市民」 

      教育を語る ひとりひとり 政治を社会を語る そんな世の中になろう
                                              
                              
        2000.7.17月曜日


第23弾 矛盾をバラまき、育むプロ教師教育論

次は、「保護者会に見る『この親にしてこの子あり』」(p110)と題した教育論だが、題名からして「子ども性悪説」との予測がつく。「生徒会活動は自治的訓練の場」で披露に及んだ殆どの生徒の積極的な学校生活姿とはガラリとトーンを変えた、先祖返りそのものの語調である。自分が教師として授業や自治活動に加わっている場合の生徒は自己の教育的力量に関係してくるから、教育の行き届いた舞台設定を必要とし、そこででの出演者もそれなりに素晴らしい人物として描かなければならないからだろう。そういった御都合主義の点に関しても、十分にプロと誇れる才能の持主なのである。

マスコミも教育関係者もこぞって「真面目でおとなしい、勉強のできる生徒ほど危険だ」と言う。裏を返すなら、そのような生徒にとってこそ、生き辛い学校社会となっているということである。「非行歴」があったり、「特別なツッパリ≠フ生徒」(p75)といった、学校社会では当り前ならアウトロー扱いされる人間の方が生きよい世界だというその倒錯性は何を意味するのだろろう。

「真面目でおとなしい、勉強のできる生徒ほど危険だ」とか、「ふつう≠フ学校のふつう≠フ生徒」「問題の根本だ」(p86)とか口に出して言うだけで、倒錯社会のままに放置している責任――「真面目でおとなしい、勉強のできる生徒」を生き辛くさせていることに関して無為無策・無能であることの責任は、学校社会の管理運営者たる学校・教師こそが優先的に引き受けなければならないはずである。ところが特にプロ教師においてはそのような責任意識のカケラさえもないから、「この親にしてこの子あり」などといった責任転嫁が可能となるのである。

「全体会での説明」の場面では、「新学年第一回の保護者会」は、「一年生からの出席状況はほぼ半数だった」と、その悪さを一旦は強調しておきながら、「この日、授業参観はなかなか出足がいい。各クラスいっぱいになっている。体育館での全体会も九十人を超す参加者で、ますまずと言っていいだろう」(p110)「保護者」の協調と熱心ぶりを強調しているが、それは「全体会では学年主任の」プロ教師が「学年方針と進路についての考え方を話すことにしてある」(p110)ということで、例の如くにプロ教師自身が関わっているからこそのお褒めなのだろう。もっともその成果を誇るに相変わらず「参加者」の規模を基準にしているのも、形式主義者・権威主義者の面目躍如と言ったところか。

「学年経営の方針として、私はつぎのようなレジュメを用意した。
 @義務教育の目的――一人前の社会人として、社会で生きる基礎的な力を身につ
  けさせること。
 A内容は基礎的学力、基本的生活習慣、集団生活のやり方(社会性)の三つであ
  る」
(p111)

3年生になって、今さらながらに「義務教育の目的」でもないだろうに。それとも、3年生になって初めて「義務教育の目的」が生じるとでも言うのだろうか。そうではないのだから、プロ教師の学校教育者としての体裁を整えるために持ち出した綺麗事のスローガンに過ぎないのだろう。

「基本的生活習慣」「集団生活のやり方(社会性)」に関してプロ教師が言っていることは、「好きなことは何やってもいい」とか、「教師の言うことなんか聞かなくていい」といった、自己中心的な生徒像を提示するばかりで、学校と言う社会で一個の人間として立たせることもできない情けない無能力をさらけ出すだけの状況にあると言うのに、「一人前の社会人」に向けてどう教育し、実社会にどう位置させようと言うのだろうか。実際にしていることは、テストの成績の底上げ教育を通して高校に押し込むだけのことで、「基礎的学力」とは学歴獲得(=テストの成績獲得)に必要な「学力」の範囲にとどまっているのが現状ではないか。

大学入試科目数の軽減による学力の低下は、「基礎的学力」学歴獲得(=テストの成績獲得)に必要な「学力」の範囲にとどまっていることの証拠である。

「集団生活のやり方(社会性)」に関しても、社会に対する認識を深める契機とせず
、自己啓発の意識もないなら、
「生徒が自分たちで考え、決め、実行していく」とい
う体裁を取っていたとしても、単に機械的な集団行動で終わるだけだろう。それが

学力」以外の内申点に影響するとなれば、なおさらのことである。このことは次の項
目にも関係してくる。

「B生徒に強制する分野とまかせる分野をはっきりと分け、まかせる分野について
  は、生徒が自分たちでやっていくよう指導する。自治的分野は少しずつ拡大し
  ていく」
(p111)

「自治的分野」は、既に形式や数だけを誇る、自己啓発を伴わない、単に行うだけの範囲のものと判明している。いわば、体裁だけで行っていると言っても過言ではない「活動」で終わっている。同時にプロ教師の学校教育者としての体裁を飾る綺麗事でしかないと言うことである。

