(空襲3)
静岡市への初めての空襲
そしてね、初めてこの静岡の空にB29が現れたのは、ちょうどね、1944年、終戦の1年前の、11月5日のことでした。ちょうど今ごろですね。寒い真っ青な空に、今は飛行機雲は珍しくないですけれど、飛行機雲がスーっと引いて、先がピカッピカッて光りながら、B29が静岡の空へ初めて姿を現しました。私たち小学生でして、校庭に出て「何だろう、何だろう」って、みんなで見ました。そのときにアメリカ軍は下の写真を克明に撮っていたわけですね、静岡の。そのあと、ちょうど1ヶ月後のことですね、12月7日になりまして、長沼ってご存じですね、長沼のあそこがね、初めて空襲を受けました。私もそのときのこと、よく覚えていますけれど、夕飯食べたあとに照明弾がバアーっておちて、空襲が始まったんです。防空壕に急いで逃げ込んだ覚えがありますけれど、そのときは、そんなに大きな空襲ではなかったですけれど、それからずっと続けて、空襲が始まってきました。
でも昭和20年になると、静岡空襲というのは焼夷弾で焼けましたけれど、爆弾攻撃だったんですね。大きな爆弾積んできて、落とすんです。爆薬ですからね、ドカンと破裂すると大きな穴ができて見に行ったことがあるんですけれど、そこにある家も人も吹き飛んでしまいます。そういう爆弾攻撃がずっと続きました。牛妻、麻機、羽鳥、西島、千代田とか、小鹿とか、池田とか、そういう爆弾が落ちました。大勢の人が死にました。駅の南に行きますと、三菱とか住友の工場があったために、アメリカはちゃんと調べていて、そこで軍需用品を作っていたんですね、戦争で使うものの部品を。そこが狙われて、爆撃を受けました。
4月のときには、4月24日のときには八幡へ落ちたんですね。そのときにはちょうど、学校からの帰宅途中の英和の女学生の方が1人と、市高の生徒さんが亡くなっています。もっと大勢の人が亡くなりましたけれども、そういうわけで、空襲がだんだんだんだん激しくなっていって、東京ではものすごい被害を受けて、10万人くらいの人が東京空襲で亡くなっています。
そしてだんだんだんだん6月19日に近づいていきました。