ハンムラピ
シュッピルウマ
トゥシュラッタ
ムワタリ
イクナートン(アクエンアテン)、アメンホテップ4世 (在位;前1375〜前1358年)
古代エジプト新王国時代第18王朝の王。エジプト帝国の最盛期に即位して大胆にして徹底的な宗教改革をおこなった。「史上最初の個性を持った人物」と称される。中王国時代の末期に荒野の神バアルを奉じてエジプトに侵入し(※バアル神はエジプトの神セトと同一視された)、強大な第15王朝(と微弱な16王朝)を建国したヒクソスをエジプトから駆逐することで成立した第18王朝時代、はじめてヒクソス撃退の余力を駆って、エジプトの帝王たちはアジアにまで進出し、ユーフラテス右岸にまでいたる大遠征活動をおこなうようになった。 エジプト人ははじめてナイル以外にも同じような世界があり、同じような人間の住むことを知った。 多くの異邦人がナイルの国に現れ、アジアの王女たちがファラオの後宮に入って、王家の血筋に外国人の血が混じるようになる。 こうしてアジアからヌビアまでを支配し、多くの人種・民族を統括するファラオの宗教として、新しい超民族的なものが求められるようになった。 しかしながら伝統的にエジプト王家の守護神であったのは単なる地方的部族神にしかすぎぬテーベのノモスの守神アメンであった。この排他的性格の強いアメン神を、他の神々を奉ずる他部族が容易に受け入れるはずがなかった。 アメンの名の下に単なる地方神に落とされたエジプトの古い神々も、比較的新しい神アメンのことをこころよく思っていなかった。
以前の最高神ラー(エジプトの太陽神、都市へリオポリスの守神)さえアメンの化身として「アメン・ラー」と呼ばれ、ようやくその地位を保っているに過ぎなかった。 そして帝国の隆盛と共にアメン神殿に奉献される戦利品、土地、奴隷の数はおびただしく、神殿領の権力増大はやがて国家経済の規模を脅かす程になり、テーベのアメン神殿の祭司長はエジプトの全祭司団を統括して、ファラオに継ぐ権力者となっていた。 テーベのアメン神殿に対する他のノモス(州)の憎悪は、へリオポリスのラー神殿を中心として結集し、古王国以来の南北エジプトの対立の激化として、ノモスの連合に過ぎない帝国の基礎を揺るがしていた。 エジプトが、民族国家から世界帝国に再編されるためには、新しい超民族的宗教の導入、国内の調和の確立、神前勢力の権限制御が必要であった。そんな折り即位した新しいファラオは、新しい帝国の信仰のよりどころとして、どのノモスにも属さないアトン神を神々の王座につけた。 ラーの化身としてのアトン崇拝は以前にもあったが、王の創始したこの信仰は、全く新しい物であった。 アトンは宇宙の主宰、万物の創造者である唯一神で、古い神々のような奇怪な神像を持たず、太陽の光線をその象徴とした。アトンの広い愛はエジプト人も異邦人も、主人も奴隷もまた人も動物もすべて等しい存在として抱擁し、善と公正と真理のみを祝福する普遍的な神格であるとされた。 自然と真実を重んずるアトンの教えはアマルナ芸術と呼ばれる特異な芸術として体現され、まったく伝統を無視した素朴でありながらしかし美しい写実主義が生まれた。 また、王自身の手になるアトン讃歌のあるものは旧約聖書の詩篇にも比すべき優れた創作である。 ギリシャ人以前一千年にこの新しい美を発見し、キリスト以前千三百年にして唯一普遍の創造主の観念に達したこの偉大な帝王は、その肖像や発見されたミイラの研究から、狂人であったと推定されることも多い。
しかしながら、当時のエジプト社会では全く王の理想を理解せず、祭司は古い神々の復活のみを望み、将軍たちは国内の対立が植民帝国の崩壊と繋がることを憤り、民衆たちはこれまでの自分たちの信仰が禁じられたことのみを悲しんだ。 このような情勢のもとに孤立した王は少数の腹心とともに社会改革をもともなった宗教改革を断行していった。 アトン神の最大の敵対者であるアメン神の信仰は禁止され、エジプト内の全神殿領はすべてアトンへ奉献された。 次いでファラオは全ての神々の礼拝を禁じて全土の神殿を封鎖し、アトンのみの崇拝を命じた。 神は唯一人であるとの理由から「神々」という複数形の言葉の使用を禁じたのみならず、全国に石工を派遣して神殿・記念碑・墳墓から神々の名をこそぎ落とし、それは自身の父アメンホテップ3世の宮殿・陵墓にまで及んだという。