大体が、「強制する分野とまかせる分野をはっきりと分ける」ことが可能だと思っているのだろうか。「まかせる分野については、生徒が自分たちでやっていくよう指導する」こと自体に「強制」「強制」に対する同調と従属が入り込まない保証はないのである。これとこれを「まかせる」と指示したとしても、自己発展や自己啓発を前提とし、成果とするプロセスを期待したものでなかったなら、機械的同調と従属を引き出すだけの「まかせ」たでしかなく、生徒の側から言えば、これとこれを「まかせる」と言われて、言われただけのことを自分たちでしただけなら、機械的同調と従属を満たすだけの「まかせ」られたということになるだろう。例えそこにあれやこれやの工夫があったとしても、「河川敷の」「ゴミ集め」を競わせ、「表彰」形式としたように、単なる技術的な積み重ねか対応で取り繕う発展しか期待できないだろう。

また、教師対生徒の人間関係を日常的に成り立たせている授業の場で、授業そのものの形態を集団主義的・権威主義的な意思伝達から、生徒たちが教師と共に考え、共に意見を述べ合う双方向、あるいは全方位の言葉の闘わせを構造としたものに変えることによって、教師を、生徒を教える人間から、考えさせる人間に役割変化させなければ、授業だけではなく、「自治的分野」に関しても、生徒に「まかせる」形へと持っていくことは不可能だろう。考えさせることによって、自己啓発の育みが可能となり、自己啓発の獲得と並行して主体性自律性の確立が可能となり、そこで初めて真に自律的な「まかせ」られた行動が取れる。

授業が教師が教えるだけで、生徒に考えさせる(=「まかせる」)形になっていないからこそ、「計算技術は得意だが、物事を多角的に把えて考える能力に欠ける」という国際的に比較した場合の最近の日本の子ども事情があるのである。

最近新聞記事をスクラップしていて、「小・中学校で二〇〇二年度、高校で二〇〇三年度から導入される」「内容」「3割減」を含んだ「理科の新指導要領」が、「相次ぐロケットの打ち上げの失敗や地下鉄事故など、『技術立国日本』のほころび」「
に追い打ちをかけかねないと学校現場で不安を呼んでいる」
(00/5/10「朝日」朝刊)という記事に気づいた。

新聞の言う「『技術立国日本』のほころび」は、「理科の」「内容」「3割減」となっていない状況での現象なのだから、「ほころび」の原因は直接的には「内容」の量的な問題とは無関係である。記事は「九〇年代初めの調査」だとして、次のように紹介しているが、「日本の教育水準、とくに理数系の理解度は国際的に高いレベルにあると、長年、信じられていた。が、実はそうではない。『地球の中心は熱いですか
?』『光と音はどちらが速いですか?』という基礎的な科学知識について質問した結果、日本人の正答率は先進十四カ国中、二番目に低かった」
ということも、これから導入予定の「理科の新指導要領」以前の問題であって、いわば十分に「内容」を教えられたはずの結果としてあるもので、別のところに原因を探さなければならない。

勿論、「内容」「3割減」「『技術立国日本』のほころび」を加速させる可能性もあるが、原因が量的問題でないのだから、「内容」を従来どおりに維持したとしても、「ほころび」を止めることはできないことも考えられる。

すべてを教えられたからと言って、すべてを覚えているわけではない。同じ理科の内容に限っても、好きな分野、嫌いな分野、あるいは得意な分野、不得意な分野もある。「『地球の中心は熱いですか?』」も、「『光と音はどちらが速いですか?』」も、教えられて記憶している人間にとっては簡単に答えることができる。しかし、教えられたが、記憶に残っていなかったとしても、あるいは教えられなくて、その事柄に関する直接的な知識を持っていなかったとしても、他の事柄や出来事との関連から、間接的に答を連想することは決して不可能ではない。想像力と応用力の問題である。いわば、「地球の中心は熱い」かどうかという知識に直接的には無知であったとしても
、物体や物質、さらに自然現象はすべてがそれぞれに独立した固有の性質で成り立っているわけではなく、一定の法則で系統づけることのできる似通った性質で類別可能なため、知っている知識によって他の性質が類推可能となるのだから、類型として成り立たせている一定の法則を
総合的な知識として与えていたなら、そのような総合的な知識の一つとして物体に圧力を加えると熱を帯びるという性質から、地球の中心は相当な高温だと推測できるはずである。

また、「光と音はどちらが速い」かどうかも、遠足やレジャーで登山したときに自分が実際に試した木霊(こだま)が暫く時間を置いてから撥ね返ってくる経験、あるいはカミナリというものがピカッと光ってから、ほんの数秒置いてゴロゴロと鳴り響くのを実際に耳にする直接的な経験や、映画やテレビでそのシーンを見たりする間接的な経験は多くの人間が遭遇することで、そのような経験を総合的に関連づける訓練を教育の必要事項としていなければならないという事実に照らし合わせるなら、「『光と音はどちらが速いですか?』」という問いの答に当てはめることは難しいことではない。

ところが、「日本人の正答率は先進十四カ国中、二番目に低かった」という事実は、
総合的に物事を関連づける想像力の育みを教育としていないばかりか、
プロ教師の言
「生徒が考え」る教育が、実際は「考え」る余地(=関連づける余地)を必要としないいい単発的な知識の授受で終わっていることの何よりの証拠となるものだろう。

江戸幕府は何年に成立したとか、知識を単発的な形で表面的に教えるだけでは、テストに備えた場合はその場の間に合わせとしては効果があるだろうが、生徒の想像力(「考え」る力=関連づける力)を刺激して発展や飛躍、あるいは応用への期待は難しく、記憶忘れや最初から知らない知識には手も足も出ない不様さを露呈するのが精々である。それがまさに、「日本人の正答率は先進十四カ国中、二番目に低かった」という状況なのだろろう。

