はやし浩司
老後の子育てを考える
前向きの人生、うしろ向きの人生 ●うしろ向きに生きる女性 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。偉そ うなことは言えない。しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。しかしでき るなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。自信はないが、そうしたい。 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(七〇歳) がいた。その一五年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた 人だった。くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を一 〇人ほど使うまでになった。が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあ って、工場は閉鎖寸前にまで追い込まれた。(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義 父がなくなってから二年後に他界している。) それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をして いた。が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。その人には、私と同年代の 娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。「母は、異常なまでにケチになりました」と。たとえば 二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出したとい う。「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。値段も、二〇〇〇円とか三〇〇 〇円とかいうような、安いものでしたが」と。 ●人生は航海のようなもの 人生はたった一人で、大海原を航海するようなもの。つぎからつぎへと、大波小波がやってき て、たえず体をゆり動かす。波があることが悪いのではない。波がなければないで、すぐ退屈し てしまう。船が止まってもいけない。航海していて一番こわいのは、方向がわからなくなること。 同じところをぐるぐる回ること。もし人生がその繰り返しだったら、生きている意味はない。死ん だほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。雨の日は、ただひたすらパチンコ。 読む新聞はスポーツ新聞だけ。唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がい る。しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。いくら釣りがうまくなっても、 いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しているからといっ て、それがどうだというのか。そういう人は、まさに死んだも同然。 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。昨年、私はある会で講演を させてもらったが、その会を主宰している女性が、八〇歳を過ぎた女性だった。乳幼児の医療 費の無料化運動を推し進めている女性だった。私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚 いた。「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。 「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばら しい女性も、少ないが、いるにはいる。 安泰な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。しかしそういう航海から は、ドラマは生まれない。人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。そしてそのド ラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。人生の大波小波は、できれば少ないほう がよい。そんなことはだれにもわかっている。しかしそれ以上に大切なのは、その波を越えて 生きる前向きな姿勢だ。その姿勢が、その人を輝かせる。 ●神の矛盾 冒頭の話にもどる。 信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向き になる。そこで信仰論ということになるが……。 人は何かの救いを求めて、信仰する。信仰があるから、人は信仰するのではない。あくまで も信仰を求める人がいるから、信仰がある。よく神が人を創ったというが、人がいなければ、神 など生まれなかった。もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって説明 するのだろうか。これは私が若いころからもっていた疑問でもある。 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。ひょっとした ら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。しかし嘆くことはない。そのあと、また別 の生物が進化して、この地上にはびこることになる。たとえば昆虫が進化して、昆虫人間にな るということも考えられる。その可能性はきわめて大きい。となると、その昆虫人間の神は、 今、どこにいるのかということになる。 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。一説によると、隕石の衝突が恐竜の絶滅をもた らしたという。となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。そのときの恐竜には神はいなか ったのかということになる。数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数 十万年など、マバタキのようなものだ。お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビル が建つ。しかし数十万円では、パソコン一台しか買えない。数億年と数十万年の違いは大き い。しかもモーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか五〇〇〇年〜 六〇〇〇年ほど前のこと。たったの六〇〇〇年である。それ以前の数十万年の間、私たちが いう神はいったい、どこで、何をしていたというのか。 ●ふんばるところに生きる価値がある つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。(だからといっ て、神や仏を否定しているのではない。念のため。)