英雄リスト フランス大革命とその周辺。
マラー、ジャン-ポール (1743‐93)
フランス大革命の英雄。人民の友。
ダントンやロベスピエールとともに山岳派の首領として絶大な影響力をふるったが、烈女シャルロット・コルデーに暗殺された。
ボーマルシェ、ピエール・オーギュスタン・カロン・ド (1732〜1797)イタリア人の父、フランス人の母のもとに、スイスの中流市民の家に誕生。
フランスのボルドーとパリで医学を修め,22歳ころイギリスに渡って,医者を開業するとともに文筆に親しみ,専制政治や宮廷の腐敗を批判した『奴隷の鎖』(1774)を英語で出版した。1777年にフランスに戻ったマラーは,パリでアルトア伯の侍医などをしながら,自然科学の論文や刑罰制度の改革を論じた著作などを発表した。フランス革命が始まると,89年の秋から『人民の友』 L’Amidu Peuple という新聞を刊行して宮廷や政府を攻撃し,早くから共和主義の論陣を張り,その論調の鋭さで民衆の人気を得て「人民の友」とあだ名された。92年8月10日の蜂起に際して重要な役割を果たし,同年9月に国民公会議員となった彼は,山岳派の指導者の一人として,民衆の支持を背景に革命の徹底化を主張し,ジロンド派を攻撃してその議会からの追放を実現させ,反革命派やジロンド派に対する恐怖政治の実施をはかった。そのため,ジロンド派の影響を受けたコルデーによって自宅で刺殺された。
フランス革命期前後の喜劇作家。 大革命の直前に「危険な劇」として話題になった『フィガロの結婚』の作者。コンドルセ、マーキス・ド・マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラス・ド・カリタ (1743〜1794.3.29)本名はピエール・カロン。パリで裕福で教養のある時計屋の家に生まれた。
若い頃から早熟、美貌、才気煥発で知られ、野心と機略に満ち、劇作家として名をなすまえに華やかで大胆な冒険的な事件の立て役者として世間に名前を知られた。 はじめ優秀な時計師として王室の仕事を預かったが、まもなく父の仕事を捨て、王室管理人の未亡人と結婚。 結婚することで得た領地の名を取ってカロン・ド・ボーマルシェと名乗ることとなった。 そして王の秘書官と狩猟官の役職を金で買って法的にも貴族となる。 さらにみずからの楽才を王家にアピールして、ルイ15世の王女たちの音楽教師の職を得て、王家の人々と懇意になった。
高名な財政家パリ・デュヴェルネーの知己を得たことで経済活動にも手を出し、多少な財産も得た。
1764年、みずからスペインに赴き、妹を棄てたその婚約者クラビホの策謀をくじいて、マドリードの宮廷にまでその名を知られ、1770年にデュヴェルネーの遺産を巡って正当な遺産相続者のラ・ブラーシュ伯から訴えられたときには不幸にも敗訴してしまったが果敢に闘い、大審院判事ゴエスマンを逆に訴え、自己弁護のために機知縦横の筆で欲しいままに相手を嘲弄した書『回顧録』(全4巻)を発表、世論を喚起して市民を自分の側に引き付け、名声を挙げた。 この本は時事風刺文の傑作として知られ、彼の風刺的・ジャーナリスト的な天分を示すとともに、時代的記録をもなしている。
このほか、ルイ16世の秘密外交官の役目も買ってイギリスに渡り、政治の裏側で暗躍をおこなった。 また採算を無視して膨大なヴォルテール全集(ケール版)の刊行も企画し、アメリカ独立軍に対する巨額の武器を補給する計画を実施し、劇作家の権利擁護に尽力し、パリ水道会社の設立に奔走するなど、老年にいたるまで多方面に疲れを知らぬ活動を続けたが、大革命が勃発すると外国に逃亡。総裁政府時代にようやく帰郷したがまもなく死去した。彼は文筆の分野にも野望を起こし、ディドロの演劇理論による町人劇『ウージェニー』(1767)と『二人の友』(1770)を執筆したが、これは成功しなかった。しかしつぎの二作、『セヴィリヤの理髪師』(1775)と『フィガロの結婚』(副題は「ばかげた一日」)(1784)によって喜劇作家としてフランス18世紀演劇史上に最大の人物として名をとどめることになった。 この二作は久しく途絶えていたモリエール的な喜劇の伝統を復活し、パリジャン的な明るい機知・諧謔を薬味とし、周到な舞台技巧を駆使して観客の興味を最後まで惹き付け、とくに清新な市民的な時代感覚を活かした点に特徴がある。 とりわけ「フィガロ」では舞台を前作と同じくスペインに取ってはいるが、貴族的な偏見と傲慢で凝り固まった無能な主人アルマヴィーヴァ伯爵に仕える才気煥発な好人物フィガロが、許嫁のスザンヌを伯爵の魔手から救うという筋書きで、フィガロは暗に第三階級(=市民)の不満と反抗心と自信を代弁し、アンシャン・レジームの不正・不合理を撃破する茶番や道化風の笑いに満ちている。 「フィガロ」は革命直前の民衆の嗜好に合い、連続公演78回という大成功を収めた。
