天竜川と掛塚湊、貴船神社祭典

−−−−−資料提供  竜洋町教育委員会−−−−−

はじめに

貴船神社掛塚は、天竜川の河口に位置し、天竜川と掛塚港によって古くから栄えた町です。(空から見た掛塚の町並み
天竜川は、信濃の諏訪湖を源として全長約215キロメートル余りを流れ、河口の掛塚に至りその流れの旅は終わります。天竜川は、昔より大きな洪水を何回となくもたらし、暴れ天竜と呼ばれ下流域に大きな被害をもたらしてきました。
掛塚港は、江戸時代より主として、幕府の御用材、御用米の回漕をし、また、浜松藩、中泉代官所、旗本などの所領の年貢米等も回漕していました。
明治に入って一段と木材、諸物資の積み出しが盛んになり、掛塚は、掛塚港を中継基地として江戸、大阪および各地の港町との交流が盛んになり、その文化を内陸部にもたらしました。
また、遠州の小江戸と言われ人々の暮らしを運んだ繁栄の港でもありました。
しかし、東海道本線が開通し、明治25年中野町(浜松市)に貨物取扱駅が設置されるにおよんで、木材の集積地が上流に転じ、水運の拠点として栄えた港町は、次第に衰退し、これに追い打ちを掛けるように大火に見舞われ、町の中心部は消失してしまいました。

掛塚本町に鎮座する貴船神社は、掛塚港の鎮守並びに航海安全の守護神として回船業者の崇敬するところでありました。
この神社の御祭礼に見られる屋台は、豪華絢爛たる彫刻、天幕など掛塚港の千石船を通してもたらされた江戸文化の象徴であり、当時の掛塚港の繁栄を忍ぶことができます。

いま、河口は静かな自然に戻り、港湾の後は荒涼とした原野となり、葦と松林に囲まれている・・・・・


掛塚の始まり

 掛塚は、天竜川が遠州灘に流れ込む河口にできた集落です。古くから土砂が堆積し、中州が発達し川中島となり、室町時代には集落が形成され、村民の生活が営み始められました。
 村人は、川の氾濫から家や田畑を守るために、本流に向かって周囲に堤防をめぐらし、洪水を防ぎました。この堤のことを曲輪といい、その内側を輪中といいます。
 上流から押し寄せる水勢を下流に落とす堤が築かれ、遠州平野は、各村々の輪中堤でしま模様ができたと伝えられています。また、川沿いの集落には水神様を祀り、龍神の加護にすがりました。河輪とか堀之内の地名などもみな輪中からとった地名です。
 掛塚も天竜川の度重なる大洪水に見舞われ、本流と東派川に挟まれた中州の村も、激しい天竜川の流れとの戦いの歴史でした。
 また、掛塚は明治16年、18年、28年、32年、33年と大火に見舞われ、掛塚に関する古い記録も見あたらないのが現状です。今までに発表された資料の中から掛塚の呼び名について調べてみると、古い書物等では、「懸塚」「欠塚」などとあり、古老の中には「かけすか」と発音する人もいることから、本来は「欠須賀」「欠塚」であったのではないかと思われます。
 「懸塚」の名称は室町期から見られる地名であり、天文4年(1556年)三河の松平広忠の書状には「欠塚」の文字が見受けられます。また、「欠須賀」の文字も文禄年間(1592年)頃の書状に書かれています。
 そして、現在の「掛塚」の名は、宝暦6年(1751年)頃からの文書に使われています。


天竜川の水運

回船問屋の図

 江戸時代から掛塚が繁栄をきたしたのは、天竜川による物資の集積地あるいは交易の場として発展したからであり、掛塚港から江戸、大阪へと木材や諸物資を回漕し、多くの商人や船頭、筏師が掛塚の町に集中しました。また、これにともなって、回漕業が盛んになり、製材(木挽)、造船所、鋸鍛冶等の産業が発展していきました。
江戸文化の流入と共に、当時の掛塚のにぎわいぶりは、遠州の小江戸と言われ、人々は、仕事や物が無ければ掛塚へと殺到しました。
 江戸幕府が開かれてまもなく、角倉了以は、富士川の船運なども手がけ、駿府城の用材の確保に富士川、天竜川などから用材を集め、その力を発揮しました。
 毎年11月になると天竜川上流の山々から切り出された木材が筏に組まれ、掛塚まで送られました。天知年間(1681年)頃になると角倉船が普及し始め、木材以外の物資も運ばれるようになっていきました。
 掛塚港では、天竜川上流域から筏や角倉船が常時川下げされ、多くの品物が売られ、上流域の人々は、その代金で米、麦、塩、味噌、醤油、その他の日用品を掛塚で買い入れました。つまり、掛塚は天竜川流域の村々と江戸を結ぶかなめでした。掛塚には、木材取引に関係する問屋が多数存在し、これらの問屋が木材取引の主導権を握っていました。


