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サイエンス 1974年11月号


れたあず

ライフサイエンスへの不安

私は、昨年11月に日経小ホールで行なわれた渡辺格教授の講演会「生命とライフ・サイエンス」に、富士市から出席した高校生です。あれから10ヶ月が過ぎようとしていますが、今年6月に出版された別冊サイエンス「人間の生物学」を購読してから、以前にも増して「ライフ・サイエンス」に興味を持ちました。渡辺教授の話を聴講してからというもの、新聞の科学欄は欠かさず読んでいます。しかし、今でも「ライフ・サイエンス」の目的は100パーセント理解はできません。そこで最近では、自分の思想を中心に解釈するようにしました。そこで問題となってきたことがあるのです。その問題とは「人間の生物学」の標題を利用させていただくと「試験管ベビーの可能性」と「人間とは何か」です。
 最近テレビ、新聞などの報道機関で、「試験管ベビー誕生」と報道され、私も医学の技術的進歩に目を見張ったものでした。しかし、結果だけを見て驚いてはいられないと思うのです。はたして試験管ベビーは人道的に正しいことなのでしょうか。今まで人間の誕生というものは、宗教的意味を含み「人間および人間を取り巻く環境は神様の創造物である」とされてきました。宗教心においてヨーロッパ人と比べて劣る日本人にとってそれはいかにも神秘的な世界です。しかし神秘的な世界は時間とともにそのベールを1枚1枚はがされていき、何となく憂うつです。

なぜ、試験管ベビーまで完成しなければいけないのだろう。人口爆発という現状に立つと、それは矛盾に満ちたものだと思うのですが、最前線の研究者たちはどういうつもりで研究しているのでしょう。私も学術的には価値があると思いますが、その研究動機は実際にはどうだったのでしょう。肉体的理由などによって子供のいないカップルが、自分たちの子供が欲しいという希望があることは見逃せませんが、それ以上に、ベトナムの戦争孤児をはじめとして、多くの弧児がいることも忘れられないと思います。
 また、これと同じようなことですが、現在人類遺伝学の進歩によって、胎児は母体および胎児自身に危険なくその遺伝病を知ることができるようになりました。人間はどこから人間であるかと問われれば、私は受精卵のときから人間としての価値があると思うのです。なんとなれば、受精前の卵子と精子は、受精とうい目的を果たさず死滅しても、それは人間の生理機能として解決できます。しかし、受精卵が着床して正常に発育すれば、母体の母性本能を刺激し、可愛い赤ちゃんとしてこの世に生まれ落ちるのです。そして、ある者はエリートコースへ進み、またある者は施設に入れられ、社会から特別な目で見られるのです。胎児診断によって、社会から特別な目で見られる子供はかわいそうだから、また社会はそのような人間は必要としていないから、という理由で、生まれ落ちる前に殺されてもいいものでしょうか。そして国家は、健康体の多い平常の人間の老後を心配し、リハビリテーションには、わずかの金しかかけていないのです。
 サイエンスにも、以前から掲載されて

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