となると、「理科の」学習「内容」「3割減」とならないうちからの「『技術立国日本』のほころび」は、欧米の技術を真似して、それを拡大・発展させてきた現在の姿が、元々自らの想像力(創造力)を土台として確立した技術を積み重ねてきたもの
ではなかったことの限界――真似、あるいはなぞりの飽和状態の現われではないだろ
ろうか。

逆説的に言うなら、学習内容の増減を問題とするのは、学校教育が知識を総合的に溝築する能力の育みを不可能事とし、表面的な知識の植えつけに終始しているからであろう。

「C生徒が自分からやることことを大切にし、いろいろな生徒がいろいろな場面で
  活躍できる場をつくる。評価をきちんとし、学力だけで評価することはやめる
  」
(p111)

よく言うよと言いたい。綺麗事もここまでくれば、プロ級を超越して天才級である。自己啓発へとつながっていく考えさせる教育(=言葉の闘わせ教育)のない場所では、「特別擁護老人ホーム」訪問や「河川敷掃除」で指摘したように、真に自律的・主体的な「生徒が自分からやる」行動は生まれはしない。大きくは学校・教師の指示
、あるいは意思が
「生徒会本部」を通して背後から生徒を遠隔操作しているのである
。そのような行動をどう
「大切に」されようと、どう「評価をきちんと」されようと
、内申点のための実利性以上のものは出てこないだろう。

実際には学校社会での生徒評価は、「ボランティア活動」「自治的な活動」よりも
、授業の場でのテストの成績が優先され、ときにはそれが人間評価の決定事項ともなっているのである。だからこそ、
「学力だけで評価することはやめる」と宣言せざるを得ないのである。勿論のこと、それは「学力だけで評価」してきたことの裏返しとしてあるものなのである。

だが、「やめる」とどのように宣言しようとも、「八割ぐらいの生徒が塾へ行っている」という現状を証拠として挙げることができるように、学校社会(校長以下の教師
)が学力を主体的価値観とし、テストの成績を人間価値尺度としている状況に何ら変化はない。どう
「やめる」のか、社会(大人たち)の学歴主義とどう折り合いをつけるのか、折り合いをつけられるのか、具体策は何も示してはいない。言って見れば、政治家のカラ公約に等しい。ただ「やめる」と言って澄ましていられるプロ教師は世界一の幸せ者である。

もっとも生徒たちは腹の中では口先だけのことを言ってやがってとせせら笑っていることだろう。

戦前の日本社会の軍国主義を率先勇躍して学校社会に取入れ、生徒に軍国主義教育を強制したように、戦後日本社会の学歴主義を学校社会に取込み、学歴教育を強制してきた前科どころか、今なおその手の犯罪を犯し続けているのである。学歴主義の尖兵として、それを社会と連動させた状態から、学校だけがそれぞれの生徒をそれぞれに一個の人間として正当に「評価」する断絶を実際行動として行うことが可能なのか。教科書の内容を教え、その成果をテストで問うことを主体とした従来どおりの教育形態・従来どおりのモノサシに決別を告げ、それに代るモノサシを創造できるのか。そこまで踏込まずに「やめる」は、口先だけの言葉と言われても、反論しようがないだろう。

今まで散々に生徒を「学力だけで評価」し、それでもって生徒の人間としての価値を計っておきながら、具体策も示さずに180度の姿勢変換である。「自治的活動」を形式と数でしか誇れないプロ教師である、知識の教えに関する生徒「評価」の新しいモノサシの創造は望むべくもないだろう。

日本人が否応もなしに親から受継ぎ、幼い頃から習慣づけられて性格の隅々にまで、社会の隅々にまで染み付いている権威主義から派生した、今の時代の学歴を重要な権威とする学歴主義(=学歴権威主義)(それへの顕著な追随現象としてあるのが塾80%という現実なのである)への批判・考察なしには、従来の評価方法に変化の期待は持てない。いわば、塾80%、あるいは学歴社会という現実を前にして、「学力だけで評価することはやめる」という言葉だけでは、決して問題解決にはならない。プロ教師は矛盾したことを言っているに過ぎない。矛盾のバラまきと言い換えてもいい。

いわば、「ボランティア活動」「自治的な活動」よりも、生徒の自己実現はテストの成績によってこそ、満足の行く形を取るのが現在の学校社会での現実であることに変わりはないのである。そのような現実を打破し、変化させるには、テストの問題を誰もが解けるように小人数教育にするとかではなく、生徒それぞれの価値観に合わせた学校形態にすることによって、学歴(=テストの成績)を肩を並べて数あるうちの単なる一つの価値観に持っていく以外に道はないだろう。(そのような学校形態はすでにホームページ第6弾「2000年時代の「小学校授業改革」(12/23・更新)と、第9弾中学校構造改革」 第1部第2部 (2000/2/10・更新)で詳しく述べている)

