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英雄リスト 古代ギリシア・ローマの英雄編

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ヘクトル   紀元前7〜8世紀
トロイア戦争の英雄。
ギリシア伝説で,トロイア戦争におけるトロイア軍の総大将。その名は〈支え手〉の意。
トロイア王プリアモスとヘカベの長子。アンドロマケの夫。アステュアナクスの父。
彼はたんに勇敢なばかりか,情理をもわきまえた名将としてよく祖国防衛の任にあたったが,戦争の10年目に,ギリシア軍最大の英雄アキレウスの身代りに出陣したパトロクロスPatroklos を討ち取ったため,親友の死に奮起したアキレウスとの一騎打ちに敗れて戦死した。その死体は戦車に引きずられてアキレウスの陣屋に運ばれ,10日余も野ざらしにされたあと,莫大な身代金でプリアモスに贖(あがな)われた。その後まもなくトロイアが陥落したとき,幼いアステュアナクスはアキレウスの遺子ネオプトレモスに殺され,アンドロマケの身柄は褒賞として同じネオプトレモスに引き渡されたという。ヘクトルの活躍はホメロスの叙事詩《イーリアス》によってよく知られる
アキレウス(アキレス)  紀元前7〜8世紀
トロイア戦争におけるギリシャ軍最大の英雄。
テッサリア地方のフティア王ペレウス と海の女神テティス との子。
赤子のころ,わが子を不死身にしようと願ったテティスによって冥界の川に浸されたが,母親の手がつかんでいたかかと(踵)だけは生身のままに残った(←アキレス腱の名の由来である)。
成人後,出征すれば早世する運命にあるとの母親の警告をふりきってトロイアに渡り,めざましい働きを示したものの,戦争の10年目に,捕虜の女奴隷をめぐる総大将アガメムノンとの争いがもとで戦闘を放棄,味方を敗北寸前にまで追い込んだ。しかし親友パトロクロスの戦死を機に再び武器をとり,敵の総大将ヘクトルを討って友の仇を報じた。彼はさらにアマゾン族の女王ペンテシレイア,曙の女神エオスの子メムノン等を討ったが,トロイア王子パリスに矢をかかとに射かけられて落命したという。アガメムノンとの争いの一部始終はホメロスの《イーリアス》で有名。
ソロン  前640ころ‐前560ころ
アテナイの政治家,詩人。「ソロンの改革」をおこなった。
王家から出た名門に属したが,富裕とはいえない家に生まれ,若くして海上貿易に従事した。前600年ころサラミス島の領有をめぐるメガラとの争いに市民を激励して名声を得,前594年アルコンに選ばれた。当時のアテナイでは,平民である多数の農民が土地と身体を抵当として貴族から借財し,それを返済できない場合には土地を債権者である貴族に引き渡し,収穫の1/6の納付と引きかえにその土地を耕作する,ヘクテモロイ と呼ばれる隷属農民の地位に転落し,さらに1/6を納付できない場合には家族もろとも債務奴隷となった。そこで平民は負債の帳消しと土地の再分配を要求し,貴族との間に激しい党争を続けた。ソロンはアルコンの地位につくと,調停者としての全権を委任され,危機克服のための大改革を断行したが,市民は貴族,平民ともそれに満足しなかった。ソロンはアルコンと調停者の任期を終えてから旅に出,エジプト,キプロス島などを歴訪した。党争を続ける祖国に戻ったのち,血縁関係にあるペイシストラトスが僭主政の樹立を狙っていることを見抜いて市民に警告したが,むなしかった。一説にキプロス島で死んだという。
彼はまたアテナイ最古の詩人であり,その抒情詩には快楽や富を肯定するものもあるが,多くは富者の貪欲と民衆の過大な要求を戒め,独裁政に反対し,正義と中庸にかなった秩序と繁栄という彼のポリス理念を表現している。また彼はギリシア七賢人の一人に数えられ,〈やりすぎるな〉をモットーにしたと言われる。
しかしソロンの名を不朽にしたのは,彼の着手した改革によってである。彼は最も緊急を要する事柄としてまず負債の帳消しに踏み切る。そしてヘクテモロイを解放し,かつての彼らの土地を彼らに返し,債務奴隷をあがなって自由にし,さらに身体を抵当とする借財を将来にわたって禁止した。〈重荷おろし seisachtheia〉と呼ばれるこれらの措置によって,借財問題は一挙に解決したが,土地の再分配は行われなかったので,土地を全くかまたは少ししか持たない農民の不満は残った。次に彼は国制の改革に着手し,農産物の年収すなわち土地所有の大きい順に,市民を五百石級,騎士級,農民級,労働者級の四つの等級に分け,財務官やたぶんアルコンのような重い役職は五百石級に,他の役職はその軽重に応じて騎士級と農民級に分配し,労働者級には民会と民衆裁判所にあずかる権利を与えた。また従来からのアレオパゴス会議のほかに,農民級までの評議員で構成される四百人評議会を設置して,民会の議案を準備する権限を与えた。この国制は,財産を基準にして市民の政権参与の大きさを定めたもので,財産政治(ティモクラティア)と呼ばれる(図)。ソロンはほかにも多くの法を制定した。容積と重量の単位をアイギナ系からエウボイア系に変え,オリーブ油以外の農産物の輸出を禁じ,移住してきた外人の亡命者と手工業者に市民権を与えた。技術を授けなかった父親を扶養する義務を子供から免除し,実子のない人には遺言の自由を認め,結婚や女子相続人について規定し,不当な目にあっている人のために誰でも告訴することができるようにした。党争のさいにいずれの側にもくみしない者は市民権を失うこととし,ドラコンの法は殺人に関するものを除いて廃止した。
以上のような広範なソロンの改革は,調停の達成という点では失敗だったが,政治的には政治参加の前提を従来の家柄から財産(ただし動産を除く)に変えることにより,さしあたっての実効はともかくも,原理的には貴族政を否定し,全市民とくに農民級以上の市民に政治参加の場を与え,市民のポリス意識を強めた。また経済的には当面の破局を回避し,農業に基盤を置きつつも商工業の発達を図り,平民の経済的地位を改善した。こうして彼の改革は,貴族政から民主政への過渡期のアテナイを,共同体国家と民主政の形成の方向に大きく一歩前進させた。


ペイシストラトス  Peisistratos   (前600年ころ〜前528年か前527年)

前6世紀アテナイの僭主
ピュロスのネレイダイの子孫として、名門貴族の家系を誇った。40歳のころに僭主制を樹立。
その後5年間で敵対者を打ち破って、以後30年ぐらいペイシストラトスによるアテナイ支配が続いた。
彼の時代にアッティカ産の黒絵の壷がギリシャ全土で流通し始め、またアッティカ赤絵の製法も開発され、アテナイの商工業は盛んになった。また中小農民に対する優遇政策を推し進め、彼らからの税収入がペイシストラトスの権勢を支えた。
『村の裁判官』を任命して巡回裁判をさせるとともに、自らも田園を視察して農民間の争いを和解させ、彼の政治は後世『クロノスの時代』と呼ばれるほどに善政として知られた。
彼はまた、ホメロスの叙事詩をはじめて編纂した人物ともいわれている。
祖父は、前669か668年にアテネのアルコン(最高権力者)をしていた同名の人物だとされる。
父は医者ヒッポクラテス、母は立法者ソロンの母の親族。
ペイシストラトスの家は名門で、そのおかげで彼は若くして信望を集めていた。ソロンの改革の後に起こった三党の対立抗争のとき、ペイシストラトスは「山地党」の首領として貧農や牧人をひきいた。前565年ごろ起こった隣国メガラとの戦いで名をあげ、前561年突然護衛兵をひきいてアクロポリスを占領し、僭主政を樹立した。
当初、ペイシストラトスの政権は反対派の抵抗をうながした。ペイシストラトスを怖れた「海岸党」の党首メガクレス「平地党」の首領リュクルゴスは手を結び、5年かけて前556年にペイシストラトスを追い出す。しかし、アテネから追放されたペイシストラトスは密かにメガクレスに手を回した。メガクレスは自分の娘を彼がめとることを条件にペイシストラトスと和解し、ペイシストラトスがアテネに復帰してふたたび僭主政を樹立することに力を貸すことになった。しかしペイシストラトスとメガクレスの協力関係は長く続かず、ふたたびペイシストラトスはアテネを追われてトラキア方面に亡命。亡命先のパンガイオン金山付近で資金をたくわえ傭兵をやとい,エレトリア、テーバイ、アルゴス、ナクソスの僭主リュグダミスの援助を得て前546年ごろマラトンに上陸し,パレネの戦いでリュクルゴスとメガクレスを破って、アテナイ市を占領して一人支配者となった。それから彼の死に至るまでの政治は,国制を変えることなくただペイシストラトスの一族が重要な役職を独占して支配された。
彼の僭主政樹立の成功の基礎は商工業者の台頭にあったとする説もあるように,彼の時代にアッティカ黒絵の壺の製造がギリシアで1位を占め,またアテナイ固有の貨幣の鋳造がはじまり,さらに前530年ごろには華麗なアッティカ赤絵の製陶技術が開発されたことは事実である。しかし彼の勧農政策から見ると,支配の基盤は中小土地所有農民にあったと考えられる。中小農民を支持基盤としたペイシストラトスの政策は穏和ですぐれていた。税率をひきさげ、貧民には土地をあたえて必要な金を前貸しし、老人や障害者には必要物資を支給した。とりわけ農業の振興に力をいれ、収穫の10分の1を直接税としてとりたてて財政を安定させ、その充実した力を背景に国外への勢力ものばした。また学問と芸術を奨励し、公共建造物も建設した。
“村の裁判官”を任じて巡回裁判をさせるとともに自らも田園を視察して農民間の争いを和解させ,彼の政治は後世「クロノスの時代」として善政をうたわれた。アテナイの国力はこの時代に急に強大となった。彼の死後、息子のヒッピアスとヒッパルコスにひきつがれた。なお,このペイシストラトスの孫で,前512か511年アルコンとなった同名の人物も知られている。
クレイステネス Kleisthenes (前570年?〜前507年)
前6世紀後半のアテネの政治家。アテナイに民主政を導入したことで知られる。
クレイステネスは民主派の支持をえてアテネの政治体制を根本的に変えた。血縁にもとづくアテネ古来の4部族を廃し、都市部・内陸部・海岸部の3つの地区の住民から構成される10部族に再編成した。さらに従来の四百人評議会は、各部族50人の代表からなる五百人評議会にかわった。この新しい制度のもとで民衆の国政参加の度合いは飛躍的に増大し、民主政の基礎がきずかれた。オストラキスモス(陶片追放)の制度も、彼が創始したとされる。
アルクメオニダイのメガクレスとシキュオンの僭主クレイステネスの娘アガリステとの子で,ペイシストラトスの僭主政と戦いつつアテナイ民主政を確立した改革者。ペイシストラトスの全盛期に一家はアテナイから追放されていたが、ペイシストラトスの死(前528か527)後デルフォイの神託によってアテナイに帰還したらしく,前525か524年にアルコン職についたことは碑文から疑いがない。しかしペイシストラトスの子ヒッパルコスが殺された(前514)後アルクメオニダイは追放されたが,デルフォイにあってアポロン神殿の神託所の巫女に大きな影響力を発揮した。ことにクレイステネスは神殿再建を請け負ってその好意を得,神託を求めに来るスパルタ人に,アテナイを僭主政から解放するようにと巫女の口を通じて勧告を続け,前510年スパルタ軍の援助を得たアテナイ民主派の市民が,僭主ヒッピアス一族を追放することに成功した。その頃スパルタは近隣の僭主政を倒して寡頭政を樹立しようとしており,アテナイの僭主政の場合もそのような国策の一環としてその打倒に力を貸したものと思われる。
 クレイステネスは寡頭派のイサゴラス Isagorasと争って,民衆の支持を得るために民主的な改革をおこなうことを決意し,部族改編と行政区(デーモス)を基礎とする新体制の樹立に着手した(前508か507)。彼はアッティカ全土を都市部・内陸部・海岸部に分け,各部を10の地区に分け,各部の1地区ずつをくじ引きで結合して1部族とし,都合10部族を創設した。このことにより従来の4部族制度に代わって,すべての部族が都市部・内陸部・海岸部の地区(トリッテュス。〈3分の1〉の意)から成ることになり,市民間の利害が混交された。部族の下には行政区(デーモス)がおかれ,評議会は各部族が選出した50人の評議員から成る五百人評議会となり,評議員は各区からだいたい人口に比例して選出されることとなった。区の数は部族ごとに一定しなかったが,今日までの研究では139の区がこのとき制定され,アテナイ市民はその区名を冠してよばれた。オストラキスモスも彼の改革の一環と考えられる。


テミストクレス Themistokles (前527年?〜前460年?、前462年?)

古代アテネの軍人・政治家。
前480〜479年の第2次ペルシア戦争の中で活躍、とりわけサラミスの海戦でアテネ艦隊の指揮し、ペルシャ軍を破る。
しかし勝利の8年後、陶片追放にあってアテナイから追い出され、遠いペルシアで客死。
家柄はあまりよくなかったが,生まれつき頭脳明敏で野望に燃えていた。幼いころから,普通の子どもの遊びには加わらず,自分ひとりで演説の練習をしていたという。
彼は功名心に駆り立てられて政治家への道をひたむきに進んでいった。最大のライバルはアリステイデスだった。前493年に首席アルコンの要職に選ばれ,ペルシアの来襲を見通し,ラウリオン銀山の収益を市民に分けるのを控えさせ,それを三段橈(かい)船の建造費に回した。こうして前480年にペルシア王クセルクセス1世が攻めこんできたときに,テミストクレスはストラテゴス(将軍)として艦隊を指揮し,ペルシア軍をサラミスの海戦で破った。
ペルシャ王クセルクセス1世のギリシャ再攻撃を察知したアテネ人がデルフォイにうかがいをたてると、「木の壁」をもって防衛せよとの神託がくだった。テミストクレスはそれを船のことだと解釈し、軍船を建造させた。サラミスの海戦の前日、敵の攻撃をまてというテミストクレスの勧告にもかかわらず、ギリシャ軍ははやくも退却しようとしていたので、彼はクセルクセスのもとに使いをおくり、ギリシャ軍が退却する前に攻撃をしかけよと伝言して開戦をせかせた。ペルシャ軍はせまいサラミス水道に進入して動きがとれなくなったところでギリシャ軍に遭遇し、海戦がはじまった。彼が指揮をとったアテネ艦隊は、ペルシャ艦隊をうちやぶる。この勝利によってテミストクレスは英雄となった。
テミストクレスはすぐれた政治家であり、彼の海軍重視の政策はアテネ帝国の基礎となった。また西方への植民を計画した最初のアテネ人のひとりで、交易を推進し、アテネの町を外国人商人に開放した。
その後,彼は戦火に崩れたアテナイ市の立直しを図り,城壁を築き,さらにペイライエウス(ピレウス)港の建設を始めた。これはアテナイを海に結びつけようとする政策に基づくものだった。しかし,政敵キモンと争い,また,比類のない声望を憎まれて,あるいは傲慢な態度が人々の怒りを買って、前471年ころ陶片追放にあう。アテナイを追放された彼はアルゴス,コルキュラ,エペイロス,マケドニアと転々し,小アジアに渡った。そして,敵国ペルシア王アルタクセルクセスに厚遇され,マグネシアの総督に任ぜられ,その地で病に倒れた。毒杯をあおって死んだとも伝えられている。
ペリクレス (前495ごろ〜前429)
アテネの黄金時代を築いた古代ギリシャの軍人・政治家。演説の達人。
失脚の多いアテネの社会で、指導者としての地位を守り続ける。
彼の治世は決して成功ばかりではないが、彼はその失敗さえも良い方向に変えてしまう能力を持ち合わせていた。
33歳の頃にクーデター的に民主的改革を断行してアテナイの政権を握った。
支配権を握ってからは、徹底した民主政への施策を行い、スパルタとペルシアの両方に対抗する姿勢を強めた。
さらに前451?年にアテナイ市民権を両親ともアテナイ人である者に限ると定めた市民権法を成立させ、アテナイ国家の結束力を高めることに尽力した。市民団としての封鎖性を具体化させた。パルテノン神殿の建築はその直後の前440年代初めから始まる。
 前446年のエウボイア反乱に対しては厳しい処置で臨み,その直後,現状維持を図ってスパルタと三十年和約を締結した。政敵のトゥキディデスを陶片追放で国外退去させた後は連年将軍職に選ばれて〈一人支配〉を実現した。パルテノンをはじめアテナイに美観を添える大土木工事が推進され,彼とその愛妾アスパシアの文化サークルには国の内外から多くの学者,芸術家などが集まって〈ペリクレスの黄金時代〉を現出させた。しかし,前433年コルキュラの内紛に介入してコリントスとの対立を強め,翌年には〈メガラ決議〉によって隣国の通商活動に打撃を与えて反目を買い,前431年勃発のペロポネソス戦争への道を突き進んだ。アッティカ住民を長城内に疎開させ海軍を主力に戦うペリクレスの作戦は,開戦翌年に疫病の蔓延を招き,同年将軍職を失ったばかりではなく,みずからも病魔に倒れた。
父はペルシア戦争で功のあった(前479年にミュカレーの戦いでペルシャ王を破った)クサンティッポス、母は名門アルクメオン家のアガリステでクレイステネスの姪。
前472年にペリクレスは、アイスキュロスの悲劇『ペルシアの人々』の上演の費用を賄う合唱隊奉仕者(コレゴス)となっている。
前465年にはタソス島がアテナイから離反した。アテナイの支配者としてキモンがその征討に当たったが、そのときにキモンの収賄嫌疑問題が沸き起こった。前464年の地震がきっかけで反乱した奴隷(ヘイロータイ)に悩まされたスパルタがアテナイに救援を依頼し、それに応えたキモンがタソス島の攻撃を止めてスパルタ救援に向かったのである。40歳前後だったペリクレスはこのとき、アテネ政界きっての大物キモンを相手どって、堂々と収賄容疑の告発を行うという役割を演じた。これが、ペリクレスが政界に躍り出た最初の出来事である。
前462年スパルタ支援のキモンの留守中にペリクレスは民主派の指導者エフィアルテスと協力して民主的改革を断行し、アレオパゴス会議の実権を奪って民会と民衆裁判所の権限を強化した。全市民を政治に参加させることに意をそそぎ、貴族政以来の高官たちの司法権はこのとき制限されたと思われる。陪審員に対しては日当の支給を導入し、役人は全市民の抽選できめるようにした。キモンが前461年オストラキスモス(陶片追放)で国外に退去させられると、その後15年間にわたってアテネの指導者としてゆるぎない地位をきずいた。
若い頃から天上学や雲中論議に熱中したペリクレスは、当然の事ながら気位は尊大であり、言葉付きも崇高で、民衆的で狡猾な趣味の悪さが微塵も無かったばかりでなく、どんなことがあっても笑うことのない顔の構えと、静かな歩きぶりと、演説の際にはいかなる感情にもかき乱されない衣服の着こなしと、澱みのない声の出し方と、その他こういう全ての人を驚かせ感服させるものを持っていた。
…プルタルコス
公明正大で、金銭にも心を動かされない。 深い思想に満ちた演説。
当時のアテネは、ペルシア戦争のために結成されたデロス同盟を、戦争が終結したあともどう永続させるか、ということに奔走していた時代で、「徳と公正さ」ですべてのポリスに君臨しようとしていた。これに対し、もう一方の雄・スパルタは危機感を抱きはじめていた。アテネは「民主政体」、スパルタは「寡頭政治」。