晩年の作で「理髪師」「フィガロ」と三部作を為す『罪の母』Mere Coupable (1792)は、全二者にくらべていちじるしく生彩を欠いているといわれる。
元数学者の革命家。
ラファイエット、マリ・ジョゼフ・ポール・イヴ・ロッシュ・ジルベール・モチエ (1757.9.6.〜1834)コンドルセ家は侯爵ではあるが、ドーフィネの小貴族。 彼は、ピカルディ地方リーブモンの母方の家で生まれた。彼はまずランスにあるイエズス会の学校に入学し、それからパリのコレージュ・ド・ナヴァールで学ぶ。その後パリで数学の研究に没頭、『積分論』Essai sur le calcul integral (1765)を発表してダランベールとラグランジェに認められ、26歳の1769年に、科学アカデミーの会員になった。
アカデミー会員となったことでコンドルセの交友関係は一気に広がる。 1770年ダランベールのお供でフェルネーにいたヴォルテールを訪問、またリモージュの知事であったテュルゴーとも親しくつきあうようになる。 コンドルセはテュルゴーの影響で経済学を研究するようになり、有名な『アンシクロペディー』(百科全書)(1751〜72刊行)に「独占」「買い占め業者」項目などの経済論文を書いた。(ただし百科全書の経済学分野の中心人物はフォルボネー、テュルゴーとネッケルで。 コンドルセは「百科全書派」には数えられない)。 1777年に科学アカデミーの終身書記、1782年にアカデミー・フランセーズの会員になり、テュルゴーがブルボン朝の財政総監となると、コンドルセは1786年に造幣総監に任じられた。この間、パスカルの『パンセ』を編集したり、コンドルセ最良の著といわれる『テュルゴー伝』(1786)、そして『ヴォルテール伝』(1787)などを執筆している。 とくにテュルゴー伝では貴族の理不尽な特権を攻撃し、アンシャンレジーム下の社会構造を批判していたので、大革命が始まると共和主義者の旗手のひとりとみなされるもととなった。 コンドルセ夫人がサロンを開いていたことも有名である。1789年5月の三部会招集にはじまるフランス大革命の中で、6月20日に国民議会が結成され憲法制定運動の気運が高まると、コンドルセはパリのコミューン(三部会開始時パリ60区から選出された代表の団結をもとにするパリの市民革命運動、正式な発足はバスティーユ襲撃後の7月25日)の役員として、また政治批評家として活動。 90年5月にはシェイエスと共に「一七八九年協会」を設立した。ただしこの会の活動は穏便で、やがてラファイエットとミラボーの対立に巻き込まれてついに大した活動は出来なかった。
このころまでコンドルセは他の多くの貴族階級出身の革命家たちとおなじく立憲王党派の立場を取っていたが、6月のヴァレンヌの逃亡事件をきっかけに王政廃止&共和主義に傾く。 91年10月に始まった立法議会には財務委員と副議長を務め、「亡命貴族と国際問題」に関する有名な演説をおこない、また公教育委員会委員長として公教育の組織に関する法案を発表するなどの大活躍をおこなった。コンドルセの教育学上の功績ヴァレンヌ逃亡事件のあとはコンドルセは急進化し、共和主義の基礎として「王権廃止、議会の大臣選任、普通選挙、リファレンダム」などを主張し、その指導者として名前が知られるようになった。
1792年4月20日、公共教育委員会の報告これがその後のフランスの教育制度の基礎となった。
1792年9月からの国民公会ではコンドルセはエーヌ県の代表として選出され、副議長を経て10月11日に憲法委員会のひとりに選出される。
国王裁判では、議会には司法権がないことを理由に処刑に反対し、山岳派と対立した。国王の有罪が確定してからも死刑廃止論者として、死刑に次ぐ処罰を求めていたが、この論争では彼の主張が通ることはなかった。 1793年、ジロンド派憲法の草案を起草し、ジロンド派追放ではジロンド派支持のパンフレットを発刊してロベスピエールらから非難された。いずれの党派にも属さなかったが、恐怖政治の下では、ジロンド派に属すると嫌疑をかけられ、逃亡潜伏を続けた。
逃亡中に、「人間精神進歩の歴史概観」を執筆していたが、完成間際に逮捕され、獄中で服毒自殺した。
アメリカ独立革命とフランス革命で大活躍し、「両大陸の英雄」と呼ばれた。ロベスピエール、マクシミリアン・フランソワ・マリ・イジドール・ド・ (1758〜94)オーヴェルニュの名門貴族の生まれ。17歳で結婚したのち、下士官として竜騎兵部隊に加わるが、伝統的な生活に否定的で、輝かしい英雄的な人生に憧れていた。 1777年、アメリカ独立戦争が勃発すると、莫大な遺産で船を買い、単身で独立軍に加担するため義勇兵として従軍した。ワシントン将軍を助け、陸軍将校の地位に昇り、武勲を立て国民的英雄となると共に、米仏関係上にも貢献することとなった。(本当に貢献だったの?)