学歴を主体的価値観として、それを生徒に強制する学校社会を率先的に維持・構築している間は、「いろいろな生徒がいろいろな場面で活躍できる場をつくる」のはどう逆立ちしても不可能なことである。ある科目のテストでどうしてもいい点を取らなければならないとなったら、「ボランティア活動」どころではないだろう。「いろいろな生徒がいろいろな場面で活躍」したことに対して「評価をきちんと」したつもりでも、テストの成績が優先的な人間価値尺度となっている以上、その「評価」はテストの成績の下位に位置させられる宿命から免れることはできない。そのような学校価値観に生徒の誰もが支配されているのが現状であり、現実なのである。勿論のこと、直接的に支配しているのは学校・教師である。

それを無視して、「学力だけで評価することはやめる」だとか、「いろいろな生徒がいろいろな場面で活躍できる場をつくる」だとかは、口先だけの綺麗事と矛盾のバラまきと言う以外に表現しようがない。

もし、「特別擁護老人ホーム」「ボランティア活動」での老人介護に自己の「活躍できる場」を見い出したとしたら、その生徒は学校社会における最上位価値であるテストの成績に「活躍できる場」を見い出せず、それに代る下位価値として老人介護を受入れたものだろう。もしそうでないなら、テストの成績を優先させ、テストを自己活躍の機会とするだろう。

それはそれで否定するつもりはないが、もしそうなら、自分が「活躍できる場」を見い出せない従来の授業から解放し、「特別擁護老人ホーム」をその生徒の実習の場として、学校は老人介護を学問する場とすべきだろう。そうすることによって初めて、「いろいろな生徒がいろいろな場面で活躍できる」生徒それぞれの自己実現が真に確立可能となるはずである。

「≪学年目標≫」としていくつか挙げたうち、最後の二つは、「・他人を思いやり、共に生きる場をつくる ・自分の力で進路をきりひらく」(p111)とある。

言っていることは素晴らしい。出席した親の多くは、なんて素晴らしい教師だろう、プロ教師と自称するだけのことはある、立派だと、子どもの将来に安心と夢を抱いたことだろう。だが、「他者を受入れようとしない固い自我」「好きなことは何やってもいい」という今の生徒をどのような方法でどのように指導して「他人を思いやり
、共に生きる」
姿勢への転換を図るのか、具体策は何も示していない。大体がプロ教師が言っている「教師の言うことなんか聞かなくていいという雰囲気」の裏を返せば
、生徒に通じる言葉を教師が持っていない結果としてある状況である。そのような言葉の問題を抜きに、その上具体策も示さないでは、スローガンでしかない宿命を最初から背負っていると言わざるを得ない。

「自分の力で進路をきりひらく」にしても、総体的には自分の成績に見合った高校、さらには大学を選択するといった、応急的に段階を踏んでいこうとする、その場、その場を取り繕うに過ぎない「進路」決定に限定されたもので、自分は何をしたいのだろろう、何をなすべきなのかといった自己の可能性を問い詰めて描き出した将来的な自己実現に向けた「進路」決定とはなっていない。

もしそうではないと言うなら、学校社会においてテストの成績を人間価値尺度とする価値観はその姿を消しているはずだし、「学力だけで評価することはやめる」などと
、わざわざ宣言する必要も生じないだろう。

「私はとくに、最近の生徒の状況と、親に望むことをつけ加えた。
 @この学年の生徒たちは、入学して以来ひじょうに素直で教師の言うことはよく
  聞くといういい点を持っている。
 Aしかし裏を返すと、言われなければやらないということでもあり、 一年生の
  はじめから学年として『みずから進んで行動しよう!』をスローガンに活動し
  てきた。
 Bその成果がはっきりしてきたのは二年生の三学期からである。生徒たちのなか
  に、自分からやろうという雰囲気が広がってきた」
(p112)

そして、「修学旅行」「役員が六十五人でなるべくだぶらないようにしたから」「三年生を送る会」「学年としての劇」「スタッフ」「総勢六十一人」「立候補」し、「この時期百人以上の生徒が活動したことになる。学年生徒は百六十人だから、これはものすごい数である。二つの行事は、生徒の力で大いに盛りあがり大成功ということになった」(p112)

「Dその成功をバネに、卒業式の会場準備もボランティアでやることにした。二年
  生が気持をこめて会場づくりをやろう。そのためには自分から気持ちよく仕事
  をすることが大切だ。大変な仕事だが自分から立候補してほしい」と呼びかけ
  た。集まるかなと、少し不安だったが、各クラス次々に手が挙がり、四十六人
  の生徒が集まった。人数としてはちょうどいい。(中略)教師が怒鳴る場面は
  まったくなく、(中略)
  生徒たちは二年間で大きく成長し自信をもってきたようである」

「E」
「入学式・始業式」の前日の「準備登校」「清掃」「体育館の式場づくり」(p112)の模様である。「これを百六十人でやるのである。一か所四人ぐらいしか割り当てられない。体育館だけで二十人である。・・・・ところが、三年年生になったという自覚もあったろうが、みんな一生懸命働いて、一時間近くでほとんど終わってしまった。他学年の教師がその働きぶりに驚くほどだった」(p112)

プロ教師が誇らかに描き出している「最近の生徒の状況」からは、やはり「他者を受け入れようとしない固い自我」も、「好きなことは何やってもいい」という性格傾向も見えてこない。万事メデタシ、メデタシの「状況」である。自分のクラスの生徒を俎上に載せて「子どもが変だ!」(p72)と雑誌に記事を載せていながらのこの矛盾のバラまきに辻褄を与えるとしたなら、やはり父兄に自分が有能な教師、プロの名に恥じない素晴らしい教師だと認知させるための舞台装置として、自らの指導による、
二年間で大きく成長し自信をもってきた」積極的な生徒像は必要不可欠だからなのだろう。