町のくらし

明治の初め、掛塚でもっとも賑わったのが横町新町で、花柳界、置屋、料理屋、湯屋、娯楽場などが軒を並べていました。また、本町には、旅館割烹の白木屋、音羽屋、榎本、鈴木屋などがありました。
 掛塚町誌によると、明治6年当時、新町153軒、横町112軒と記録され、戸主の職業調べもあります。新町153戸のうち、船屋業が45戸を数え、次いで、日雇い25戸、大工20戸、木挽渡世14戸、漁師10戸、その他となっています。
 一方、横町112戸の内訳は、木挽渡世が22戸を占め、次いで日雇い16戸、大工15戸、船屋業13戸、鍛冶職7戸、漁師6戸、農業6戸、その他となっています。
 新町と横町では職業の分布が異なっていることがわかります。これらの職業が掛塚港に依存して生活の糧を得ていたのです。日雇者は大八車や小舟をもって仕事に出かけました。
 掛塚の町には、伊豆石の塀などが多く見られます。これは、千石船が江戸に荷を降ろしての帰りに伊豆の下田港に立ち寄り、船のバランスをとるために伊豆石を買って船に積み込み、駿河湾や遠州灘の荒波を乗り越えて掛塚に帰ったことによります。そのため、町内の旧家には伊豆石を使った石垣や蔵が多く見られます。また、洪水による被害を少なくするために、蔵の土台を高くしたものが見られますが、この土台には角倉船などにより上流から運ばれてきた、水に強い天竜川の青石が多く使用されています。
 明治の中頃には掛塚の町中に港と往来できる運河があったと伝えられています。この運河は源五郎堀と呼ばれていたといわれていますが、現在は残っていません。
 掛塚繁栄のこの時代、、町には花柳界があり、小さな町に数十件の娯楽場があり、芸妓置屋、料理屋が軒を並べ、、船に関係する商人や、木挽、船頭の人たちがここで散財していました。しかし、天竜川河口に堆積する土砂により港の機能が徐々に失われていくにつれ、港町として栄えた掛塚は徐々に衰退していきました。
 現在の掛塚の町並みから、かつての繁栄の面影を見ることはできません。しかし、貴船神社の祭典に曳き出される屋台を見ると、当時の掛塚の繁栄を忍ぶことができます。


貴船神社と掛塚屋台

 貴船神社は、古くは「貴布弥明神」又は「貴布弥神社」と記されていましたが、明治4年、太政官達を以て現在の貴船に定められました。総社は、京都鞍馬山の貴船神社です。
 掛塚の港町としての歴史は、室町時代にさかのぼりますが、港の発展と共に栄えた貴船神社は、海上海運の安全、農業、漁業の守護神として崇敬され、特に回船業者に厚く信仰されてきました。
 この貴船神社の神事「神輿の渡御(おわたり)」は、年に1度、御神体が神社から御仮宮にお出ましになり、神の徳を氏子に施されるもので、氏子の若者が屋台を曳いて神輿のお供をするのが掛塚祭りです。
 当初の屋台は、荷車、曳舞台、二階造りからはじまり、当時の宗教、各地の文化の影響を受けて時代と共に改造され、江戸時代末期から明治時代にかけて、全て唐破風造りの一階建てのものとなりました。
 江戸時代の掛塚は回船業を中心として栄え、町民の財政も豊かだったことから、造られた屋台も豪華絢爛たるもので、金箔を塗り、信州諏訪立川和四郎をはじめ名工の刻んだ彫刻と、精巧な刺繍を施した天幕で飾られ、当時の美術工芸の粋が結集されたものとなっています。
 この豪華な屋台が華麗なお囃子の中、提灯をきらめかせながら巡行する様は、えも言われぬ魅力を与えてくれるものです。
 祭り屋台は町指定有形民俗文化財に指定されています。


屋台囃子

貴船神社の祭典に曳き廻される屋台の中で大太鼓、小太鼓、横笛によって演奏されるお囃子が「掛塚屋台囃子」です。
 このお囃子は、言い伝えによれば、南北朝時代、後醍醐天皇の皇子・宗良親王が遠江国井伊谷に向かわれるため、延元3年(1338年)9月伊勢の大湊を軍船数十艘に分乗出航しましたが、遠州灘の沖で暴風にあい、船団は散り散りとなり、宗良親王の船は遠州白羽浜に着くことができました。
 宗良親王は、海難を逃れ目的の井伊谷に向かう途中、貴船神社の大祭に出会い、村人は貴人を迎え大いに歓待、皇子の前途の降昌を祈願しました。
 この折りに、随員の中御門中納言某により、公家囃子他、数曲が伝授されたのが始まりと伝えられています。
 お囃子は静岡県指定無形民俗文化財に指定されています。



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