はやし浩司
経歴01-5-7
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はやし浩司のこと (Profile)

何かの機会で、はやし浩司の紹介を
してくださる方は、どうか、お使いください。

 
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●北海道大学教授、杉野目晴貞先生と。
韓国板門店(ハンムンジョン)の会議室で
国連側の説明を聞いているところ。
先生とは、プサン、仏国寺、テグ、慶州、
ソウルなどを、いっしょに旅行した。
1967年。

杉野目先生は、北大学長、日本化学会会長
などを歴任。当時の日本を代表する、
化学者であった。

左が私。満19歳のとき。

岐阜県生まれ
金沢大学では法学を学びました。

クラブは、1〜2年のころは、合唱団と謡(宝生流)に属していました。
3〜4年は、法律相談所に属し、北陸の各地を毎週のように回っていました。

大学2年生のとき、UNESCOの交換学生に選ばれ、
韓国に渡りました。まだ国交のない時代で、
プサン港ではブラスバンドで迎えられたりしました。


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当時、日韓の間には、国交がなく
私たちはUNESCOを通して、
韓国に渡りました。
韓国側から日本へきた学生は、
その大半が、今、韓国で
国会議員や大会社の社長となって
活躍しています。

4年生のとき私は迷わず「商社マン」の道を選び、三井物産と伊藤忠商事の
二つに就職が内定しましたが、「大きいほうがいい」ということで、
三井物産を選びました。が、その後留学生試験に合格したので、
就職を1年、延期してもらい、オーストラリアへ渡りました。

オーストラリアでは、メルボルン大学のインターナショナル・ハウスで
生活しました。このころの思い出を書いたのが「留学記」です。
どうかお読みになってください。

またそのとき、3か月、寝食をともにしたのが、
恩師・田丸謙二先生(日本学士院賞受賞・東大元副総長)でした。


私の山荘にて、田丸先生と……(2002年末)
田丸先生の娘婿氏が、「国家の品格」の著者の藤原氏です。
田丸先生……●

帰国後は、三井物産に入社しましたが、オーストラリアでの生活とは
まったく違った生活に、心身ともに疲労しました。
大阪では、中之島(昔の船場)で、
毎日電話を相手に、悪戦苦闘。忙しいなんてものでは
ありませんでした。

が、東京にいた友人からビジネスの誘いの電話があり、
三井物産は、その年の夏までに退職しました。
時に1971年のことです。

東京でしばらくビジネスをしましたが、ニクソンショックで、仕事は頓挫。
流れるようにして静岡県浜松市にやってきました。

浜松には長くいるつもりはなく、
機会をみてまたオーストラリアへ
行くつもりでした。

浜松では、お金になることは何でもしました。翻訳に通訳、貿易の手伝いや
顧問、それに代筆もしました。テレビで英会話を教えたこともあります。

ある日、あるタレントドクターの依頼で、『幼児向けの性教育』の
本を書くことになり、市内の幼稚園を回りました。
そのとき出会ったのが、松下哲子(故人)先生でした。
先生が、「あんた、英語しゃべれるのか?」と言うから、
「はい」と答えました。それに対して先生は、
「じゃあ、明日からうちで教えなさい」と。

それが私と幼児教育の出会いです。
時に1972年の春のことでした。

以後7年間、毎日、午前中は、その幼稚園で教えました。
毎日各クラスをまわり、約500名の年長児と年中児を教えました。

が、何が驚いたかといって、幼児教育の世界にはまだ教材が
なかったことです。

そこで私は毎日、手作りで教材を作りました。
毎週のように外国へ行っていましたから、
行く先々で外国(主にイギリス)の幼児教育教材を
買いあさり、それを翻訳したりして使っていました。

こうしてできた教材を、あちこちの出版社に送っていました。

その教材に目をつけてくれたのが、学研でした。
ちょうど「幼児の学習」が創刊企画にあがっていたときで、
私はその創刊企画の一員として、仕事をすることができました。
そのときお世話になったのが、斎藤洋三(故人)氏でした。

この雑誌は、後に創刊された「なかよし学習」とともに、
毎月47万部以上も売れました。日本の年長児、年中児の
何割かが、この教材で勉強したことになります。

以後、無数の教材づくりにかかわりました。

そうそうちょうど30歳になる少し前に飛行機事故に遭遇し、
私はそれ以後は飛行機に乗れなくなってしまい、
教育一本に自分の仕事をするようになりました。

が、決して楽な生活ではありませんでした。
そのころ勤めていた幼稚園の園長がかわり、そのまま私は退職。
以後は、その幼稚園と市内の別の場所で部屋を借りて、
細々と幼児教室を続けました。「来年になったらやめよう」
「来年になったら、オーストラリアへ移住しよう」と、、
そんなことばかり考えて、仕事を続けました。

が、そんなとき、学研から仕事が舞いこんできました。
それが「よくできました」です。
3歳用、4歳用、5歳用、6歳用の四種類を制作しました。
これらの教材は数ヶ月で、それぞれ8万部が売れたと
当時の編集長から聞いています。以後その教材は、
二世代版、三世代版と続きました。

しかし私はこの「よくできました」で、幼児教育の情熱を
失わないですみました。

それ以後は、いくつかの市販教材を制作、指導しましたが、
最大のものは、「まなぶくん・幼児教室」、それに、「TOM」でした。
TOMは、バーコードで操作する
世界でも画期的な学習絵本でした。そのほか、
「ハローワールド」という雑誌も、一から創刊企画したこともあります。
そのとき、編集長の大塚氏が、「予算がないから」と言って
横浜のアメリカンハイスクールから見つけてきたのが、
あの西田ひかるさんです。当時高校一年生の、
その将来をそのまま予感させるような、すてきな女の子でした。


(西田ひかるさんと……)

このころ、教室を浜松市内へ移しました。

話が前後しますが、私は幼児教育を勉強するにあたって、
その当初からアンケート調査を繰り返しました。
私は「幼児から直接学ぶ」という姿勢を貫きました。
一つには、まだ幼児教育が日本では確立されていなかったこと。
多くの人は、「幼児教育」イコール、「幼稚教育」と考えていました。

……などなど

このつづきはまたの機会に!(2001年5月25日)

最後まで読んでくださって
ありがとうございました。

  
経歴

はやし浩司

金沢大学法文学部法学科卒
第2回日韓UNESCO交換学生
日豪経済委員会給費留学生
(正田英三郎氏・人物交流委員長)として
  オーストラリア・メルボルン大学ロースクール研究生  
(ブレナン副学部長に師事)
三井物産大阪支店・ニット部輸出課勤務
幼稚園講師(7年間)
BW子どもクラブ主宰(研究・実践教室)
現在、幼児教育評論家
教育評論家
子育てアドバイザー


1947年(昭和22年)生まれ

何かのことで、私を紹介してくださる方は、この経歴書をお使いください。


中日新聞(全国版)
団塊の群像・100回目
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読売新聞(全国版)
テレビ寺子屋1200回記念時に……
2000・10・3
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北国新聞
(1970・昭和45年2月8日・日曜日版)
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私が生涯において、一番幸福感を覚えたのは、
このころです。今でも、このころの私が、心の中で
さん然と輝いています。輝いているだけではなく、
その後の人生を、あたかも灯台のように、
照らしてくれています。
この赤茶けた新聞記事の中に、私の人生のすべてが
凝縮されているように思います。

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international house 1970
international house 1970 members
International House
Melbourne Univ.,
Australia
1970