いずれにしても、「学年としての劇」「スタッフ」「総勢六十一人」だとか、
この時期百人以上の生徒が活動したことになる」とか、「学年生徒は百六十人だから
、これはものすごい数である」
とか、相変わらず数を誇り、それを手柄とする形式主義者ぶり、権威主義者ぶりを発揮している。

確かに生徒は「他学年の教師がその働きぶりに驚くほど」「みんな一生懸命働い」ただろう。だが、「その働きぶり」が授業で味わわなければならない鬱屈に対する反動からの解放感のなせる業だとしたら、当初から自律性・主体性を出発点としたものではない「活動」でしかないということになる。

もし自律性・主体性を出発点とした「活動」だったなら、授業においても生徒はそれぞれに自律性・主体性を自己の行動様式としていたはずで、次にプロ教師が示す家庭への最後の要望事項と「進路についての考え方」(p114)に描かれている親と子の非主体性・非自律性とは矛盾することになる。すべてが綺麗事と矛盾のバラまきでしかないから、ほぼ全文をここに書き出してみる。

「・子どもを学力だけで評価することはやめる。勉強しろ、勉強しろと追い立てる
  ことはやめる。
・子どものいい点をよく見て評価し自信を持たせてほしい。他の子どもとの比較を
 して、だめだ、だめだと言うのはやめてほしい。
・進路についても、学力だけで決めるのはやめ、いろんな要素を考えて、子どもと
 しっかり話し合って決めてほしい。

つづいて進路についての考え方について話した。
@進路はあくまでも生徒個人と親の問題である。
Aだから、生徒と親が相談し、なるべく生徒の力で考え選ぶことが大切である。
B進路を決めるためには、生徒の能力、生徒の好み、将来の希望、経済的問題など
 を総合的に考えることが必要である。能力のなかには、どのくらいできそうかと
 いうこともふくまれる。
Cだから、進路は個人的な問題で、そのための準備もみんなちがうから、他人を巻
 き込んで大騒ぎしないようにすることが大切である。
D教師の立場はあくまでも援助者である。
E具体的には、高校、専修学校・高等技術専門学校、就職など方向を大きく決め、
 その上で細かく考えていくことになる。
FG
は省略。

以上を説明したうえでとくに、重ねて次の点をお願いした。
@生徒の総合的な能力をなるべく冷静に判断する。
A他人との比較をしない。とくに「そんなことやっていると高校へ行けないよ」と
 か、「サボっていると、○○高校しか行けないよ」とか言うことはやめてほしい
 。高校へ行かない生徒もいるし、○○高校へ行く生徒だっているのである」
(p115
  )

「進路」は社会(大人たち)の職業差別主義に連動している学歴主義(=学歴差別主義)と深く関わっており、「個人的な問題」であると同時に、社会的な問題でもある。「なるべく生徒の力で考え選ぶ」を主旨としていながら、要望全体は学校・教師の指示、あるいは干渉で成り立ち、プロ教師自らが指示・干渉の介在者となっている。

なぜなら、現実にはそうなっていないからこそ、事細かに指示し、事細かに干渉しなければならないのである。学校・教師自体が成績主義・学歴優越主義の罪を犯しているのである。いわば、プロ教師自身は気づきもしないことだが、学校・教師の役割を果たす目的のためにのみ、あるいは学校教育者としての体裁を整えるためにのみ、現実にはそうならないことをなるかのように要望するという詐術を鉄面皮にも演じているにすぎないのである。これほどのシラジラしさ、これほどの欺瞞はないだろう

もしプロ教師が永遠に三年生担当となり、永遠に学年主任の地位にあったなら、毎年毎年同じ内容の要望を「保護者会」で伝えることになるに違いない。既に何回かは、あるいは何十回も同じことの繰返しを演じている疑いもある。

次は、「全体会」のあとの「学級懇談会」における「PTAの学年委員」の選出に関する「自分を犠牲にしてまで役員をやりたがらない」(p115)と題した批判である。
役員決めから逃げようと」「例年、最初の保護者会は、親の出席が少ない」のだそうだ。「この日も案の定、学級懇談会になったら、九十人を超えていた参加者は半分以下になってしまった。一クラスたったの七名である」(p115〜116)

「各クラスとも役員決めは難航」「出席者の殆どが既に地区から役員になっていたり、小学校で役員をやっている人たちで、その人たちをはずすと、候補者はほとんどいなくなってしまう。当然出席者から不満が出ることになる。これじゃあ、欠席したほうがよかった、みんなずるいというわけだ」(p116)

既に引受けている役員が積極的意志によるものではなく、仕方なしの妥協によるものだから、「これじゃあ、欠席したほうがよかった、みんなずるい」という損得勘定レベルの問題と化すのだろう。「学級懇談会」への出席も、既に他の役についているから、新しく指名されることはないに違いないという予測からのものだと疑われても仕方があるまい。そのような予測が裏切られそうな状況に立たされとき、損得勘定が露骨な形で噴出する。

