里山仕事・しょんた塾について

「やま」「もり」「いきものたち」

しょんた塾のシンボル「エゴの木」

幾万年か昔、氷河期が終わり海進の時代、落葉樹林と下生え、そしてそこを棲かに暮らしていた生きものたちは、北へあるいは山に、森とともに冷涼な環境を求めてゆっくりと移動していきました。しかし、移動を阻まれ、おきかわっていく照葉樹の森にとりのこされ、ひかりを失って滅びたものたちが大部分でした。縄文の祖先たちが、あらたにひろがる照葉樹の森を焼き、原始の農耕を始めたとき、何回かのささやかな収穫のあとに放置された原野にひらけたひかりのもとで芽生えるかつての落葉樹が育ちはじめました。滅びる運命にあったものたちは、息をふきかえし、縄文人の焼き畑とともに移動して生きる術を身につけたのです。
幾千年か昔、海を渡ってきた祖先たちが、河口の沖積地ではじめたイネの文化をひろげはじめました。葦原からはじまったそれは川を遡り、氾濫をくりかえす肥沃な土地から、水路をうがち田をひろげ次第に洪積地に進んできました。ひとびとは、洪水の恵みから離れたかわりに、森を伐りひらき地力をささえるみどりの恵みを田にそそぎました。このひろがりにつきしたがって暮らしをひろげ、ひらかれた原野に縄文のときとおなじように、かつての落葉樹とそこに暮らすいきものたちが、あらたな生活の場を得ることになりました。

幾百年か昔、イネはたくさんのひとびとを養うようになり、建設と破壊、戦乱の波がくりかえされ、奥山の森は伐り拓かれて城郭や伽藍、都市のおびただしい需要にこたえました。ひとびとは斜面にまで田をひろげ、小川の流れはおろか森の湧水まで水源にしてみごとな棚田にかえていきました。良材を欲する支配者と棚田をひらくひとびとのあいだに一種の「休戦協定」が成立し、留山、留木に支配者の独占を認め、それを育てる労働力を提供するかわりに田を維持する刈敷や柴粗朶を供給する「やま」を確保しました。

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