(学徒出陣3)
戦前の学制
それから小学校6年で卒業しまして、そのあとに私、ちょっと学校の制度というものを書いておきましたんですけれども、当時は小学校が6年で、6年を卒業すると、今度中等学校というのがありまして、それが静岡は静高、昔の静岡中学が1校しかありません。あと静岡商業と静岡工業と静岡農業、これだけあって、それが5年間です。3年ではなくて、中学校が5年間。そこを出ると、旧制の高等学校というのがありまして、これは今の大学なんですけれども、そこが3年。あるいは今の専門学校と違いますけれども、高等専門学校というのが3年。どちらかがありまして、私は3年の方の高等専門学校経済の方へ進んだんですけれども、その上に東大と名古屋、大阪、九州、仙台、北海道、京都、これだけが旧帝国大学で、大学がそれだけしかなかったのです。
日米開戦
そういう学制をしいておりまして、われわれが中学4年生の時ですが、1941年12月8日、日米開戦。ちょうどこのときに2学期末の学期試験でしたから、私も非常によく覚えているんですが、当時数学の試験で、これは数学の試験が延期になるかなぁと、そんなことを考えて学校へ行ったのですが、この12月8日の開戦は、海軍へ行ってから聞いたんですが、暗号電報でもって、「一二・〇〇・ニイタカヤマノボレ」。「ニイタカヤマノボレ」というのは日米開戦の暗号電報なんですが、「ニイタカヤマノボレ一二・〇八」こういう電報が大本営からはいりまして、それでその時に北千島のシュムシュ島にいた連合艦隊の中の機動部隊が加賀と赤城の航空母艦を先頭にして、北千島を出航して、ハワイを目指していたわけです。それで宣戦布告と同時に、ハワイを急襲してアメリカの戦艦をみな撃沈したんですが、このとき航空母艦だけは港にいなかったために、逃してしまった。戦艦は全部沈めたんですが、いずれにしても港は非常に浅いですから、撃沈してもすぐ復旧してしまいまして、このときに逃した航空母艦というのは、もしその時に航空母艦をやっていれば、日本はある程度戦争のやり方が変わったのかもしれませんけれども、航空母艦はその時いなかった。ところが国民はとにかくアメリカの戦艦を何隻も沈めたし、ハワイを徹底的にやっつけたもんですから、非常に戦勝気分になってしまって、軍人をはじめ、国民も気持ちが浮いてしまったんですね。