独裁の危険を実感していたアテネでは、支配者の長期政権は認めない制度をおこなっていたし、「陶片追放」で危なそうな人物は次々と追放されていた。そのような状況の中でペリクレスは長く権力を握り続けた。どうしてペリクレスが成功し続けたか、一言でいったら「慎重さと運」。若い頃は時機をうかがって雌伏のときを送っているし(しかしペリクレスの存在は自然に明らかになっていってしまう)、政権を握ってからは政敵たちが仕掛けてくる罠を絶妙なバランスでかわしつづける。しかし、この人ほど高潔な人物で、これほど悪口ばかり残っている人も珍しいだろう。  
結局、民主主義を標榜しているアテネで、ペリクレスの独裁になってしまうというのも、皮肉。 独裁って悪くないのかも。
この人、実際英雄と呼ぶにふさわしい高潔な人物の割には、欠点も多い。悪口も多い。それが逆に人間味を感じさせて魅力か。とくに頭が大きいことを気にしていて彼の彫像はどれも兜をかぶっているとか、顔が悪名高い独裁者に似ているのであまり外を出歩かなかったとか、当時としては珍しい自由恋愛をしたとか (この相手の女性のアスパシアという人も有名人物)

スパルタとの最終決戦・ペロポネソス戦争で、城塞都市アテネの地の利を活かして自信満々で籠城戦をしようとしたところ、籠城の最中に疫病が流行ってペリクレスもそれにかかり、死亡。彼が死んでも、かなりの間、アテネが優勢に戦い続けたが、ペリクレス以上の男は出なかった。

ペリクレスは民衆裁判所審判人に対する日当支給を導入したり,筆頭アルコンへの就任資格を市民第3級のゼウギタイに拡大するなど徹底民主政への施策をとるとともに,反スパルタ・反ペルシアの路線を明らかにして二面戦争を遂行した。中心市アテナイと外港ペイライエウスとを結ぶ長城を完成させ,前454年エジプト支援のアテナイ海軍が潰滅するとデロス同盟の金庫をアテナイに移させ,年賦金(フォロス)の60分の1をアテナ女神の初穂として徴集した。同盟を〈アテナイ帝国〉として経営するアテナイの姿勢はペリクレスの積極政策においてはっきり表面化した。ペリクレスは前451あるいは450年,アテナイ市民権を両親ともアテナイ人である者に限ると定めた市民権法を成立させ,アテナイ国家の市民団としての封鎖性を具体化させた。前449年〈カリアスの和約〉によってペルシア・アテナイ間の講和が成立すると,まもなくペリクレスは全ギリシア会議の召集を各国に向け呼びかけたが実現を見なかった。同盟民の年賦金を流用したパルテノン神殿の建築はその直後の前440年代初めから始まる。
 前446年のエウボイア反乱に対しては厳しい処置で臨み,その直後,現状維持を図ってスパルタと三十年和約を締結した。政敵トゥキュディデス(有名な歴史家とは別人)を前443年のオストラキスモスで国外退去させた後は連年将軍職に選ばれて〈一人支配〉を実現した。パルテノンをはじめアテナイに美観を添える大土木工事が推進され,彼とその愛妾アスパシアの文化サークルには国の内外から多くの学者,芸術家などが集まって〈ペリクレスの黄金時代〉を現出させた。しかし,前433年コルキュラの内紛に介入してコリントスとの対立を強め,翌年には〈メガラ決議〉によって隣国の通商活動に打撃を与えて反目を買い,前431年勃発のペロポネソス戦争への道を突き進んだ。アッティカ住民を長城内に疎開させ海軍を主力に戦うペリクレスの作戦は,開戦翌年に疫病の蔓延を招き,同年将軍職を失ったばかりではなく,みずからも病魔に倒れた。

彼はアテネの海軍力を増強し、勢力の拡大につとめ、デロス同盟加盟諸市を従属させて同盟を帝国化していくうえで大きな役割をはたした。同盟金庫の資金を流用してペルシャ戦争で破壊された神殿を再建し、新たな公共建造物を建築した。その中にはアクロポリスのパルテノン神殿もふくまれる。前449年にペルシャと、前446年にはスパルタと和平をむすび、つかの間の平和の中でアテネの繁栄は絶頂期をむかえた。

ペリクレスは民主派の家系に属した両親と家庭教師だった哲学者アナクサゴラスのもとでそだち、友人の中には、悲劇作家ソフォクレスや歴史家ヘロドトス、彫刻家フェイディアス、ソフィストのプロタゴラスらがおり、愛妾のアスパシアは教養ある女性だった。こうしてペリクレス時代、アテネは学問と芸術の中心になった。

しかし、アテネの繁栄は、スパルタをはじめとする他の都市の反発をまねくようになり、前431年にアテネとスパルタの間でペロポネソス戦争が勃発(ぼっぱつ)した。ペリクレスはアッティカ住民を城壁の内部に疎開させる籠城(ろうじょう)策をとって海上で決戦しようとしたが、翌年、城壁内に疫病が流行し、多くの市民が犠牲となった。市民の怒りでペリクレスは公職をおわれ、公的資金を流用した罪に問われ罰金刑をうけた。翌年将軍職に復帰したが、まもなく病魔におそわれ死去した。

ペリクレスの言葉。
「諸国の中でアテネのみが名声以上の成果を勝ち得、われわれに敗北した敵すらも、畏怖を強くするのみで我らに恨みを抱かず、従う属国も、盟主の徳を認めて非難を訴えない。このような偉大な証拠を持って国力を世界に明らかにした我らは、今日のみならず、遠き末世にいたるまで世間の称賛のまととなることだろう」
「同盟市は防衛のために我らに金を供出しているが、アテネは他のポリスを守る責任は見事に果たしている。商人が商業によって得た利益を好きに使ってもかまわないように、アテネも防衛の任さえ果たしていれば、そのかわりに受け取った金を何に使おうが自由だ」
「諸君がパルテノン神殿の建設に国庫の金を当てることを、わたしの権力の濫用だと非難するのならば、すべての費用はわたしが受け持つこととしよう。  そのかわり (アテナへの神殿という名誉な事業を成し遂げたことに対して) 奉献者の銘もわたしだけのものになるだろう」

《ペロポネソス戦争の戦没者に対する最初の国葬におけるペリクレスの弔辞》
『西洋古代資料集』東京大学出版会1987より
われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公けの高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。
われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴びせることもない。私生活においてわれらは互いに制肘を加えるようなことはしない。だが事公けに関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。
われらはまた、いかなる苦しみをも癒す安らぎの場に心をひたすことができる。1年の指揮を通じてわれらは競技や祭典を催し、市民の家々の美しいたたずまいは、日々に喜びをあらため、苦しみを解きながす。そしてわがポリスの大なるがゆえに、あらゆる土地のすみずみから万物の実りが此処にもたらされる。すべての人々が産みいだす幸を、わが国土のめぐみと同様に実らせ味わうことができるのである。
また、戦の訓練に眼をうつせば、われらは次の点において敵側よりもすぐれている。先ず、われらは何人に対してもポリスを解放し、決して遠つ国の人々を追うたことはなく、学問であれ見物であれ、知識を人に拒んだためしはない。敵に見られては損をする、という考えをわれらは持っていないのだ。なぜかと言えば、われらが力と頼むのは、戦の仕掛や虚構ではなく、事を成さんとするわれら自身の敢然たる意欲をおいてほかにないからである……。
われらは素朴なる美を愛し、柔弱に堕することなき知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさを認めることを恥としないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。そして己れの家計同様に国の計にもよく心を用い、己れの生業に熟練をはげむかたわら、国の進むべき道に充分な判断をもつように心得る。ただわれらのみは、公私両域の活動に関与せぬものを閑を楽しむ人とは言わず、ただ無益な人間と見倣す……。
《ツキジデスIIより》


 
プルタークによるエピソード集
◎ペリクレスが誕生する数日前、母アガリステは獅子を産む夢を見たという。

◎手に負えない下劣な人間の一人に、いわれなく一日中非難され悪口を言われ続けたことがあった。ペリクレスは言い返すことも戦うこともなく、アゴラ(市場)の真ん中で黙って自分の急がなければならない仕事を片づけ、夕方になって帰るときまで威厳を崩さなかった。その男はペリクレスの家まで追ってきて、罵言を投げ付け続けた。ペリクレスが家に入ろうとしたときすでに外が暗くなりかけていたので、ペリクレスは家人に命じて灯りを持たせ、その男を自分の家まで送っていかせた。

◎キオス島の悲劇詩人イオンは、ペリクレスが人に対する態度が横柄で失敬なのを見て、その思い上がった様子には自分以外の人々に対する無視や軽蔑が多く混ざっているのだと説いて、ペリクレスよりも高潔な人物としてミルティアデスの息子キモンを誉めあげている。詩人イオンの言うところによれば、将軍キモンには人と交際するとき、その行動のはしばしに節度と慇懃と教養が現れているのである。しかしイオンは、「徳性」というものついて、彼の作る悲劇と同じように「サテュロス的な部分(=悲劇と喜劇の中間要素、卑猥表現を多用)」がなくてはならないと考えているような人物だから、ペリクレスを考えるときにイオンの言うことは考慮するに当たらない。哲学者ゼノンは、ペリクレスの尊大な態度は彼の内に潜む名誉を求める心と激情が強すぎるからだ、と悪口を言う人々に対して、立派なことを成し遂げようと思っている人には知らず知らずのうちに本気でそういう態度をとる癖が身についていくものであるから、君たちも少しは名誉欲を持つぐらいになったほうが良い、と勧めている。

◎あるとき田舎からペリクレスのところへ角が一本しか無い牡牛の頭を持ってきた人があった。ペリクレスの家でその牛を見た預言者ランプローンは、額の真ん中から角が一本だけ生えているこの牛はなにかの“前兆”であり、現在アテナイにはトゥキディディスとペリクレスのふたつの勢力があるが、この前兆を手に入れた方に権力が移るだろう、と述べた。しかし、この牛の頭を見たアナクサゴラスは、その頭蓋骨を真っ二つに割り、脳髄が頭蓋いっぱいの大きさではなくて、角の根本の部分に収縮して卵の先ぐらいの大きさになっていることを人々に示した。居合わせた人々は、自然学的にこの牛の不思議を解き明かしたアナクサゴラスに喝采した。しかし、しばらく経ってからトゥキディディスが失脚し、国家の権力がすべてペリクレスのものになったので、むしろランプローンの方が名声が高くなった。
(=プルターク)の見るところでは、この自然学者もこの預言者も、どちらも当たっていたと考えて少しも差し支えがない。一方は原因を、一方は結末を正しく掴んだのである。何からそれが起こって、どうなったのかを察するのは一方の仕事であり、何を目的としてそれが起こり、何の前兆となっているのかを預言するのはもう一方の仕事であった。原因の発見が前兆の否定になると説く人々は、神々の合図と人工的な合図、例えば円盤の音や炬火の光や日時計の影なども、排斥することになるのを気付かないのである。これらそれぞれは、何かの原因や仕組みによって、何かの合図になるように作られている。

◎ペリクレスは若い頃、民衆の前に出ることを嫌がった。なぜなら独裁者のペイシストラトスに姿がとても良く似ていて、声も美しく、話すときには舌も良く回って早かったので、非常に年を取ってペイシストラトスを知る人はふたりの類似に驚くほどであったからである。

◎ペリクレスは羨望と嫉妬から友人であるエフィアルテスを暗殺したのだ、とイドメネウス(前3世紀の小アジアの記述家)は言っているが、それはとうてい信じることが出来ない。イドメネウスはそんなうわさ話をどことも知れぬところから掻き集めてきて本に記述したが、それはイドメネウス自身がペリクレスに毒を盛っているとしか考えられない。
ペリクレスは、恐らくあらゆる点で非の打ち所が無い人物であったとは言えないにしても、高尚な目的と名誉を重んじる精神を備えていた人物であった。だからライバルを殺すことで消すという、残忍な猛獣のような感情を持つわけがない。エフィアルテスは少数政治を望む人々には恐るべき人物であり、民衆に不正を加える人々の責任を問い、その罪を明らかにすることに容赦のない人であったから、彼の政敵が陰謀を張り巡らして、タナグラのアリストディコスという人物に殺させたのだと、アリストテレスは言っている。

◎ペリクレスが仕事に没頭していたときに、すでに老年になっていた師のアナクサゴラスは密かに地に横たわり、絶食によって命を絶とうとして、顔を衣で覆った。このことが偶然ペリクレスの耳に入り、彼はとても驚いてすぐさま師の元へ駆けつけた。ペリクレスは言葉を尽くして師の死への願望を解くことを懇願し、アナクサゴラスのごとき立派な政治の相談相手を失っては、そのことを嘆くと言うよりは自分自身のことを嘆く、と言った。すると、アナクサゴラスは顔の上の布を取り除いて言った。『ランプを必要とする者は、油を注ぐ』

◎アテナイの提督であるトルマイオスの子トルミデスが、前455年にペロポネソス半島を周航して大きな武功を立て、その幸運をさらに大きなものとするために、時機でもないのにポイオティアに侵入する計画を立て、若く勇敢で名誉を求める若者たちを説得して千人もの兵士として集めたことがあった。ペリクレスは民会でこの計画を思い留めさせようとして、あの有名な言葉『ペリクレスが今言ったことを聞かないとしても、あの、最も賢明な相談相手が言うことを待てば、間違いは無い。その相談相手とは「時」である』と言った。ペリクレスが民会でこの言葉を言ったときは大して誰にも感心されることがなかったが、数日経って、トルミデスがコロネイア沖で戦いに敗れて死に、多くの勇敢な市民を失った、という知らせがあって、ペリクレスは思慮の深い愛国者である、という評判が高まることになった。

 

                                          参考本
 『世界の歴史4 ギリシア』(河出書房新社・文庫・¥680)
      「ペリクレスの長期政権について解釈を下すことは、歴史上の難題のひとつになっている。だれもまだ明確な答えを持ち合わせていない」などと書いてあって、好き。
塩野七生 『ローマ人の物語 I ローマは一日にして成らず』 新潮社 1992年
アルキビアデス (前450ごろ〜前404)
古代ギリシャ・アテネの将軍・政治家。栄光と流転の人生。
アテナイの名家の出で、父はクレイニアス、母はデイノマケ。
父が前447年にコロネイアの戦いで戦死したので、幼い彼はペリクレスの家で育てられるようになった。
巨額な父の遺産を相続し、アテナイ随一の人物(ペリクレス)を後見人に持ち、しかも類い稀な美貌を持つとあって、彼はわがまま気まぐれに育ち、傍若無人な性格となったという。 
学問について、彼はソクラテスの弟子となり、師の親しい友ともなった。ポティダイアの戦い(前432年)では師のソクラテスに命を救われたが、前424年のデリオンの戦いでのアテナイの敗走のときには、逆にアルキビデアスが徒歩のソクラテスを馬上から守ったという。 しかしソクラテス以外にも、プロタゴラスやプロディコスなど、他のアテネ在住のソフィスト(哲学者)たちから受けた影響も大きい。
戦場でのアルキビアデスは非常に勇敢だったので、それをみこんだ有力者ヒッポニコスは莫大な持参金を付け娘のヒッポレテを彼に与えた。

まもなく政界に進出したアルキビアデスは、アテナイで重要な地位を得る。はじめは彼は親スパルタ派だった。しかしやがて戦争派の指揮者となりニキアスと対立するようになった。 ペロポネソス戦争の中間期の「ニキアスの平和」の時期には、彼はアテナイとアルゴス、エリス、マンティネイアなどスパルタに対抗する都市の間に同盟を締結させることに成功し、ふたたびスパルタとの戦争が再開するように工作した。前418前後にニキアスがトラキア方面での作戦に失敗すると、アルキビデアスはシシリー遠征を主張。 ニキアスは強くこの提案に反対したが、アテネ市民たちが熱狂してアルキビアデスに賛成した。

