ることができるでしょう。

 「手代木さんの論法でいくと」とか何とか、とにかくも、kondoさんは勝手な解釈をしてくれるお人柄のようですね。
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◆送信者: "kondo taeko" <
kondot@orion.ocn.ne.jp>
宛先: <
kokkai2@egroups.co.jp>
件名 :
Re: [kokkai2]  <欧米の身勝手> 2
日時 : 2003年6月30日 15:25


kondo です。

手代木さんへ

勝手な解釈をして申し訳ございませんでした。
手代木さんの文面から、<独裁=悪の根源>、<民主主義=人類普遍の原理>、<民主主義のためには他国の武力による政権打倒も許される>等、強調されていましたので、国際社会は<民主主義対独裁>の構図で動いている訳ではない、と解釈してしまったのです。

人間というものは、他人の「勝手」はよく見えるが、己の「勝手」については盲目なものです。手代木さんも、私のことを随分「勝手」に解釈して、図式的だとか、教条主義的だとか決めつけています。でも私の文面から、そうとしか読み取れなかったとすれば、仕方のないことだと思っています。読む人によって、捉え方は様々だからです。

さて、本論で幾つか納得のいかない所を指摘させて下さい。

>  Re:<二重の「過去の清算」>
>
>  私は、「日本に二重の過去の清算を求めている」わけではありません。国家と個人、一対のものとして、精算を求めているのです。個人の権利があまりにも踏みにじられた時代だった、現在、個人の権利が言われる時代になった以上、踏みにじられた人間が生存していることをもって、補償されるべきだとの考えです。そことが、いつの時代も国家主体で、抜け落ちがちな傾向にある個人の存在を重視する貴重な前例となり、今後の個人の権利の着地点を決定する基準となり得るはずです。

ここの所がよく分らない。手代木さんは「戦争」とか「戦争に対する賠償」とかというものを、どう捉えているのですか。戦争は「国家対国家」の争いで「国家対個人」の争いではありません。戦争による賠償で「個人賠償」という概念自体おかしいと思います。第二次大戦中ですもの、「個人の権利が踏みにじられていた」のは当然です。それは、日本に限らず戦時体制の国は、民主主義国であっても個人の権利は制限あるいは認めれていませんでした。

 「国家対国家」の争いである戦後処理は当然、「国家賠償」によって平和条約を結び今後、戦争中の出来事についてトヤカク申しません、という約束を取り交わすのではないのですか。日米ともサンフランシスコ条約によって、そのような約束を取り交わしたので、日本としては、数多の不満があったとしても、誰一人、今頃になって損害賠償を求める日本人はいません。「個人賠償」を求めるのであれば、それこそ自国の政府に要求すべきです。

>  「国家賠償」ですべて終わったとしているのは、日本の歴代内閣がそういう態度
・姿勢を取っているということであって、朝日新聞の報道は単に日本政府の方針を支持したものだということでしょう。政府の態度・姿勢をすべて正しいとするなら、日本は既に独裁体制下にあることになります。

これこそ、手代木さんの決めつけであり、論理の飛躍です。

>  アメリカは大戦中に収容所送りした日系人生存者に賠償することになり、レーガン大統領が謝罪しています。日本政府がハンセン病患者への国家賠償を決めたのも、彼らの個人としての権利を踏みにじった代償であり、「現代の価値観を遡及させ」る行為の一種に当たると思いますが。隔離は時代的に正当な常識だった――いわば、「当時、<個人の権利意識>が確立されていなかった」ことをもって免罪されるとなったなら、国家賠償は行われなかったでしょう。

この場合は、「国家対個人」の問題であって、「戦争」に対する賠償問題とは次元を異にします。これをもって、戦後処理においても「現代の価値観を遡及できる」ということにはなりません。手代木さんは比較出来ない次元のものを比較しているのですから。

>  「強制連行」・「従軍慰安婦」という言葉が、「朝日新聞が宣伝した造語」かどうかは知りませんし、「教科書から」「『強制連行』や『従軍慰安婦』の造語」が「消え」たとしても、あったという事実は消えないでしょう。