治世の6年目にファラオは自分のアメン神にちなむ名「アメンホテップ」(※「アメン神は満足する」の意)を改め、「アクエンアテン」(※「アトンによりて生まれるもの」の意)と名乗った。同時にアメンの都テーベの町を捨ててその下流300マイルの地を選んで新都アケト・アテン(※「アトンの地平線」の意。現在の輝・エル・アマルナ村)を造営してここに移り住んだ。 遷都以降、ファラオの生活はアトンの教義についての瞑想と、アトン讃歌の創作と、アトンのための芸術活動に費やされるようになった。発掘されたアマルナの墓地の貴族の墳墓の碑文、彫刻、絵画はこの「真理の都」の生活をそのまま伝えている。
王の死と共にアメン信仰は直ちに復活し、王のあとを継いだ娘婿の少年王ツタンカートンはツタンカーメンと改名して再びテーベに帰還し、アトン市はあとかたもなく破壊された。同時にこの改革運動はエジプト史上から完全に抹殺されてしまった。
しかし、王の掲げた理想はイスラエルの預言者を通じてイエスの教えにまで繋がり、今日まで伝えられているとされる。
アッシュールナシルパル大王(2世) (位;前883〜前859)
     古代メソポタミア文明の、アッシリア帝国の大帝王。 遠征王。
     アッシリア北西部や
シリア・フェニキア諸都市を征服し、宗主権を確保する一方、アッシリア人を
     ティグリス川上流へ植民させ、領土と耕地を拡大、世界帝国への基礎を築いた。
     カルブ(現在の
ニムルド)に新都を造営。
 
女王セミラミス Semiramis   (前9世紀ごろ)
     古代アッシリア帝国に君臨したという伝説の女王。
     
        シリアのアスカロンの魚神アタルガティスの娘だったが、年頃になると国王の牧場係ジムマスに養育されるようになり、
        その後バクトリア攻めに参加。 ここでの武勲で名が広まり、アッシリアの初代国王ニーヌスの武将オンネスの妻とな
        った。 国王ニーヌスの死後、セミラミスは女王に推戴され、国内を巡狩し、多くの都を建設した。 とくにバビロンの
        都を建設し記念碑を建てたことが重要で、国内あらゆるところ山嶽地方にいたるまで道路を建設したが、ただインド
        攻略にだけは失敗した。 この場合のインドとは、インド・アーリア族の住むメードイおよびカルダイオイの地域を指すと思われる。
        この女王の伝説は、ヘロドトス、ディオドルス・シクルス、イウスティヌスらの書物に記されているという。
        ところで、国王が死んで彼女が女王になる経緯が不明で気になるー。 
        「ニーヌス」王というのが「トゥクルティニヌルタ」だとするばあい、一体何百年生きてるんだ。 あ、神の娘だから。 
      マキャベッリ『ローマ史論(=政略論)』
            かようなわけで、名将たるものは二つのことがらを実行するように気を付けなければならない。 そのひとつは、
            何かしら新手の工夫を凝らして敵勢の肝を奪うことで、ふたつめは敵将がたくらみそうな計略をのこらず見抜
            いて、その裏を掻くことである。 インド国王が、アッシリア女王セミラミスに対して用いたのがこれである。 彼
            女は、インド国王が多数の戦象を所有しているのを見て、自分も同じように多くの象を用意しているのだと見せ
            かけて相手を驚かせようと、水牛と牝牛の皮を多数用意させてこれを駱駝にかぶせ、戦場へ押し出した。
            ところがインド国王は忽ちこれを見破り、この計略は役に立たなかったばかりか、かえって損をする原因となっ
            たのである。
サルゴン
2世 (正式な名前は
シャル・キン)   (位;前721〜前705)
     古代メソポタミア文明の、アッシリア帝国・サルゴン王朝の創始者。
       サルゴン、センナケリブ、エサルハドン、アッシュールバニパルの4代にわたってアッシリアは繁栄を
     きわめ、この1500年に及ぶ大帝国の最後を飾った。
     新都 ドゥル・シャルキン
(
現在の
コルサバード)
を造営。
     軍事的才能に秀で、即位早々サマリアを陥落させ、イスラエル王国を滅亡させる。
     その後次々とヒッタイト、ウラルトゥ、ザクロスに遠征して屈服させ、前718年には冷戦状態にあった
     メロクバラダン支配下のバビロンを攻略した。  