もしこれ以上の役員の引受けは時間的に余裕がないなら、ないと言うべきである。時間的余裕があったとしても、能力的に無理なら、無理と言うべきである。積極的な意志が発揮不可能で、何らかの犠牲の上に成り立たせている役員なら、無意味であるばかりか、ただなぞり、消化していく形だけの任務で終わるだろう。

それは関心や興味を持てない面白くもない授業をテストの成績のためにのみ我慢して受けるのに相当する形式的行為でしかない。

積極的意志によって引受けた役員であったなら、時間さえ許すなら、出席は当然な義務の履行であり、他人との比較で損得勘定を持ち出すべきではない。損得勘定からは建設的なものは何も生まれはしない。

「結局一クラスだけが・・・・クジ引きということで決着」「あとの三クラスは」未決着で、「代表者が個別に当たったり、土曜日に全員を公民館に集めて話し合うなどの対策を立てて解散」(p116)ということになった。

こうして仕方なしに引受けていく形式が永遠に順送りされていくのだろう。そのことの証明はプロ教師の次の言葉に見い出すことができる。

「担任が職員室へ帰ってきて口々に言っていたのは、欠席者は勿論だが、出席していた親たちも自分のことしか考えていないのではないかということである。公の仕事を引き受けるのは損だという考え方が一般的で、まわりを見まわして自分が出ないとしかたないから引き受けようという親などはほとんどいないというのである」(p116)

これは他の教師の言葉を借りた批判であるが、プロ教師自身の批判でもあるだろう。だが、この批判はPTAが義理や社交上の必要といった消極的なものでしかない、「自分が出ないとしかたないから引き受ける」程度の受諾で片付く(解決する)組織に過ぎないということをも言っているのである。その裏を返すと、形式が整えさえすれば十分だということであり、教育と関わって創造的なものを生み出す場とはなっていないことの証明であるばかりか、そのような運営への期待意識の不在をも証明するものであろう。

言い換えるなら、創造的な発展への契機となる建設的な意見・提案、もしくは批判は最初から計算外の上、主導する側の提案事項にそっくり同調・従属し、賛否の意思表示をして運営を滞りなく成り立たせる歯車か、決定事項をそのまま一般の親に反復伝達する単なる連絡役を「役員」に求めているに過ぎないことになる。

プロ教師は気づいていないらしいが、金銭的な報酬が見込めなくても、自分は役に立っているといった高度な精神的報酬が見込めるか、あるいは両方とも見込めなくても
、虚栄心や世間体を満足させるか、逆に余程の金銭的な報酬が保証される役目でない限り、自己の時間や生活の犠牲が強いられる社会的な任務は
「引き受けるのは損だという考え方」「まわりを見まわして自分が出ないと仕方ないから引き受けようという考え」、あるいは割りふられたから仕方なしに引受けるという傾向は昔からあったもので、今に始まった現象ではない。そのような消極的な社会参加の究極的なものとしてあるのが、歴史的に伝統的な日本人性となっている「お上任せ」である。

「お上任せ」とは、社会的な意志決定過程への自己意志の反映を何ら求めない、上位意志への無定見・無条件な同調・従属を構造とした自己去勢的な行動様式を意味する
。これは勿論のこと、日本人の基本的な行動様式となっている
集団主義・権威主義から出たものである。

自己意志の反映を求めない社会的意志決定過程からの逃避による上位意志への慣習的な同調・従属が、自己に不利益な事柄に関しては陰で不平や批判は展開するが、自ら立ち上がって面と向かって抗議の声を上げることのできない態度傾向へとつながっている。その顕著な例として、組織的に動員された抗議行動は存在するが、市民の間に共通する切実な問題としてある不平・不満・批判等が自然発生的に集団的な意思表示の形を取った抗議行動に発展することはまずないことを挙げることができる。

このような意志決定過程への不参加とそのことで余儀なくされている面と向かった批判・抗議の不在が、政治家や官僚の「好きなことは何やってもいい」を誘発しているのであり、プロ教師の言うように今の子どもたちの専売特許ではないのである。社会科の先生にしてはあまりの無知に驚くどころか、感心させられる始末である。

「これでは、生徒たちが、自分のことしか考えず、たいへんなことはやらない、みんなのために何かやるのは損だと、クラスの仕事や役員から逃げるのも当然と言うものだ。口で言わなくても子どもは親を見て育つのである。いまの生徒たちが一年生のときから少しずつ社会性を身につけつつあるというのに、親のほうはほとんど変らないということなのか」(p117)

言っていること自体が矛盾だらけであることに気づいていない。その鈍感さは感心に値する。「いまの生徒たちが一年生のときから少しずつ社会性を身につけつつある」のに反して、「自分のことしか考えず、たいへんなことはやらない、みんなのために何かやるのは損だと、クラスの仕事や役員から逃げる」傾向は矛盾している。「社会性」の獲得に比例した積極性で、「クラスの仕事や役員」を引受けるはずである。

また、「子どもは親を見て育つ」にも関わらず、「親のほうはほとんど変らない」のに反して、「生徒たち」「社会性を身につけつつある」変化は、「この親にしてこの子あり」説をプロ教師自らが破るものであるが、その変化を事実と受止めるなら、学校教育の成果だということになる。だとしたら、教育荒廃の数ある原因の中から、プロ教師が最も批判の鉾先を向けている家庭のしつけ・親の態度を排除すべきだろう。そして、そのすべての責任は学校・教師が負わなければならないものとなる。