「造語」かどうか知らないのに、なぜ「強制連行」や「従軍慰安婦」が「事実」で
あったと断定出来るのですか。これらの資料も多面的に読まないと、とんでもない結論になります。いずれにしても、日本は北朝鮮を除いて、すべての国と平和条約を結び、もうお互いに戦争のことで揉め事は起こさない約束を取り交わしたのですから、「個人保障」等、いっさいする必要はありません。例外はあるかもしれませんが。まだロシアとは平和条約を結んでいませんから。
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◆送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <
kokkai2@egroups.co.jp>
件名 :
Re: [kokkai2]  <欧米の身勝手> 2
日時 : 2003年7月6日 19:40

 手代木ヒロユキです

 kondoさんへ

 返事が遅れて、相すみません。仕事がハードで、時間的にも体力的にも余裕がなく、メールを開く暇もありませんでした。

 @「戦争は『国家対国家』の争いで『国家対個人』の争いではありません。戦争による賠償で『個人賠償』という概念自体おかしいと思います。第二次大戦中ですもの、『個人の権利が踏みにじられていた』のは当然です。それは、日本に限らず戦時体制の国は、民主主義国であっても個人の権利は制限あるいは認めれていませんでした。」

 ――国家とは国民の集合体であって、国民の総体的・最大公約数的意識によって形成される抽象的構造物です。いわば、国家とは、国民がつくり出すものです。国民なくして国家は存在しません。例え金正日の北朝鮮であっても、政治家・党員・軍人・官僚等を含めた国民の無力・諦念・無主張、あるいは逆の積極的迎合・阿諛追従等々の意識がつくり出した独裁体制であって、金日成や金正日の親子だけの力では成り立たない組織体です。

 つまり、戦争とは国家によって命令・指示された国民対国民の戦いでもあります。戦前の日本の<銃後の守り>という発想は、戦争が国民の戦いでもあることを象徴的に物語っています。それぞれの意識が積極的であろうが、惰性であろうが、諦めからだろうが、日本国民が一体となって戦った戦争です。

 ゆえに、賠償とは、国土の破壊に対してだけではなく、国民の生命・財産の不法な損壊に対しても行われるべきです。強制連行も従軍慰安婦問題も、そのくわしい実態が明らかになったのも、あるいはその事実を政府が認めたのは、サンフランシスコ条約締結以降です。従軍慰安所に関して言えば、日本の軍が関わっていたことが判明したのは、最近になってからです。いわば、国家対国家の賠償に含まれるべき性格の事項でありながら、含まれなかった事項であって、それぞれの事項に関して個人賠償は行われるべきだと考えています。

A「日本としては、数多の不満があったとしても、誰一人、今頃になって損害賠償を求める日本人はいません。『個人賠償』を求めるのであれば、それこそ自国の政府に要求すべきです。」

 ――日本に永住帰国した中国残留日本人孤児ら4人が、2001年に国に対して「帰国事業が立ち遅れた上、帰国後の生活支援施策が不十分」として総額約8000万円の国家賠償を求めて、東京地裁に提訴しています。これは明らかにっ国家による個人に対する賠償請求です。

 また、シベリア抑留者は、捕虜中の未払い賃金の支払いを求める訴訟を政府に対して起こしています。南方から帰国した捕虜には労働賃金が支払われ、シベリア抑留者には支払われていないということです。特に民間人を含めたシベリア抑留は、大本営が「国体護持」と引き換えにソ連に労働力として提供した<役務賠償>の産物であった疑いを示す、大本営参謀名の視察報告書がロシア軍関係の公文書施設で発見されたと、1993年8月13日の朝日新聞が記事にしています。同記事は、「ソ連に捕虜の一部を労働力として差し出す『役務賠償』については、昭和二十年七月に昭和天皇から対ソ平和交渉を命ぜられた近衛文麿元首相が作成した天皇制維持を目的とする『和平交渉の要綱』に盛り込まれている」と解説しています。そのときの和平交渉は、ソ連に拒否されていますが、敗戦前の「昭和二十年七月」の段階で、大日本帝国という国家は、国民を生け贄にする意志は持っていたという事実が存在し、シベリア抑留はそのような意志の発展形として発生したものではないかという疑いを引きずっていた歴史性を持ち、その疑いを証明する視察報告書の発見となっています。