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       わたし(太陽領)がこの王さまに興味を持ったきっかけは、高校生のころ読んだある本に、「この王は昔の英雄のことを調べる
       のが好きで、たくさんの本(粘土板)を集め、とうとう首都ニネヴェに大図書館をつくってしまった」と書いてあったからです。 
       だってメソポタミア文明のアッシリア帝国って世界史の中で本当にしょっぱなじゃないですか。 それ以前の人物でその当時知
       っていたのはギルガメシュとハンムラビぐらい。 「いったいナポレオンもアレクサンダーカエサルもワシントンもガンジーもいな
       い世界史でなにを学べたのか?」 ということに、なぜか惹かれたのでした。  だって、そこにはまだわたしの知らない世界が
       広がっているってことです。  ロマンです。  いいですよね〜〜、 古代オリエント。  
       もうひとつ、決定的だったのは、わたしが偏愛するアメリカのチープな小説家ロバート・アーヴィン・ハワードの短編『アッシュー
      
ルバニパルの焔』にめろめろになってしまったから。  (内容はアレ、ですが、わたしの知らないはるか彼方の時代に想いを
       馳せるには格好の、絶品の短編小説でした。) 
       名王として知られた父エサルハドンが遠征中に死亡すると、その遺言に従い、アッシュールバニパルが即位する。
       しかし即位したばかりのアッシュールバニパルに、つぎつぎと難問が襲いかかった。
       @エジプトの叛乱 A兄弟の叛乱 B同盟国家の離反 である。
       @エジプトの叛乱
           父王エサルハドンは前670年エジプトを征服。ところが間もなく反乱が起こり、その叛乱を鎮圧する遠征中に死んだ。
           エサルハドンの高名な将軍シャ・ナブー・シュは、亡き王の志を継いでそのままエジプトにとどまり、カルパニティの戦い
           でエジプト軍を破った。 彼と彼の子ナブー・シェジプ・アンニ(のちのプサメティコス1世)はエジプト王を追撃したり、エ
           ジプトの叛乱を鎮圧したりしているうちに、次第にエジプトで勢力を拡大していった。
           プサメティコスはアッシリアとエラム人が戦争になったころ、小アジアのリディア王から援助を受けて事実上アッシリアから
           独立し、ナイル川河口のサイスでエジプト第26王朝を開いた。  このエジプトと、エジプトを助けたリディア王ギゲス、
           リディアに襲いかかったキンメリア王トゥグダンメ(リュグダミス)、トゥグダンメがアッシリアに殺されたため、キンメリアの領
           土を狙ってアッシリアと手を結んだウラルトゥ国(アルメニア)、この争いの隙を狙って勢力をたくわえたメディア王国(ペ
          ルシア〜メソポタミア北方の広大に領土)のディオケス王、が複雑に入り混じった泥沼戦争状態となり、相対的にアッ
           シリアの優位はおびやかされていった。
       A兄弟の叛乱
           父エサルハドンは晩年に、后の母ナキアの助言で、弟アッシュールバニパルをアッシリア王に、兄シャマシュ・シュー
          ム・ウキン(ギリシャ名サオスドゥキノス)をバビロニア王とすることを定めていた。 弟よりも低い地位に置かれた兄はこ
           れに不満を持ち、アッシュールバニパル即位後、次第に両者の間は険悪になっていった。  兄はシッパル市と攻守同
           盟を結び、またティグリス・ユーフラテスの河口付近にある「海の国」の王ナブー・ベール・シュマティ、そしてエラム王、
           エジプト王、リディア王、シリア・パレスティナの小諸王、アラビア人などと結んで、前652年に弟に対して叛乱を起こした。
           この兄弟戦争は、メソポタミア全域に及ぶ大戦争となり、双方ともに疲れてアッシリアの国力を損なうことになり、40年後
           に簡単にアッシリアが滅ぼされてしまう原因となった。
           アッシュールバニパルは戦争開始直後、すばやくエラム王ウンマニガシュ2世を破ってバビロンとの連絡を絶ち、翌年