フランス革命に際しては、自由主義貴族として活躍し、1789年の三部会では貴族の代表として参加し、国民議会議員となり、「人権宣言」の起草にも関係した。
バスチーユ陥落後、国民衛兵司令官となり、立憲王政確立を目指し、ジャコバン・クラブを離れ、シエイエスと共にフイヤン・クラブを結成した。
1791年7月、シャン・ド・マルス虐殺を鎮圧するなど、民衆勢力と対立し人気を失った。1792年対外戦争に司令官として出動したが、同年8月10日の革命の前後、国王を救おうとして失敗し、オーストリアに亡命、捕虜となった。
1800年帰国。ナポレオン時代は引退生活を送り、王政復古期には反政府の自由主義者として政界に復帰した。1830年の七月革命ではルイ・フィリップの即位を支持して再び国民軍指令官となったが、やがてこの七月王政の反対派に回りつつ、長い生涯を終えた。
フランス革命の過激な指導者。 「真面目」で「切れ者」。
下層市民に対する政策に心を砕く。こんな清廉な彼が、政権を握ったときにとった方法は「恐怖政治(ギロチン政治)」。 民主主義に独裁はつきものなのか。 独裁には粛正は欠かせないのか。 (クロムウェルといい) このような真面目な男たちに長期政権はムリなのか? 興味は尽きない。
フランス革命の理想と混乱をもっとも象徴している人物。アルトワ地方アラスの弁護士の子として生まれる。 パリで奨学生として学んでいたとき、ルイ16世が即位。
ロベスピエールは大学に立ち寄った新国王の前で、祝いの詩を朗読した。 その後、弁護士となり、ルソーの影響を受けて、旧制度に対する批判意識を形成していった。 三部会が召集されるとアルトワ代表として選出され、議会の中で次第に頭角を現していった。国王処刑を要求する演説をおこなったことが有名。ロベスピエールは身辺が潔白なので「清廉の士」と呼ばれ、民衆的平等主義に共感を示し、所有権の制限、社会の成員への生存権の保証を規定した人権宣言草案も残している。 1793年に公安委員会委員に就任すると、フランスの非常事態において、革命へのあらゆる抵抗を排除していくための強硬措置が必要であると説き、恐怖政治を行うようになった。「革命の中の民衆の政府の原動力は徳であり、かつ恐怖である。
徳なくして恐怖は不幸をもたらし、恐怖なしでは徳は無力である」という、恐怖政治に政治的倫理的根拠を与えようとした演説が有名。その後、左派のエベール派と右派のダントン派の分派抗争が激化すると、ロベスピエールは両派を粛正することで、山岳派分裂の危機を乗り越えようとした。 そして革命裁判を強化し、民衆運動に対するコントロールを強め、恐怖政治が最高潮に達したところで、テルミドールのクーデタがおこり、ロベスピエールは逮捕されて処刑。
ネルソン提督、ホレイショー (1758〜1805)
イギリス海軍の隻腕隻眼の指揮官。 ナポレオンに対し、アブキール湾の戦いとトラファルガーの
戦いで勝利したため、ナポレオンの脅威からヨーロッパを救う英雄と期待される。 しかし彼自身は
トラファルガーで戦死。
ポッツォ・ディ・ボルゴ伯、 (1764〜1842)
この人、なに? (ロシアの外交官)コルシカの貴族の家に生まれる。ナポレオンより5最年長。 イタリアのピサで教育を受け、フランス革命が始まるとコルシカの外交官として国民議会の議員、立法議会の議員となった。そして司法長官にまでなり、活躍したのだが、ナポレオンが権力を握るとコルシカ島を追われ(何をしたの?)、ローマ、ロンドン、ウィーンと亡命生活を送った。 彼のナポレオンを憎悪する気持ちはとても強く、亡命中にもナポレオンの危険な敵と見なされていた。
ウィーンに6年滞在したが、1804年アダム・ツァルトルイスキー公爵の推挙でロシアの皇帝に仕えることになった。
1807年にロシア皇帝アレクサンドル1世とナポレオンの間にティルジット条約が結ばれたので、一時勤務を退きウィーンに帰った。 しかしナポレオンからメッテルニヒにポッツォの引き渡し要求があったため、ウィーンから今度はロンドンに落ち着いた。