ところが前415年にアルキビアデスとニキアスとラマコスの3人が司令官となってシケリア遠征に出発する前日の夜中に、アテネ市内にあったヘルマイ(町の角々に建てられた柱状のヘルメス像)が損壊されるという事件が起こった。どうしたわけかアルキビアデスが犯人であるという噂が立ち、この涜神の罪と以前酒宴の席でエレウシスの秘密儀式を侮辱したという罪のふたつのことで訴えられてしまった。アルキビデアスは直ちに事件の詳細を調査するように要求したが、それは拒否され、被告のまま出航せねばならなかった。シケリアに到着するやいなや、アテナイから彼に召還命令がくだる。彼はアテナイへは帰らず、スパルタへ逃げた
「アテナイでは欠席裁判で彼は死罪と決まり、財産は全て没収された」と聞いて、絶望した彼はスパルタ政府に現在アテナイが包囲中の都市シュラクサイに援兵を送り、同時にアッティケのデケレイアを占領するように進言した。前412年にはイオニアに渡って、アテナイの同盟市と交渉してアテナイに対する反乱をおこさせた。
ところが、ときのスパルタ王アギス2世は彼の王妃とアルキビアデスの仲を疑って、スパルタ国民を煽動してアルキビアデス死刑の判決をさせてしまった。アルキビアデスはこれを聞いて、ペルシャの太守のティサフェルネスのところへ逃亡
帰国の望みが強くなっていた彼は、ペルシャ帝国の力を借りてアテナイへ帰ろうと思い、寡頭派のペイサンドロスと交渉するが、なかなかうまくいかない。かえってそれと対立する民主派のトラシュブロスの斡旋で、ようやくサモスのアテナイ艦隊のもとへ帰投することができた。
その後、イオニアやヘレスポントスで艦隊の指揮を任され、巧みな陣取りで大きな成果をあげ、前411年のキュジコスの戦いでスパルタ艦隊を撃破し、カルケドンやビザンティオンを奪回。 この功により、晴れて8年ぶりに熱狂する市民に歓迎されて故郷に返り咲くことができた。
ところが翌年(前406年)、彼の副官がノティオンで失敗すると、彼の人気は再び落ちてアテナイから追放、彼はトラキアのケルケネソスへ行って隠居をした。まもなくアテナイはスパルタに敗れてアルキビアデスもフリュギュアに移ったが。そこで暗殺された。
 

ペロピダス   前410ころ〜前364
テーバイの政治家,将軍。民主派に属し,前382年,スパルタ軍がカドメイアを占領したときアテナイに亡命したが,前379年,帰国してスパルタ軍を駆逐した。前371年のレウクトラの戦,続くペロポネソス半島への侵入でエパメイノンダスとともに活躍し,前369年以後はテッサリアのフェライの僭主アレクサンドロスと戦い,キュノスケファライで勝利したが,自身は戦死した。


エパミノンダス(エパメイノンダス)  Epameinondas  ?〜前362

テーバイ(テーベ)の軍人,政治家。友人のペロピダスと協力してテーバイの勃興に貢献した。
前371年にスパルタとテーバイの友好が決裂すると、レウクトラの戦いで強豪スパルタを撃退した。この戦いで彼は、従来の重装歩兵密集隊に改良を加えて,左翼を厚くした斜線陣形を導入し、これはギリシャ戦争史の革命といわれた。前370〜前369年にペロポネソス半島に侵入し、スパルタを破ってメッセニア人を解放、スパルタに対抗する独立国家を樹立させた。アテナイの海上支配にも対抗し、船隊を率いてエーゲ海を航行した。前362年,4度めのペロポネソス半島侵入を行うが,マンティネイアの戦でスパルタ・アテナイ連合軍と交戦,戦死。
彼の死後テーバイの勢力は急速に衰えた。
前404年のペロポネソス戦争終結後、勝者のスパルタの勢力が著しく増したが、リュサンドラスによって全ギリシャに対するスパルタの専制が強化され始めると、諸ポリスは抵抗し、前395年(ペルシアに唆された)テーバイが中心となってアテナイ・アルゴス・コリントとの間に同盟が成立し、スパルタに対する“コリントス戦争”を起こす。(9年続いたこの戦争では、前394年にスパルタのアゲラシオス王の重装歩兵は、コリント近郊で連合軍を散々に打ち破り、続いてボイオティア地方のコロネイアでテーバイ軍に完勝した。しかし、海上ではアテナイの将を迎えたペルシャ海軍がスパルタ海軍を駆逐し、海上支配権を解放、各地でスパルタ支配の弱点が見え始めてきた) ついにスパルタは、ペルシア帝国に仲介をたのんで戦争を終結させることにして、前386年に“大王の和約”(アンタルキダス条約)を成立させる。これによりスパルタはペルシア帝国の後ろ盾と介入のもとに「和約の監視者」としての地位を確保し勢力を維持、一方ふたたびアテナイはふたたび第二回海上同盟を結成して(←60のポリスが参加)、勢力の挽回をはかり、テーバイは勢力を拡大、またテッサリア地方の都市フェライではイアソンという名前の僭主が現れて勢力を振るい始めた。この乱立の時期、テーバイにエパミノンダスが現れたのである。

エパミノンダスは若い頃にピタゴラス派の哲学を学んだらしいが、プルタークの『ペロピダス伝』には、テーバイの名門の家系の出ながら、家は窮乏を極め、ペロピダスたちに援助を受けながら苦しく生活した様子が描かれている。テーバイの政局に登場すると戦術を改良し、神聖隊を編成してボイオティアを支配するに至った。前371年にスパルタ会議にテーバイ代表として派遣され、スパルタがアンタルキダス条約によってテーバイのボイオティア支配をやめさせようとしたので、これを拒否。直後、スパルタはクレオンブロトスをボイオティアに侵入させたが、エパミノンダスは斜線陣式の密集歩兵を巧みに使ってレウクトラの戦いでこれを破り、スパルタの覇権を覆した。
彼は、友人のペロピダスらと協力してギリシア中部におけるテーバイの支配権を確立し、さらに、アルカディア地方、テッサリア地方にも勢力を伸ばして、ヘイロータイ身分に落とされていたメッセニア人を解放した。また、アテナイの海上勢力を打破するためにペルシア王に援助を求めるとともに、海軍の充実にも努めた。
前362年、テーバイとスパルタ、アテナイの三者の間に武力衝突が起こり、エパミノンダスも全力でマンティネイアで決戦を挑んだ。この会戦で、エパミノンダスの戦術は輝かしい成功を収めたが、、彼は負傷し、間もなく死んだ。彼の死によって、彼が努力して築き上げてきたテーバイの栄光は一瞬にして瓦解した。

★参考本★
◎『プルターク英雄伝(3)』(ペロピダス) 鶴見祐輔・訳 (潮文庫) 1972年
◎『地図で読む世界の歴史 ギリシア』 ロバート モアコット (河出書房新社) 1998年
◎『図説 古代ギリシアの戦い』 ヴィクター・ディヴィス・ハンセン (東洋書林) 2003年
◎『世界の歴史4 ギリシア』 村田数之亮・衣笠茂 (河出書房新社) 1989年
◎『世界の歴史2 ギリシアとローマ』 村川堅太郎・編 (中公文庫) 1975年
◎『世界の歴史5 ギリシアとローマ』 桜井万里子・他 (中央公論社) 1997年

 


マーメルクス・アエミリウス   (前5世紀)

ローマの独裁官。
紀元前426年に彼は三度目の独裁官となると、以前撃破してその王を戦死せしめていたフィディーナにとどめを刺すために軍を起こした。 フィディーナ側はローマ軍の肝をつぶすためにフィディーナ市の城門から無数の投げ槍に火をつけたものを打ち出したが、アエミリウスは少しも驚かず、騎馬隊をいったん丘の上に退かせ、炎の中で敵軍と乱戦状態にあった自分の歩兵隊の一隊に鋭く下知して敵軍のかがり火を奪わせた。 一方で、丘の上に集結した騎馬隊に、すべての乗馬の装備をはずさせ、その裸馬の群れを敵勢の真ん中になだれ込ませた。 ローマ軍の火攻めと馬をつかった反撃に、フィーディナ軍は大混乱をきたし、とうとうローマ側は大勝利を得た。

『敵勢にむかって攻めかかろうとて、火災に驚いて蜜蜂のごとくに逃げ奔るは末代までの恥辱、なんとしても取って返して敵にかかるは武士のつとめぞ。
フィーディーナを其の火で焼きはらへ、情け容赦は戰には禁物ぢゃ
                   〜Suis flammis delete Fidenas, quas vestris beneficiis placare non potuistis〜
                                     ティツス・リーウィウス『ローマ史』

フィリッポス2世  (前382〜前336)
ギリシャ北方のマケドニアの王。 デルフォイ神殿をめぐるギリシア都市国家間の争いに介入し、勢力を伸ばした。  前338年、デモステネスの主導するアテネ・テーベ連合軍をカイロネイアの戦いで撃破。  同年、スパルタを除く全ギリシア都市にコリント同盟を結ばせ、フィリッポスをその盟主としてペルシア遠征を計画したのだが、私怨により暗殺された。
 

アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世) (前356〜前323)

ギリシャを征服した父フィリッポスの後を継ぎ、ギリシャ諸国を平定。 その後東方遠征の事業を開始、ペルシャに進撃してダレイオス3世の大軍を撃破。 さらに東方に遠征して中央アジア、北西インドにまたがる世界帝国を実現した。 征服地ではその制度・慣行を尊重し、東方民族主体の新帝国軍を編成、ギリシア傭兵の植民地定住策などにより東西の融合を目指した。 前323年にバビロンで急死したため、さらなる遠征の計画は実現されなかったが、東西交流は活発化し、ヘレニズムと呼ばれる豊かな世界文化が開花した。
 
.アレクサンドロスの教育
.若いアレクサンドロスと父フィリップス
.ペルシャ帝国との戦い
.インド遠征と死
.アレクサンドロス大王の世界史的役割り
★略年表★
前356、生誕
前343(13歳)、アリストテレスが家庭教師に
前340(16歳)、アレクサンドロスが遠征中のフィリッポスの摂政に
前338(18歳)、カイロネイアの戦い。(マケドニアvsギリシャ諸都市) めざましい軍功
前336(20歳)、父が暗殺され、アレクサンドロスが即位
前335(21歳)、北方遠征。南方のギリシャに遠征して屈服させる。
前334(22歳)、ペルシャ遠征開始
前333(23歳)、イッソスの戦い
前332(24歳)、エジプト侵攻。翌年、アレキサンドリア建設開始
前331(25歳)、ガウガメラの戦い。ダレイオスの死。忠臣の粛正。
前327(29歳)、ペルシャ平定完了。ヒンドゥークシュを越えてインド侵入。
前325(31歳)、これ以上のインド征服を断念。
前324(32歳)、スサに到着。留守行政府を大粛正。集団結婚式。
前323(33歳)、バビロンに帰還。6月に死去。
前322年、後継者戦争勃発(〜前280年)
1.アレクサンドロスの教育
アレクサンドロスのことを「大王 Magnusと呼んだのはローマ人。
前356年夏、マケドニアの首都ペラで生まれる。父はマケドニア征服王フィリッポス2世。マケドニア王国はギリシャ人たちからバルパロイ(蛮族)と称される西北の辺彊国であったが、アレクサンドロスの祖母エウリュディケのときギリシャ文化が王宮内へ移入せられ、文明化の気風が国内に充満しつつあった。
エピルスの王女である母親のオリュンピアスは、375年に正妻としてフィリッポスに嫁ぎ、20歳でアレクサンドロスを産んだ。翌年に妹クレオパトラが誕生。
彼は一生のうち、三人の優れた人々から異なった性質と影響を受けた。フィリッポスからは将軍・政治の天賦の資質、正確な判断力、意志、不断の努力、実行力とその勇気、現実的な見方などを、トラキアの狂躁的バッカスの密儀の熱心な信者にして多感な自尊心の強いオリュンピアスからは容姿と空想的奔放な野性的性格を受け継いだ。王子の教育はアリストテレスの手に委ねられたが、この哲学者は極めて大きな貴い影響を与えた。アレクサンドロスが12歳のときフィリッポスは当時42歳のアリストテレスをマケドニアに迎え、ペラの郊外ミエザのニュンファイ学園を王室の学校とした。おそらくここでアレクサンドロスは「徳 areteの精神を学び、生涯を通じて変わることのなかったギリシア文化への深い尊敬と愛情を教えこまれたと思われる。彼はとくにギリシアの詩を愛好したが、東征中、師の校定したホメロスの「イリアス」を枕の下にし、三大悲劇詩人中ではエウリピデスを愛誦した。ピンダロスを尊び、同時代の詩人たちの作品にも通じていた。なおミエザでの講演には倫理学、論理学、政治学も含まれ、軍中、王の要請でアリストテレスは「王道論」「植民論」を書き送ったといわれる。また科学教育の結果は軍中の周到な医療の充実につながり、さらに東征軍の地理学、水路学、人種学、動物学などの高い関心と科学探求となって大きな寄与している。東征の幕僚の中には、アリストテレスの甥で哲學者・史家のカリステネス、哲学者アナクサルコス、ピュロン、オネシクリトスのほか、史家アリストプロスらが参加し、単なる略奪遠征とは異なった編成となっていたが、それは若い頃の教育が大いに寄与しているのだ。
若いときには祖先神アキレウスを、成長してからは、人類のために労苦したヘラクレスを篤く尊崇し、自分の理想的英雄として仰いでいた。

2.若いアレクサンドロスと父フィリップス
前340年(16歳のとき)、ミエザの教育は終わりを告げた。それは父フィリッポスがビザンティオンに出征し、アレクサンドロスがの留守中のペラの執政に任ぜられたためで、このときフィリッポスの不在を突こうとしてトラキアが反乱を起こし、しかし若きアレクサンドロスは見事にこれを平定した。師アリストテレスは前334年の初めまでこの地にいて、アレクサンドロスを補佐していたと思われる。マケドニア王国とギリシャ諸都市の最終決戦であるカイロネイアの会戦に出陣したのは18歳のときで、左翼主力軍を指揮する任を受け軍功を立てた。
戦後、名誉の使節となり、アテナイ将兵の遺骨を奉じてアテナイへの使者となったが、彼はこのとき初めてギリシア文化の繁栄した都市を見たのであった。翌年、フィリッポスがクレオパトラを正妻に迎えた祝宴で、新婦の伯父の部将アッタロスの暴言を聞き、激怒して母と幼友たちを件いエピルスヘ亡命した。間もなく父と子の和解は成つたが、二人の間に生じた冷たい隙間はついに癒えなかつた。
前337年の7月、妹クレオパトラと、エピルス王アレクサンドロスとの婚宴に際し、突然父フイリッポスが暗殺せられた。暗殺の手先はペルシア側だと報じられているが、母オリユンピアスも関係があったように考えられている。が、彼の性格と、その直後マケドニア全軍会議が彼を一致して後纏者たる国王に推戴していることから、アレクサンドロスは父の暗殺には関わっていないといえる。フィリッポス暗殺の報を得て、北方の蛮族と金ギリシアが騒然とした。彼は急転直下して騎馬の産地テッサリアを説得し、その同盟の「盟主」に選ばれた。さらに南してコリントスにいたり、ヘラス連盟総会を招請したところ、スパルタを除く全ヘラスから各都市の代表使節が参集した。そこで彼は先のヘラス連盟条約にもとづいて、フィリッポスの後継者としてマケドニア王として「盟主」となるとともに、決議によってペルシアにたいする全ヘラスの報復戦征には「絶対主権を有する総帥」たる地位を与えられた。一方、ヘラス違盟条約は全ギリシア都市間の平和樹立、海陸交通の安全、加盟国家相互の自由と自治の確保、内政の不干渉、現行憲法の尊重、革命禁止などの条項を規定しているが、ペルシアではその前年5月新国王ダレィオス3世が即位してマケドニアのペルシア侵入計養に備え、盛んにギリシア本土の騒乱を策していたため、これに加携していたデモステネスらの反マヶドニア派は、まずテーバイを動かしてマヶドニアと戦端を開かしめるにいたった。この報ひとたぴアレクサンドロスに達するや、軍を飛ばして同市を包園し降服を勤皆したが、城兵これを聞かず、止むなく彼は総攻撃を加え大破壊と膨しい虐殺ののち降らしめた。そこでテバイの運命をヘラス連盟にはかつたところ、條約侵犯者として嚴罰に附せられ、テバイの都市は潰滅し、市民は奴録に費られた。このとき彼が詩人ピンダロスの生家を救った話は名高い。テーバイ市漬滅の悲報は、全ギリシアを震骸せしめ、この冷厳な教訓の結果、以後反マケドニア党は長く声をひそめた。