           シッパルを陥落させてバビロンを包囲する一方で、アッシュールバニパルの将軍ベール・イブニはバビロニア南部の「
           海の国」を討ってバビロンを孤立させた。 バビロンは良く抵抗したが、アッシリア軍の完全な包囲網の前に「男児や娘
           の肉を食べ皮具を食む」状態となって、叛乱開始後4年後についに陥落した。  兄王シャマシュ・シューム・ウキンは
           燃え上がる宮殿の中で焚死し、アッシリア王はバビロニア人の生き残りたちを切り刻んだという。
      B同盟国家の叛乱
           アッシリアの南東にあるエラムは、野心的なテウマン王が即位すると、アッシリアに反旗を翻した。 アッシュールバニパ
           ルはエラムに親征をおこない、テウマンとその息子をウライ川河畔に追いつめて討った。 ニネヴェの宮殿の壁に残さ
           れている石彫りに、妃とくつろぐ王のそばにテウマン王のクビがかけられている、という図があるので、よっぽどうれしか
           ったんだろう。  ところで、兄弟戦争の時兄王を支援したエラム王ウンマニガシュ、ってのはだれ?
      とまあ、こんな具合に「兄弟の相克」(異母兄弟ですが)、「つぎつぎとまきおこる災難、苦難」、「それを手際よくスパリスパ
     
リと片づけてゆく新王」、「しかし表面上の成功とはうらはらに、老大国の寿命は確実に尽きてゆくのであった・・・・・」とい
      うように、おいしいシチュエーションがてんこもりじゃないですか。
      そもそもなぜ父王が弟の方を後継者としたのかは(わたしの手持ちの資料では)不明なのだが、父王が生存中、皇太子の立
      場を確実なものにするために、折りにふれて各方面に発布したという粘土板がたくさん残されているそうで、なにか微笑ましい。 
      内容が、親バカなパパとおぼっちゃま、という感じなのです。(ちがったらすまん)  そりゃ、兄は面白くないよな。
      これらの問題が一段落したあとの十年ちかくは、王自身の言葉によれば平和であったようである。  王は祖父が建てたニネヴ
      ェの王宮を改築し、あらたに浮き彫りをもって飾り、そこに巨大な図書館を建てて、全土に布告して大量の記録類(粘土板)を
      収集した。  前640年ごろからニネヴェの北部に新王宮を建立し、また各地に多数の神殿を建造した。  このように王が各地
      で彫り込ませた多種の浮き彫りと、1849年に発掘された大図書館の石版が、現在かけがえのない貴重な資料となっている。
      わたしの手持ちの資料では、アッシュールバニパルがどのように死んだのかという記述がない。  しかし一般には画家ドラクロ
      ワの描いた『サルダナパルの死』のエピソードが有名である。  この画はバイロンの詩にもとづいているが、「アッシリア王サル
      ダナパルがあまりに専横なためについに反乱が起こり、宮殿には火がつき、王の寝室にも危機が迫る。 王は部下に命じて、
      寵愛した女たちを集めてひとりひとり殺害させる。 迫り来る自分の死を知りながら、王は何事も無いかのように冷ややかにこの
      光景を眺める」というものだそうだ。 バイロンの劇詩では王は妃と二人で死を迎えるそうだが、ドラクロワの絵では王が寝そべっ
      て女たちの死を眺めている場面だ。  燃えさかるような画面と王の無関心ぶり、激高する情感と苦悩の群像を描ききった点が、
      称賛を浴びている作品である。
      しかし、このエピソードって、史実?  わたしの手持ちの資料では確認できない。  唯一河出書房の『世界の歴史2 古代オリ
      エント』で、この絵の小解説に「ヘロドトスの伝えるサルダナパルの話には、アッシュールバニパルとシャマシュ・シューム・ウキン
      のふたりの王のことが混同されて二重写しになっているうえ、伝説化されている」 と書かれているだけである。  
      アッシュールバニパルの死後、「海の国」の王ナブー・ベール・シュマティの子、ナブー・アバル・ウスル(ナボポラッサル、のちの
      新バビロニアの帝王ネブカドネザル2世)がバビロンを占領してアッシリアに進軍する。そしてアッシュールバニパルの死後た