1812年にふたたびロシア皇帝アレクサンドル1世に呼び戻され、ナポレオン打倒のためのさまざまな画策をした。
ナポレオンが失脚しブルボン朝が復興するとロシア大使としてパリに駐在し、ウィーン会議に列席した。 しかし100日天下(ナポレオンの復活)でルイ18世と共にベルギーに亡命、イギリスのウェリントン公爵と情勢を討議した。 その後ふたたびパリに戻り、連合国からフランスに対して課された賠償金の軽減、連合軍のフランス占領期間の短縮などに尽力。 また宮廷の穏健派を支持し、リシェリー公内閣を支援したため、オーストリアのメッテルニヒにフランスの自由主義運動に関与しているのではないかと疑われ、不信と嫌悪を買うようになった。 またシャルル10世即位にともなってはじまった反動体制に対し、非難する立場をとったため、次第にテュルイリー宮のなかでも孤立していった。 しかし1830年の七月革命の時、”フランス人民の王”ルイ=フィリップの即位の承認をロシア皇帝ニコライ1世が渋ったとき、これを翻意させるためにふたたび活躍。しかしロシアの外交官でありながら、このようなあまりにも親仏的な彼の態度はとうとうロシア皇帝の不快を買うことになり、1835年のはじめ、突然ロンドンへ大使として赴任を命ぜられた。 ロンドンでは健康を害し、39年に職を辞し、ふたたびパリに帰って余生をそこで送った。
ダーンデルス、ヘルマン・ウィレム (1762〜1818)
ナポレオン戦争当時のオランダ東インド総督。オランダのハッテンに生まれ、弁護士になったがのち政界に入り、愛国党を率いて大いに活躍。 1787年にプロイセンの侵入に対抗しようとして失敗したことがきっかけで、フランスに逃れる。 1793年にナポレオン配下のディムーリエ将軍がオランダに侵入したときに、いわゆるバタヴィア部隊を指揮してこれに加わり、アムステルダムに入った。 しかし直後にまた敗れ、ふたたびフランスに逃れた。 1795年にフランス軍の後援を得てオランダに進撃し、バタヴィア共和国の成立を宣言した。
1799年にはイギリス・ロシア連合軍を撃退し、1806年にナポレオンが弟ルイをオランダ国王としたときに抜擢され、オランダ領東インド総督、ついで元帥となった。 当時イギリス海軍がオランダ領だったジャワ島の周囲を封鎖していたため、ダーンデルスは直接任地へ赴き、軍備を拡張するために、ジャワ島の東西をつなげる道路(大郵便道路)を建設し、これをつかって各地に要塞を築いた。
またジャワ島の原住民のためにオランダ人の官吏の給料を増やすことで、彼らが不正に所得を増す行為(官吏が勝手に現地人にワイロを要求したり、賦役を増したりすること) を厳禁し、さらに司法制度を改善したりしたが、のちには土木工事の財源を得るために現物納税と強制出荷の圧制を強化し、バンタム国をオランダ領とし、ジョクジャカルタのスルタンに干渉して無理矢理譲位させたので、ジャワのひとびとに「雷大人 (トワン・ブッサン・グンツール)」と恐れられるようになった。
このように彼はジャワ島では様々な政策をおこなったのに関わらず、ジャワ島以外のオランダ領ではほとんど積極的な政策をとらなかったため、相次いでイギリス艦隊に攻略され、さらにジャワ島での圧制的政策にたいする非難が本国に伝えられたため、ついに1811年に本国に召還された。
そののちナポレオンのロシア遠征では一軍の司令官に任命されたが、ナポレオン失脚後は新しいオランダ国王に嫌われ、1815年にかろうじて西アフリカのオランダ領の長官に任じられ、その地で没した。このひと、上に書いたこと以外のことを知らないので英雄かどうかは分からないけど、前半生を見る限りは(なんとなくそう見えたし、)この不屈の精神には見習いたい。 しかし、日本で1808年に起こったフェートン号事件(長崎の湾内でイギリス船がオランダ船を追い回し、長崎奉行は切腹し、幕府は異国船打ち払い令を出す)は、この人のせいである。