だが、現実には家庭のしつけ・親の態度の不足を学校・教師が何ら補うことができないために、現在の教育荒廃があり、学力低下があるのである。補うどころか、学校をまじめでおとなしいタイプの生徒にとって生き辛い社会とさえしていることに対し
して、まったくもって無力なのである。

言っていることすべてに矛盾があるにも関わらず、「生徒たちの状況を危機的なものだと考えるのなら、大人の側が新しい事態≠引き受ける覚悟が必要である。引き受けるということは、何がしかの苦労を覚悟しなければならず、自分の自由や好きなことを犠牲にすることも出てくるのだ」(p117)と、相変わらず綺麗事だけはプロ級中のプロ級なのである。

「大人の側」が何をどう「引き受け」ていると言うのか。不祥事・不始末・犯罪・怠慢、何事に関してもはっきりとした証拠を突きつけられるまで、学校・教師がいじめの事実はないと誤魔化すように責任逃れするのが「大人の側」の常ではないのか。

プロ教師は、「三十代」「若いマスコミの人たち」の意見として、「自分たちの世代は個人的に関心のあることには熱中できるが、社会のこと、公のこと、他人のことには首をつっこむのはむずかしいのではないのか」と言っていると紹介している。そして、「事態が深刻なのはわかっても、それを引き受けて自分のやれることはやろうと思わないかもしれないというのだ」(p117)と解説している。

結論は、「PTA役員から逃げる若い親たちもこのような世代に属している。学校だけではなく、日本の社会は相当に大変なところに来ているのだということを、保護者会の場でも実感したしだいである」(p117)とさももっともらしげに危機感を表明している。

既に述べたように、「社会のこと、公のこと、他人のことには首をつっこ」まないのは歴史的に伝統的な日本人全体の性向であり、隣の亭主が女房、あるいは子どもに暴力を振るっても、陰ではひどいことをすると非難しても、表立っては「よその家のことだから」、「他人のことだから」と見てみぬ振りをするのが一般的な態度だった。亭主の方の、「俺の女房だ、俺の子どもだ、何をしようと、俺の勝手じゃないか」といった理屈は一昔前まで通用した日本社会だったのである。日本の社会は現在でも、そのような理屈を一部の少なくない男たちに通用させている。

但し集団主義・権威主義が強く働いている集団磁場では、その集団を規定している慣習や規則への同調・従属レベルの協調はあった。それは集団成員個々の、集団から除外され、孤立化を恐れる不安が同調・従属への一層のベクトルとして働いて集団の凝集性を高める集団力学に添った「公」性(おおやけせい)であった。

その顕著な例は、戦争中の隣組であろう。愛国心の発揚を競い、その程度を相互に監視する場ともなっていたから、非国民と非難されないためにバケツリレー消化訓練ともなれば、欠席者は一人も出なかったに違いない。

「顔が見えない」、「責任の所在がはっきりしない」という、今に始まったことではない、前々から言われている日本人の態度・傾向は自律的・主体的行為性の欠如を意味するものであろう。「会社の」あるいは、「上司の指示でやったことだ」と自己責任を回避する姿勢は、自己を一個の存在と立たしめるのではなく、会社、あるいは上司に自己を預ける自己性の抑圧、あるいは抹殺(=自律的・主体的行為性の欠如)によって成り立つが、上位権威の命令・指示が欠かすことのできない重要な契機として常に存在しているのである。

いわば、一般的には日本人は他や上からの命令・指示では動くが、厳密な意味での自分から「引き受け」行為性・自発性は本来的に資質としていないのである。もしそれらを資質としていたなら、村八分などといった慣習は生まれるはずもなかったろう

プロ教師の勤める中学校で「保護者会」があった日に自分の子どもが通っている小学校でも保護者会があり、「カミさん」「学年委員になった」(p117)話を付け加えている。

「最近の特徴は、以前は父親が保護者会に来ることもあったのだが、最近はほとんど母親が来るようになったことだ。いつからか、進路は基本的には母親が決めているという感じが強くなってきた。父親の影が薄くなっている感じなのである」(p11
7)

単純浅はかな観察でしかない。私の小学校・中学校時代は殆ど母親ばかりで、父親の姿を見かけることは滅多となかった。「父親の影が薄くなっている」と言うが、子どもの教育・しつけと、その責任を母親任せにしているに過ぎない。それはプロ教師の言う、自分から「引き受け」ようとしない性格傾向に添うものであろう。

父親にしても母親にしても、自分たちが手に入れた高い方の学歴と同等の学歴か、それ以上の学歴を子どもに望む。同じ大学卒だとしても、偏差値の高い方の大学、より有名な大学を「進路」の基準とする。影の支配者はあくまでも父親なのである。ただテストの成績(学歴)を唯一の可能性とし、それでしか人間の価値を計れない父親が
、母親にしても、それを優先的な価値観とし得ない子どもの拒絶反応にあい、相対的に
「影が薄く」なる場合はあるだろろう。拒絶反応がときには家庭内暴力につながる原因
因の一つとなる。