3.ペルシャ帝国との戦い
334年早春、彼は全ギリシャ(ヘラス)の戦士として、ペルシアにたいする報復戦争を掲げ、歩兵約3万のうち1万2千がギリシャ連盟軍と傭兵軍、ほかに騎兵5千の混成軍と、同行の科学陣を率いてダーダネルス海峡を渡り、ペルシア領小アジアヘ侵入の軍を進めた。最初、ホメロス詩篇にゆかりのあるイリオン(トロイア)にいたり、英雄アキレウスの武運を偲んで軍神アテナの神殿にぬかづき、5月にはヘレスポントス沿いの各都市を解放しつつ北上、グラニコス河口に待ち受けていたペルシア各州知事とペルシアの傭兵将軍メムノンが指揮する連合軍4万と合戦して、一撃にこれを撃減した。戦後、彼はアテナイのアテナ神殿へ戦利品の武具3百を贈り「アレクサンドロスとスパルタ人を除くヘラス人これを奉献す」と添えた。彼がいかに金ヘラスの戦士たる意識に燃えて戦勝したかがわかる。グラニコスの戦勝は小アジアの大牛が彼の手中に厳したことを意味した。
アレクサンドロスはギリシア諸都市の解放者として少敷貴族の親ペルシア党を追放し、民主党に政権を委ねる政策を布いたため、各地に広汎な支持者を得て東征の進撃を容易にし、後陣の防備をも強化することができた。こうしてサルディスよりミレ島の戦章の綱にある繕ぴ目を解く者はアジアの王となるという伝説をきき、彼が剣を抜いてこれを断ち切るという挿話を残した。あたかもこの頃ペルシアの海将メムノンが病死し、後方の連絡を断たれる海上の脅威がいちじるしく減じた。前323年の春にはゴルディオンを落とし、カッパドキアを過ぎ、キリキアよりタルソスにいたつて熱病に冒され、病を養うためこの地でしばらく軍を休養させたことが、次のイッソスの戦いでの勝利につながった。

ペルシャ帝国の帝王ダレイオスはこの夏、帝国の全精鋭をバビロンに集結した。みずから西征して一挙にギリシア軍を壊滅させるべく、11月初旬にはイッソス河畔に対陣。(誇張されているだろうが)騎兵と歩兵の合計は60万と記録されている。しかし、数において遙かに勝っていたペルシアの大軍はこのイッソスの戦いでほとんど潰滅し、ダレイオス王も遠く逃れるはめになる。戦場には多数の捕虜と戦利品の山があったが、その中に王母と王妃と数人の王女があった。
イッソスの勝利によって、小アジアのギリシア諸都市は帝国から解放された。続けてアレクサンドロスはペルシア内地攻略に入ったが、ここでアレクサンドロスは自分が「アジアの王」であると宣言した。アレクサンドロスはまずシリアに攻め込み、ペルシャの海軍の根拠地であったティルスとガザの攻城に日を過した。難攻不落をうたわれたティルスの陥落には7ヵ月を要し、ガザは包囲2ヵ月で落ちた。さらに南進し、11月には無抵抗のエジプトに入ったが、エジプト人はペルシアに対する深い怨恨のため、アレクサンドロスを解放者として歓び迎えた。さらにナイルを下って河口の小村ラコティスにいたり、この地をティルスに代わる大商港都にしようとしてアレクサンドリア市の建設にかかる。都市建設の計画はロードスの人ディノクラテスが立て、前331年の1月20から建設が始まった。以後、この地は地中海を制覇する海軍の根拠地となった。
その後、有名なアモン=ゼウスの神託を伺うために熱砂の地シワーに行軍する。そこでアモン神から「神の子」のお告げを得て、「神は全人類の父である」として、全人類の平等同胞観を指導原理とする政策をアジアにおける征服民の上に適用するようになった。
エジプトを立ちシリアを後に、進路を東に転じてユーフラテス河を越え、さらに北へ迂回してティグリスの急流を渡って、軍を休めているとき、皆既月食がおこって全軍の士気がとみに上がった(前331年9月20日)。それから10日のちに、その南ガウガメラ平原で待機していたダレイオス王の拳いる最後のペルシア軍と決戦。この会戦ではアレクサンドロスの戦術の天分を遺憾なく発揮し、ペルシア軍を決定的に撃破・全滅させた。ダレイオスは再ぴ危地を脱して遠くヒルカニアへ逃れたが、やがて近臣の手で暗殺せられた。
ガウガメラの勝利はアレクサンドロスを完全にペルシア帝国の征服者とし、その後戦闘は国内の掃蕩となる。バビロンは新しいペルシア王としてアレクサンドロスを盛大に迎え、間もなくスサ、ペルセポリスの両首都も彼の前に門を開いた。スサとペルセポリスではアケメネス朝が代々溜め込んだ18十万ペルシア・タラントンにのぼるおびただしい額の財宝を獲得。アレクサンドロスはこれらをエクバタナに移し、ここを全帝国金庫の中心とするとともに、獲得した大量の金塊や銀塊を王の肖像を模した貨幣に鋳造して、広く国内に流通させるようにした。
ペルセポリスの壮麗な王宮は、その昔クセルクセスがギリシア神殿に与えた冒涜の代償として、東征軍に同行したアテナイの美妓タイスの手で焼かせた。このころマケドニア王の留守を突いてスパルタが反マケドニアの兵を揚げたが、留守執政のアンテイパトロスはすみやかにこれを鎮圧。その勝報がアレクサンドロスのもとに届くと、大王は、さきの王宮の炎上を区切りとし、ペルシャの脅威を取り除くという使命も達成されたので、ギリシャ連盟軍を解散する、という宣言をエクバタナでおこなった。(前330年春)
こうしてアレクサンドロスは連盟の制約から独立し、新編成の傭兵とマケドニア兵の混成軍を率いて、再びヒュルカニア、アラコシア、バクトリア、ソグディアナなど、帝国内の東北部平定戦に出る。それには三ヶ年の月日を費すこととなった。

〔征服地統治の方針〕
エジプトのアレクサンドリア市の創建以来、征服した土地土地の軍事または交易の要衝に、随時ギリシア人の軍事植民地もしくは植民都市のアレクサンドリアを建設していった。こうして建設されたアレクサンドリア市の数は70に及ぶといわれているが、現在判明しているのは25都市である。彼は全版図に多数のアレクサンドリア市を建設することによって、帝国内を均質的に安定させようとする一方で、帝国内のおさめるために高度な行政の制度を備えていたペルシャの制度・官僚を公然と探用した。州知事以下の行政官に任じるだけではなく、軍の将校として採用される者も多かった。
マケドニアの高官たちの中には、アレクサンドロスのこの新政策がマケドニアの伝統をないがしろにするものだと感じ、隠然と王に対立する反アレクサンドロスの声がおこり始めた。これに対し、イランの奥地で重要な近臣たちが次々に犠牲となって倒れるという、アレクサンドロスの生涯の上に暗い陰をさす一連の悲劇がおこっている。最初、陰謀の首魁として老将軍パルメニオンの子で親衛軍長官のフィロタスがマケドニア軍会議の宣告を受けて処刑され、最高の武動者であるパルメニオンも、王から秘かに遣わされた刺客の剣によつてメディア高原の露と消えた。ソグディアナでは酒宴の席で、王の乳母の弟であり、かつて彼の生命を救つた幼なじみのクレイトスが日頃の不満を爆発させて、ついに王の激怒を招き、アレクサンドロスの抜いた槍で突き殺された。ダレイオスの死後、王に謁見する場合、ペルシア風の「跪拝」の儀礼を探用したことに端を発し、近習の陰謀が発覚、これと関係があったというので史家カリステネスが禁鋼の刑を受け、そのまま行軍と共の幽閉の中で死んだ。

4.インド遠征と王の帰還、死
ペルシャ全土の平定後、アレクサンドロスは前327年夏には地上の東海を極めるため、インダス河の上流で渡河。ガンダーラ地方に入ってインド内地に軍を進め、そこでこの戦征中最後の、しかも極めて頑強な反撃を受ける。パウラバ王ポロスの指揮する象軍はアレクサンドロス軍を苦しめるが、苦戦の末かろうじてこれを破り、後には彼と同盟を結んだ。ここよりなお東軍し、インダス河の上流ヒュファシスに達したとき、熱病と豪雨がアレクサンドロス軍を襲った。ここで、先の見えぬ長路の進軍に疲弊しきった全軍が、アレクサンドロスに従軍することを拒否するという抵抗事件が勃発した。
トラキアのアンピポリスを出でて8年6ヵ月間における全軍の行程は、約1万2150マィルに及んでいたのである。兵士達は望郷の念に捕らわれていた。そこで王は2日間熟考の後、やむなくこれを聞き入れ、ジェルムからイングス河を船で下り、河口に近いパタラに着いた。ここでペルシア湾を守備させるためにネアルコスの艦隊と別れ、前325年8月末から陸行。灼熱地獄のゲドロシア大沙漠の横断を敢行し、飢餓と病死で多くの落伍者を出した。
ペルセポリスを過ぎてスサに到著したのが前324年2月。帰還した彼が見たものは、留守中の悪政の数々だった。アレクサンドロスはすべての罪状に対し厳罰をもって臨んだ。スサでは、ペルシア戦征従軍の将兵をねぎらうためにアジア平定の大祝賀の宴を張った。さきにアレクサンドロスは、パクトリア王女ロクサーナを嬰つたが、このときさらにダレィオスの王女スタテイラを王妃となし、将兵たちの中から80人の高官と1万人の兵卒を選んでイランの女性と盛大な集団結婚の式を挙げ、全軍兵士に多量の褒賞を与えた。そのうえ軍隊にイランの青年3万人を編入。ペルシア騎兵編成の親衛軍を増設するほか、自らペルシャ風の衣装をまとい、跪拝の礼をさらに強化するなど、大王のペルシャかぶれは、もはやマケドニア将兵の意を介さなかった。マケドニア人たちの不満は、軍がオピス付近に来たときに頂点に達し、やがて彼らは公然と王の命令に反抗するようになった。王は怒って全軍を解任し、側近にはことごとくイラン兵を用い始めたので、ついにマケドニア兵も折れ、双方和解が成立、そこで9千人の宴を訣け、その席で大王は心からギリシャとペルシャの民族が和協合一することを神々に祈った。
次に前324年秋のオリュンピア祝祭のとき、帝国内の治安維持の政策上、浮浪傭兵の一掃とギリシャ都市国家内の相剋解消を図るため、追放者に復帰令を発し、また同時にギリシアの諸都市に向ってアレクサンドロス神格化の王令を発布している。これによつて彼は帝国内に存在する人為的な諸法令を超越し、すなわち法の根源として自由に全帝国内に命令することができるようになった。これで絶対專制主権の「アレクサンドロろス帝国」が初めて出現したのである。同じ年の秋には、彼の信頼が最も篤かった親友のヘパイスティオンがエクバタナで急死した。彼の死にはアレクサンドロスは、パトロクロスを失ったアキレウスのように悲嘆した。翌322年の春バビロンヘ帰り、ヒュルカニア海の探検とネアルコスのアラビア廻航の指示を与え、引き続きアラビア遠征の準備に取りかかっていた。この年6月2日の朝、突然熱に冒されて起きあがれなくなった、高熱と戦うこと11日ののち、33歳の波瀾万丈の生涯をこの地で終わった。前322年6月12日の日没時であった。

5.アレクサンドロス大王の世界史的役割
アレクサンドロスの12年8ヵ月の統治が、古代世界の歴史を全く異なった基盤の上に置き換えた。彼以前のヘラスではゴルギアスとリュシアスがペルシア征戦を説き、イソクラテスは当時の社会不安を解決する唯一の手段として「ペルシア人に向っては戦いを、ヘラス人の間には和合」を説いた。プラトンも異邦人は本質的に仇敵であると教え、その門下アリストテレスもヘラス人には盟主として友のごとく、異邦人には主として生物を遇するごとくせよと言った。ヨーロッパとアジアは共に相容れない世界として並立し、二人の哲学思考はおのおの異邦の地を擁しているのにもかかわらず、二つの世界は永劫に惜悪しあう仇敵と考え、ポリスの小天地に安佳して「人間はポリス的動物なり」と教える。しかるにアレクサンドロスの東征とともに二つの世界の障壁は徐々に除かれ、アモン参拝からは自ら「神の子」の信念をもち、エジプト平定後は異邦人を文武の諸官に探用し、イランの集団結婚から両世界の人種的融合の遣を開き、オピスの祝宴では両民族の「和合」(ホモノイア)を心から祈った。最後に君主神格化の王令を布いて人類世界帝国の統一と国内平和の樹立を強化したのであった。彼はギリシアの哲人たちの教えに反し、彼自らの信念と当面する現実の世界に即して「神は全人類の遍あまねき父であり、全人類は同胞である、人類をギリシャ人と異邦人にわかつべきではなく、善悪に分かつべきである」という。彼は古代人がもっていた「人類世界」oikumeneの概念をより拡大明確化し、これを統一さえもした。そのうえこの世界に向つて古代最高の水準に達していたギリシア文化を広く伝えたため、東はエジプトから中央アジア、イラン、インド、中国、日本にまでその影響が及んだ。すなわち、彼は征服地の重要拠点にギリシア都市アレクサンドリア市を布いて帝国治安の重心とするとともに、これを結ぶ軍事商業の水陸道路網を完備し、さらに全帝国の連帯にはアレクサンドロス欽定貨幣を広汎に流通せしめた結果、東西物資の交易と人種的交渉はますますしげく、またこの貨幣の行くところには相互の意志を交流する国際語(平俗なギリシア共通語 Koine)が誕生し、やがてこの共通語を手段として多様なヘレニズム文化が生まれたのであった。かつてギリシャのポリス内で育ったキュニコス派の消極的「世界市民」の思想は大きな飛躍を遂げ、ゼノンの「世界国家」にまで発展した。そこでは全人類は同胞にして民族や階級やポリスの差別なく自由になり、この社会を形成する原理(ロゴス)すなわち字宙の自然法であると。いまこのような思想的発展のあとを見ると、いかにアレクサンドロス以後生起した古代世界の歴史的経験に多くを負うているかが窺われる。ストアのこの世界観はより現実化してのちローマに入り、アレクサンドロスの世界像とともにカエサルに受容され、さらに発展して統治者神としての皇帝が支配する世界国家、ローマ帝国が生まれてきた。地上の世界国家像はまたユダヤ的神秘の光を浴び、ナザレのイエスは「共通語」を通して、全智全能の父なる神、神の子、救主、同胞愛を説き、使徒パウロは人間には先天的人為的差別のないこととキリストの愛、主神の統治する世界にっいて書き送る。聖アウグスティヌスの「神の国」はそれを一層体系化したものであり、それはやがて中世に入って教皇の統べるキリスト教世界国家ともなり、のちフランス革命の「同胞愛」ともなつた。現在人類が直面している明日の単一世界国家も、素朴な形においてアレクサンドロスの『世界帝国」にその端を発しているともいえる (粟野頼之祐)

 
★参考本
◎『プルタルコス英雄伝(中)』 村川堅太郎訳 (ちくま学芸文庫) 1996年
◎『アレクサンドロス大王東征記(上・下) アリアノス著 大牟田章訳 (岩波文庫) 2001年
◎『世界の戦争1 アレクサンダーの戦争 〜青年王とユーロ・アジア大帝国〜 長澤和俊・編 (講談社) 1985年
◎『世界を創った人々1 アレクサンドロス大王 〜世界に挑んだ鮮烈な生涯〜 大牟田章・編訳 (平凡社) 1978年

 

ダレイオス3世   (在位;前336〜前330)

アケメネス朝ペルシア帝国最後の王。  アレクサンドロス率いるギリシャ軍に前333年のイッソスの戦い、前331年のガウガメラの戦いで敗退したあと、逃亡している途中に部下に殺害された。


キッピオアフリカヌス  (前236〜前183)
     プブリウス・コルネリウス・スキッピオ 大スキピオ
    カルタゴを破ったローマの将軍。

ローマの将軍だった同名の人物の息子。
17歳のとき、父に従って初めてハンニバルの軍隊と戦うが、敗走。 カンネーの戦いでも敗北。
前208年、スペインのバエクラで、カルタゴのハンニバルの弟ハスドルバル将軍を打ち破り、ローマによるスペイン支配を確立した。
前202年、ザマの戦いでハンニバルを破る。
ミトリダテス大王ミトリダテス6世、ウパトール・ィオニソス前132〜前64位;前111〜
小アジアのポントス王国の8代目の王。
二十歳ぐらいで即位。
前2世紀の末までに黒海北岸と西岸のギリシャ人諸都市をその保護下において豊かな経済力と軍事力を手にし、さらに黒海東南岸地方から小アルメニアに至る範囲までを勢力範囲に置いてから、小アジアを中心とした大帝国を築くことを夢見て近隣諸地域に進出をはじめ、この時代にこの方面にまで活動範囲をひろめていたローマ人と衝突するようになった。 
ローマの経済的圧迫に苦しんでいた小アジア各地の市民(主として下層民)は、ミトリダテスを解放者として歓迎し、これに力を得たミトリダテスは、本国で諸問題が次々と起こって遠隔地で機敏な行動がとれなかったローマを翻弄した。
前88年にスッラがコンスル(統領)に就任すると、ローマは小アジア反抗勢力制圧を図り、いわゆるミトリダテス戦争bella Mithridaticaが始まる。
ミトリダテスは小アジア西部からギリシャ半島までその勢力を伸ばし、ローマ軍はギリシャで苦戦をするが、前86年にまずアテネがローマに屈し、次第にじわじわとローマ側が勝利を得るようになったため、スッラは
スッラ、ルキウス・コルネリウス・スラ・フェリクス (前138〜78年)
共和制ローマ時代の高名な政治家。 
「執政官」。 マリウスと争い、 小アジア方面で功績を挙げる。
『味方にとってはスッラ以上に良きことをした者はなく、敵にとってはスッラ以上に悪しきことをした者は無し』 
しかし彼が前79年に隠退し翌年没してから10年を経ずして,彼の体制はくつがえされた。
没落した旧貴族(パトリキ)の出身。
31歳のときから2年間、執政官マリウスの副将としてユグルタ戦争に従軍し、敵王を捕らえるのに功あって、実力を認められる。 
しかしその3年後にマリウスその他の副将として参加したキンブリ族戦争(前104〜101)では、失敗を重ねている。
前93年に法務官(プラエトル)、前92年にキリキア(=小アジア南部)の知事となり、ポントゥスの王ミトリダテス(6世)と争って兵をユーフラテス川流域にまで進めた。 前90〜89年の同盟市戦争ではサムニウム人を破って武名をあげた。
前88年に統領(コンスル)となったが、この年ミトリダテス戦争が起こり、これに関連してイタリア人への市民権付与の問題で、民衆派(ポプラレス)の護民官スルピキウス・ルフスと争うようになった。 ルフスはコンスル就任に伴ってスラが得た東征軍指揮官の権限をスラから奪ってマリウスに与えたため、直ちにスラはノラから私兵を率いて上京し、ローマ市を武力によって占領し、軍事権を掌握して政敵を追放した。
しかし、直後にローマに多くの不安を残したままふたたび対ミトリダテスの東征に向かう。 スラは前85年までにポントゥス王の勢力をギリシャ(バルカン半島)から一掃したが、ローマにおける反対派の活動を知ってミトリダテスと和睦を結び(ダルダノスの和約)、前83年初めにイタリアに上陸。 若いポンペイウスとクラッススの協力を得、外国との戦争の勝利で士気が最高にあがっていたローマ軍を率いてローマを占領し、武力を背景にして国家に秩序を与えた最初の人になった。 スラによる反対派追放、暴虐な恐怖政治の犠牲は全イタリア半島に及び、多数のイタリア人が殺されたほか40人の元老院議員を含む4700人のローマ人が追放され、イタリアはハンニバル戦争以来の荒廃に見舞われたという。  しかし、このとき反対派から没収した領地・財産によって、スラ配下の23の軍団が潤った。 (退役兵12万人にも土地が与えられた)  
前82〜79年にかけての3年間、彼は独裁官(ディクタトル)として政治を独占し、あらゆる政治権力の元老院への集中を理想とする反動政策を強力に押し進めた。 スラが一番気にかけたのはグラックス兄弟以来増大し続けた民衆派の権力増大で、これに対処するために護民官の法案提起権、干渉権を事実上無に帰せしめ、元老院議員の数は倍増された。司法権も騎士(エクイテス)の手から元老院に移され、また政務官制度の改革などもなされた。 この間の彼の多くの立法はコルネリア法の名で伝えられ、ローマ法制史上、重要な意味を持っている。
彼は前80年にコンスルの任をつとめ終えたのち、隠退し、やがて60歳で没した。  晩年に回想録を書いたが、残存していない。