仮に一〇〇歩譲って、神や仏に、奇跡を 起こすようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするもの ではない。ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマ パダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。キリスト教のことはよくわから ないが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは。生きるのは私たち自身だ し、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどうかを決めるのは、私たち 自身の意思による。仏や神の意思ではない。またそのふんばるからこそ、そこに人間の生きる 尊さや価値がある。ドラマもそこから生まれる。 が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。毎日、毎 晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性七〇歳)も、その一人と言ってもよい。同じようなこと は子どもたちの世界でも、よく経験する。たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」 と泣きついてくる親や子どもがいる。そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。い わんや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが… …)、さらに困る。もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。 不合格なら不合格で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。 ●私の意見への反論 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。 「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。そう言っ たのは、たまたま町内の祭の仕事でいっしょにした男性(七五歳くらい)だった。が、何も私は、 そういう女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。またその女性に向かっ て、「そういう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。その女性の生きザマは生きザ マとして、尊重してあげねばならない。この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがって いる」と言うことは、タブー。言ってはならない。まちがっていると言うということは、二階の屋根 にのぼった人から、ハシゴをはずすようなもの。ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴ を用意してあげねばならない。かわりのハシゴを用意しないで、ハシゴだけをはずすというの は、人として、してはいけないことと言ってもよい。 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。どう すれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。そしてどうすれば、うしろ向きに生き なくてすむかということ。 ●今、どうしたらよいのか? 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、 人生はおしまいと思っている。そういう人生は敗北だと思っている。が、いつか私はそういう人 生を送ることになるかもしれない。そうならないという自信はどこにもない。保証もない。毎日、 毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。私 とその女性は、本質的には、それほど違わない。 しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うな ら、土俵間際(まぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。歯をく いしばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇 の世界に、吹き飛ばされてしまう。しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。生きる 価値もそこから生まれる。もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出 もそこから生まれる。……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、 と。 ●老人が気になる年齢 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく 気になる。電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察す る。昨日(〇二年八月)も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生き がいや、生きる目的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、 どんなことを考えているのだろう」と。そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身とい うか、深さまでわかるようになった。 で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題か ら逃げようとしているのではないか。その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと 考えている人も多い。中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。クシャクシャに なったボートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。人は年齢とともに、よ り賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。愚かになるだけならまだしも、古 い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでしまうこともある。 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。しかしふと油断すると、いつの間か 自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。それは実に甘美な世 界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。何も考えなけ れば、それだけ人生も気楽になる。 ●前向きに生きるのは、たいへん 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。それは体の健康と同じで、日々 に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。ゴータマ・ブッダは、それを「精進 (しょうじん)」という言葉を使って表現した。精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始 める。そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。つまりいつも前向きに進んでこそ、 その人はその人でありつづけるということになる。 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。 (02−8−13)