      った14年でアッシリア帝国は滅亡するのだった・・・・・
         ポイント、A.過保護な父と温室育ちのお坊ちゃん 
              B.即位したと同時に襲いかかる試練と、それをひとつひとつ解決できる天賦の才。
                そして成長していく新王。
              C.学問好きな英明な王。
              D.しかし王家に伝統の、「残虐」な血はしっかり受け継ぐ。
                「破壊者の性格」と「建設者の性格」の同居。
              E.伝説として彼の残虐なイメージと、哀れな帝国の最期の様子だけが伝わった。
 
ナボポラッサル (正式な名前は
ナブー・アパル・ウスル)   (位;前625〜前605)
     新バビロニア王国建国の王。 もとはアッシリア支配下にあったバビロニア南部(海の王国)の
     属州総督だった。  前626年バビロンに入城してアッシリアからの独立・新バビロニアの建国
     を宣言、 前616年頃からバビロニア北部へ勢力を拡大、メディア王国のキャクサレス王と同盟
     を結び、前612年ニネヴェでアッシリア王を殺害して、この帝国に致命的な打撃を与えた。
     なお、上のバニパル王の説明の中に「ナボポラッサル=ネブカドネザル」であるという文章があ
     りますが、それは間違いです。 (←書き直せ)
 
ネブカドネザル
2世  
(位;前604〜前562)
     アッシリア亡きあとのメソポタミアで覇を唱えた新バビロニア王国の大帝王。 
     ナボポラッサルの息子。 繰り返しますがナボポラッサルと同一人物ではありません (←くどい)。
     前605年、カルケミシュの戦いでエジプト王ネコ2世を破り、エジプト勢力をシリア、パレスティナ
     から一掃、さらに前586年にはユダ王国を滅ぼし、2度に渡ってその国民をバビロンに移住させ
     た。(バビロン捕囚)
     
プサメティコス1世(プサメティク、正式な名前はナブー・シェジプ・アンニ、ウアフイブラー)
                   (位;前664〜前610)
     エジプト第26王朝の始祖。 強国アッシリアによって下エジプトの支配を認められたサイスの
     支配者ネコ1世の子。 アッシリアが第25王朝をヌビアに追い返したあと、ギリシャ人傭兵の
     力を借りてアッシリアの勢力をも国外に追放し、エジプト全土を支配、国内の秩序の再編成
     に努力。 この王朝は伝統的文化の復興を大々的に行った。
     
ネコ2世(ネカウ、ウアフエムイブラー)  (位;前668〜前628)
     エジプト第26王朝の王。 プサメティクの息子。 猫をこよなく愛していたのでこの名がある (←ウソ)
     ギリシャ人傭兵を雇ってエジプト海軍を創設。
     紅海とナイル川を結ぶ大運河を建設したのも実はアラビア半島にいると言われた伝説の大ネコを
     探しに行くためで (←ウソ)  さらに史上悪法として名高い「ウルタール生類憐れみの令」を・・・・
     (しつこい)
謎の人ササン   (2〜3世紀?)
    サーサーン朝ペルシアの先祖とされている人物。 一説によると、ササン朝を建国したアルダシー
    ルの父。
     ササン(サーサーン)は、226〜651年にかけてペルシャ地方を支配していたササン朝の先祖とされている人物である。
     ササンについてはさまざまな伝説が伝わっている。
         ・『アルダシールの行状』という本に書かれている説。
          アケメネス朝の王家の血を引くササンは、イスタフルを支配していたパーパク王のもとで、羊飼いをしていた。
          パーパクはある晩夢の中で羊飼いササンが王になる、という場面を見たので、自分の娘をササンに与えた。
          この娘とササンとの間に、のちにササン朝を建国することになるアルダシールが生まれた。
       ・イスラム教徒の歴史家たちによる説。
          ササンはイスタフルの寺院の祭司で、当時パールスの王だったバズランギ家のゴーチフル王の娘と結婚した。
          その子としてパーパクが生まれたが、このパーパクがゴーチフルを倒し、新しい王朝を開いた。