カティリーナルキウス・セルギウス  (前100or102〜前62)

ローマの秩序に大きな影響力を与えた人物として、ルネッサンス時代の著述家によく引き合いに出される人物。
没落パトリキ出身のローマの政治家。同盟市戦争に従軍し,スラの恐怖政治に荷担して蓄財。プラエトル,アフリカ総督就任後,コンスル職を目指したが,一度は不当搾取罪に問われて立候補できず,クラッスス,カエサルら政界多数の協力を得た前64,前63両年にも落選した。その直後,政権担当者暗殺,内乱状態再現を狙って全イタリア規模の陰謀を組織したが,コンスルのキケロの追及を受け,エトルリアへ逃亡(前63年11月)。一味は逮捕,処刑され,彼自身も翌年討伐軍との戦闘で敗死した。陰謀参加者は旧スラ派の不満分子を核に没落退役兵,都市貧民に及び,前2世紀後半以来の社会崩壊へのスラ的処方箋の破産を象徴する。
ローマの名家の出身。 若いころから素行は良くない。
スッラの流浪生活中に、彼の名代となって働く。 そのころ、妹の夫、自分の妻子、ウェスタの神殿の童貞ガビアを殺害したという罪で、クラウディウス・プルケルに糾弾された。
統領職への就任を2度も、当時の統領衆であったマンリウス・トルクアーツスとアウレリアス・コッタに妨害されたため、彼らを殺害しようと図ったものの失敗、しかしその後、判官と検事を買収したので、罪に問われずに済んだ。
 
ポンペイウス  前106‐前48   Gnaeus Pompeius Magnus
共和政末期ローマの政治家,将軍。いわゆる三頭政治家の一人。
ローマを長年にわたって悩ませた外敵との戦いに終止符を打ち,東方を平定した将軍としての業績は,高く評価される。またクリエンテス関係のもつ役割を十分に見抜き,積極的に利用したばかりか,ある種の世界帝国理念をも保有した政治家であり,とりわけ組織の才に恵まれていたといえる。若い頃には無冠にして大権を授けられるなど,法を超える形で権力を伸張したにもかかわらず,晩年には元老院の保守派いわゆる秩序護持派にかつがれて,カエサルに相対さざるをえなかった。将軍・政治家として同時代人を抜きんでるみごとな才能を有していたとはいえ,カエサルとの対立・抗争を通して明らかになるのは,両者の政治家としてのスケールの差であり,また人間性の差でもある。
父ゆずりのピケヌム(中部イタリアのアドリア海に面する地方)の地を軍事的・政治的・経済的地盤(クリエンテル)として政界に登場した。まず同盟市戦争で,父のもとで軍人としての第一歩をふみだした後,前83年はじめ,独力でピケヌムの地から3個軍団を召集してスラのために活躍し,とくにシチリア,アフリカでマリウス派の残党を討ち,若年かつ無冠にして凱旋式挙行をスラに認められた。スラの死後もスラ体制の護持に尽くし,イベリア半島のセルトリウスを撃破(前77‐前71)した後,前71年,その帰路にはスパルタクスの反乱の息の根をとめて声望を高め,第2回の凱旋式を行い,クラッススとともに前70年のコンスル(執政官)に選ばれ,スラの裁判関係の規定の変革と護民官の権限の回復をはかった。しかし権力の増大とともに元老院と対立し,民衆派と結び,前67年にはガビニウス法により地中海の海賊討伐の大権を与えられて,長年にわたりローマを悩ました海賊を3ヵ月で地中海から一掃した。翌前66年には,マニリウス法によりポントゥス(ポントス)のミトリダテス6世討伐の大権を与えられて,これを破り,またアルメニアのティグラネス1世を捕らえたばかりか,前63年までにエジプトを除く全東方を平定し,ミトリダテスの旧領を合して属州ビテュニアを拡大して属州ビテュニア・ポントゥスとし,属州シリアを設け,地方領主や諸王によるクリエンテル網を確立してその後の政治生活の地盤とした。
前61年凱旋式を挙行し,前60年にはクラッススおよびカエサルと結んで第1次三頭政治をはじめ,前59年のコンスルにカエサルを就けることによって,自らの東方での秩序設定を承認させ,自分の老兵への土地配慮を行わせた。一方,カエサルの娘ユリアを娶り,カエサルのガリア遠征中は,最初クロディウスにおされていたが,前57年,ローマの穀物供給管理の権限(5ヵ年)を得るなど,次第に中央ローマで力を伸ばした。前56年にはルカで,クラッススおよびカエサルとの三者の盟約を更新して,前55年にはクラッススとともに再度コンスルに選ばれた。しかし三者の関係は前54年のユリアの死,前53年のクラッススの戦死によって崩れた。その間,任地として両スペインが与えられたが,赴任することなく副司令(レガトゥス)を派遣して,自らは首都ローマの政治を動かしていった。前52年には一時同僚なしの単独コンスルに任ぜられている。次いでカエサルのガリアからの召還をめぐっての争いには,カエサルに対立する元老院の保守派にかつがれて,実質上の全権を付与され,前49年1月以降はカエサルとの内戦にはいった。しかし,ルビコン川を渡ってガリアから南下してきたカエサルに追われて,地盤である東方に逃れ,そこで勢力を結集した。次いで彼の地盤の一つであったスペインを制圧して,東方に追ってきたカエサル軍と,前48年の春から夏にかけてのエピルスのデュラキウムでの陣地戦の末,前48年8月9日,テッサリアのファルサロスの決戦に敗れ,エジプトに逃れたが,エジプト王の配下に暗殺された。