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美しい老後・醜い老後
●空き地にたむろする老人 私の家の横には、まだ空き地が多い。近くにはこのあたりの大地主の墓地があり、そこは老 人たちのかっこうの溜まり場になっている。天気のよいうららかな日だと、いつも七〜九人の老 人が、何かをするでもなし、また何もしないでもなし、イスを並べて座っている。のどかな光景だ が、しかしどこかおかしい。それは本当に望ましい老人の姿なのか。 一方、こんな女性もいる。八〇歳を過ぎたというのに、乳幼児の医療費の無料化を願って運 動している女性である。年齢的には「老人」ということになるのだが、私はあえて「女性」と書く。 私がその人に会ったのは、Oさんという母親を介してだが、とても老人には見えなかった。目が 生き生きと輝いていた。そこで私はこう聞いた。失礼な質問だとはわかっていたが、聞かざるを えなかった。それは私自身の問題でもあったからだ。 「あなたをこの運動にかりたてる原動力は何ですか?」と。するとその女性は笑って、こう言っ た。「私がやるべきことだからです」と。その女性は長い間、保母さんをしていた。そういう経験 から、乳幼児の医療費の無料化運動に乗り出した。 ● さみしい老人たち 話は少しそれるが、この年齢になると、人生の結論がそろそろわかってくる。またそういう目 で人を見る。久しぶりに昔の知人に会ったりすると、「この人はどんな人生を送ってきたのだろ う」というふうにして、その人を見る。あるいは初対面の人でも、そう思うことがある。そしてその 人が、その人なりに何かをつかんできた人であると、心のどこかで強い共感を覚える。しかしそ うでない人もいる。読む新聞といえば、スポーツ新聞だけ。テレビと言えば、野球の実況中継だ け。そしてヒマなときは、パチンコ三昧(ざんまい)……? こういう人に出会うと、自分までさみ しくなる。が、さらにこんなこともある。 老人の中には、息子や娘の自慢話ばかりしている人がいる。息子や娘の活躍する話ならま だしも、その息子や娘が、どんな孝行をしてくれたか、それを自慢するのである。「今度、息子 が温泉に招待してくれた」「娘が羽ぶとんを買ってくれた」など。そして自慢する人は、勝ち誇っ たようにそれを言い、そういう恩恵(?)にあやかれなかった老人は、自分の家に帰って、それ を悔しがる……。こうした話は、決して珍しい話ではない。実のところ、私の母もそうだし、叔父 や叔母の仲には、そういう人がいた。「親孝行」は、老人たちの重要テーマになっている。 が、こういう状態に陥(おちい)ると、老人の世界は急速に見苦しくなる。人生の大先輩たちの 世界だから、見えやメンツ、世間体とは無縁で、若い人にはない哲学観や倫理観があると考え るのは幻想でしかない。事実、私の横の空き地にたむろする老人たちは、その季節になると、 一日中竹やぶの竹の子の監視をしている。私はもうここに住んで二五年近くになる。同じ地主 から土地を分けてもらったということもあって、毎年その竹の子をとっている。が、数年前その 竹の子を取るために、その竹やぶに入ると、突然一人の老人が踊り出てきて、こう叫んだ。 「お前はどこのバカだ」と。本当にそう叫んだ。そこで私はその老人に向かって、「いきなりバカ とは何だ!」と怒鳴り返した。私に「バカ」と言った老人は、見知らぬ、つまりはこのあたりでは 新人の老人だった。 ● 自分を教育するしかない 人は皆、老人になるが、老人になる方法は人さまざまである。また老人にも、いろいろある。 私はこの分野にはまったく門外漢だが、いわば老人の見せる「姿」は、教育の「結果」だ。そこ が幼児と違うところである。つまり幼児というのは、「これからの人間」であり、個性だ何だと言 ったところで、これから「作る」という状態にある。しかし老人はそうではない。老人は「終わった 人間」であり、個性というよりは、あくまでも「結果」である。さらにたとえて言うなら幼児は白紙 の紙のようなものだ。しかし老人は、ペンキを塗りたくって、そのペンキが層になったようなもの だ。そもそも「教え育てる」という、教育という考えになじまない。 ……と考えて、今度は自分の問題に戻る。このことは言い換えると、老人になるにつれて、そ の自分を完成させるのは自分でしかないということ。もっと言えば、その努力なくして、老後の 自分はないということになる。簡単なことのようだが、さらにもっと言えば、人は自分をいつまで 努力し続けられるかということになる。私の身の回りでも、こんなことが起きつつある。 ●世間体で生きる伯父 一人の知人だが、七〇歳を超えたというのに、いまだに世間体ばかりを気にしている。いや、 ますますその傾向が強くなってきている。口グセはいつも同じ。「今の若い者は、先祖を大切に しない」。彼が言う「先祖」というのは、結局は自分のことだが、こうした老人のものの考え方を 変えるのは、容易ではない。「容易ではない」というより、不可能に近い。そこでよく観察してみ ると、このタイプの老人は、学習能力がほとんどないのがわかる。現状維持主義者というか、 現状満足主義者。あるいは強い復古主義者である。ものの考え方がいつも、うしろを向いてい る。過去の自慢話をすることはもちろんのこと、「自分は絶対正しい」という確信のもと、新しい 考えをむしろ排斥する。受け入れない。受け入れないばかりか、それを若い人に押しつける。 一度こういう状態に入ると、いわゆる聞く耳をもたないから、人間としてはがんこになる。そして あとはこの悪循環。 ● 前向きに生きる美しさ 老後を美しく生きるためには、私たちはいつも前向きに生きていかねばならない。そのため にも、老人になる前に、そういう道筋を作っておかねばならない。どういう道筋であるかは、こ れまた人さまざまだが、いくつかのヒントはある。その一つは、視野を広くもつこと。もう一つ は、自分を離れた世界をもつこと。老後に近づくにつれて、視野がせまく、かつ自分のエゴに向 かうようになったら、要注意。そうなればなったで、その人にとってはコンパクトで居心地よい世 界かもしれないが、結局は自分を見苦しくする。いや、見苦しくするということは、どこかで他人 の目を気にした生き方になってしまうが、その分だけ、残り少ない自分の人生そのものをムダ にすることになる。そうでないというなら、一日中、竹の子の番をしている老人を、少しだけ頭の 中に思い描いてみてほしい。あなたはそういう老人になりたいか? あなたはそういう老人が、 本当に理想の、あるべき老人の姿だと思うか? ● たった一度の人生論 つまるところ、「たった一度の人生論」に帰結する。