あるいは、母親から学歴信仰を植えつけられ、学歴を人間価値の基準とするようにな
った子どもからは、ハンパな学歴の父親は
「影が薄」い存在と見なされる場合もある

「息子のクラスも私の学校と同じで、出席者が少なく、しかも役員になっていない人はほとんどいなくて、みんなやる気がない。最後はクジでということになって、それだけは恥ずかしいからと手を挙げたというのだ。今年は息子のサッカークラブの役員もやることになっており、できればやりたくなかったのだが、まわりを見まわしてしかたないと思ってやることにしたという。
 カミさんは専業主婦であるが、家で刺し子の仕事をしており、秋には展覧会も控えていて、決して暇というわけではない。私は彼女の決断に心のなかで拍手をし、忙しくなったらできるだけ助けようと思った。話をしながら二人で酒を飲みはじめ、失った元気が戻ってくる気がして、いつもよりたくさん飲んでしまった」
(p118)

「クジで」という段階に至って、「それだけは恥ずかしいからと手を挙げた」のは、
夫が中学校の教師で、PTAの役員の選出に手を焼いている手前があって、自分まで他
の親たちのように手を焼かせるわけにはいかないという世間体からのものだろう。だ
からこそ、
「できればやりたくなかったのだが、まわりを見まわしてしかたないと思
ってやることにした」
のである。

プロ教師は生徒たちには「自治活動」では、「自分たちで考え、決め、実行していく」自律性・主体性を求めながら、PTA活動における親には、「しかたない」レベルの不承不承の消極的同調・従属を真っ向から承認する矛盾を犯して平然としている。相反する二つの姿勢(生き方)は、それが一つの局面で相対したとき、当然軋轢が生じる。

例えば、「若いうちから色々と経験するのはいいことだから、積極的にやれ(やりなさい)」、「そんな役引受けていいのか(いいの)。クラブ活動もあるんだろ(あるんでしょ)。勉強する暇あるのか(あるの)」と言う親の態度のいずれかに同調できる子どもの場合はいいが、それぞれの態度に反対の姿勢を持っていた場合は反発に始まって、衝突へと向かわないとも限らない。

また、「役員になっていない人はほとんどいなくて、みんなやる気がない」というのは、一度しているからもう十分だ、あるいは、もう私にはまわってこないだろろうという拒絶反応の表われであり、プロ教師が主張している、「引き受けて自分がやれることはやろう」という姿勢と矛盾する。例え「カミさん」「手を挙げた」としても
、結果オーライであって、経緯そのものは中学校の母親たちと五十歩百歩の状況を示すものである。

また、「今年は息子のサッカークラブの役員もやることになって」いるとか、「刺し子の仕事をして」いるとか、あるいは「秋には展覧会」といった多忙に対する配慮は専業主婦という事情を考慮すると、勤めに出ている母親に比べて、プロ教師の指摘どおりに「毎週集りがあるわけではなく、少しやりくりすればできない仕事ではない」はずで、そのような批判に矛盾する弁護となる。勤めに出ている母親の中には夕方遅くに閉める商店を勤め先にしていて、それこそ遣り繰りが難しい立場の者もいるはずである。「カミさん」の多忙は斟酌できても、他人の多忙は斟酌できない自己都合心理に立った弁護でしかない。

「彼女の決断に心のなかで拍手をし」たとか、「いつもよりたくさん飲んでしまった」とか、いい気なものである。これこそプロ級の我田引水、手前ミソと言うものだろう

「保護者会に見る『この親にしてこの子あり』」がテーマにしては、「子ども性悪説
のトーンは抑えられていて、「親性悪説」(勿論自分の「カミさん」は除いて)ばかりが目立つ一章であった。「家庭の変質は、社会の大きな変化のなかで起こったことである」(p87)と情状酌量を与えていながらの極刑にも等しい「親性悪説」となっているのも、自ら矛盾を犯すものだろう。

プロ教師は矛盾を資質としていて、政治家の果たす気もない公約のように気前よくあっちこっちにバラまき、33年間もバラまき積もらせた矛盾が成長して、教育の矛盾=教育荒廃へと花開いたと言うわけなのだろう。勿論プロ教師一人の矛盾ではない。綺麗事と矛盾で教育を語る似たり寄ったりの教師たちの意図しない協力・協調あってのことである。

最後に、7/14の「朝日新聞」の朝刊に、大手製薬会社の会長が57歳の長男の同社取締役が84歳の同社顧問に長期にわたって無言電話を掛けて書類送検される事件の責任を取り、辞任するという記事が載っていた。長男は大学教育も受けたろうし、それなりに社会的経験を積み重ね、社会性や良識というものを十分に弁えていなければならないはずの人間である。いわば高度に成熟した社会人となっていなければならない男が、動機の是非は別に、それを裏切って、無言電話を手口としたことはバスジャックや金属バット殴打・殺人を上回る非常識・卑劣な行為であろう。何も17歳ばかりではないのである。政治家や官僚の不詳事事件も含めて、プロ教師の言葉を借りて感想を述べるとするなら、「ふつう以上の社会のふつう以上の社会人が新しい大人≠ニして登場していることが問題の根本だ」ということになるだろろう。

 

     今回はここまで次回の 
「子どもを、学校をだめにする母親パワー」
批判         8月上旬予定

どうも「子ども性悪説」から「母親性悪説」にシフトを替えつつあるようだ。何と愉しみなことか!!はっきりと分かっていることは、「教師性悪説」は絶対ナシだと言えることである。

 

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