カエサル、ガイウス・ユリウス  (前100or102〜前44 /56歳

古代史の中でアレクサンドロス大王と並び称される古代ローマ最大の英雄、最大の武人。
政治家であると共に西洋史上、もっとも大きな影響を残した人物。 英語読みではシーザー。
ガリアを平定してローマ文化がヨーロッパ内陸部にまでひろめる基礎を築き,内乱の勝利者として単独支配者となり,世界帝国的視野に基づく変革を行ったが,共和政ローマの伝統を破るものとみなされて暗殺された。ギリシア・ローマの歴史の流れを決定的に変えた大政治家。
常に運命の女神と共にあることを確信したばかりか,世人に〈運命の寵児〉とみなされた一方,政敵を心から受けいれてゆく仁慈の人としても知られる。実戦の雄であったばかりか,軍略をめぐらす将軍としても卓抜しており,一方,人心の向かうところを正しくつかんだ民衆派政治家として,社会改革を遂行したが,業なかばにして倒れたといえよう。彼の窮極の狙いが,王政であったか否か,という問いは同時代人にまでさかのぼるが,共和政の破壊者とみなす説,逆に帝政の礎石をすえた人物とする説というように,政治家としての評価も定まらない。しかし世界帝国ローマを統御するには1人の力によるしかないという認識は,養子のオクタウィアヌス(アウグストゥス)によるいわゆる帝政の成立により現実のものとなった。政治家としてのスケールの大きさ,つまり世界帝国的視野を一応認める説が有力であるが,異論もないではない。豊かな人間性,また最期の悲劇性など,その人間像についても,文学者,芸術家の手でさまざまの角度から幾度もとりあげられてきた。
彼の家系は、彼がみずから述べたところによれば、父ガイウス・ユリウス・カエサル(前85没)の家系は女神ウェヌス (ヴィーナス) の裔であることを誇るパトリキ系の名門であった。 母アウレリアは王アンクス・マルキウスの後裔。 カエサルはこの名門の家庭に生まれたものの、幼年時代についてはあまり多くのことは伝わっていない。 ただ、彼の母は良妻賢母の誉れが高い女性で、カエサルも一生涯、母に対しては敬慕の念を抱いていたという。
カエサルの伯母がローマの実力者マリウスの妻であり、またカエサルが17歳のとき(前84)に結婚したコルネリアもマリウス派のキンナの娘であったため、カエサルもはじめからマリウス派(平民派)に属するものと見なされていた。 カエサルの青年時代はスラの全盛時代であったが、18歳のときにスラはカエサルに、キンナの娘と離婚するように命令する。 カエサルはこれを拒否し、財産を奪われて小 アジアへ逃亡。 迫害をのがれて各地を転々として身を潜めた。  前81〜78年に属州アジアおよびキリキアで軍務に従ったが、前78年にスラの死を聞いてローマに帰り、前77年に凱旋将軍ドラベッラの知事としての施政を告発したのが政治生活の第一歩となった。 しかしこの裁判に敗訴したため、ローマを離れてロードスに赴き、当時もっとも名声のあった修辞・雄弁術の師アポロニウス・モロ(モロン)について学んだ。 前73年には、ここの神官に選ばれている。
前70年以降はカエサルは民衆派(ポプラレス)の立場に立って、元老院の保守派と対抗した。前68年(69年説もある)財務官(クアエストル)に選ばれスペインに赴くが、この年妻を喪い、スラの孫娘ポンペイアを娶る(この妻は6年後にクロディウスとの姦通の疑いで離縁する)。  また任地のスペインのカデスでは、アレクサンドロスの像を見て発奮したとも伝えられる。任期終了を待たずしてローマに帰ったが、帰路ローマ市民権を熱望するポー川北岸の諸市に好意を示した。 首都に帰ってからクラッススらと結び、元老院の支配を覆す陰謀をくわだてたが、これは実現しなかった。 前67〜66年頃にカエサルはスラの後に権勢を握ったポンペイウスへの支持を表明するようになる。前65年に按察官 (アエディリス)の任に就くが、公共建築や華々しい剣闘士競技をおこなうことで、大いに民衆の人気を博した。
これに自信を得て、今度は自身にエジプトの統治を委ねられる任を与えられるよう策動するが、これは失敗。 さらに盛んに買収をおこなって、前63年に終身の大神官 (ポンティフェクス・マクシムス) に当選、しかしこの選挙費用のために、ローマ最大の負債者となった。
この年、ローマ政治のすべてを転覆させようとたくらむ「カティリーナ一派の事件」が発覚した。 事前にキケロによって計画が弾劾されたことでこの事件は未然に終わったが、その裁判の場で他の議員たちが容疑者たちに死刑を求める発言を次々する中で、カエサルだけは財産没収と禁固刑のみにとどめるべきという論を展開し、これが場の大きな賞賛を得た。 しかしこの裁判では最後にカトーによってカエサルの論は完全にくつがえされる。 この事件がもとになってその後、政界上層部にとってカエサルは危険人物と見なされ、前62年にカエサルが法務官 (プラエトル)に当選したときは元老院の閥族派(=カトー派)によって一時停止され、そのうえカエサルがカティリーナ事件に荷担していたとして、訴えられることとなった。 これを彼は巧みな弁舌でうまく訴えを退けることが出来た。(※カエサルが本当にカティリーナ事件に荷担していたのかどうかは不明だが、否定説の方が有力である)  プルタークによれば、このときカトーが一番恐れていたのは下層民衆の間に広がる革命思想であったが、民衆たちは元老院にまだなじんでいない存在としてカエサルに大きな期待をしていた。 この訴えの時にカエサルの身を案じて押し掛けてきた民衆に対し、カトーは食料を配分する法案を提出することで民衆の気持ちを自分に惹きつけ、またカエサルの力も打ち砕いた、と書いている。
法務官としてのカエサルは、親ポンペイウス的な法案を支持した。 12月のクロディウスのスキャンダル事件にからみ,翌年妻ポンペイア(スラの孫娘。コルネリアを失った後,前67年に再婚した女性)を離婚した。 クラッススの後ろだてで債鬼から逃れるために、スペイン方面の支持に就任することにした。
第一回三頭政治(前61〜58年)
前61年(41歳のとき)にカエサルは、ヒスパニア・ウルテリオル(=かなたのスペインの意)の知事として属州の秩序回復(ルシタニ族の抵抗)に功を立ててその戦利品で部下および国庫を潤すことができた。 その翌年ローマに帰り、クラッスス、および東方平定後帰国して元老院派に対して不満を抱きクラッススとも仲が悪かったポンペイウスの仲を取り結び、ローマのこの2人の実力者を相手に秘密協定をひそかに結んで、統領(=執政官、コンスル)選挙に立候補し、見事当選した(前59年)。 カエサルは貴族派の出したもう一人の統領ビブルスをまったく無視する形で、思うがままに行動したので、世の中の人は「この年はユリウスとカエサル二人の統領の年」と称したという。 ローマ一の金持ちクラッススと、数々の遠征で名高かったポンペイウスは、影からカエサルを補佐し、とくにカエサルは自分の娘をポンペイウスにめあわせて関係の強化を図った。 カエサルの政治上の当面の敵はカトーで、カエサルは自分の地位とポンペイウスの武力を背景に数度打撃を与えたが、このときばかりは他の議員たちも民衆たちもカトーの側に行くこともあったという。 
統領としての業績のなかで最も重要なのは、「土地法案」lex Julia agraria である。ポンペイウスの老兵も含めて、三人以上の子供を有する市民2万人に土地を分配し、その土地は20年以上譲渡禁止としたものであった。(その最初の案では、ローマの主要な国家財源であったカンパニアの国有地の分配は除外されていたが、第二次案ではこれも分配の対象とした) ポンペイウス配下が委員となってこの法案の実行に当たった。
また前年度の属州アジアの徴税請負入札額の三分の一減税を元老院の反対にも関わらず承認して騎士身分を味方に付け、かつ元老院の認めなかったポンペイウスの東征を確認した。 またアレクサンドリアのエジプト王プトレマイオス・アウレテスを復位させる法案を通して、その代償として6千タラントを受け取り、これをポンペイウスと分けて政治資金とした。 カエサルは自分の娘ユリアをポンペイウスに娶らせて仲を深め、自分はピソーの娘カルプルニアと結婚した。 この頃のカエサルはあくまでポンペイウスとの結びつきを重要視していた。
その他、属州における政務官の不法搾取禁止法 lex de repetundis や元老院議事公開法の制定など、統領としての施策によりカエサルはすでにポンペイウスを遙かにしのぐ政治的手腕を発揮していたが、将来の飛躍のための準備として、当時政治的に最も重要な属州であり、またゲルマン族のスエヴィ族の王アリオウィストゥスやガリア人のヘルウィティ族に脅かされていたアルプス手前のガリア州 Gallia Cisalpina(ガリア・キサルピナ) の知事職を、任期5年間(54年2月末まで)かつ三師団の兵を使うという条件で民会に承認させ(ウァティニウス法)、また彼の徒党のみの出席した元老院に、アルプス北方のガリア Gallia Transalpina(ガリア・トランサルピナ =現在のフランス、ベルギー、イリュリス地方) を更に一個師団の兵を指揮して同期間に統治することを承認せしめた。
この策を元老院で提起したのはポンペイウスであったが、彼はこの法案がやがてカエサルに与えるであろう結果についてはまったく分かっていなかった。
ガリア遠征(前58〜前51年)
ガリア地方長官として、カエサルは、前58年にガリア部族のヘルウィティイおよびゲルマンのアリオウィストゥスを征服し、前57年にはガリア北部のベルガエ族をたいらげた。翌年にガリアの北西、南西部の諸部族を討ち、ブルターニュ、ノルマンディー、アクィティニアまで遠征した。前55年にゲルマン族のウシピ、テンクテリをラインの右岸に逐い、さらにローマ人として初めてラインを渡ってゲルマニアに侵入。また“島のガリア人”(ブリトン人)の住むブリタニアに渡海遠征を試み、翌年7月にもこれをおこなったが、全島平定の困難を察してこの島の征服は断念した。一方で前54年秋に始まったガリア人の反乱に対処する必要に迫られ、53年に北ガリアのトレウェリ族、エブロネス族といった諸部族を破り、また再度ラィン河を渡った。ガリア族の叛乱は52年までは散発的な反抗であったが、52年にガリア中央部の諸族がウェルキンゲトリクスの続率のもとに大反乱を起こし、それは全ガリアに波及した。 ここに6年間の経営も水泡に帰するかとみえたが、カエサルは反乱軍をアレシアに包囲して屈服させることに成功し、その後は組織的な反乱は行われず、カエサルがポンペィウスとの決戦にガリアを去るに及んでもガリアがこれを機に再び独立を企てることはなかった。
この東奔西走の戦争の期間においてカエサルの部下の損失は極めて少なかったのに対し、ガリア人の死傷や捕虜はおびただしく、地中海方面に多数の奴隷が送られた。 彼はまた国家の供した軍団のほかに私兵の軍団をつくり、その中には新征服地の民からなる軍団(legio V Alauda)すらあった。 かくてこれまで全くローマの圏外だったアルプスの彼方がローマの属州となり、彼はこれに年4千万セステルティウスの租税を課すことで、ローマの国庫は大いに潤った。カエサルが当初から全ガリアの平定を目的としてここを任地としたか否かは明らかでないが、この偉業により首都における彼の名声はいよいよあがり、また彼の今後の活動に必要な自己に忠實で優秀な軍隊と資金ができていた。一方で、ヨーロッパ内陸部がはじめてギリシア・ローマ文化の恵みに浴し、西欧文化圏成立の基礎が作られた。
ポンペイウスとの対立 (前51〜前49年)
この八年の遠征中カエサルは首都ローマの情勢についても絶えず気を配り、遠征中も(前54年と前53年を除き)冬季は北イタリアにとどまってローマからの情報を入手するとともに、自己の戦績を大いに喧伝した。 彼の養父のピソと徒党のクロディウスなどもローマにて彼の利益のために活動するように働きかけていた。 しかし彼の功業に対する閥族派の嫉妬はしだいに増大し、前56年に統領候補のドミティウスが彼の手から部下の軍団を取上げることを企てたことを知ったので、カエサルはルッカにポンペイウスとクラッススを招いて会見した。その結果ポンペイウスとクラッススが前55年の統領となりカエサルの任期も更に五年間延期されることとなった。 
ところが前54年には彼の妹ユリアが死んでその婿ポンペイウスとの結合がゆるみ、前53年にパルティア討伐に向っていたクラッススも敗死したため、これまでの三頭政治はカエサルとポンペイウスとの対立となった。
前53年首都の無政府に近い状態に対して元老院派はポンペイウスを単独の統領に選び、秩序回復を企てたが、カエサル派はこれを承認する代わりとして、カエサルがガリアにおける十年の任期を終えるとき(前49年末)、属州に在するまま軍隊を保った状態で前48年の統領に立侯補するのを許すことを要求し、キケロがラヴェンナにおいてカエサルと会見して協定を成立せしめた。 任期終了前にカエサルをガリアから召還することに対するの護民官の拒否催も確約されたが、この時点ではポンペィウスがいかなる態度をとるか予想がついていなかった。
前51年、統領で元老院派のマルケルスがカエサルの任期終了以前の召還を要求したとき、ポンペィウスは一旦反対を示したが、カエサルを御すには彼が前48年の統領となる前に在野の期間を設け、その間にカエサルの施政についての告発を行う必要があったので、ポンペイウスも長い苦慮の後にカエサル召還をすることを決心した。 カェサルはその間金に糸目をつけず反対派の買収につとめ、はじめには已れを攻撃したクリオを大金で味方につけたほか、買収先は解放奴隷や奴隷にまで及んだ。 クリオは前50年の護民官としてカエサル、ポンペイウスの双方が同時にその手兵を解散する案を出したが成功せず、49年1月1日の元老院会議はカエサルによる同一趣旨の提案を斥け、カエサルのみが軍を解くべきことを決議した。 カエサルはそれに対し第二、第三の譲歩案を出したが、カトーその他がカエサルが統領へ立候補することにも反対し、1月7日彼の召還が決議されると、1月11日カエサルは「賽は投げられた」 Jacta est alea の言葉と共に彼の属州とローマ本国との境をなすルビコンの小河を渡って首都に進撃した。
4つの戦争 (前49〜前46年)
カエサルの軍隊はたちまちイタリアを制圧したが、東方に逃れてイタリアヘの食糧補給を絶とうという両コンスルとポンペイウスの策を阻止できなかった。 そこでカエサルはまずポンペイウスの地盤であるスペインへ向かい、そこを守護していたポンペイウスの部将を破って降服させた後、前48年エピルスに渡り、デュラキウムでポンペイウスを包囲した。 しかしこれは成功せず、かえってポンペィウスの部隊の出撃により彼の生涯では珍しい敗戦を味わった。 同年8月9日テッサリアのファルサルスで決戦となり、数的には劣っていたが部下の奮戦により完全な勝利を得て、カエサルが天下をほぼ握った。 
ポンペィウスを追撃してエジプトへ上陸したカエサルは、ポンペイウスが暗殺された後、前47年の冬、アレクサンドリア市民との困難な戦争にまき込まれた。これはカエサルがさきに復位させたデウレテスの子のプトレマイオス12世とその姉であり王妃であるクレオパトラとが王位を争い、クレオパトラの美貌に迷ったカエサルが彼女の味方をしたためで、数ヶ月間カエサルもアレクサンドリアの王城に包囲されて苦戦したが、ペルガモンのミトリダテス王の援兵により窮地を脱し、自分の愛妾としたクレオパトラを王位に就けた。 
このころ小アジアではポントゥス王ミトリダテスの子ファルナケスがローマの内紛に乗じて領土を拡大していたが、カエサルはエジプトの事態が落着するや直ちに小アジアに向かい、ゼラの合戦(前47)でこれを破った。 そのときの元老院への報告が「来た、見た、勝った」Veni, vidi, vici  であった。
その後カエサルはローマに帰還したが、すぐに前46年1月に元老院派の集結している属州アフリカに渡り、4月6日カトースキッピオを主とする元老院派の軍隊(ポンペイウスの残兵)をチュニジアのタプソスで撃破。 この戦いで共和政の運命は決した。 元老院議員中カエサルに対し毅然たる態度を取り続けていたカトーは、キケロのようにカエサルに屈することを嫌って自殺、彼を助けたヌミディア王ユバも自殺し、ヌミディアはローマの属州となった。 
共和派の最後の拠点となったスペィンでは、ポンペィウスの二人の息子グナエウスとセクストゥスがカエサルの勢力に反抗していた。 カエサルは前46〜45年の冬、スペインに出撃し、3月17日に南部のバエティカ地方のムンダで決戦となった。 この戦いはカエサルにとって最大の苦戦となり、一時彼も自殺を覚悟したほどだったがなんとか最後の勝利をえ、ここにようやく彼に敵対する全勢力の討伐を終えることが出来た。 タプソスの勝利の直後、彼はローマでガリア戦争、アレクサンドリア戦争、ポントゥス戦争、アフリカ戦争の四つの勝利に対する凱旋式を行い、45年スペインの勝利について第五の凱旋式を撃げたが、おのおのその趣きを異にし、ガリア戦の凱旋式が最も豪華であった。
内乱における彼は基本的には慈悲深く、できうる限り敗者をいたわったという。一方、戦の間に各属州で秩序を整えて、植民市を設けてローマ化を図った。
独裁樹立(前46〜前44年)
ポンペイウス派を倒した後のカエサルは事実上の独裁者で、全軍に対する指揮権、国庫の管理、和戦の決定、風紀取締り、推薦選挙の権限が認められていた
タプソスの戦いの後、共和政の伝統に反して十年任期のディクタトル(独裁執政官)となり、前44年2月以降は終身のディクタトルとなった。(前48年末に一度、一年任期の独裁官に就任している) すでに前48年には法務官級の知事の赴任地を決定する権能を握り、前46年には風紀監察官(praefecture morum)の役を与えられていたが、これは元老院議員を任命し、また各種の政務官を推挙、すなわち事実上任命する権限を有した。 これにより彼は好きな人物を元老院に入れることが思いのままとなり、やがてカエサル派の元老院議員の数は九百人に及んだ。その中には兵卒上りや解放奴隷の子もあり、スペィンやガリアの被征服民でラテン語をよく話せないものすらあると噂された。 しかし、この方針はのちのアウグストゥスの時代の元首制と異なり、カエサルが共和政の実体としての元老院まったく軽視していなかったことを示すものとされる。
護民官の役目は固辞して受けなかったが、その不可侵性 sacrosanctitas は認められ、凱旋将軍の衣装(古ローマの王のもの)の常時着用が許され、前44年には彼自身がローマ人の主神ユピテルと結合して、ユピテル・ユリウス Juppiter Julius として神々の中に列し、ユピテルおよびクイリヌス神殿に彫像がたてられて、アントニウスがその神官となった。(完全な神化は死後に実現) 
カエサルは政敵にも寛大な態度を示し、たびたび大規模な恩赦を行って登用することまであったが、これはカエサルのいちじるしい個性と考えられた。カエサルは、人心収攬のために、気前の良い施しと華々しい凱旋式を効果的に利用した。その政敵への寛大、仁慈の尊崇のために神殿建造も企てられている。
その他、彼に与えられた栄誉は、彼の生まれた月である第5月(Quintilius)をその姓にちなみ、ユリウス Julius (現在の July)に改めたことや(太陽暦(ユリウス暦)が採用されたのは前45年1月1日)、前45年以後彼の肖像を貨幣に彫刻するようになったことである。
独裁者としての彼の施政は多岐にわたり、前46年の5月から11月の間に彼はおびただしい立法をおこなった。 首都ローマの都市計画を推し進め、首都に集まっていた無産大衆 plebs urbana に対する穀物分配対象人数を制限し、それまでの32万人から15万人とした。これによりこの制度はそれまでのように選挙における買収手段ではなくて、一種の救貧事業となった。共和政末期ローマの一大問題であった借財の間題については、彼に負債の帳消しを期待するものも多かったが、彼は債権者・債務者双方の利益を図って穏和な手段を講じたのみだった。
自分の老兵に対しては一時賜金の他に土地の分配によりこれをねぎらい、形式的には前59年に彼が統領として出していた法を適用した。分配はイタリア内の国有地を主とし、私有地の場合には原所有者の利益を侵さぬよう注意し、また老兵が各都市領域に分散して土地を与えられるよう努め、元の所有者には代償を支払った。 とくに海外への移民を社会政策として小おこない、老兵以外の貧民、たとえば穀物分配を中止された首都の無産者などには海外の植民市建設計画により土地を与えることとした。彼の建設した植民市はカルタゴ、コリントスをはじめ多数知られ、海外植民者の数は老兵以外で8万人に及んだという。 その中にはコリントスヘの移住者のように解放奴隷が多数含まれていた。 
また宗教的結社が政治に活動することを禁止しているが、これは首都の貧民が生活共同団体を組織して政治を論ずる風潮を改め、己れの独裁的地位の安泰をはかるためとされる。 奴隷については、大土地所有者がその牧場で使う牧人の三分の一は自由人たるべしとの法を出した。 これは奴隷叛乱の再発を予防することを企図したものであろう。 
司法制度については陪審者を前70年の法により、元老院議員、騎士、平民の三身分から構成すると定めたことを廃し、元老員と騎士の二身分に限定し、彼の支配が民主政ではなくて後の元首政と同様富裕市民の支配を前提とすることを示した。
風紀監察の役により彼はまた奢侈の風潮、とくに食卓における乱痴気を取締まろうとしたがこれはうまくいかなかった。 属州統治については知事の任期の限定、弊害の多かったアジア州の(および多分他の州の)地租徴税請負の廃止、税額の軽減のほかに、都市法 lex Julia Municipalis を制定し、都市参事会員の資格その他を規定した。 その他、当時きわめて複雑であつた法律を集成、簡略化するための法典編纂も企てられたが実現しなかった。 後世への影響の点で最も有名なのは前46年に行われた暦法の改正で、エジプトで知った一年を365日とする太陽暦を採用するとともに、ローマ古来の陰暦で行われた潤月の法により、四年目ごとに一日を加えることとした。 文化事業としてはウァロを主任として首都に大図書館の建設を企て学問尊重の態度を示した。 これらの施策にカエサルの政治家、財政家としての手腕は遺憾なく発揮され、部下の老兵や市民一般に対しては十分な施しをおこなったに拘わらず国庫は豊かで、彼の死に際し七億セステルティウス(約7千7百万円)の余剰があった。 それでフキヌス湖の干拓や己れの名に因む首都のユリウス広場、そしてそこを飾るユリウス議事堂の建設などをも企て得たのであった。