B「国家賠償」ですべて終わったとしているのは、日本の歴代内閣がそういう態度
・姿勢を取っているということであって、朝日新聞の報道は単に日本政府の方針を支持
したものだということでしょう。政府の態度・姿勢をすべて正しいとするなら、日本は既に独裁体制下にあることになります。

これこそ、手代木さんの決めつけであり、論理の飛躍です。

 ――「腑に落ちないのは、手代木さんが、『強制連行』だの『従軍慰安婦』だの朝日新聞が宣伝した造語を軽々しく使って、日本に二重の過去の清算を求めていることです。平成4年だったと思いますが(もっと後かもしれません)、朝日新聞でさえ、『ドイツは個人補償で日本は国家賠償で』、北朝鮮を除いて日本は過去の清算を済ませたと報道していました。日本政府も同様の見解を取っています。教科書からも『強制連行』や『従軍慰安婦』の造語は消えました」と言ったのは、kondoさん自身です。

 「強制連行」も「従軍慰安婦」も、「朝日新聞の造語」かどうかは知りません。「従軍慰安婦」に関して言えば、日本政府は軍の関与を否定してきましたが、外務省に関与する記録が存在することが発見されて以来、態度を変えています。戦前の戦争を侵略戦争でなかったとする立場の日本人、侵略戦争だったとする立場の日本人、南京虐殺はなかったとする日本人――人それぞれによって立場を異にしています。「創氏改名は朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」と発言した政治家(自民党麻生太郎政調会長)もいます。

 それと同様に、日本の歴代内閣は、「国家賠償」ですべて解決済みという態度を取っていますが、私自身は反対の立場にあります。それだけのことです。

 その他にも、侵略戦争であり、「強制連行」も「従軍慰安婦」も南京虐殺も存在したとの考えに立っています。決して、「朝日新聞が宣伝した造語を軽々しく使って」いるわけではなく、あくまでも私自身の主義主張の一環としての発言です。「軽々しく」などと思われたくありません。肯定・否定、それぞれに考え・立場を異にする人間存在のありようを認識していたなら、異なる考えを批判することはあっても、自らの考えだけでもって、「軽々しく」と形容すべきではありません。例え「強制連行」・「従軍慰安婦」が「朝日新聞」の「造語」だったとしても、そう表現するにふさわしい実態が戦争中に存在したとの立場に立ち続ける考えでいます。

C>アメリカは大戦中に収容所送りした日系人生存者に賠償することになり、レーガン大統領が謝罪しています。 日本政府がハンセン病患者への国家賠償を決めたのも、彼らの個人としての権利を踏みにじった代償であり、「現代の価値観を遡及させ」る行為の一種に当たると思いますが。隔離は時代的に正当な常識だった――いわば、「当時、<個人の権利意識>が確立されていなかった」ことをもって免罪されるとなったなら、国家賠償は行われなかったでしょう。

 「この場合は、『国家対個人』の問題であって、『戦争』に対する賠償問題とは次元を異にします。これをもって、戦後処理においても『現代の価値観を遡及できる』ということにはなりません。手代木さんは比較出来ない次元のものを比較しているのですから。

 ――アメリカの日系人収容は戦争がつくり出した問題です。アメリカ政府が日系アメリカ人を敵性国民と見なした。戦争賠償には『個人賠償』も含まれるべきだという私の考えは既に上に示しました。アメリカの日系人と同様に、訴え出た被強制連行者・従軍慰安婦・中国残留日本人孤児・シベリア抑留者は賠償されるべきと私は考えています。

 ハンセン病患者への国家賠償を持ち出したのは、人権問題の比較として持ち出したのであって、例えkondoさんが言うように、「日本に限らず戦時体制の国は、民主主義国であっても個人の権利は制限あるいは認めれてい」ないとしても、その著しい、目に余る侵害に対しては、戦争・平和に関係なく、個人に対しても国家賠償は行われるべきだとの考えを示したまでです。「制限あるいは認めれてい」ないを国際常識とし、程度を問題としなかったなら、国家権力の暴走を最初から認めることになります。

