(学徒出陣4)
戦局の転換
それで1年経たないうちに、ミッドウェーで海戦がありまして、今度は逆に日本の航空母艦が4隻いっぺんにやられてしまった。その時に錬度の高い、飛行時間が2000時間以上のベテランの搭乗員がほとんど全滅してしまった。もちろん日本の飛行機もやられてしまったということで、昭和17年、戦争が始まってわずか半年しか経っていなかったのですが、その時点で日本はもう敗戦の方へ向いていたんですが、軍部はこれを国民に隠して、「日本は勝っているんだ、勝っているんだ」とウソの発表をさんざん続けたわけです。
それからあと、ガダルカナルで、例えば静岡連隊のことで申し上げますと、先ほど言いましたように、「支那事変」が始まったときに、上海の呉松(ウースン)上陸でだいぶ痛手を被ったんですが、その後立ち直って、日米開戦と同時に香港攻略。さらにジャワ島に進出して、それからジャワ島からガダルカナルへ転進したんですが、ガダルカナルではほとんど食料が補給できなくて、餓死した。だからガダルカナルのことを「餓島」と、「餓死」の「餓」という字を書いて、「餓島」と言われたぐらいで、静岡連隊の大部分の人たちはここでもって餓死してしまった。
そこで新しい連隊をまた静岡で編成して、そのときたまたま私が徴兵検査を受けてまして、陸軍の方へ行っていれば、その連隊へ入ったんですが、その連隊はサイパンへ行ったんですが、途中でアメリカの潜水艦にやられて3000人のうち1500人、約半分ですね、これが撃沈されてそこで死んでしまって、命からがらサイパンにたどり着いた残りの1500人は、アメリカの上陸でもって全滅。ひとり残らず死んでしまった。ということで、静岡連隊は全滅して、当時、いただいたというか、天皇から軍旗を賜るんですが、その軍旗もとうとう帰ってこないで、全滅してしまった。ですから静岡の連隊というのは私どもは駿府城を見ると非常に悲劇の連続であって、そういうふうないたましい連隊の歴史というものを、子どもの時から見ていたわけです。
足りない兵隊
そして1943年ですね、いよいよ戦争は逼迫してきまして、兵隊が足りない。兵隊は、昔は甲種合格といいまして、体の丈夫な人しか兵隊にとられなかったけれども、そんなこといってられないんで、少しぐらい体が悪くてもみんな兵隊にとる。ということで、召集令状がいっぱいきて兵隊が増えたんですけれども、それを指揮していく士官が、将校ですね、この数が足りないということで、私どもは勅令でもって、満20歳で徴兵検査を受けても大学を卒業するまでは徴兵を猶予するというような特例がありまして、満26歳までは兵隊に行かなくてよかったんですが、その時にその勅令を廃止して、直ちに、ただし理科系、工学部と医学部ですね、こういう理科系はそのまま引き続いて徴兵は延期、文科系、法学部、経済学部、文学部ですね、こういった文科系は全部、1943年12月1日に陸海軍に入隊せよと、こういうふうなことになったわけです。