王位問題と暗殺(前44年)
カエサルの意図はローマ史に前例のない専制支配にあり、イタリアと属州との差、ローマ市民と属州民との差を取り払ってアレクサンドロス大王の建設したような世界帝国を再現するにあったらしいが、そのためにはクラッススの敗死以来の東方の宿敵パルティアを破ってローマを名実ともに地中海一帯の覇者となる必要があった。 この事業の成就の暁には、帝国の首都を共和政の伝統をになうローマから東方に移すことも考えていたようである。
はじめカエサル自身は自らが王位に就く案に対しては、共和制の伝統に反するものとして禁止したが、終身のディクタトルの職を受けたときの態度には元老院議員らを驚かせた尊大なものがあり、前44年1月には民衆により王 Rex と歓呼され、2月15日にはアントニウスが彼に王冠を捧げた。 彼はこれもこのときは辞したが、シビュラの預言書中に「パルティア人は王のみにより討伐せらる」との預言が発見され、カエサルはこれに対しイタリアは王の支配から除かれるとしたが、自己の即位を金面的に否定はしなかったので、人々の王政についての危惧はますます増大した。 カエサルを除こうとする陰謀はすでに早くからあったが、前44年の暗殺の首謀者は共和政に忠実であったカッシウスやマルクス・ブルートゥス(共和政建設者のルキウス・ブルートゥスの子孫としてひそかに人望があった)を首謀者とし、総勢約60人がこれに関与し、デキムス・ブルートゥスのようにカエサルの恩顧を受けたものも多かった。 キケロは直接これには与からなかったが、いわば陰謀の精神的な支柱をなしていた。一方カエサルは部下の忠告にもかかわらず、身の警戒については注意していなかった。3月18日、東方遠征出発を前にした15日の元老院会議で、シビュラの預言による王位提案が行われると予測されたので、これが陰謀実行の最後の機会となり、カエサルはポンペイウスの建てた議事堂で、ポンペイウスの像の下で絶命した。
暗殺ののち陰謀者の予期に反し、民衆の間にその死を悼む声がさかんに起こり、ことにカエサルが好意を示したユダヤ人たちが数日間火葬の場に集まって追悼した。
独裁者のカエサルにとっては後継者たるべき男子のないことが問題であった。クレオパトラとの間に小カエサル(カエサリオン)という男子が生まれていたが、それは(外国人との子であるため)問題となりえず、前45年9月に近縁のオクタウィウス(=オクタウィアヌス)を養子として相続者とした。 しかし早世の場合も考慮して、他のデキムス・ブルートゥス以下多数の腹心を第二次の相続者に予定していたほか、東方専制君主のように多くの正妻をもって、それから生まれた子を嫡子とすることを自分に認める法の提案を用意していた。 これはクレオパトラを正妻としカエサリオンを相続者とする意図から出たことである。 彼の遺産は一億セステルティウス(=約1100万円)にのぼったが、遺言により民衆各人に三百セステルティウスがわけ与えられた。
カエサルの個性、歴史的評価
カエサルは雄弁においてキケロと並び第一人者であったほかに文章をよくし、ガリアに在って軍事に多忙を極めた間にも自己の行動を録した「ガリア戦記」を著わし、またポンペイウスとの合戦については「内乱記」(三巻)をのこしている。 その他キケロのカトー礼讃の書に対して反駁した「反カトー」(二巻)などがあったが残存していない。 カエサルはアテナィの古文体を模して修飾を避け、簡潔、明朗なスタイルを特色とし、ことに「ガリア戦記」は極めて平易な文章なので初歩ラテン語の讃みものとして知られる。
カエサルが武将としてアレクサンドロスと共に古代第一流の名将であったこと、また政治家としての手腕にすこぶる卓越していたことについては異論がない。それは戦局、政局を洞察する才能と好機をとらえて果断に実行する意志の賜物であった。人間的には、英雄色を好むの例に洩れずクレオパトラやポンペィウスの妻をはじめ多数の婦人と関係し、放縦であった。部下に対しては、反逆者、脱走者には厳罰をもつて臨んだが、一般に深く部下を愛し、これにより部下は彼のために身命を惜しまず奮戦し、彼の天下統一を成就せしめた。 莫大な借財を意とせず、ポンペイウスを倒した後も政敵に封して寛容の態度をとったように、彼は英雄の名にふさわしい度量の大きな人物であったが、その政治目的の評価についてはいろいろの議論がある。古くモムゼンは彼を空前絶後の大政治家で王政復古を企てた民主政の闘士として礼讃したが、マイヤーは彼の施政をポンぺイウスの態度、アウグストゥスの元首政 principatus と比較考量して東方的な專制支配 monarchie の樹立にあったと主張している。 彼が企てた政治的地位は三百年後ディオクレティアヌス帝に至り実現しており、古代史が当然たどりつくべきものであったが、そのためには未だ時機尚早で、元老院の伝統は彼の考えたほどに弱いものではなく、元首政の過程を経てはじめて專制が実現せられた。その他この明敏な政治家も最後に致命的な誤算をしたのであった。 ガリアの平定は本来彼の野心のための手段として企てられたものであろうが、ローマが沿岸国家から内陸へ発展する転機を迎え、ギリシア・ローマ系文化がここにつたわって今日のラテン系のフランスの基をひらいた点は、大きくいえば西ヨーロッパの形成のはじめをなした点で世界史的に重要であり、元首政のための道ならしの捨て石となったこと、西ヨーロッパの形成者としての役割にカェサルの歴史的な意義が存するといえよう。
ウェルキンゲトリクス   (前82頃〜前46)
前52年のガリア人の大反乱の指揮者。アルウェルニ族の有力者の子。父は王位を望んだという嫌疑で殺された。
前52年にカルヌテス族が反乱をおこしたのに呼応して,自己の部族の者ばかりではなくガリア全体に反乱を呼びかけて同盟軍を組織,その指揮者となった。数々の合戦で一時はカエサルを窮地に追い込んだが,アレシアの戦で攻囲されて大敗した。
降伏後ローマで投獄され,6年後の前46年にカエサルの凱旋式のあと処刑された。
ロマン主義時代にガリアの愛国主義者と賛美され,19世紀末にはフランス国民の英雄,20世紀初頭にはフランス史における最初の抵抗運動家という評価が与えられた。 
アウグストゥス、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス (前63〜後14) 在位;前27〜後14年
ローマ帝国の初代皇帝。
ウェリトラエの富裕な騎士身分のガイウス・オクタウィウス GaiusOctavius とカエサルの姪アティア Atia の間に生まれ,初め父と同じガイウス・オクタウィウスの名を称する。父は法務官・マケドニアの支配者として力を振るったが、前58年に死去。母によって学芸をたしなみ祖先の遺風を重んじるべく教育された。
12歳のとき、慣例に従って祖母ユリア(=カエサルの妹)の頌辞を述べたのが、公の場への初登場である。
男子に恵まれなかったカエサルに愛され、前46年のアフリカ凱旋や、スペイン遠征にも同伴。 18歳のとき、生涯の友アグリッパとルフスと共にイリュス地方のアポロニアに送られたが、その地で遊学中にカエサルの暗殺されたことと、カエサルの遺言が、自分がカエサルの養子となり、カエサルの資産の相続人に指名されていることを伝え聞き、すぐにイタリアに上陸。名門ユリウス氏族の後継者としてガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス Gaius Julius Caesar Octavianus と名のった。 まだこの時点ではオクタウィアヌスはローマでは無名の青年であった。しかし、この出来事は、突然彼の心に大きな義務感を生ぜしめ、心の底の野心を強く刺激したという。 しかし、彼はこの頃から慎重、賢明、かつ毅然とした雰囲気を持っていた。
カエサル死後の資産相続の正当性を巡り、まずカエサル派の実力者マルクス・アントニウスとは不和となる。アントニウスもカエサルの遺言とその効果を自分のために使おうとし、最初はオクタウィアヌスを若輩者として軽視していた。しかし、アントニウスとカエサルの暗殺者デキムス・ブルートゥスの勢力(共和派)との戦いの中で、和解が成立し、オクタウィアヌスは元老院から元老院議員および前法務官の地位を与えられ、ムティナの戦いでも勝利をおさめた。(しかしこの勝利に対して、元老院はオクタウィアヌスに正当な名誉を与えなかったので、軍隊は彼を統領にすることを要求する運動を起こした) 前43年、アントニウスを支持するレピドゥスを加えて「国家再建三人委員」を結成。元老院の承認によって独裁官の全権を得ると,彼自身は北アフリカ,シチリア,サルディニアおよびコルシカを勢力基盤とする。前42年,フィリッピの戦で共和派の残党を一掃した際には,頭目ブルトゥスの首をカエサルの彫像の前にささげたといわれる。
 その後,退役兵への土地分配をめぐってアントニウスとの間に亀裂が生じ,彼は海上に勢力を振るうセクストゥス・ポンペイウス Sextus PompeiusMagnus Pius と一時結んだが,前40年ブルンディシウムの協約によって再びアントニウスと和解した。この頃,彼の姉オクタウィアはアントニウスと結婚し,両者の協力関係は強まったかに見えたが,前36年ポンペイウスの艦隊が撃破され,レピドゥスが失脚して,彼が西地中海の覇者となると,東地中海を勢力範囲とするアントニウスとの間の緊張は高まった。彼がダルマティアの地域に遠征している間に,アントニウスはパルティア討伐に失敗しながらも,エジプト女王クレオパトラを昏愛し,彼女とその息子を遺言状(これはおそらく捏造されたものである)で相続人に指名するありさまであった。さらに,アントニウスがオクタウィアと離婚するに及んで,両者の衝突は不可避となり,前32年宣戦が布告された。前31年9月,アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの連合軍を破り,翌年にはアレクサンドリアを包囲して両人を自殺に追い込み,エジプトをも彼の全権下の属領とした。前29年8月にはローマにおいて大凱旋式が挙行され,前28年には三頭政治時代のすべての指令の無効が宣告された。
 前27年1月の元老院会議において,オクタウィアヌスは共和政再建のために自分の権力のすべてを元老院と民会に返還することを言明した。しかし,元老院の要請によって国政の責任を元老院と分担することになり,ほぼ半数の属州の総督命令権がゆだねられた。彼自身は軍隊による警備の必要な属州を統治したことから,事実上,全ローマ軍の最高司令官となった。また,元老院からアウグストゥス(〈崇高なる者〉の意)という尊称を授与された。前23年には共和政の国制遵守の回復を理由に統領(コンスル)への連年就任を辞退したが,護民官職と上級統領代行権が終身付与され,また,前19年には統領の権限とこれに伴う栄誉権をも終身のものとして与えられ,ここに国家全体における卓越した実力者の地位を完全に確定したのである。アウグストゥスは内戦の破局を除去し,万人の求める平和を国家にもたらした功績によって,万人を凌駕する権威(アウクトリタスauctoritas)を与えられ,国家における第一人者(プリンケプス)そのものになった。彼によって元首政が成立したというゆえんである。臨終時における彼の肩書は〈最高司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神梢官長(ポンティフェクス・マクシムス)・統領13回・最高司令官の歓呼20回・護民官職権行使37年目・国父(パテル・パトリアエ)〉である。
 国制の上では,元老院の数度にわたる改編によって議員定数を600名と定め,議員の適格審査および公職候補者の査定にあたる権限を掌中に収めた。元首の権限の重要な基盤となる軍事力の強化のためには,各兵員6000名から成る28軍団を総兵力とする常備軍が創設された。また,ローマ市民の正規軍団の補強のために属州民による補助軍を編成し,ミセヌムとラベンナには艦隊を常設して,これらの勤務年限満了後の退役兵にはローマ市民権を付与した。さらに,身辺警護のために9部隊の親衛隊を置き,母市警備隊や消防隊を常設して首都の保安に努めた。軍隊の維持,属州統治,穀物供給,道路の管理や公共建築の造営等々の実施に伴う巨額の出費に備えて,元老院管轄属州の収納国庫のほかに皇帝所管の財庫を独立させるとともに,退役兵への除隊金の支出のためには軍事金庫を設けている。徴税の基礎となる人口調査を属州ごとに一定期間を隔てて実施し財政を整備した。帝国の全般的政策においては,ローマ市民権の付与およびローマ型都市行政の浸透によって属州地のローマ化を企てるとともに,都市の自治を促進した。また,姦通処罰法,奢侈取締法,婚姻奨励法によって社会秩序の安定化を図り,不法徴発や刑事訴訟事件の解決のために,従来の陪審裁判と並んで特別公職者裁判を多用して皇帝裁判確立の基礎を固めた。外征領土政策の面では,イベリア半島の土着民の抵抗を最終的に鎮圧し,ドナウ川以南のパンノニア,ダキアの種族を征服した。しかし,ゲルマン部族に対しては,後9年のトイトブルクの戦でローマの3軍団が壊滅されたために守勢にまわり,ライン川とドナウ川を結ぶ線で帝国北境を画した。東方では,パルティアと友好関係を結び,ユーフラテス川を境界に定めた。こうして,彼の治世には平和(〈パクス・アウグスタ Pax Augusta〉)が実現し,多数の詩人や学者が輩出してラテン文学の古典期とも呼ばれている。
 個人生活の面では,いくぶん冷酷で不機嫌な気質の印象を与えるものの,彼自身は質素で実直な生活を好んだ。友人や同調者を選ぶ慧眼に恵まれていたが,後継者問題では,意中の人物に次々と先立たれたことによって心の痛手も深かったようである。結婚生活では3度目の妻リウィアを深く愛し53年間連れ添ったが,前妻との間に一人娘ユリアを得たのみで,子どもには恵まれず,このユリアも彼の晩年には不貞の評判で彼を悩ましつづけた。結局,リウィアの連れ子ティベリウスを養子として後継者に指名せざるを得なかった。元来病弱であったにもかかわらず,77歳まで生き永らえ,後14年8月19日,南イタリアのノラで死去した。その死後,カエサルの先例にならって神格化された。彼の霊妓は今日でもローマに残り,墓前には《業績録》の青銅板が設置されたと伝えられている。
間もな同年十一月、五ヵ年を期間とする「國家再建のための=天官法」一ド異一『葦芭ま目く巨朋冨号目;So8富葦ε己竃によつて、いわゆる第二次三頭政治の法的承認を得、アフリカ、シケリア一(シチリア)、サルデニヤを勢力範園とした。三頭政治は、追放市民のリストを作り、多敷の元老院議員、騎士を慮刑、多くの都市の所領を没牧し、兵士たちのあいだに分配した。キヶ口もアントニウス、亡の要求により殺害された。共和汲の残黛は、ブルトゥス、カツシウスとともに東方に逃れるか、あるいは海上を支配していたセクストゥス・ポンペイウスに投じた。前四二年、オクタウィアヌスはアントニウスとともにアドリア海を渡り、フイリツピ里-甘亘の戦いにブルトウス、カツシウスを敗死せしめた。しかし間もなく爾者の間に不和を生じ、オクタウィアヌスは一時、ポンペイウスと提携したが、前酊○年、ブ〃ンディシウム困;=2■ξヨの山-臼によつて亘ぴ和πし、アント呂ウスはむの竈炉クタウィアと結婚した。雲二九年にはミセヌム呂庁彗…において三頭政治↓ポンペイウスとめ霧冊一も成ったが、これは問もなく破れ、三七年オクタウィテヌスはアントニウスとタレントウムにおいて協約を確認し、三頭政治は更に五年間延長されることになつた。三六年彼はアグリツパとともにポンペイウスの艦隊を撃破し、またレピギゥスがシチリアに野心をいだき彼の抗議によって失脚したのちは、イタジアおよび西方における唯一の實槽者となり、國民の信望を集めた。これに反して東方を勢力範團としたアントニウスはパルティア討伐にも成功しなかつたうえ、エジプト女王クレオパトラの容色に溺れて、彼女にキュプロス、ギリシア、クレタなどを奥えて東方ヘレニズム的支配の性格を濃厚にしたため、オクタウィアヌスとの封立は深められた。前三二年の統領蓬學では、二人のアントニウス派が選出されたので、オクタウィアヌスはクーデターに訴えて元老院から反封黛を放逐して實櫨を握った。そこで彼は、クレォパトラの子を相績者とし、アレクサ久ドリアに埋葬されることを規定したアントニウスの違言状を公開した。他方、アントニウんはオクタウィアを離婚したので、雨者の衝突は不可避となった。元老院着よびローマ人民はアントニウスから三人官の櫨力を剥奪し、クレオパトラに宣戦した。オクタウィアヌスは雲二一年、アクティウムの海戦にアントニウス、クレオパトラの軍を破り、翌年アレクサンドリアを包園して雨人ポ庄殺せしあ、エジプトを彼個人の所領とした。二九年八月、彼はローマで肚大な凱旋式を行い、ここに全く天下をポ丁定した、
〔元首政の確立〕
オクタウィアヌスは前二八年、アグリッパとともに人口調査を施行し、元老院を浄化して定員を八百名(のちに六百名)に減じた。同時に彼は元老院から「元老院の第一、人者」巾ユ…。湯on昌黒毒という構號を輿えられ、元老院議員リストにおいて首席を占めた。プリンヶプスはそれ自髄としてはなんらの橦力を含むものではないが、彼の實槽と聲望に裏づけられてここに新し.い政治髄制である「元首政」享巨9冒冨ωが成立するにいたつた。二元首政の性格については議論が多いが、彼と元老院、君主政と共和政の妥協・調和形髄であることに異■はな小.ユ,ウ一^.カ'▲▼〃の●●ー二■しt8.い2だ簑竈.政の傳統の彊いローマでば專制的な君圭政治の存在の鹸地はとぼしかつた竈翌二七年、彼は「國家を彼自身の支配から元老院とローマ人民の槽威に還付した」が、元老院から再び軍隊命含槽を輿えられ、層州の統拍を元老院と分割し、軍事上重要な層州を支配したぱかりでなく、上記軍隊命令槽によつて元老院管轄の層州をも間接に支配し“また宣戦議和槽、政務官候補老指名権を保有し、さらに元老院からアウグストゥス(尊巖者)の尊構々典えられ、實質上、彼によつて.回ーマ帝政が創建された。
彼は燭裁的支配の外観を避け、前二一二年には引績き統領に蓬出されることを辞退したが、護民官職櫨言旨…三田君3g葛およぴ前統領命令椛ぎ男ユ;08§邑竃。を代償に得ているので竈櫨はかえつて彊化され、前二一年には最高司祭長o昌葦異冒姜量;となり、前二年には元老院およびローマ人民によつて「國父」喀ざ・寝三塞の3硲を臭えられた。すでに彼は在世中「疎の子」}圭二;轟と稀えられ、東部口州においては女碑ローマの腱拝と結合して、彼に疎的崇拝が捧げられた。
。〔治緬〕
彼はアクティウムの海戦後、十八軍團を残して他を解散したが、後また二十八軍團に埼強し、層州からも補助軍竃・邑彰を徴集し、軍隊に編入された層州民にはローマ市民櫻をあたえ、別に九隊の近衛兵8旨;o寝竃ぎユ纈および都市警備隊、浦防隊、ミセヌムとデヴェンナに常備艦隊をおき、除隊の兵士に金を支給するため軍事金庫竈;・冒竃冒ま一印、。を創設し、從來の軍事植民地にかえ、また財政を整理し、免税の特槽をもつイタリアからも相績および貫買に際しては新しく課税し、イタリアおよび元老院管轄層州からの牧入を取扱ラ國庫のはか、彼の支配する層州の金庫を設け、元首の財政を燭立させた。こ
のようにして彊固な軍隊と財政が元首政の二大支桂となった。
彼はまた肚會秩序の存立と遣徳の粛清をはかるため諸種の立法を行い、姦淫を公的犯罪とし、結婚をほとんど彊制的とし、婚姻者を優遇し、奮修を取締り、奴蜜解放の籔および要件に制限を加え、元老院議員身分と解放奴蜜身分との通婚を禁止した。またローマ市を十四圓にわけ、その美観をはかり「煉瓦の回ーマを系けて大理石のローマを担し」、文墾を保護してラテン文事の黄金時代を現出させた」外征においてはスペインの征服を完成し、ドナウ河以南の地を平雇したが、州7ルマニアにたいして1〜は紀元九年、ウアルス勺O巨目9昌茅く胃竃の率い至二軍團がトイトブルクの戦いで、ゲルマンの將アルミニウス>『昌巨畠に麟滅されたので、退いてラインの守りを固めた。したがつて一フイン・ードナウの線がはぼローマ帝國の北境を劃することとなり、一東方でもパルテイアと和し、エウフラテス河を境界とした-彼は紀元一四年八月十九圓、南イタリアのノラZ一二自で死去し・死後元震によって塞の撃の列に加えられた、6の婆は自ら遺した一蜜アウグストゥ墓嚢二一毒竈勺ξ葦ξ伽、。に嘉に語られて育、碧資されたアンキラ髪ζ。昌自。目一、>。。}、;冒目とこれを補うアポ回ニアとアンティォキア碑文によって殆んど完全にその内容を知ることができる。彼の櫨力確立にいたる喜にとつ李婁よび元首政の本管施策にっいては種々な評憤と批判がなされうるとしても・回.-マ帝政の創業者としての彼の足跡は逸することができない。
オクタウィア (前70〜前11)
オクタウィアヌスの姉、アントニウスの妻。
はじめマルケルスに嫁ぎ、その死後、前40年にアントニウスに婚し、夫と弟との和解に努め、前37年両者の間にタレントゥムの協約を結ばさせた。
前35年、彼女はアントニウスのために物資および精兵2千を携さえて東方に赴こうとしたが、アテナィで渡航を阻まれた。アントニウスはクレオパトラの容色にしだいに耽溺したが、彼女はよくこれを忍び、オクタウィアヌスがアントニウスの家を去るようにとの勧告をも退けた。
前32年、ついに離婚された後も、彼女の継子たちの養育も怠らなかった。 彼女の高貴、仁慈、貞淑は世の人の尊敬と同情を集めた。
彼女はマルケルスとの間に一男二女、アントニウスとの間に二女をもうけた。