D「『造語』かどうか知らないのに、なぜ『強制連行』や『従軍慰安婦』が『事実』で
あったと断定出来るのですか。これらの資料も多面的に読まないと、とんでもない結論になります。いずれにしても、日本は北朝鮮を除いて、すべての国と平和条約を結び、もうお互いに戦争のことで揉め事は起こさない約束を取り交わしたのですから、『個人保障』」等、いっさいする必要はありません。例外はあるかもしれませんが。まだロシアとは平和条約を結んでいませんから。」

 ――「『強制連行』や『従軍慰安婦』が『事実』であったとするのは、様々な記録が残っているからです。日本軍はオランダの植民地だったインドネシアを制圧・占領後、捕虜としたオランダ人婦女子までも強制的に日本兵の売春相手にしたことを、被害者のオランダ人女性自身が証言したテレビ番組をNHKがかなり以前に放送していました。そして、元日本兵の様々な証言、強制連行された中国人証言等々が証明しています。

 具体的に説明すると、日本政府は戦後一貫して「契約労働者」であったとして、「強制連行」を否認してきましたが、1993年になって、『華人労務者就労事情調査報告書』(1946年に外務省作成の、通称「外務省報告書」)と各事業場の『事業場報告書』(1946年各企業が作成)を公表し、日本全国の何ヵ所の収容所へ何人の中国人を連行したか、記録しているそうです。

 「強制連行」は、1938年の「国家総動員法」で貴重な労働力でもあった国民の殆どを戦場に送り出した代償として生じた極端な労働力不足を補うために、日本政府と企業が共同して行った、「制限」の範囲外の人権侵害行為です。

 「労工狩り」(
http://www.jca.apc.org/JWRC/exhibit/China37.htm)というHPに、次のような元日本兵の証言が記載されています。

 「労工狩り」から強制連行へ

 1942年9月ごろ、軍司令官から、「日本で労働力が少なくなって工場の生産力も落ちるようになった。どうしても中国から労働者を強制連行しなきゃいかん」という命令が出されました。半径16キロ、直径だと32キロのまん丸な円を描く。洗面器や石を持ったりして、カチカチ、ガンガン、音をたてながら「兎」を追い込むようにこの囲いをどんどん縮めていくのです。要するに、住民を中へ中へと追い込めばいいわけです。追い込みながら、畑の中へうずくまったり部落の中でうずくまっている中国人をそのまま捕まえて一緒に行った憲兵に引き渡す。その中から、体が丈夫そうで、日本へ連れていって労工に耐えられるというものだけを集め、後ろ手に縛って数珠つなぎにして連行したわけです。ちょっとでも抵抗する部落があれば、すぐ予備隊として戦車部隊を配置してあるので、無線を打てば戦車部隊や騎兵部隊が来るという手筈ではじめました。これを「兎狩り作戦」と呼びました。

 「ロシアとは平和条約を結んでいませんから」と言うことですが、シベリア抑留とそこでの過酷な強制労働に対するロシアによる国家賠償を平和条約締結の絶対条件にすべきでしょうね。絶対条件とするからには、抑留が国策による「役務賠償」であったかどうかの真偽を政府主導で併行して行い、徹底的な解明の上、「役務賠償」であった場合は、抑留者一人一人に対する個人補償を国家として行わなければならないのは、当然です。
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 このメールをもって、相手からの返信は途絶えました。一つ訂正しておきます。2003年6月30日 0:42のkondo氏に対するメール「Re: <欧米の身勝手> 2」で、<「国家賠償」ですべて終わったとしているのは、日本の歴代内閣がそういう態度・姿勢を取っているということであって、朝日新聞の報道は単に日本政府の方針を支持したものだということでしょう。>としたのは、kondo氏が、「朝日新聞でさえ」と朝日新聞を最初に持ってきて、「『ドイツは個人補償で日本は国家賠償で』、北朝鮮を除いて日本は過去の清算を済ませたと報道していました。日本政府も同様の見解を取っています。」と、さも朝日の主張に対して「日本政府が同様の見解を取ってい」るかのように記載してあった内容を確認せずに返信したことからの過ちです。「朝日」とは異なる歴代政府の姿勢を単に「朝日」が客観的事実として説明したに過ぎないということが、kondo氏の次のメール  <二重の「過去の清算」>2によって、明らかになります。


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