たった一度の人生しかないのだから、有 意義に生きろというのではない。たった一度しかない人生だから、少しでも人生の真理に近づ いたらどうかということを言っている。それはちょうど山登りに似ている。山に登るのを苦労だと 思う人には、山の上からの景色を見ることはできない。しかしその苦労を乗り越えてはじめて、 私たちは山の上から遠くの景色を見ることができる。たった一度しかない人生だから、私は遠 くの景色を自分で見てみたい。神や仏の境地までは無理だとしても、その片鱗には触れてみた い。私が「たった一度の人生」という言葉を使うときには、いつもそういう願いがそこにこめられ る。 ● 結論 さて結論。子どもは親から生まれるが、生まれると同時に子どもは親とは別個の人格をもっ た人間である。そして互いに別個の人間である以上、そこでは人間同士のつきあいが始まる。 他人とは違うといいながらも、違うのは「絆(きずな)」の太さでしかない。絆の中身や形は、他 人とをつなぐ絆とそれほど違いはしない。たとえば親子の「縁」にしても、切れるときは切れる。 決して永遠不滅のものではない。むしろ反対に「親である」「子である」という重圧感で、もがき 苦しんでいる親子はいくらでもいる。となると、老後の自分と、そして子どもたちをつなぐ絆は、 どこまでも人間的なつながりでしかない。簡単に言えば、親子といえども、最後につなぐのは、 純粋な人間関係でしかない。たとえば「尊敬」という言葉がある。親子とて、この尊敬の念で結 ばれる。親とて尊敬されなければ、また尊敬されるようなことをしなければ、子どもの側から見 放されることもあるということだ。「子どもなんか関係ない」と言い切るのはあなたの勝手だが、 しかし子どもに見放される老後ほど、さみしいものはない。子どもほど、あなたのそばにいて、 あなたを見ている「人間」は、ほかにはいない。その子どもに見放されるようなことがあれば、 それはとりもなおさず、それはそのままあなたの人生の結論を意味する。少なくとも、私はそう 考える。 いやいや、子どもを意識することもない。あなたはあなたで前向きに生きる。ただひたすら前 向きに生きる。そういう姿勢が子どもに安心感を与え、そういう姿を見て、子どもも前向きに生 きる。互いにそういう姿勢をもったとき、家族には活力が生まれ、その緊張感が相乗効果とな って、互いに伸ばす。それが大切なのだ。 (以上、書きなぐった文なので、思想的なフラつきがあるかもしれません。この問題については、これからのテーマと して、より深く考えてみたいと思っています。) +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 老後の目標 老後には三つの目標がある。 (1)子どもに人生の先輩として、生きザマを見せる。(哲学) 子どもに人生の先輩として、知恵や経験を伝える。それは重要なことだが、親の価値観を押し つけてはいけない。親が「正しい」と思っていても、それは親の価値観でしかない。親は自分の 価値観を子どもに伝えるが、それを理解し、それを受け入れるかどうかは、子どもの問題。こ んな例がある。ある父親は子どもに代々続いた林業を受け継いでほしいと願っていた。しかし 子どもは、大学を卒業すると、都会の会社に就職し、そこで生活を始めた。親は家系が途絶え ることを何よりも恐れた。が、子どもはそれを理解しなかった。よくある話だが、あなたなら、こ ういうケースをどう考えるか。 (2)子どものよき理解者となって、子どもを支える。(理解) 私の母は、私が幼稚園の教師になると告げたとき、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れて しまった。「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア」と。幼稚園の教師になることを「誤った」と言うの だ。こうした価値観は当時の価値観としては常識的なものだった。が、しかしそのあと、私は、 自分に「死んではだめだ」と自分に言い聞かせなければならなかった。が、もしあのとき、母だ けでも私を支えていてくれたら、私のその後の人生は、大きく変わっていただろうと思う。 (3)子どもに依存せず、子どもの人生を守る。(安心) 日本人は無意識のうちにも、親は子どもに「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せる。子ど もは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と恩を着せられる。またそういう意識を互い にもちながら、それを美徳と考える。その一例が、あの「かあさんの歌」(窪田聡作詞)という歌 である。あの歌は、元詩のほうでは、母からの手紙の部分は、かっこつきになっている。それを 並べると、「♪木枯らし吹いちゃ、冷たかろうよて。せっせと(手袋を)編んだだよ」「♪おとうは 土間で、わら打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪も溶けりゃ、もうすぐ春だで。畑が待ってい るよ」※と。もしあなたが都会に住んでいて、こういう手紙をもらったら、あなたはどう思うだろう か。あなたは安心して仕事を続けることができるだろうか。たとえそうではあっても、親が子ども に書く手紙はそうであってはいけない。こう書くべきではないのか。「♪村の祭に行ったら、手袋 を売っていたよ。お前に似合うと思うから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で、俳句づくり。今 度新聞に載ったよ」「♪春になったら、村の旅行会で温泉に行くことになっているよ」と。日本の 親は、子どもにそれとなく心配をかけながら、親孝行を督促するという、これまた姑息な方法を 用いることが多い。子どもへの依存心を最後の最後まで断ち切ることができない。私の叔母な どは、まだ五〇歳のピンピンしているときから、私に電話をかけてくるたびに、「おばちゃんも歳 をとってなあ」を口グセにしている。老人になったことを、相手に心配をかけるための理由にし てはいけない。老人になったことを、子どもに負担をかけることの口実にしてはいけない。老人 が自分の年齢を理由にしたり、口実にするのは、それ自体ずるい生き方なのだ。 子どもの人生は子どものものとして、一度は子どもの人生を子どもに手渡してこそ、親は親と しての義務を果したことになる。「あなたの人生はあなたのもの。だから思う存分、あなたの人 生を生きなさい。家の心配……? そんなことは考えなくてもいい。親のめんどう……? そん なことは考えなくてもいい」と。もちろんそのあと、子どもが自分で考えて、家の心配をすると か、親のめんどうをみるというのであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。一見、クール な生き方に見えるが、しかしそれは結局は自分のためんでもある。私たちは自分の人生を生 きるが、それはあくまでも自分のためである。親のために自分の人生を犠牲にすることも、子 どものために自分の人生を犠牲にすることも、決して美徳ではない。あなたの親も、そしてあな たの子どもも、それを望まないだろう。ある子ども(大学生女性)はこう言った。「あんたのため に犠牲になっているということを言う親が、一番不愉快です」と。あなたはこういう大学生をどう 思うだろうか。 |