マルクス・アウレリウス・アントニヌス、  (121〜180)
   ”ローマの五賢帝”の最後のひとり。  ”哲人皇帝”としても知られる。
    しかしローマ帝国の最盛期であったその治世は、問題が山積みで、彼も異民族との戦いの中で、生涯を
    閉じた。  彼の死と共にローマ帝国の衰退も始まった。

スペインの名家の家系だが、ローマで生まれた。幼い頃から勉学に励むと共に「ギリシャ的訓練」によって肉体の鍛錬に励み、時の皇帝ハドリアヌス(五賢帝の3人目)に認められ、まもなく皇帝の養子となるコンモドゥスの娘と婚約した。これがマルクスが出世するきっかけとなった。  若い頃の彼は多くの学者に学び、とくにストア派の哲学に強く傾倒した。
皇帝ハドリアヌスが死んだとき、その遺言でハドリアヌスの後継者アントニヌス・ピウス(五賢帝の4人目)の養子となった。  このとき17歳。  アントニヌスには他にも養子がいたが、マルクスただひとりだけが後継者として指名され、カエサルの称号を与えられ、翌年に18歳の若さで執政官となり、 また皇帝の娘を嫁に与えられた。  (コンモドゥスの娘との婚約は破棄) 
マルクスはこの養父をとても敬愛し、それは23年間の彼との生活(``)のなかで彼と離れたのはたった2晩で、そのときマルクスは病気になった、といわれるほどである。マルクスはアントニヌスの養子たちの中でもっとも養父に愛されたが、アントニヌスが死に、元老院から次期皇帝への就任の打診があったとき、同じく前皇帝の養子であったルキウスと共に次の皇帝となることを要請した。 これが皇帝の共同統治の先例となった。   このルキウスという人物は怠惰で享楽的でマルクスとは正反対の性格の人物で、皇帝となってもその自覚も責任も持たない人物だったが、マルクスに対しては常に尊敬と親愛を持って接し、2人の仲はとても良かった。  

しかし皇帝に就任してからの彼の生活は、帝国辺境の防護に忙殺された。 まず西アジアのバルティアがアルメニアを奪い去り、シリアに侵入した。  ローマの将軍たちの活躍でこれらを撃退したと思うと、この凱旋軍は疫病をローマに持ち帰り、ローマの人口の激減をもたらした  さらに今度は北方のドナウ川周辺のゲルマン民族(マルコマンニ族、クァディ族)やサルマティア人などがスキをついて侵入し、ローマは再び全力を挙げてこれと当たらねばならなかった。 共同皇帝のルキウスはこれらの戦いで司令官として活躍(?)していたが、169年に戦いのさなかで病死したため、これ以降マルクスが単独皇帝として統治した。 この北方の戦いがひととおり収まったと思ったら、今度は西方でマルクス帝死去の誤報に基づいて配下の将軍カッシウスが謀反を起こした。  この反乱がカッシウスが部下に殺されたことで平定されたと思ったら、 またふたたび北方でゲルマン人が反乱した。 マルクス自らおもむいてこれを鎮圧したが、その帰り、ウィーン(ヴィンドボナ)でマルクス帝は病死した。

彼の誠実と努力に関わらず、長年に渡る遠征と疫病の猛威は財政を圧迫し、地方の活動を沈滞化させ、帝国衰退のきざしが表れ始めた。 彼の著作『自省録』は12章からなるが、皇帝の遠征先でわずかな間をぬってギリシャ語で記され、独創的ではないが、ストア派の学者としての彼の高潔な思想と明晰な表現がもられていると共に、多難となりゆく時代に重責を負った彼の孤独と悲哀に基づくペシミズムがにじみ出ている。  キリスト教に対しては非同情的で、その取り締まりを強化した。

次にマルクス帝の息子、コンモドゥスが皇帝となったが、暴君として知られた。  
 

コンモドゥスルキウス・アリウス・アウレリウス (161〜193 位;180〜193
ローマ皇帝。五賢帝最後のマルクス・アウレリウス帝の長子。
父帝の晩年に共同統治者となり、父帝の死後徐々に元老院と敵対していった。側近や親衛隊の意向に左右される性格で、自ら闘技場に出て剣闘士(グラディアトル)として格闘することを好んだといわれ、自分をヘラクレスの化身と見なすほどの狂信者ぶりを示したため,周囲の反感を買い最後に暗殺された。
マルクス・アウレリアス帝の10番目の子供。母の名は父帝の2番目の妃ファディラ。成年まで達した兄弟は、異母姉のルッキラとファウスティナ、同母姉のコルニフィキアしかいない。
父帝の片腕だった共治帝ルキウス・ウェルスの実父だったコンモドゥスにちなんで命名されたが、ルキウス・ウェルスはコンモドゥスが8歳の時に脳卒中で死去したため、マルクス・アウレリアスの後継者として帝王教育を受けて育った。
19歳のとき改名して「マルクス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニウス」と名乗る。
5歳のときに「カエサル」、11歳のとき「ゲルマニクス」、15歳のとき「インペラトール」、16歳のときに「アウグストゥス」の称号をえて、父帝マルクス・アウレリアスの共治帝となる。その翌年と翌々年の(ドナウ方面の)ゲルマン遠征にも父に従い、ゲルマン人、サルマタイ人と戦ったが、180年に父が遠征先で病死すると、周囲の意見を無視して父帝がおこなっていたゲルマン人との戦争を打ち切ることを布告し、すぐにローマに帰って単独支配者となったことを宣言した。 (※この“戦争中止”に関しては正しかったと判断する評者が多い) ローマに戻ったコンモドゥス帝は180年10月22日に凱旋式を行った。
コンモドゥスの代になって、帝政初期の頃の専制政治とドミニティアヌス帝流の武断政治が復活され、ふたたび陰謀と流血の悲惨な時代が始まる。
そののち彼は政務・軍務をおこたるようになり、剣闘などの遊興に耽り、身辺を近衛兵で固め、とくに近衛都督ペレンニス、クレアンデルらを重用し、その行政を避難する者には厳罰をもって応じたので、国外からの諸民族の侵入や、国内では財政の窮迫、貨幣の悪質化、物価の騰貴などのたくさんの問題が巻き起こり、帝国に癒すことの難しい傷を与えた。

彼はヘラクレスを自分の守護神と考えたが、晩年には自分をヘラクレスの化身と考えるようになった。
宮廷内の陰謀によりコンモドゥスは暗殺され、さらに内乱がこれに続いた。
 
 

182年に姉ルキラの扇動によりコンモドゥス帝の甥クィンティアヌスがコンモドゥス帝暗殺未遂事件を起こした。彼は「覚悟しろ、これが元老院の贈り物だ」と叫んで襲いかかった瞬間、衛兵に取り押さえられたという。コンモドゥス帝は傷こそおわなかったが、精神的な動揺は計り知れないものがあった。これが統治当初からあった元老院に対する溝をさらに深めた。さらにお気に入りの従者サオテルスが殺されることにより著しく精神のバランスを欠いていく。これがコンモドゥスという血に餓えた誇大妄想の怪物を誕生させた。
 コンモドゥス帝の報復はすさまじかった。まず姉ルキラ、甥クィンティアヌスは処刑された。サオテルス殺害に荷担した親衛隊長パテルヌスも処刑された。事件後コンモドゥス帝は公の場に出ることは無く、後任の親衛隊長ペレンニスに対して全てを通すようにと命じた。これによりペレンニスは政府の管理まで権力として握ることとなる。コンモドゥス帝の治世の特色である、寵臣による腐敗政治がこの時より表面に出るのである。こうしてコンモドゥス帝は政治を見ることなく放蕩と奢侈にふけっていった。しかし185年にぺレンニウスが失脚する。原因はペレンニウスがクーデターを起こし自らの息子を皇帝に就けようという噂からであった。その噂がブリタニア軍団よりコンモドゥス帝に伝えられ、ペレンニウスの失脚となった。これは、その年の始めに起きたブリタニア軍団の内乱と反乱の処理が、ペレンニウスによって苛酷だった為の報復的な意味合いも持っていた。ペレンニウス親子は処刑された。
 しかし、これでコンモドゥス帝の素行が改まるわけでもなく、ただクレアンデルが新たに側近として台頭しただけであった。こうして、後に悪名を残すフリュギア人奴隷出身のクレアンデルは一代で解放奴隷となり、宮廷の最高権力を得た。だが、自らの私腹を肥やすことしか考えず、気に入らない元老院議員を処刑していった。しかし、190年にローマの穀物不足が原因で、クレアンデルは失脚する。実際の不足に拍車をかけたのは穀物管理官のディオニシスの私服を肥やしたためだと思われるが、ともかくクレアンデルはこれにより処刑された。
 クレアンデルの死後、コンモドゥス帝はさらに誇大妄想の兆候を示した。度々、命を狙われた性で、精神バランスを崩したのかも知れない。自らを現人神とし、ヘラクレスの化身と称した。12月の呼び名を自分にちなんだ呼び名に変えさせ、191年のローマの大火災における修復工事をてこにして、公式にローマの名を「コロニア・コンモディアナ」と改名させた。
 治世の後半は、情緒不安定になったコンモドゥス帝は、元老院議員を次々と処刑。さらにローマ皇帝として初めて剣闘士として円形闘技場に出場した。剣闘士階級はもともと卑しい階級からの出身の為に皇帝が自らその地位に貶めるごとき行為は元老院階級、騎士階級、市民の多くはショックを受けた。さらに、192年11月、コンモドゥス帝はヘラクレスの扮装で登場した。そして自らをヘラクレスの化身と称した。もはやこのような行為はローマ市民にはついて行けないレベルであった。
 もはや、血に餓えた誇大妄想主義者であるコンモドゥス帝と一緒にいる限り、身の回りの安全は保障されないに等しい状態であった。こうして、また皇帝暗殺計画が計画され実行に移された。今度の首謀者は、侍従長エクレクトゥス、親衛隊長ラエトゥス、皇帝の愛妾マルキアであった。192年12月31日の夜、マルキアは密かに毒をもったが、コンモドゥス帝は毒を吐き出し失敗、そこで首謀者は、ナルキッススという若者を送り、絞め殺させた。そして遺体は夜のうちに埋められたが、その後ぺルティナクス帝がハドリアヌス廟に移した。しかし、公式記録からは抹消され、4年後、セプティミウス・セウェルスが神としての祭り上げる。しかし、その後の人々に残ったのは「残虐で誇大妄想」という記憶であった。彼の死によってアントニヌス朝は終焉を迎えた。
 西洋の人々にとって、ローマ帝国の衰退が如実に現れたのはこの時期という認識が高い。また、そして帝政ローマは悪、共和政ローマは善という西洋独特の歴史認識感に従えがえばまさにコンモドゥス帝こそ、絶好の素材である。2つのハリウッド映画『ローマ帝国の滅亡』『グラディエイター』がなぜマルクス・アウレリウス帝の死後を題材にしているのか、『ローマ帝国の滅亡』はローマ帝国の衰退のスタートがこの時期であるという観点から、『グラディエイター』は帝政ローマこそ悪そのもので共和政ローマこそ善の良き政治の象徴であるという観点から書かれているとおもわれる。2人の親子、父は偉大なる哲人皇帝マルクス・アウレリウス、子供は誇大妄想主義で気の弱い愚帝のコンモドゥス、そして歴史の転換点と現代西洋がまさに持つ歴史認識。まさに映画や演劇にしやすい全ての条件が見事なまでそろっている。もしかしたら、コンモドゥス帝を後世の一般の人々が伝えるとすればローマ帝国の映画もので隠れた主役として伝えるのかもしれない。
 

アリウス  250ころ‐336ころ Arius
キリスト論に関する異端アリウス主義 Arianismの主唱者。ギリシア名アレイオス Areios。アンティオキアのルキアノスの弟子で,アレクサンドリアで聖職につく。禁欲主義的態度と説教の巧みさで人気を得た。319年ころキリストの神性について従属主義的な教えを説きはじめ,まもなくエジプトのみならず東方全体にひろめた。事態を重視したアレクサンドリア主教アレクサンドロスは主教会議を開き,アリウスを破門に処した。アリウスはニコメディアのエウセビオスを頼った。皇帝コンスタンティヌス1世はコルドバ司教ホシウスに調停を命じたが,失敗した。そのため325年,ニカエアで第1回公会議(ニカエア公会議)が開催され,アリウスの教えは公式に弾劾された。その際採択された〈ニカエア信条〉によって,父なる神と子なるキリストの関係は〈ホモウシオス(同質)〉と定められた。イリュリアに追放されていたアリウスはエウセビオスなどのとりなしで復帰を許されたが,コンスタンティノープルの路上で急死した。
 アリウスは,子なるキリストが生まれた者ならば,存在の始めと存在しなかったときがあり,しかも子は創造された者であるとして,父なる神と子なるキリストが同質ではありえず,異質的(ヘテロウシオス)であると説いた。これに対し,アタナシオスをはじめとするニカエア派は,キリストの生誕は人間の誕生と同一の次元で考えるべきではなく,子なるキリストは父なる神の本質によって永遠に生誕するものであるとした。しかしアリウスの教えはニカエア公会議ののちも多数の信奉者を有していた。とくに東方では皇帝の支持もあって,アリウス派が勢力をふるい,ニカエア派が迫害にさらされた。一方,アリウス没後のアリウス派はしだいに分裂し,極端なアリウス主義ともいうべきアノモイオス派(父と子が単に異なるとする),神学上の微妙な判断を避けたホモイオス派(父と子が似ているとだけいう),半アリウス派とも呼ばれニカエア派に近いホモイウシオス派(父と子が類質であるとする)の三つに分かれた。結局,この論争はカッパドキア教父の積極的な介入もあって,381年のコンスタンティノープル公会議において,ニカエア信条を確認することによって決着がつけられた。アリウス派はそれ以前にゴート人のもとに伝わった。また近代のキリスト教諸宗派のなかでアリウス派に近いものは〈エホバの証人〉(ものみの塔)である。                    森安 達也
アリウス主義 Arianism アリウスによって創始された4世紀のキリスト教異端宗派で、イエス・キリストの完全な神性(神としての性格)を否定した。
 

リビア出身のアリウスは、アンティオキアのルキアノスの神学院でまなんだ。アレクサンドリアで司祭に叙階されたのち、319年、キリストの神性をめぐって上司の司教と論争。325年のニカエア公会議で、異端宣告をうけ、リビアに追放された。アリウスの教説をめぐる論争はやがて当時のキリスト教会全体をまきこむことになり、半世紀以上にわたって教会全体を震撼させた。

彼の教説は、379年にローマ皇帝テオドシウス1世によって最終的に非合法化されたが、それ以後もアリウス主義は、ゲルマン系の諸部族にうけいれられ、2世紀以上にわたって存続した。

II  アリウスの教説

アリウスの教説によれば、神は生まれることはなく、また神にはいかなる始まりもない。それゆえ、三位一体の第二位格である「子」(キリスト)は、生まれた者であるがゆえに、けっして「父」なる神と同一の意味での神ではありえない。「子」は永遠の昔から存在していたのではなく、あくまで「父」の意志によって存在するのである。このように論ずることによって、アリウスは神の絶対的な超越性を擁護しようとしたのである。

III  ニカエア公会議と異端宣告

アリウスの教説はアタナシオスなどの正統派神学者に攻撃され、325年の第1ニカエア公会議(世界宗教会議)で異端として断罪された。この公会議にあつまった318名の司教たちは、神の子は「作られた者ではなく生まれた者」であり、「父」と同一実体(ギリシャ語でホモウシオス)であるとする、いわゆるニカエア信条を起草した。これ以前、すべての教会によって普遍的に承認された信条(信仰の内容をのべた定形文)は存在しなかったが、アリウス派の破門によって、この新しい信条が教義(ドグマ)としての地位をかためた。

異端の烙印(らくいん)をおされたにもかかわらず、アリウスの教説はすぐにはほろびなかった。このことは部分的には、ローマ帝国側の政治的干渉とも関連していた。ニカエア公会議を主催した皇帝コンスタンティヌス1世は、やはり異端の疑いのあった教会史家カイサレアのエウセビオスの進言をうけ、334年アリウスの追放を解きよびもどした。

その直後に、さらに2人の有力な人物がアリウス主義を支持した。コンスタンティヌスの帝位をついだコンスタンティウス2世と、のちにコンスタンティノープル大主教となる主教で神学者のニコメディアのエウセビオスである。

IV  半アリウス派と新アリウス派

359年まで、アリウス主義は、とくに東方において広くうけいれられた。しかし、アリウス主義者たちはやがて内部対立をひきおこし、2つの派に分裂した。一方が主として保守的な東方の主教たちからなる半アリウス派で、基本的にはニカエア信条に同意するが、聖書にでてこない同一本質(ホモウシオス)という用語の使用には躊躇(ちゅうちょ)を感じた人々である。他方が新アリウス派で、「子」は「父」とは本質がことなる(ギリシャ語でヘテロウシオス)とか、「子」は「父」には似ていない(ギリシャ語でアノモイオス)と主張した。

361年にコンスタンティウス2世が死に、半アリウス派を迫害したウァレンス帝の治世になると、ニカエアの正統派が勝利した。ニカエア派は379年に皇帝テオドシウス1世によって承認され、381年に開かれた第2回公会議(第1コンスタンティノープル公会議)でニカエア信条が再確認された。

V  ゴート人による信仰

それにもかかわらず、ゴート人の司教ウルフィラスは同胞民族にアリウス派を広めた。そしてゴート人たちは、この信仰を自分たちの民族的自己同一性(アイデンティティー)をしめす顕著な特質として保持しつづけた。東ゴート族の王でイタリアにおける東ゴート王国の開祖であったテオドリックは、自分の臣下である正統派のカトリック教徒をひじょうに寛容にあつかった。これに反し、アリウス主義を奉じたバンダルは、アフリカにあるローマ帝国の属州を征服したのちに、カトリック教徒に過酷な迫害をくわえた。すべてのゲルマン民族が最終的にカトリックに改宗するのは、ようやく6世紀の末のことであった。

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